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みなさま、こんにちは。
朝から1日雨模様でしたね
そんな中、8人もの方にお集りいただきました。
感謝です
聖書を読もう 今日の『聖書を読もう』は、マルコによる福音書14章1〜42節です。
さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。 14:2彼らは、「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起すかも知れない」と言っていた。
14:3イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。14:8この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
14:10ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。 14:11彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。
除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか」。 そこで、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた、「市内に行くと、水がめを持っている男に出会うであろう。その人について行きなさい。 そして、その人がはいって行く家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。 するとその主人は、席を整えて用意された二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために用意をしなさい」。弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。
14:17夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。 14:18そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。 14:19弟子たちは心配して、ひとりびとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。 14:20イエスは言われた、「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。 14:21たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
14:22一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。 14:23また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。 14:24イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。 14:25あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
14:26彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。
14:27そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。 14:28しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。 14:29するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。 14:30イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。 14:31ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。
14:32さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、 14:34「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、 14:36「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。 14:37それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。 14:38誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。 また離れて行って同じ言葉で祈られた。 14:40またきてごらんになると、彼らはまだ眠っていた。その目が重くなっていたのである。そして、彼らはどうお答えしてよいか、わからなかった。三度目にきて言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。 さて、いよいよ最後の晩餐と弟子の裏切りの場面に入っていく14章です。
長いので、42節までです。
「過越と除酵との祭」というのは、エジプトで虐げられていたユダヤ人たちがエジプトを離れた記念の祭り(詳しくは、聖書の『出エジプト記』に書いてあります)で、イスラエル人にとっては大切なお祭りです。祭りが迫っているときに、その前にやってしまおうと考えていたようです。お祭りなので、エルサレムには多くの人々(200万人くらい)がいたそうで、いつもとは違う雰囲気のときでした。それも、神様のご計画で、人々に十字架を印象づけるためなのかもしれません。
14:3-9までは、高価な香油の話が出てきます。1デナリは1日の働き分だったそうなので、300デナリ以上の香油なんて、今でいう300万円くらいと高価です。それが家にあるっていうのもすごいなと思いますが、女の人は「自分のできる限りのことをした」のです。女の人の心からの思いというのが、現れていますね。ここを読んで、『自分も小さな者ですが、自分の今できることはこれです』と神様に自分を捧げ、そのような祈りをしていきたいという感想を言ってくれた方もいました。
14:10からは、こんな感動的な女の人の行動の裏にユダの裏切りが進行していきます。ここを読んで、イエスさまはユダが弟子になった最初から裏切ると知っていたけれど、一緒にいることでいつかは変えられるのではという思いもありながら、一緒にいたのかもしれない...と思うと悲しく辛いなという感想がありました。イエスさまは悔い改めの機会も与えていたし(18節からの話)、決して放置していたわけではないのです。イエスさまは「生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」と厳しいことを言います。これは、突き放す言い方なのではなく、「ユダがそのような行為をしてしまう、罪を犯してしまうという悲しい行為をしてしまうのであれば...」という愛をもった言い方なのです。一番悲しいのはイエスさまですよね...。
その19節で、裏切る人がいると言われた弟子達は「まさかわたしではないですよね」と言います。これは、「もしかしたら私が裏切るのかも?」と思ってしまうくらい、自分のことがわからないということです。人間の弱さが出ていますよね。私たちも、同じような場面に出会ったら、「何があっても裏切りません」と自信を持って言えるでしょうか?
22〜24節は、聖餐式で今でも語られる場所です。
32節からは、イエスさまの苦悩が描かれています。イエスさまは神様ですが、人間でもあり、人間としての苦悩を表しているところです。これを見るときに、私たちは勇気づけられます。イエスさまだって、苦しかったと。私たちと同じように苦しまれたのだと....。
38節の『目をさましていなさい』は、霊的に眠っていることを表しています。
このように、ここでは『裏切るのは私じゃないですよね?』と不安を持ってしまったり、眠ってしまったりする人間の弱さ、またイエスさまの人間としての苦悩が描かれていたところでした。今日は、ひとりひとりここの感想をなんでも良いので言っていただきました。こういう機会も良いですね!
「目を覚ましていなさい」に関する聖書のことばです。
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。(ペテロの第一の手紙 5:8〜9)
だから、目を覚ましていなさい。いつの日、主が来られるか、あなた方は知らないからである。次のことをわきまえていなさい。盗人が夜のいつごろ来るかを知っているなら、家の主人は、目を覚ましていて、家に忍び込ませはしない。だから、あなた方も用意していなさい。思わぬときに人の子は来るからである。(マタイによる福音書24:42-44) M先生、解説をありがとうございました
今日の賛美 今日の賛美は、『君は愛されるため生まれた』とM先生の作られた賛美『祈りは力』でした。
また歌いたいですね!
音楽が奏でられると、別室で遊んでいるお子さんが、見に来ます
音楽って人を引き付けるものなんだなーと、いつも実感します。
M先生のメッセージ「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という『良きサマリヤ人の法』がアメリカやカナダで施行されています。誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人(救急現場に居合わせた人、発見者、同伴者等)による傷病者の救護を促進しよう、との意図があります。
「良きサマリヤ人」ルカによる福音書10:29〜3710:25するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。10:26彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。10:27彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
10:28彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。10:29すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。10:30イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。10:31するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。10:32同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。10:33ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、10:34近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。10:35翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。10:36この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
10:37彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。 1. わたしの隣人はだれか。。。10:27 すると彼(律法の専門家)は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
律法の専門家(11:25)
旧約聖書の研究者であり、解釈者。
彼らは、宗教の外面的な形式にこだわり、自分たちと同じようにルールが守れない人を非難し、裁いていた。
→私たちにも、そのようなところがありますね
そして、隣人とは、自分と同じ信仰で、愛情を持って自分を取り扱ってくれる同胞のユダヤ人と限定し、考えていた。
→そういうことをわかって、イエスさまはこのサマリヤ人のたとえ話しをしたのです。
2. 傷ついた人への態度助けを必要とする人に出会うと、私たちの中からいろいろな態度が引き出されます。
律法の専門家たちはどうだったでしょうか...
傷ついた人は、単なる議論の対象であった。→自分たちの正しさを証明するための対象でしかなかった。
強盗はどうだったでしょうか...
傷ついた人は、利用し、搾取すべき人であった。
宗教家(祭司やレビ人)たちはどうだったでしょうか...
傷ついた人は、(隣人ではなく)避けるべき問題であった。
もしかしたら、強盗が戻ってくるかも知れない。→自分が襲われる危険性!
もし、彼が死んでいたなら、儀式的な汚れをこうむる。儀式的なきよさが優先した。
→死人にさわってはいけないという決まりがあった。
宿屋の主人はどうだったでしょうか...
傷ついた人は、料金のために奉仕するべき客であった。
二ヶ月も滞在してもらえる得意客。場合によってはさらに儲かるかも。
→デナリ2つは、給料2ヶ月分くらいです。
サマリヤ人はどうだったでしょうか...
傷ついた人は、世話をし、愛する価値のある人間であった。
その場で出来る最善(オリーブ油→鎮痛、ぶどう酒→消毒、包帯→保護、家畜→安全な場所へ移動)をした。
自分のできるすべての事(宿屋での介抱、宿屋への依頼、全費用負担の約束)をした。
ここで、自分は律法の専門家だろうか、宿屋の主人だろうか、宗教家だろうか...と当てはめてみることができますね。その上で、「サマリヤ人のようになりなさい」とイエスさまは言います。
『隣人は誰ですか?』と律法学者は聞いていますが、イエスさまは直接答えてはいませんね。
そして、「傷ついた人」については、何も書かれていませんね。
どれが「傷ついた人」にとって良かったのか...その人の答えは直接には書いていないのです。
3. わたしは誰の隣人か。。。愛は家庭から始まります。まず家庭の中で不幸な人を救いなさい。
両者が愛し合い、母親が家庭の中心となりなさい。
平和とうるおいの家庭が築けたら、隣人を愛しなさい。
自分が、自分の家庭が、愛に満たされなければ隣人を愛せません。
マザー・テレサ(1981年4月、初来日の際)
愛とは、人の必要を満たすために行動する事です。
イエス・キリストにとって、わたしたちすべての者は、そのために死ぬ価値がある大切なひとり一人です。 私たちは誰の隣人となれるでしょうか?
マザーテレサの言葉を借りれば、自分の子どもや夫の隣人にまずなれるでしょう。
この言葉を読んで、私はコリント人への第一の手紙13章を思い出しました。
ここは「愛の章」と呼ばれているところです。
『もし愛がなければ、いっさいは無益である。』というみことばがありますが、
私にとってこの言葉は衝撃で、指針となっています。みことばに感謝しています。
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(コリント人への第一の手紙13章)
M先生、メッセージありがとうございました!!
オススメの本 中村 茂 (著), 小林 豊 (イラスト), 斎藤 千代(構成)
今日は隣人のメッセージを聞きましたが、今から約80年前、群馬県草津でハンセン病に苦しむ人々の隣人となったイギリス人宣教師コンウォール・リーの半生を描いた絵本です。2階の本棚(子どものコーナー)に置いてあります。お子様と一緒に読んでみてくださいね。
「愛は、あきらめない」(横田早紀江著/いのちのことば社)
1977年11月15日、横田めぐみさんが拉致されました。もうすぐ37年目になりますね...。今でこそ、めぐみさんがいなくなったのは、北朝鮮による拉致ということがわかっていますが、このときから20年も、なぜめぐみさんがいなくなったかわからなかったのです。
その間に、母、横田早紀江さんは聖書に出会い、神様と共に歩んで来られました。
そして、2014年3月、早紀江さんはお孫さん家族と会うことができました。
それに至る過程も書かれています。
北朝鮮による拉致というものはどういうものなのか...ということもわかる、1冊です。
この本には、何度となく行われている、中学校での講演会の内容も書かれています。
その中に「私たちは自分勝手な思いで好き勝手をやって他人に迷惑をかけることが、どんなに周囲を悲しませているかということを考えなければなりません。人間がわがまま放題やっていくことがどんなに大変な問題を生じるか、私は聖書から学ばせていただいています。一生に一回だけでも聖書を読んでみてくださると、みなさんの人生のいい羅針盤が与えられ、健康な心と体が与えられると思います」という一文がありました。中学生への講演ですが、心に染みます。講演を聞いた中学生の感想も掲載されていて、心のやわらかい時期にこのような命の大切さ、存在の大切さを語ってくださる早紀江さんに出会えるというのは大きな体験だと思いました。めぐみさんのために、ほかに拉致された方々、またご家族のために祈りたいと思います。
やさしく読みやすいので、小学校高学年から読めるのではないでしょうか。オススメです。
今日は、みなさんにお話をしていただいたので、「聖書を読もう」の時間を多く取りました。
こういう時間も、良いなと思いました。
託児は、教会のY姉とI姉でした。いつも感謝です。
お子さんたちも慣れて、楽しそうに遊んでいます。
来月は、11/26 9時半から11時半まで。
「ゆるさない負債者」(マタイによる福音書18:23-25)です。
ぜひいらしてくださいね
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