子育てバイブルCafe

武蔵野市にある武蔵野キリスト教会付属聖泉幼稚園で行っている、聖書の会、子育ての学びのブログです。

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 今日は冷たい雨の一日でしたね
 5名の参加でした。感謝です。
 
 

聖書を読もう

 今日の聖書を読もうはマルコによる福音書14章43〜72節です。

 14:43そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。 14:44イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引ひっぱって行け」。 14:45彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 14:46人々はイエスに手をかけてつかまえた。 14:47すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。 14:48イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。 14:49わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。 14:50弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
 14:51ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、 14:52その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。
14:53それから、イエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな集まってきた。 14:54ペテロは遠くからイエスについて行って、大祭司の中庭まではいり込み、その下役どもにまじってすわり、火にあたっていた。
 14:55さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするために、イエスに不利な証拠を見つけようとしたが、得られなかった。 14:56多くの者がイエスに対して偽証を立てたが、その証言が合わなかったからである。 14:57ついに、ある人々が立ちあがり、イエスに対して偽証を立てて言った、 14:58「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」。 14:59しかし、このような証言も互に合わなかった。 14:60そこで大祭司が立ちあがって、まん中に進み、イエスに聞きただして言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。 14:61しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。 14:62イエスは言われた、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。 14:63すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「どうして、これ以上、証人の必要があろう。 14:64あなたがたはこのけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは皆、イエスを死に当るものと断定した。 14:65そして、ある者はイエスにつばきをかけ、目隠しをし、こぶしでたたいて、「言いあててみよ」と言いはじめた。また下役どもはイエスを引きとって、手のひらでたたいた。
 14:66ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の女中のひとりがきて、 14:67ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を見つめて、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 14:68するとペテロはそれを打ち消して、「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言って、庭口の方に出て行った。 14:69ところが、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に、またもや「この人はあの仲間のひとりです」と言いだした。 14:70ペテロは再びそれを打ち消した。しばらくして、そばに立っていた人たちがまたペテロに言った、「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」。 14:71しかし、彼は、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」と言い張って、激しく誓いはじめた。 14:72するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。

 14章43〜52節は、イエスさまが捕らえられる場面
 14章53〜 65節は、裁判の場面
 14章65〜72節は、裏切りの場面

 ....と、短い間に場面が目まぐるしく変わります。
 その前の節を見ていただきたいのですが、過越の祭りのにぎやかな場面から一転します。
 ユダに悔い改めの機会を与えていたのですが、それは結局無駄に終わりました。
 ユダは、弟子として尊敬を表す方法(接吻)で、イエスさまを裏切るのです(44節)。
 49節では、イエスに毎日会っていたのにその間に捕まえずに(捕まえるチャンスはいくらでもあったのに)、今この時にそのような事になるのは、聖書の言葉が成就されるためですと言っています。
 神の計画の偉大さがわかります。
 ここで言っている「聖書の言葉」とは、イザヤ書の53章のことです。
 イエスさまが十字架にかかられることが書いてあり、
 「十字架の預言が成就されるのだ」とイエスさまはおっしゃっているのです。
 
1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。


 14章51節は、少し唐突に「ある若者」が出てきます。
 ここはこれを書いたマルコ自身なのではないかと言われています。
 捕らえられたあの場面は恐ろしかったということを、身をもって体験したから、
 ここに登場させているのではないでしょうか。
 マルコ自身も逃げてしまったことを後悔して、自戒として書いたのかもしれませんね。

 60節には、カヤパという大祭司が出てきます。イエスさまに罪があったからではなく、
 罪を見つけて十字架にかけようとしていました 結局は「神を冒涜した」ということにしました。
 ここでイエスさまは
 
 「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」と聞かれたときに、
 「はい、キリストです」とはお答えになっていません。
 「わたしがそれである。」という答え方をしています。
 この頃は、「救い主キリスト」というのは、「国家を救うメシア(救世主)」という意味でした。
 国民が望んでいたような形ではなかったので、そのような言い方をしたそうです。
 
 14章66節からは、ペテロの否認と言われているとことです。
 14章30節でイエスさまにペテロは「3回私を知らないと言う」言われていました。
 ルカによる福音書(22:60〜61)では、

ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。

と、イエスさまの様子が書かれています。

弟子でもこのようにイエスさまを否定する場面がありました。
それを鶏が鳴くという合図によって、気付かせてくださいました。
でも、イエスさまとの関係は離れないのです。
 
 今日はここまでです。M先生ありがとうございました。


 今日の賛美は「主われを愛す」の英語バージョン!
 日本語番は4番までなのですが、
 英語は7番まであります。
 こちらに紹介しています

 M先生のメッセージ

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6:12)…イエスさまが教えてくださった、主の祈りの一節です。子どもたちも、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」とおぼえてお祈りしています。
 
「負いめ」とは、罪を表すアラム語の慣用的な表現で、罪を借金になぞらえています。返さなければならないと思い、良い事をしようとしても、それ以上に悪い事をしてしまう私たちは、いつになっても返さない借金を神に対して負っているような者です。生命をはじめ多くのものを神から任されているのに、自分勝手に使ってしまい、負い目を返せないのです。残る道はただひとつ、負い目を赦していただくしかないのです。
 
 

「ゆるさない負債者」マタイによる福音書18:22〜35

 18:22イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。 18:23それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 18:24決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 18:25しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 18:26そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 18:27僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 18:28その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 18:29そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 18:30しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 18:31その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 18:32そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 18:33わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 18:34そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 18:35あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

◆イエスは、赦しを求めてくるたびに、何度でも赦しなさいという。22節

 18:21
 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。

 そのころは3回は...という決まりがあったので、
 ペテロは7は完全数だし...ということで聞いています。
 でも、イエスさまのお答えは七たびを七十倍。490回というわけではなく
   完全にゆるしなさいということなのです。
  

◆王は、人と清算(帳じりを合わせる)したいと思った。23節

 神は、人の借金を清算したいと思っています。
 したいならすれば?という態度なのではなく、「したい」と思ってくださっています。

◆1万タラントは、通貨の中の最高の単位。24節

  1万タラント=20万年分の給料!
  日本語で言うと何兆円とか、とにかく大きいお金です。
  一生かかっても返せるわけのないお金です。


◆貸し手は、借り手の家族を借金が返済されるまで働かせることができた。25節

◆「…そうすれば全部お払いいたします」、借り手は現実が見えていない。26節

 一生かかっても返せるわけのないお金なのに、そんなこと言ったりして、
 借り手は借金の多さが目に見えていません。
 しかし、主人は借金の多さをわかっていました。
 

◆かわいそうに思って…とは、「はらわた・する」という意味。目の前の人間の苦しみを見たときに、こちらの「はらわた」も痛んでくる、「はらわた」が揺さぶられる、そういう「共感」を表すことば。27節
(愛とは、相手の痛みを痛みとして感じる共感であり、そこから生じる行為。)

  「はらわた・する」というのはわかりにくいのですが、
  「はらわた」が動詞になるくらいの言葉なのだそうです。
   そこまで共感してくれた...ということなのです。

◆ゆるさない負債者は、懇願する仲間を「承知せず」とし、共感しなかった。30

 28節の100デナリというのは、4ヶ月分の給料ということです。
 人に対する負債はそのくらいという意味もあります。
 しかし、神に対する負債は20万年分。
 神のそのゆるしに対して、この負債者は...。


 王の赦しの理由は、ただ「はらわた・する」ということのみ。

 「はらわた・する」=共感する→神はゆるしてくださる方。ゆるしの信仰である。
  借金を返す能力があるかないかではないのです。

○○○○○○○○○
 
 罪というのは、私たちにはわかりにくいのですが、わかりやすい例として、
 灰谷健次郎『せんせいけらいになれ』より「チューインガム一つ」という、
 小学3年生の書いた詩を紹介してくださいました。
 お店のガムを1年生の子とふたりで万引きした子の悪いという気持ち、
 後悔している気持ち、どうしようもない罪の意識が描かれている詩です。
 ここでは紹介しませんが、ぜひ図書館などでご覧ください。
 

 「ドロボーをする心」それは他人がどう見ようと、自分がどんなにごまかそうと思っても、なくならない自分自身の姿です。罪の問題とはいうのは、単に悪い行為だけの問題でなく、その行為をとおして自分自身の醜い部分が外にあらわれ、それと向き合ってしまう事ではないでしょうか。
 イエス・キリストは、罪と悪の中で圧迫され、がんじがらめになっている人間のために、赦しによる救い(罪からの解放)を与えるため、来られたのです。
 だから、クリスマスを心から喜ぶのです。

 M先生、メッセージをありがとうございました。

 

オススメの本


 幼稚園の2階の本棚にある本は、お母様方も借りることができます。
 貸し出しノートがあるので、記入例に沿って書いて、借りてくださいね。

 新しく入った本を紹介します。
 
 「心のふれあう家庭生活」(シリーズ・女性の生き方)唄野絢子著/いのちのことば社

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 「アクラとプリスキラ」のように家庭が伝道の場となり、祝福が外へ外へと広がっていく……。この家庭の祝福はどこから。救い、夫との出会い、そして日々夫とのコミュニケーションし、心の奥深いところで受け入れ合う全人格的結婚を今日もめざし続ける著者のあかしとエッセイ。(紹介文より)

 
















「子どもたちに寄り添う」坪井節子著/いのちのことば社

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 いじめ、体罰、家庭での虐待。子どもたちを傷つける社会で、大人たちがすべきことは何か。日本で初めての子どもたちのためのシェルター(緊急避難場所)を作ったお母さん弁護士が、カリヨンで出会った子どもたちから教えられたことを語る。(紹介文より)










 「いま子育てに必要なこと」金子 耕弐著/中西出版

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 あなたが、ご自分の子どもを大切に思うなら、
1.愛情を正しく示すこと、
2.時間をかけて関わり、感動を共有しながら豊かな親子関係を築くこと、
3.尊敬と信頼を寄せられる親の権威をしっかりと確立すること、
 この3つの柱を常にバランスよく保つことを忘れないでください。親と子どもの関係は、子どもが3人いれば親と上の子との関係、真ん中の子との関係、そして下の子との関係の3通りがあって、どの関係も同じではありません。どの子に対しても同じ接し方をすれば、うまくいくということはありません。一人一人の子どもとよく関わりをもち、その子の個性や才能を見極め、それを引き出し、励ましたり時には叱ったりしながら育てていくのです。子育てには決められたマニュアルなどありませんが、私が本書で書いてきた3つの大切な柱はどんな子どもにも適用されるべきなのです。この3つの柱をバランスよく子育ての中に取り入れてください。
(紹介文より)

 ※金子 耕弐さんはバーバラさんのテキストの発行元、ファミリーフォーラムジャパンの副代表の方です。

 たくさんの本がありますので、ぜひご利用ください。


 


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