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8番目の客星の出現は治承五年六月二十五日(1181年8月7日)ですが、中国(南宋)の記録ではその前日となっています。現れたのは午後8時ごろ東北天カシオペア座で、明るさについては不明ですが、前の2者に比べると小規模のようです。
この前年に定家はすでに『明月記』を書き始めているので、後年安倍泰俊から聞くまでもなく、19歳の定家自身は見ていないでしょうか?『明月記』の治承五年の頁に「紅旗征戎吾が事に非ず」というあの有名な言葉は見当たりますが、天体現象についての記載はなく、観測した可能性は少ないようです。でも陰陽師でなくても気づいた人はいたことでしょう。この前年には東国で源頼朝が挙兵し、この年の2月には高倉院が3月に平清盛が亡くなり、8月25日(七月十四日)には養和と改元され、さらに翌年には寿永と改元されています。このころは戦乱だけでなく旱魃による大飢饉という不穏な時期でした。そこへ突然現れた客星を見て、都には「巨星落つ」と嘆息した公家が、また鎌倉には「天命下る」と頼朝をけしかけた知恵者がいた・・・と想像できなくはないですね。
ところで定家は寛喜二年(1230年)十一月一日に現れた客星に注目し,過去の客星について安倍泰俊に調べさせたそうです。その結果上記8件が出てきたわけですが,当の客星の正体は彗星だったようです。
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日本史
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寛弘三年四月二日(1006年5月1日)の深夜,南の低い空に出現した大客星は,半月くらい明るく輝いたそうで,日月を除けば人類観測史上最も明るい天体です。清少納言は宮中を引退し、安倍晴明はその前年に亡くなっていますが、藤原道長周辺は華やかな文芸サロンが続いたころです。
最も有名なのは天喜二年(1054年)7月4日未明に現れた客星です。日本にも中国にも記録がありますが、ヨーロッパには全くありません。記録が失われたのか、あえて無視されたのか、それとも当時まだ紙が伝わって来ていなかったので書き記す術がなかったせいか・・・。まさか、ず〜と曇っていたということはないでしょう。今その場所には20世紀の花形天体「かに星雲」が淡く光っています。
この時、夜明け前の東天には細い月と明るい客星が見えていました。月の上にすばるが、下にはアルデバランが、また左(北)にはカペラが見えます。
そして3番目の超新星は鎌倉幕府成立と関係がありそう。。。
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天変記録は晩年になってから陰陽師・安倍泰俊(晴明の5代か6代の子孫)からきいた古い記録を書きとめたもので,定家自身の観測ではありません。最初のものは皇極天皇時代と言うから,7世紀,この天皇は天智天皇の母親です。8件のうち5,6,8番目が超新星で残りは彗星らしい。超新星とは星の最期の大爆発で,一夜にして数万倍も明るくなります。望遠鏡のない時代の超新星の記録は世界で7件しかありませんが,そのうち3つも記載がある本は『明月記』だけ。わが国の陰陽師の記録はスゴイものです。
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鎌倉幕府の成立年は1192(イイクニ)年と習いましたが,最近は1185(イイハコ)年説が有力のようです。1192年とは源頼朝が朝廷より征夷大将軍に任じられた年ですが,実はその7年前の1185年に守護地頭を設置しており、実質的に幕府は成立していたということによるものです。その経緯は『吾妻鏡』に書いてあるのですが,書かれたのは鎌倉時代の後半らしく,その当時の記録はむしろ京都の公家の日記にあります。その中でも藤原定家(1162〜1241)の『明月記』は第一級資料でしょう。彼は源義経と同時代人で,平家の奢り没落,武士の台頭,鎌倉と京都の確執を目の当たりに見ています。『百人一首』や『新古今和歌集』の選者として有名ですが,この日記(エッセイというかブログというか)も国宝です。治承四年(1180 年) から嘉禎元年(1235年)までなんと56年間にわたって書き綴られています。全部漢文・・・とても読めません。この日記には,日常的な記事が多いですが,日月食・惑星現象・彗星・流星など天文記録がたくさん集められています。特に客星,不意に現れるお客さん星という意味ですが,の出現記録についての記事は重要です
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教科書から源頼朝の肖像画と言われている絵が消えるそうですね。これは京都神護寺にある名画で、そのモデルは足利直義(尊氏の弟)ではないかという説が有力だそうです。誰のものかはっきりわからないから、消してしまうと言うのはおかしな話です、一流芸術品であることに変わりはないのに。同様のことは「聖徳太子肖像画」もそうです。たとえ聖徳太子の肖像が出なくても、あの法隆寺壁画は飛鳥白鳳時代の文化遺産で、こんな優れた絵画は世界中どこにもないでしょう。 |




