幕末の遺跡をたずねて

日本全国の幕末遺跡を巡り歩く管理人。 遺跡めぐりを始めてからこの3年間で撮りためた画像を少しずつアップしていきます。

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サンディエゴ

今日は久しぶりにサンディエゴへ行ってきました。 今いるフェニックスから1200kmの日帰り旅行! 内容の濃い旅行ができて満足です。 やっぱサンディエゴはいいなぁ。 

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京都池田屋騒動

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新選組の名をとどろかせる事になった池田屋騒動。 舞台は京都三条橋より西へ十分ほど。 あまり詳しくない人には志士が切られて階段から転げ落ちるシーンがある事件、って言えばわかってくれるかもしれない。 将来有望な志士 ー 例えば宮部鼎蔵(みやべていぞう 肥後藩 1820〜1864)、松田重助(まつだじゅうすけ 肥後藩1828〜1864)、吉田稔麿(よしだとしまろ 長州藩)など多数犠牲となった。 これによって維新は一年遅くなったと信じる人がいるが、果たしてどうか。 作家司馬遼太郎は、かえって早くなったのでは?と、論評している。 この事件が志士たちを奮起させたからだ。 

事件の発端は、不貞(ふてい)の輩(やから)を追っていた新選組は古高俊太郎(こたかしゅんたろう)という近江の志士が捜査線上に浮かび上がったので、壬生の屯所(とんしょ)につれて帰って拷問にかけるところから始まる。(この拷問がすさまじい。話が飛ぶのでまた今度。) たえきれず、その日の夜のうちにはいてしまった。 それによると、8月18日に政変以来、京都を追われていた長州藩が、祇園祭の途中で市中に火をつけてまわり、その混乱に乗じて天皇を奪い、長州につれて帰る計画を長州藩が練っている・・・というものだった。 これは現在でいうと共謀罪にあたるのかな。 新選組は先手をうって、その共謀者たちが集まる池田屋を見つけ出し、そのほとんどを惨殺、捕縛に成功した。 新選組がこの事件を未然に防いだことにより、激高した長州藩の強硬派たちはゲリラ戦をやめ、武力で天皇を奪おうとあの蛤御門(はまぐりごもん)の変がおこるのであった。

さて管理人がこの池田屋あとにくるのは三回目。 今はパチンコ屋がたっていて、碑が残るのみ。 「そんなところに何回も行ってどうすんの?」という周りをおしきり、やってきた。 好きなんだからしょうがない。 さてNHKの新選組のドラマが始まる前だったか、にやってきた管理人は碑の前に説明文が新しく設置されていることに気づく。 さすがだね。 昔はこんなのはなかった。 石碑だけじゃ目を留める人が少ないもんね。 これでまたファンが増えてくれればいいけど。

清川八郎暗殺事件

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清川八郎(きよかわはちろう)は庄内藩出身の郷士。 剣は北辰一刀流の達人で、幼少より神童と呼ばれるほど学問もできた。 1862年、傳通院(でんづういん 伝通院ともいう)で清川八郎の前に230人の浪士たちが集まった。 幕府が募集したものだが、目的は浪士を手なずけることによって、江戸での反幕府的な動きを封じ込めることにあった。

当初の計画の50名を大幅に超えて集まったので、予算が足りず、とえりあえず、将軍家茂が京都に行くことになっていたので、その前衛として京都にいってもらうことになった。 江戸で人殺しをしてしまってお尋ね者になっていた清川八郎は、この浪士取り扱い役の松平上総介(まつだいらかずさのすけ)に上手くとりいって自由の身にしてもらい、京都行きを嬉々として受け入れた。

しかし、清川の京都行きには捕縛を逃れるということ以外、もう一つ理由があった。 この230名の浪士隊を京都で尊皇攘夷のさきがけにしようとたくらんでいたのである。 つまり、幕府の金で集めた浪士をその対極にあった尊王の志士に育て上げようとしたのである。

そんな清川の考えを見抜いた幕府は、京都新徳禅寺(しんとくぜんじ)に到着した250名近くの浪士隊を江戸に呼び戻すことにした。 余談だが、近藤勇(こんどういさみ)、芹沢鴨(せりざわかも)以下十数名が京都に残り、京都の治安維持として新選組を結成する。

江戸に戻った清川八郎は危険分子として、幕府の刺客につけねらわれることになる。 だが、清川は剣の達人の上、常に5,6人の護衛をつけていたので容易に近づくことができなかった。

そんなある日、寄宿していた山岡鉄舟の家を出発した清川が麻布一の橋にさしかかったころ、前方に立っている人が、「清川先生ではありませんか・・・?」と言って、頭にかぶっていた笠をはずし、丁寧にお辞儀をする。 それに答えて、清川が笠をはずそうとしたとき、後ろからやってきた刺客に一刀のもと、きりふせられてしまった。 最期の言葉は、「む、無念・・・!!」 無念だっただろう。 享年34歳。

のちに清川八郎の首は、彼の同士の手によって山岡鉄舟のもとに届けられた。 彼は清川の首を浪士たちを集めた傳通院で埋葬してもらう。 そのとき、山岡は清川が幕府の刺客に追われているときにつかまり、拷問をうけて獄死した妾(めかけ)の阿蓮(おれん)の墓も一緒にたててやった。 阿蓮は拷問をうけても愛人清川の居場所を最期まで喋ることはなかったそうだ。 泣ける話だ。 山岡も思想とは別にそういう人間愛に感銘をうけたのだろう。 

さて、清川を殺した犯人だが、京都から清川と江戸にひきあげてきた浪士たちの一人、佐々木唯三郎(ささきただざぶろう)が首謀者だ。 彼は後に京都で見回組を結成し、治安維持にあたる。 職務は基本的に新選組と同じでライバル関係にあったが、身分の低い新選組をいつも下にみていた。

佐々木は後の戊辰戦争で負傷して、そのまま死んでしまうのだが、そのとき、彼は清川と同じ34歳であった。 彼は坂本竜馬の暗殺にも関与したというのだが、真相はどうなのだろうか。 現在も謎だ。

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管理人は本を読むのが好きだ。(あ もちろん漫画もTVも好き) ある日、サンディエゴにある大学で、面白そうな本を物色すべく、図書館を徘徊していた管理人はなんと幕末の思想化、頼山陽(らいさんよう)の書した「日本政記」を発見した。 頼山陽は儒者で、彼の思想は幕末の尊皇攘夷を盛り上げた維新志士たちに多大な影響を与えていたといわれている。 

それにしてもなんだな。 この本は歴史的な資料としてではなく、私の身長でも届く普通の本棚に並んでいた! なんと貸し出しもOKだ。 一体どういうルートでこんなところにたどりついたんだろう?? さっそく手にとって検証してみよう。 ぼろぼろだが、十分史料価値はあるようだ。 手書きではない。 印刷のようだ。 四冊の本を一冊に紐でくくってある。 最初のページをめくってみると「慶応丙寅(ひのえとら)年」とある。 ちょっと調べてみるとこれは1866年ということがわかった。 まだ坂本竜馬が暗殺される前の話だから、時代は明治になっていないね。 次のページをめくってみると「佐土原(さどわら)藩文庫」とある。 藩の書物ということだが、もちろんこれは廃藩置県が行われる前という証拠だ。 次に佐土原について調べてみると、宮崎県にある町の名で、その昔、薩摩藩の島津家から分派した佐土原島津家がその地をおさめていたのだそうだ。 さらに調べてみると、佐土原藩は戊辰戦争で遠く北の秋田まで兵を送った記録が残っているのだそうだ。 では、アメリカに持ち込んだのは薩摩藩と交流のあった、イギリス人か?

いやいや、そうともいえない。 1867年、パリで万国博覧会が行われ、薩摩藩はこれに参加している。 もしかしてこのときフランス人にこの本は渡ったのか・・・?

書物を海外に持ち出す、というのでシーボルトの話を思い出したが、ペリーが米国を出発する前に、日本の予備知識を得るためにシーボルトから話を聞いたりしている。 この本は日本を知ろうとした、幕末の時期のアメリカ人が資料のひとつとして日本で入手したのか?

もうちょっとページをめくってみると、「1970年イエール大学より寄贈」とある。 ここまでは確実にさかのぼれるが、その前がやっぱり不明瞭だ。 日本を知る上で、この本は外国人の役に立ったのだろうか? 文体は漢文だ。 管理人が見ても良くわからない。 ちょっと日本に戻ってきてから、この本の現代語訳の解説をみてみたら興味深いことが載っていた。 この「日本政記」の漢文は、日本人のためのものだから、文法は完全ではないらしい。 つまり中国語じゃないっていうことだ。 面白い。 漢字が並んでいるから中国語と断定はできないようだ。 

さてそろそろ結論。 この本はどうやってアメリカに来たのか? わからない。 だから、わからない部分は想像力で埋めよう。 ロマンだねぇ。 面白いのは30年前に寄贈されてから、貸し出し記録がないということだ。(笑)

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ちょっと前、24時間テレビで幕末に沈没した坂本竜馬のいろは丸からお宝をひきあげよう、というイベントがあった広島県福島市鞆の浦(とものうら)について紹介しましょう。 いろは丸は45馬力、160トンで、坂本竜馬が海援隊を結成して初仕事を達成すべく、大洲藩(おおずはん)から借りた木造船だ。 その目的は長崎から瀬戸内を通って、武器や食糧を大坂(現在の大阪)に運ぼうというものだった。 「今日をはじめと乗り出す船は稽古始(けいこはじめ)のいろは丸」

1867年、霧の鞆の浦付近を航行中、紀州藩の明光丸(150馬力、877トン)に衝突されて沈没してしまった。 次の日、鞆港で賠償交渉をしたが、結論が出ず、長崎で話し合いを継続することになった。

長崎での談判の時、紀州藩に当時の最強軍事国長州藩と竜馬の土佐藩が連合をくんで襲い掛かる・・・といううわさを流し、それを恐れた紀州藩は賠償八万三千両を払うことを約束する。 しかし、その後の値引き交渉で結局四万二千五百両が土佐藩に支払われた。

管理人は友人の軽自動車を借りて、広島を出発、東に真っ直ぐすすみ、福山から南に川沿いに進んで鞆の浦に着いた。 普段は静かな漁港だ。 ときどき、今回の24時間テレビのようなイベントで街が騒がしくなると街の人が言っていた。 さて、沈んだ船に財宝はねむっているのか? 歴史のロマンだね。 人は未確認、未確定、不明瞭な歴史の一ページに対して、無限の想像力を働かす。 これが吉と出るか、凶とでるかは現代人しだいだ。 歴史が現代人に悪用されなければ管理人はそれでよい。 さて、この町には、幕末ゆかりの地がまだある。それは次回紹介します。

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