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			<title>幕末の遺跡をたずねて</title>
			<description>日本全国の幕末遺跡を巡り歩く管理人。 遺跡めぐりを始めてからこの３年間で撮りためた画像を少しずつアップしていきます。　ゆくゆくは自分のHPにここで書いた内容を移していくつもりなので、日記を書いているわけではないです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/cozywind2004</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>幕末の遺跡をたずねて</title>
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			<description>日本全国の幕末遺跡を巡り歩く管理人。 遺跡めぐりを始めてからこの３年間で撮りためた画像を少しずつアップしていきます。　ゆくゆくは自分のHPにここで書いた内容を移していくつもりなので、日記を書いているわけではないです。</description>
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			<title>サンディエゴ</title>
			<description>今日は久しぶりにサンディエゴへ行ってきました。　今いるフェニックスから１２００ｋｍの日帰り旅行！　内容の濃い旅行ができて満足です。　やっぱサンディエゴはいいなぁ。　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/cozywind2004/15515470.html</link>
			<pubDate>Sun, 30 Oct 2005 17:50:55 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
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			<title>京都池田屋騒動</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/80/14854580/img_0?1130069208&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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新選組の名をとどろかせる事になった池田屋騒動。　舞台は京都三条橋より西へ十分ほど。　あまり詳しくない人には志士が切られて階段から転げ落ちるシーンがある事件、って言えばわかってくれるかもしれない。　将来有望な志士　ー　例えば宮部鼎蔵（みやべていぞう　肥後藩　1820～1864）、松田重助（まつだじゅうすけ　肥後藩1828～1864）、吉田稔麿（よしだとしまろ　長州藩）など多数犠牲となった。　これによって維新は一年遅くなったと信じる人がいるが、果たしてどうか。　作家司馬遼太郎は、かえって早くなったのでは？と、論評している。　この事件が志士たちを奮起させたからだ。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事件の発端は、不貞（ふてい）の輩（やから）を追っていた新選組は古高俊太郎（こたかしゅんたろう）という近江の志士が捜査線上に浮かび上がったので、壬生の屯所（とんしょ）につれて帰って拷問にかけるところから始まる。（この拷問がすさまじい。話が飛ぶのでまた今度。）　たえきれず、その日の夜のうちにはいてしまった。　それによると、８月１８日に政変以来、京都を追われていた長州藩が、祇園祭の途中で市中に火をつけてまわり、その混乱に乗じて天皇を奪い、長州につれて帰る計画を長州藩が練っている・・・というものだった。　これは現在でいうと共謀罪にあたるのかな。　新選組は先手をうって、その共謀者たちが集まる池田屋を見つけ出し、そのほとんどを惨殺、捕縛に成功した。　新選組がこの事件を未然に防いだことにより、激高した長州藩の強硬派たちはゲリラ戦をやめ、武力で天皇を奪おうとあの蛤御門（はまぐりごもん）の変がおこるのであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて管理人がこの池田屋あとにくるのは三回目。　今はパチンコ屋がたっていて、碑が残るのみ。　「そんなところに何回も行ってどうすんの？」という周りをおしきり、やってきた。　好きなんだからしょうがない。　さてNHKの新選組のドラマが始まる前だったか、にやってきた管理人は碑の前に説明文が新しく設置されていることに気づく。　さすがだね。　昔はこんなのはなかった。　石碑だけじゃ目を留める人が少ないもんね。　これでまたファンが増えてくれればいいけど。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/cozywind2004/14854580.html</link>
			<pubDate>Sun, 23 Oct 2005 21:06:48 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>清川八郎暗殺事件</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/06/14113806/img_0?1129402819&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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清川八郎（きよかわはちろう）は庄内藩出身の郷士。　剣は北辰一刀流の達人で、幼少より神童と呼ばれるほど学問もできた。　１８６２年、傳通院（でんづういん　伝通院ともいう）で清川八郎の前に２３０人の浪士たちが集まった。　幕府が募集したものだが、目的は浪士を手なずけることによって、江戸での反幕府的な動きを封じ込めることにあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初の計画の５０名を大幅に超えて集まったので、予算が足りず、とえりあえず、将軍家茂が京都に行くことになっていたので、その前衛として京都にいってもらうことになった。　江戸で人殺しをしてしまってお尋ね者になっていた清川八郎は、この浪士取り扱い役の松平上総介（まつだいらかずさのすけ）に上手くとりいって自由の身にしてもらい、京都行きを嬉々として受け入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、清川の京都行きには捕縛を逃れるということ以外、もう一つ理由があった。　この２３０名の浪士隊を京都で尊皇攘夷のさきがけにしようとたくらんでいたのである。　つまり、幕府の金で集めた浪士をその対極にあった尊王の志士に育て上げようとしたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな清川の考えを見抜いた幕府は、京都新徳禅寺（しんとくぜんじ）に到着した２５０名近くの浪士隊を江戸に呼び戻すことにした。　余談だが、近藤勇（こんどういさみ）、芹沢鴨（せりざわかも）以下十数名が京都に残り、京都の治安維持として新選組を結成する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸に戻った清川八郎は危険分子として、幕府の刺客につけねらわれることになる。　だが、清川は剣の達人の上、常に５，６人の護衛をつけていたので容易に近づくことができなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんなある日、寄宿していた山岡鉄舟の家を出発した清川が麻布一の橋にさしかかったころ、前方に立っている人が、「清川先生ではありませんか・・・？」と言って、頭にかぶっていた笠をはずし、丁寧にお辞儀をする。　それに答えて、清川が笠をはずそうとしたとき、後ろからやってきた刺客に一刀のもと、きりふせられてしまった。　最期の言葉は、「む、無念・・・！！」　無念だっただろう。　享年３４歳。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
のちに清川八郎の首は、彼の同士の手によって山岡鉄舟のもとに届けられた。　彼は清川の首を浪士たちを集めた傳通院で埋葬してもらう。　そのとき、山岡は清川が幕府の刺客に追われているときにつかまり、拷問をうけて獄死した妾（めかけ）の阿蓮（おれん）の墓も一緒にたててやった。　阿蓮は拷問をうけても愛人清川の居場所を最期まで喋ることはなかったそうだ。　泣ける話だ。　山岡も思想とは別にそういう人間愛に感銘をうけたのだろう。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、清川を殺した犯人だが、京都から清川と江戸にひきあげてきた浪士たちの一人、佐々木唯三郎（ささきただざぶろう）が首謀者だ。　彼は後に京都で見回組を結成し、治安維持にあたる。　職務は基本的に新選組と同じでライバル関係にあったが、身分の低い新選組をいつも下にみていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
佐々木は後の戊辰戦争で負傷して、そのまま死んでしまうのだが、そのとき、彼は清川と同じ３４歳であった。　彼は坂本竜馬の暗殺にも関与したというのだが、真相はどうなのだろうか。　現在も謎だ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/cozywind2004/14113806.html</link>
			<pubDate>Sun, 16 Oct 2005 04:00:19 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>米国で幕末の書籍を発見！</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/33/13495033/img_0?1128839389&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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管理人は本を読むのが好きだ。（あ　もちろん漫画もTVも好き）　ある日、サンディエゴにある大学で、面白そうな本を物色すべく、図書館を徘徊していた管理人はなんと幕末の思想化、頼山陽（らいさんよう）の書した「日本政記」を発見した。　頼山陽は儒者で、彼の思想は幕末の尊皇攘夷を盛り上げた維新志士たちに多大な影響を与えていたといわれている。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それにしてもなんだな。　この本は歴史的な資料としてではなく、私の身長でも届く普通の本棚に並んでいた！　なんと貸し出しもOKだ。　一体どういうルートでこんなところにたどりついたんだろう？？　さっそく手にとって検証してみよう。　ぼろぼろだが、十分史料価値はあるようだ。　手書きではない。　印刷のようだ。　四冊の本を一冊に紐でくくってある。　最初のページをめくってみると「慶応丙寅（ひのえとら）年」とある。　ちょっと調べてみるとこれは１８６６年ということがわかった。　まだ坂本竜馬が暗殺される前の話だから、時代は明治になっていないね。　次のページをめくってみると「佐土原（さどわら）藩文庫」とある。　藩の書物ということだが、もちろんこれは廃藩置県が行われる前という証拠だ。　次に佐土原について調べてみると、宮崎県にある町の名で、その昔、薩摩藩の島津家から分派した佐土原島津家がその地をおさめていたのだそうだ。　さらに調べてみると、佐土原藩は戊辰戦争で遠く北の秋田まで兵を送った記録が残っているのだそうだ。　では、アメリカに持ち込んだのは薩摩藩と交流のあった、イギリス人か？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いやいや、そうともいえない。　１８６７年、パリで万国博覧会が行われ、薩摩藩はこれに参加している。　もしかしてこのときフランス人にこの本は渡ったのか・・・？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
書物を海外に持ち出す、というのでシーボルトの話を思い出したが、ペリーが米国を出発する前に、日本の予備知識を得るためにシーボルトから話を聞いたりしている。　この本は日本を知ろうとした、幕末の時期のアメリカ人が資料のひとつとして日本で入手したのか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もうちょっとページをめくってみると、「１９７０年イエール大学より寄贈」とある。　ここまでは確実にさかのぼれるが、その前がやっぱり不明瞭だ。　日本を知る上で、この本は外国人の役に立ったのだろうか？　文体は漢文だ。　管理人が見ても良くわからない。　ちょっと日本に戻ってきてから、この本の現代語訳の解説をみてみたら興味深いことが載っていた。　この「日本政記」の漢文は、日本人のためのものだから、文法は完全ではないらしい。　つまり中国語じゃないっていうことだ。　面白い。　漢字が並んでいるから中国語と断定はできないようだ。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さてそろそろ結論。　この本はどうやってアメリカに来たのか？　わからない。　だから、わからない部分は想像力で埋めよう。　ロマンだねぇ。　面白いのは３０年前に寄贈されてから、貸し出し記録がないということだ。（笑）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/cozywind2004/13495033.html</link>
			<pubDate>Sun, 09 Oct 2005 15:29:49 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>鞆の浦と竜馬のいろは丸</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/78/13430778/img_0?1128767681&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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ちょっと前、２４時間テレビで幕末に沈没した坂本竜馬のいろは丸からお宝をひきあげよう、というイベントがあった広島県福島市鞆の浦（とものうら）について紹介しましょう。　いろは丸は４５馬力、１６０トンで、坂本竜馬が海援隊を結成して初仕事を達成すべく、大洲藩（おおずはん）から借りた木造船だ。　その目的は長崎から瀬戸内を通って、武器や食糧を大坂（現在の大阪）に運ぼうというものだった。　「今日をはじめと乗り出す船は稽古始（けいこはじめ）のいろは丸」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１８６７年、霧の鞆の浦付近を航行中、紀州藩の明光丸（１５０馬力、８７７トン）に衝突されて沈没してしまった。　次の日、鞆港で賠償交渉をしたが、結論が出ず、長崎で話し合いを継続することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長崎での談判の時、紀州藩に当時の最強軍事国長州藩と竜馬の土佐藩が連合をくんで襲い掛かる・・・といううわさを流し、それを恐れた紀州藩は賠償八万三千両を払うことを約束する。　しかし、その後の値引き交渉で結局四万二千五百両が土佐藩に支払われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
管理人は友人の軽自動車を借りて、広島を出発、東に真っ直ぐすすみ、福山から南に川沿いに進んで鞆の浦に着いた。　普段は静かな漁港だ。　ときどき、今回の２４時間テレビのようなイベントで街が騒がしくなると街の人が言っていた。　さて、沈んだ船に財宝はねむっているのか？　歴史のロマンだね。　人は未確認、未確定、不明瞭な歴史の一ページに対して、無限の想像力を働かす。　これが吉と出るか、凶とでるかは現代人しだいだ。　歴史が現代人に悪用されなければ管理人はそれでよい。　さて、この町には、幕末ゆかりの地がまだある。それは次回紹介します。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/cozywind2004/13430778.html</link>
			<pubDate>Sat, 08 Oct 2005 19:34:41 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>函館五稜郭決戦！</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/77/13342077/img_0?1128681153&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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次々と精鋭たちが、明治新政府軍の近代兵器の前に倒れて、榎本武揚（えのもとたけあき）率いる、旧徳川幕府の残党たちは北海道の南端、函館の五稜郭に追い詰められた。　勝敗はもはや歴然としている。　榎本武揚は幕府の命令で１８６２年から１８６６年の間、オランダに留学していた。　幕府に大恩がある。　留学から帰ってきた榎本は、あまりの幕府の弱体化ぶりに驚きながらも、主戦論をもって、その存在を維持することを主張し、８隻の船を奪って、江戸を出発し、転戦しながら、この五稜郭までやってきたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対する明治新政府軍を率いる後の内閣総理大臣、黒田清隆（くろだきよたか　薩摩藩）は、勝利が確定的になったところで、自軍の兵力の消耗を嫌って、榎本に対して降服勧告を出した。　榎本はこれを拒否し、「一同枕をならべて討ち死に覚悟である。」と抗戦を続ける決意を伝えた。　つづけて、「ただ、オランダから持ち帰ったこれら２冊の本は、将来の日本に必ず役に立つ。　戦火で灰になってしまっては惜しまれるので、もらってくれないか。」と、海上国際法についての本を二冊黒田清隆に贈った。　黒田は、返信で、「義を重んじて必死に篭城することに、実に感動した。　兵糧、実弾がたりなくはないか？　必要ならば、送っても良い。」と伝える。　敵軍の将に感服するなど、歴史上稀だ。　戦争は殺し合いである。　血気が盛んになって当然。　黒田も感情だけで物事を判断しない、客観的判断ができる人物であったといえるだろう。　これに対し、榎本は感謝しつつ、丁重に断った。　代わりに、黒田は酒五樽、まぐろ五本を送って、国際法の２冊について感謝の意を表した。　まさに敵に塩を送ろうとする行為。　幕末に関係ないがふと上杉謙信と武田信玄を思い出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それからしばらくして、榎本たち幹部のものだけが責任をとるという条件に降服を受け入れた。　打ち首はまぬがれない。　そのとき、黒田は頭を丸め、新政府に榎本たちの助命嘆願書をだした。　これが、榎本たちの運命を変えた。　榎本武揚は二年間、入牢した後、出獄して、新政府に仕えることになる。　後に、黒田が内閣を組織したときに逓信（ていしん）大臣として榎本が名前を連ねている。（ちなみに逓信省→郵政省→現在の総務省だ）　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戊辰戦争終着後、数年がたってから、榎本は函館に帰ってきて、血碧碑（けっぺきひ）を建てた。　国を想い国のために死んだ戦士の血はやがて碧玉になるという中国の故事からきているそうだ。　函館を含む、各地の戊辰戦争で死んでいった者たちの霊を沈めるためのものである。　まだ、旧幕府の者たちへの風当たりが強いときの話だ。　降服した卑怯者として、土方歳三ら最後まで戦って死んでいったものとよく対比されて語られるが、管理人には彼の気持ちがよくわかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は管理人は函館には行ったことがない。　が、うちの姉が去年函館旅行に行くことになった。　それを聞いた管理人は、姉の旅程に血碧碑を入れるようお願いしたら、ぶつぶつ文句いいいながらも血碧碑の写真を撮ってきてくれた。（笑）　でも、山中よっぽど暇だったんだろうね。　みせてもらった写真１０枚ほどの９枚は、山道で見つけた猫とか花とかの写真で、血碧碑の写真はたった一枚！　話によると、そんなものを観光している人は一人もいないらしい。（笑）　いつか、管理人も函館に行こう♪　自力で撮った写真をそのうちアップしますのでお楽しみに。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/cozywind2004/13342077.html</link>
			<pubDate>Fri, 07 Oct 2005 19:32:33 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>ビバ、サンフランシスコ！</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/62/12942262/img_0?1128314605&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/62/12942262/img_1?1128314605&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/62/12942262/img_2?1128314605&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
さてさて、時は１８７１年、江戸幕府は倒したものの、新しい国をどうやって造ったら良いかわからない維新志士たち。　岩倉具視（いわくらともみ）以下、４８名が欧米を視察しにいくことになった。　副使は木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などなど、革命の巨人ぞろい。　１年１０ヶ月の長旅になるのだが、世界のどの革命を見回しても、革命を成功させたリーダーたちがこんなに長い間、視察に出かけた例はない。　まさに一から国づくりっていう感じである。　このメンバーたちのなかに、のちの津田塾の創設者、津田梅子（８）もいるのだが、彼女は彼女で面白いので、またこんどブログに書くことにしよう。　さてさて、この一行は、残る者たちが軽率な行動をしないよう祈りつつ、「なるべく新規の改正をしないでね。」と釘を刺して、東京を出発した。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一ヶ月近くかけて、太平洋を横断し、ここ米国カリフォルニア州サンフランシスコに上陸した。　当時サンフランシスコは米国になってから幾年もたっていないにもかかわらず、繁栄を極めていた。　立ち並ぶコンクリートの建物、にぎわう繁華街・・・　さぞや岩倉たちを驚かせたことだろう。（ちなみに名物のケーブルカーはまだ走っていない。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
岩倉たちは連絡を受けていたカリフォルニア州知事や、サンフランシスコ市長らの歓迎をうける。　ここで英語にたしなみのある、後の内閣総理大臣伊藤博文は、国のめざすところについてスピーチをしたのだが、まだ発展途上の段階のサンフランシスコ市民から大きな喝采をうけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サンフランシスコを後にした一行は、そこから、シエラネバダ山脈、ロッキー山脈を越えて首都ワシントンをめざした。　その後の悲劇もしらないで・・・。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
と、ここで「続く・・」とかして終わったら切がいいんだが、もうちょっと先まで書いちゃおう♪　大雪などのハプニングを越えて、ようやくワシントンにたどり着いた田舎者軍団。　そんな彼らをアメリカ大統領グラントは丁重にもてなした。　さて、その友好的な雰囲気の中で、さっそく岩倉たちは、不平等条約の改正について話をしようとし始めた。　そのとき、大統領の隣にいた国務長官フィッシュはみるみる顔が固くなった。　岩倉たちの言う、「古い体制は倒され、日本は新しく生まれ変わった。」というに対し、「じゃー証拠は？」と切りかえしてきた。　さらに、「日本の条約交渉を日本政府のトップである天皇から委任されているという証拠はあるのか？」、と聞いてきた。　「それがあって、はじめて話し合いをスタートできる、というのが国際法なんだよ。」、と付け加えた。　国際法などまだまだ、初歩しかわからない一行は委任状などもっていない。　結局、わざわざ数ヶ月かけて日本まで伊藤、大久保の二人が取りに帰ることになった。　このへんでつ・づ・く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サンフランシスコは管理人のもっとも好きな街の一つだ。　おすすめはフィッシャーマンズワーフのカニだ。　もうウマウマである。　行く度にたべてる。(☆後日談：上の写真を撮ったときはカニを食べなかったです。　一緒に行った○○さんからつっこみがありました。お詫びして訂正します。（笑））　冬は結構寒い。　１２月に到着した岩倉たちもかなり寒かったはず。　管理人は少々寒くても、震えながらカニを食べる。　サンフランシスコは、日本と対岸にあるというだけあって、昔から、日本との交流がさかんだ。　勝海舟や小栗忠順が太平洋を渡ってやってきたのもサンフランシスコだった。　活気があって、来たら思わずはしゃいでしまう・・そんな雰囲気の街だ。　ちなみにこの街のどこかのお墓に、病気で倒れた咸臨丸の乗組員の墓があるそうだが、どこにあるんだろ？　いけたら相当レアだ。　いつか写真に撮ってやる・・・！（←幕末レア画像に命を懸ける管理人）　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/cozywind2004/12942262.html</link>
			<pubDate>Mon, 03 Oct 2005 13:43:25 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>高知県桂浜</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/89/12832389/img_0?1128199601&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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高知県桂浜（かつらはま）。　高知市内から南下したところにある。　着いたときはそんなに暗くなかったけど、後で写真見てみると結構暗いね。　坂本竜馬関係の小説を読んでいると必ずでてくる桂浜。　でも実は、竜馬の生家がある市内からかなり遠い。　そんなに毎日来れるものでもないだろう。　桂浜は波が荒い。　ここは遊泳禁止区域だっけ？　泳いでいる人はいない。　こんなに波の荒い場所で竜馬が泳いだかどうかは謎。　管理人はここを訪れたのは初めてではない。　親戚がいっぱい住んでいるからね。　また桂浜に行く機会もあると思う。　いとこ曰く、「竜馬は高知の人は、りゅうまと呼ぶ人が多い。」おばさん曰く、「竜馬は高知ではよくいるお調子もんだった。」おじさん曰く、「竜馬は商売人じゃきね。」べつのいとこ曰く、「高知出身の偉い人は、他の地域の人と違って、地元にはなんの利益ももたらさん。」などなど、竜馬の話をしだすと止まらない。（笑　みんな竜馬についてよく知っているというのはよくわかる。　桂浜の近くの道路標識曰く、「あわてるな竜馬も見ている土佐の海」　良いですな。　地元の人に本当に愛されているのがよくわかる。　その日の夜、ごちそうをいただいた。　その一つのさば寿司。　おいしかった。　親戚の話では竜馬も食べたことがある、かもしれないらしい。　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/cozywind2004/12832389.html</link>
			<pubDate>Sun, 02 Oct 2005 05:46:41 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
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			<title>土方歳三のお墓</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/18/12713318/img_0?1128077972&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/18/12713318/img_1?1128077972&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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言わずとしれた新選組の鬼の副長土方歳三（ひじかたとしぞう）のお墓。　土方の魅力はやはり容姿端麗！っていうのが一番だろう。写真が残っていて、その姿がかなりハンサム。　まあ見たことない人は、大河ドラマ「新選組」の土方役の山本さんを思い出してくれればいい。　はっきりいってそっくり！　あの大河ドラマのつづきを今度は山本さんを主人公にして正月ごろに続編があるらしいね。　楽しみだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼は、京都を離れ、薩長軍とたたかいながら、北上するにつれ、性格は温和になって行ったようだ。　「その部下が慕うこと赤子のごとく・・・」と評されている。人望もあったし才能もあったし、人気が出て当然だろうね。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お墓は東京都日野市にある。　日野は新選組発祥の地だ。　観光都市としては、京都とかに比べてまだまだ、地図などがたりないね。　ガイドブックを持っていったほうがいい。　土方歳三のお墓にはけっこう、ファンがいた。　が、なんとピースサインをして写真を撮っている人がいた。　墓石はただの石じゃない。　土方も実在の人物だ。　ファンなら畏敬の念をもって接して欲しい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/cozywind2004/12713318.html</link>
			<pubDate>Fri, 30 Sep 2005 19:59:32 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>小栗上野介の遺した物</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/80/12619380/img_0?1127989225&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-f5-87/cozywind2004/folder/354450/80/12619380/img_1?1127989225&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
幕臣に小栗上野介忠順（おぐりこうずけのすけただまさ）と言う人がいた。　多分、幕末ファンのの中でもマイナーに分類されると思う。　頭脳明晰で、徳川幕府のさまざまな職務に着いた。　咸臨丸でライバルの勝海舟が太平洋を越えて、サンフランシスコについてしばらくしてから、小栗たちをのせたポーハタン号もアメリカに到着する。　米国の繁栄ぶりをみて、帰国後に行った数々の改革をいくつか列挙してみると・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１　世間が攘夷で騒がしいのにもかかわらず、米国文化を日本で紹介し、政治・軍事・商工業など外国を模範としなけらばならないと、幕臣たちに説いた。&lt;br /&gt;
２　横浜、横須賀に造船所をつくった。（碑が横須賀に残っているそうだが、現在は米軍基地があって近づくことができない。）&lt;br /&gt;
３　外国為替を研究史、不当な扱いを受けていた小判の価値を三倍にひきあげた。&lt;br /&gt;
４　フランス仕官を招き、その軍制を採用して、洋式訓練をおこない、近代陸海軍を創設した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
等々、ものすごいことをたくさんやっているのだが、世間ではなかなか脚光をあびないね。　理由の一つは彼は強弁に主戦論をとなえ、薩長軍を排除することを考えていたことかな？　改革は必要である、だが、それを行うはあくまで徳川幕府である、といった思想で柔軟性がなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結局、勝海舟の和平論にやぶれ、知行地の上州（現在の群馬県）に移り住んで、戊辰戦争の様子をうかがっていた。　彰義隊の頭取に曰く、「今、主君は恭順の意を示して、江戸はよそ者のものになろうとしている。　もはや、仕方がない。　会津藩などが東北諸藩をひきいて官軍と戦っても、せいぜい数ヶ月の命脈であろう。　しかしそのあと、勝者側は、勲功を争って内輪もめになる。　そうして群雄割拠の時期となってあらためて天下に檄（げき）を飛ばせば、国内再統一もそれほどむずかしくはない。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みごとな読みだ。　戊辰戦争のてん末から、士族の反乱までの流れを、新聞やテレビのない時代に見事に読みきっている。　彼は、軍用金については「私が責任をもって調達する。」といっている。　ここからあの有名な徳川埋蔵金伝説が生まれた。　彼が上州に移る際に、徳川の軍用金を持ち出し、赤城山ろくにうめたのではないか？というものである。　さてさて、彼は、血気盛んな薩長軍にひったてられ、殺されてしまったので真相は闇の中である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな彼の自宅に遺されていたのは、将軍慶喜から与えられた大判二枚だけだったそうだ。　彼が遺したもの　－　やはり再統一されたあとのビジョンというものだろう。　倒幕に必死だった官軍は、その後どのように日本を作っていくかということはあまり考えていない。　後に、国づくりの最中の明治政府の重鎮曰く、「われわれが今やろうとしていることは、結局、小栗がやろうとしていることなのではないか？」　生き残っていたなれば、そして、明治政府にとりたてられるようなことがあれば、彼はものすごい活躍をしたかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小栗がアメリカからもち帰ったもののひとつに、ねじ、がある。　今の世界ならどこにでもありそうな一本のねじだが、当時の日本にはなかった。　このねじはいまでも、とあるお寺に遺されている。　彼の夢とかいっぱいつまってそうなねじである。　自宅でまじまじとながめながら、いろんなことを考えていたんだろうなと思う。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼のお墓は東京、雑司が谷霊園の一角にある。　ここの霊園には、幕末にかかわる方々がいっぱいねむっているので興味のある方はどうぞ。　ただ、かなり広い。　案内所で１００円を寄付して地図を手に入れることをお勧めする。　管理人が訪れたとき、彼のお墓は草ボーボーだった。　幕末の立役者は、現在の人気によって扱いが違う。　彼に関してはもうちょっと評価されてもいいんじゃないかなと思う。　お参りしたあと、気持ち、お墓をきれいにしておいた。　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/cozywind2004/12619380.html</link>
			<pubDate>Thu, 29 Sep 2005 19:20:25 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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