幕末の遺跡をたずねて

日本全国の幕末遺跡を巡り歩く管理人。 遺跡めぐりを始めてからこの3年間で撮りためた画像を少しずつアップしていきます。

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清川八郎暗殺事件

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清川八郎(きよかわはちろう)は庄内藩出身の郷士。 剣は北辰一刀流の達人で、幼少より神童と呼ばれるほど学問もできた。 1862年、傳通院(でんづういん 伝通院ともいう)で清川八郎の前に230人の浪士たちが集まった。 幕府が募集したものだが、目的は浪士を手なずけることによって、江戸での反幕府的な動きを封じ込めることにあった。

当初の計画の50名を大幅に超えて集まったので、予算が足りず、とえりあえず、将軍家茂が京都に行くことになっていたので、その前衛として京都にいってもらうことになった。 江戸で人殺しをしてしまってお尋ね者になっていた清川八郎は、この浪士取り扱い役の松平上総介(まつだいらかずさのすけ)に上手くとりいって自由の身にしてもらい、京都行きを嬉々として受け入れた。

しかし、清川の京都行きには捕縛を逃れるということ以外、もう一つ理由があった。 この230名の浪士隊を京都で尊皇攘夷のさきがけにしようとたくらんでいたのである。 つまり、幕府の金で集めた浪士をその対極にあった尊王の志士に育て上げようとしたのである。

そんな清川の考えを見抜いた幕府は、京都新徳禅寺(しんとくぜんじ)に到着した250名近くの浪士隊を江戸に呼び戻すことにした。 余談だが、近藤勇(こんどういさみ)、芹沢鴨(せりざわかも)以下十数名が京都に残り、京都の治安維持として新選組を結成する。

江戸に戻った清川八郎は危険分子として、幕府の刺客につけねらわれることになる。 だが、清川は剣の達人の上、常に5,6人の護衛をつけていたので容易に近づくことができなかった。

そんなある日、寄宿していた山岡鉄舟の家を出発した清川が麻布一の橋にさしかかったころ、前方に立っている人が、「清川先生ではありませんか・・・?」と言って、頭にかぶっていた笠をはずし、丁寧にお辞儀をする。 それに答えて、清川が笠をはずそうとしたとき、後ろからやってきた刺客に一刀のもと、きりふせられてしまった。 最期の言葉は、「む、無念・・・!!」 無念だっただろう。 享年34歳。

のちに清川八郎の首は、彼の同士の手によって山岡鉄舟のもとに届けられた。 彼は清川の首を浪士たちを集めた傳通院で埋葬してもらう。 そのとき、山岡は清川が幕府の刺客に追われているときにつかまり、拷問をうけて獄死した妾(めかけ)の阿蓮(おれん)の墓も一緒にたててやった。 阿蓮は拷問をうけても愛人清川の居場所を最期まで喋ることはなかったそうだ。 泣ける話だ。 山岡も思想とは別にそういう人間愛に感銘をうけたのだろう。 

さて、清川を殺した犯人だが、京都から清川と江戸にひきあげてきた浪士たちの一人、佐々木唯三郎(ささきただざぶろう)が首謀者だ。 彼は後に京都で見回組を結成し、治安維持にあたる。 職務は基本的に新選組と同じでライバル関係にあったが、身分の低い新選組をいつも下にみていた。

佐々木は後の戊辰戦争で負傷して、そのまま死んでしまうのだが、そのとき、彼は清川と同じ34歳であった。 彼は坂本竜馬の暗殺にも関与したというのだが、真相はどうなのだろうか。 現在も謎だ。

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なぜ不覚を」取ったのか謎です」。

2017/8/14(月) 午後 10:17 [ sob***** ]


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