子育てバイブルCafe

武蔵野市にある武蔵野キリスト教会付属聖泉幼稚園で行っている、聖書の会、子育ての学びのブログです。

聖書の会

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2014.12.3クリスマス会!


 気持ちのよいお天気の今日は聖書の会、子育ての学び合同のクリスマス会でした!
 みんなで15名の参加でした。感謝です。

 
イメージ 1

 
 聖書の会、子育ての学びのクリスマス会も、恒例となってきました。
 子ども達もクリスマス会をしますから、お母様たちもねということで。


 クリスマスソングをみんなで歌いました
 奏楽はU姉でした。ありがとうございます!

『神の御子は』『かいばのおけに』
『メリーメリークリスマス』
 (これはM先生のオリジナルソング!お風呂から上がった時にメロディが浮かんだとか
 を賛美しました。
 
 そして、これも毎年恒例なのですが、クリスチャンの方にお証をお願いしています。
 お証(おあかし、と読みます)というのは、どのようにしてイエスさまを信じたのか、
 信じてどう変わったか...など、イエスさまと自分のことを話すことです。
 人それぞれ、出会い方は違います。
 今回は、今年3月お子さんが幼稚園を卒園されたN姉にお願いしました
 イエスさまとどのように出会ったのか、子育てのこと、お子さんとイエスさまの関係などを
 話してくださり、とても素敵なお証でした。
 
 みなさんがこの教会付属の幼稚園に来られたということの意味は、
 神様の導き、ご計画があるということを力強くおっしゃっていました。
 そのことを意識するかしないか...でも、大きな違いがあると思います。
 お証を聞くという機会は、普段なかなかない機会だと思いますので、
 大切に機会を設けています。
 N姉には1週間前に突然お願いしたにも関わらず
(かなり前から計画を練りずっと温めていたのですが、本人に伝えたのが遅かったのです...)
 きちんと幼稚園のお母様方向けのお証をしてくださいました。
 素晴らしいお証をありがとうございました


 『 きよしこの夜』の賛美のあと、M先生のメッセージがありました。

イメージ 2


 幼稚園では、聖誕劇といって、イエスさまが生まれるまでのお話を劇にして園児たちが
 演じます。
 その場面の写真とともに、「聖誕劇が伝えるもの」と題して、
 クリスマスメッセージをしてくださいました。
 M先生、ありがとうございました
 

 そして、奏楽をしてくださっているU姉のフルート演奏です!
 演奏をしてくださる...というか、フルートが吹けるということを教えてくださったのが、
 1週間前 
 久し振りだけど吹けるかな?とそれから猛練習をしてくださって、この日を迎えてくださいました。
 「さやかに星はきらめき」を演奏してくださいました。
 久し振りとは思えない腕前でした!
 フルートの音色は、この曲のイメージととてもあっていて心地よく、
 クリスマスの素敵な雰囲気を演出してくださいました。
 U姉、ありがとうございました

参考までに、「さやかに星はきらめき」の歌詞を少し紹介します。

さやかに星はきらめき、
み子イエス生まれたもう。
長くもやみ路をたどり
メシヤを待てる民に、
あたらしき朝はきたり
さかえある日はのぼる。
いざ聞け、み使いうたう
たえなる天(あま)つみ歌を、
めでたし、きよしこよい。

 
 最後にみんなで立って『諸人こぞりて』を歌いました
 歌が終わったあとにM先生が「クリスマスおめでとう!」と突然こぶしを振り上げたので、
 みんな「え、私たちも一緒にやるの?やらないの?」という感じで、微妙な笑いが...
 賛美、お証し、メッセージ、フルート演奏と盛りだくさんの第一部の終了です


 さて、第二部はお食事とみなさんとの交流の場、お楽しみ会です
 
イメージ 3


 
 みなさんに一品持ってきていただき、お昼をいただきながら楽しみました。
 今年は恒例のチヂミはできませんでしたが、みなさんの手料理などをおいしくいただきました。
 お忙しいなか、買ってきてくださったり、作ってきてくださったり、ありがとうございます。
 これはどこで買ったの? どうやって作ったの? と、話が弾みますね!
 今年から、託児を教会の方にお願いしていますので、幼稚園のお母様と
 教会の方と顔を合わせることもでき、また夏のティーパーティーでもそうでしたが、
 クリスマス会でも一緒にお食事をする機会が設けられ、感謝しております。

 いつも明るく司会をしてくださるE姉が二部の司会を引き受けてくださいました。感謝です! お食事の中で、「感謝だったこと」と題して、今年感謝だったことを
 みなさんに話していただきました。
 普段感謝なことを意識をすることはないかもしれませんが、年末ですし、今年を振り返る意味でも、
 いいのでは?ということで、U姉が提案してくださいました。ありがとうございます
 みなさんにひとことずつ話していただき、それぞれ「感謝なこと」があり、良かったなと思います。

 最後にいつもはビンゴなのですが、時間がかかるので、今年はくじ引きをやりました。
 数字の書いてある紙を引いていただき、1番の人から順番に好きなものを取っていただきました。
 みなさん、何が当ったのかしら? 
 「キリスト教ははじめての方に」などの信仰書や来年のカレンダー、星野富弘さんの絵はがき、
 みことば入りのしおり....などなど、
 今日はお風邪でお休みだったR姉と一緒に、オアシス新宿店にて購入してきたものです。
 ぜひ、ご活用くださいね!!

 食事を入れて3時間くらいの集まりでしたが、あっという間にお開きです。
 13時に在園児のママさんは帰らないといけないので、
 卒園生のママさんと教会の方が後片付けをしてくださいました。
 ありがとうございました。

 祝福のうちに終わったクリスマス会でした。
 今年来られなかった方も、また来年、ぜひいらしてください。
 お待ちしています

 今年も集まりに来てくださり、ありがとうございました。
 来年もよろしくお願いいたします。
 良いクリスマスをお過ごしくださいませ

 来年は、1月14日9時半から子育ての学び「怒りへの対処」
  1月21日9時半から聖書の会「良い地に落ちた種」です。


 
 
 
 



 今日は冷たい雨の一日でしたね
 5名の参加でした。感謝です。
 
 

聖書を読もう

 今日の聖書を読もうはマルコによる福音書14章43〜72節です。

 14:43そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。 14:44イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引ひっぱって行け」。 14:45彼は来るとすぐ、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。 14:46人々はイエスに手をかけてつかまえた。 14:47すると、イエスのそばに立っていた者のひとりが、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その片耳を切り落した。 14:48イエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。 14:49わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。 14:50弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
 14:51ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、 14:52その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った。
14:53それから、イエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな集まってきた。 14:54ペテロは遠くからイエスについて行って、大祭司の中庭まではいり込み、その下役どもにまじってすわり、火にあたっていた。
 14:55さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするために、イエスに不利な証拠を見つけようとしたが、得られなかった。 14:56多くの者がイエスに対して偽証を立てたが、その証言が合わなかったからである。 14:57ついに、ある人々が立ちあがり、イエスに対して偽証を立てて言った、 14:58「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」。 14:59しかし、このような証言も互に合わなかった。 14:60そこで大祭司が立ちあがって、まん中に進み、イエスに聞きただして言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。 14:61しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。 14:62イエスは言われた、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。 14:63すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「どうして、これ以上、証人の必要があろう。 14:64あなたがたはこのけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは皆、イエスを死に当るものと断定した。 14:65そして、ある者はイエスにつばきをかけ、目隠しをし、こぶしでたたいて、「言いあててみよ」と言いはじめた。また下役どもはイエスを引きとって、手のひらでたたいた。
 14:66ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の女中のひとりがきて、 14:67ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を見つめて、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 14:68するとペテロはそれを打ち消して、「わたしは知らない。あなたの言うことがなんの事か、わからない」と言って、庭口の方に出て行った。 14:69ところが、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に、またもや「この人はあの仲間のひとりです」と言いだした。 14:70ペテロは再びそれを打ち消した。しばらくして、そばに立っていた人たちがまたペテロに言った、「確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから」。 14:71しかし、彼は、「あなたがたの話しているその人のことは何も知らない」と言い張って、激しく誓いはじめた。 14:72するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。

 14章43〜52節は、イエスさまが捕らえられる場面
 14章53〜 65節は、裁判の場面
 14章65〜72節は、裏切りの場面

 ....と、短い間に場面が目まぐるしく変わります。
 その前の節を見ていただきたいのですが、過越の祭りのにぎやかな場面から一転します。
 ユダに悔い改めの機会を与えていたのですが、それは結局無駄に終わりました。
 ユダは、弟子として尊敬を表す方法(接吻)で、イエスさまを裏切るのです(44節)。
 49節では、イエスに毎日会っていたのにその間に捕まえずに(捕まえるチャンスはいくらでもあったのに)、今この時にそのような事になるのは、聖書の言葉が成就されるためですと言っています。
 神の計画の偉大さがわかります。
 ここで言っている「聖書の言葉」とは、イザヤ書の53章のことです。
 イエスさまが十字架にかかられることが書いてあり、
 「十字架の預言が成就されるのだ」とイエスさまはおっしゃっているのです。
 
1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。

2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。

10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。


 14章51節は、少し唐突に「ある若者」が出てきます。
 ここはこれを書いたマルコ自身なのではないかと言われています。
 捕らえられたあの場面は恐ろしかったということを、身をもって体験したから、
 ここに登場させているのではないでしょうか。
 マルコ自身も逃げてしまったことを後悔して、自戒として書いたのかもしれませんね。

 60節には、カヤパという大祭司が出てきます。イエスさまに罪があったからではなく、
 罪を見つけて十字架にかけようとしていました 結局は「神を冒涜した」ということにしました。
 ここでイエスさまは
 
 「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」と聞かれたときに、
 「はい、キリストです」とはお答えになっていません。
 「わたしがそれである。」という答え方をしています。
 この頃は、「救い主キリスト」というのは、「国家を救うメシア(救世主)」という意味でした。
 国民が望んでいたような形ではなかったので、そのような言い方をしたそうです。
 
 14章66節からは、ペテロの否認と言われているとことです。
 14章30節でイエスさまにペテロは「3回私を知らないと言う」言われていました。
 ルカによる福音書(22:60〜61)では、

ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。

と、イエスさまの様子が書かれています。

弟子でもこのようにイエスさまを否定する場面がありました。
それを鶏が鳴くという合図によって、気付かせてくださいました。
でも、イエスさまとの関係は離れないのです。
 
 今日はここまでです。M先生ありがとうございました。


 今日の賛美は「主われを愛す」の英語バージョン!
 日本語番は4番までなのですが、
 英語は7番まであります。
 こちらに紹介しています

 M先生のメッセージ

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6:12)…イエスさまが教えてくださった、主の祈りの一節です。子どもたちも、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」とおぼえてお祈りしています。
 
「負いめ」とは、罪を表すアラム語の慣用的な表現で、罪を借金になぞらえています。返さなければならないと思い、良い事をしようとしても、それ以上に悪い事をしてしまう私たちは、いつになっても返さない借金を神に対して負っているような者です。生命をはじめ多くのものを神から任されているのに、自分勝手に使ってしまい、負い目を返せないのです。残る道はただひとつ、負い目を赦していただくしかないのです。
 
 

「ゆるさない負債者」マタイによる福音書18:22〜35

 18:22イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。 18:23それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 18:24決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 18:25しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 18:26そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 18:27僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 18:28その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 18:29そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 18:30しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 18:31その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 18:32そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 18:33わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 18:34そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 18:35あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

◆イエスは、赦しを求めてくるたびに、何度でも赦しなさいという。22節

 18:21
 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。

 そのころは3回は...という決まりがあったので、
 ペテロは7は完全数だし...ということで聞いています。
 でも、イエスさまのお答えは七たびを七十倍。490回というわけではなく
   完全にゆるしなさいということなのです。
  

◆王は、人と清算(帳じりを合わせる)したいと思った。23節

 神は、人の借金を清算したいと思っています。
 したいならすれば?という態度なのではなく、「したい」と思ってくださっています。

◆1万タラントは、通貨の中の最高の単位。24節

  1万タラント=20万年分の給料!
  日本語で言うと何兆円とか、とにかく大きいお金です。
  一生かかっても返せるわけのないお金です。


◆貸し手は、借り手の家族を借金が返済されるまで働かせることができた。25節

◆「…そうすれば全部お払いいたします」、借り手は現実が見えていない。26節

 一生かかっても返せるわけのないお金なのに、そんなこと言ったりして、
 借り手は借金の多さが目に見えていません。
 しかし、主人は借金の多さをわかっていました。
 

◆かわいそうに思って…とは、「はらわた・する」という意味。目の前の人間の苦しみを見たときに、こちらの「はらわた」も痛んでくる、「はらわた」が揺さぶられる、そういう「共感」を表すことば。27節
(愛とは、相手の痛みを痛みとして感じる共感であり、そこから生じる行為。)

  「はらわた・する」というのはわかりにくいのですが、
  「はらわた」が動詞になるくらいの言葉なのだそうです。
   そこまで共感してくれた...ということなのです。

◆ゆるさない負債者は、懇願する仲間を「承知せず」とし、共感しなかった。30

 28節の100デナリというのは、4ヶ月分の給料ということです。
 人に対する負債はそのくらいという意味もあります。
 しかし、神に対する負債は20万年分。
 神のそのゆるしに対して、この負債者は...。


 王の赦しの理由は、ただ「はらわた・する」ということのみ。

 「はらわた・する」=共感する→神はゆるしてくださる方。ゆるしの信仰である。
  借金を返す能力があるかないかではないのです。

○○○○○○○○○
 
 罪というのは、私たちにはわかりにくいのですが、わかりやすい例として、
 灰谷健次郎『せんせいけらいになれ』より「チューインガム一つ」という、
 小学3年生の書いた詩を紹介してくださいました。
 お店のガムを1年生の子とふたりで万引きした子の悪いという気持ち、
 後悔している気持ち、どうしようもない罪の意識が描かれている詩です。
 ここでは紹介しませんが、ぜひ図書館などでご覧ください。
 

 「ドロボーをする心」それは他人がどう見ようと、自分がどんなにごまかそうと思っても、なくならない自分自身の姿です。罪の問題とはいうのは、単に悪い行為だけの問題でなく、その行為をとおして自分自身の醜い部分が外にあらわれ、それと向き合ってしまう事ではないでしょうか。
 イエス・キリストは、罪と悪の中で圧迫され、がんじがらめになっている人間のために、赦しによる救い(罪からの解放)を与えるため、来られたのです。
 だから、クリスマスを心から喜ぶのです。

 M先生、メッセージをありがとうございました。

 

オススメの本


 幼稚園の2階の本棚にある本は、お母様方も借りることができます。
 貸し出しノートがあるので、記入例に沿って書いて、借りてくださいね。

 新しく入った本を紹介します。
 
 「心のふれあう家庭生活」(シリーズ・女性の生き方)唄野絢子著/いのちのことば社

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 「アクラとプリスキラ」のように家庭が伝道の場となり、祝福が外へ外へと広がっていく……。この家庭の祝福はどこから。救い、夫との出会い、そして日々夫とのコミュニケーションし、心の奥深いところで受け入れ合う全人格的結婚を今日もめざし続ける著者のあかしとエッセイ。(紹介文より)

 
















「子どもたちに寄り添う」坪井節子著/いのちのことば社

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 いじめ、体罰、家庭での虐待。子どもたちを傷つける社会で、大人たちがすべきことは何か。日本で初めての子どもたちのためのシェルター(緊急避難場所)を作ったお母さん弁護士が、カリヨンで出会った子どもたちから教えられたことを語る。(紹介文より)










 「いま子育てに必要なこと」金子 耕弐著/中西出版

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 あなたが、ご自分の子どもを大切に思うなら、
1.愛情を正しく示すこと、
2.時間をかけて関わり、感動を共有しながら豊かな親子関係を築くこと、
3.尊敬と信頼を寄せられる親の権威をしっかりと確立すること、
 この3つの柱を常にバランスよく保つことを忘れないでください。親と子どもの関係は、子どもが3人いれば親と上の子との関係、真ん中の子との関係、そして下の子との関係の3通りがあって、どの関係も同じではありません。どの子に対しても同じ接し方をすれば、うまくいくということはありません。一人一人の子どもとよく関わりをもち、その子の個性や才能を見極め、それを引き出し、励ましたり時には叱ったりしながら育てていくのです。子育てには決められたマニュアルなどありませんが、私が本書で書いてきた3つの大切な柱はどんな子どもにも適用されるべきなのです。この3つの柱をバランスよく子育ての中に取り入れてください。
(紹介文より)

 ※金子 耕弐さんはバーバラさんのテキストの発行元、ファミリーフォーラムジャパンの副代表の方です。

 たくさんの本がありますので、ぜひご利用ください。


 


 みなさま、こんにちは。
 朝から1日雨模様でしたね 寒かったです。
 そんな中、8人もの方にお集りいただきました。
 感謝です

 

聖書を読もう

 今日の『聖書を読もう』は、マルコによる福音書14章1〜42節です。

 さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。 14:2彼らは、「祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起すかも知れない」と言っていた。
 14:3イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。14:8この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
  14:10ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。 14:11彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。
 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか」。 そこで、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた、「市内に行くと、水がめを持っている男に出会うであろう。その人について行きなさい。 そして、その人がはいって行く家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。 するとその主人は、席を整えて用意された二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために用意をしなさい」。弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。
 14:17夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。 14:18そして、一同が席について食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたの中のひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」。 14:19弟子たちは心配して、ひとりびとり「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。 14:20イエスは言われた、「十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである。 14:21たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
 14:22一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。 14:23また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。 14:24イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。 14:25あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
 14:26彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。
 14:27そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。 14:28しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。 14:29するとペテロはイエスに言った、「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」。 14:30イエスは言われた、「あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。 14:31ペテロは力をこめて言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。みんなの者もまた、同じようなことを言った。
 14:32さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、 14:34「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、 14:36「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。 14:37それから、きてごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、「シモンよ、眠っているのか、ひと時も目をさましていることができなかったのか。 14:38誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。 また離れて行って同じ言葉で祈られた。 14:40またきてごらんになると、彼らはまだ眠っていた。その目が重くなっていたのである。そして、彼らはどうお答えしてよいか、わからなかった。三度目にきて言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。

 さて、いよいよ最後の晩餐と弟子の裏切りの場面に入っていく14章です。
 長いので、42節までです。
 
 「過越と除酵との祭」というのは、エジプトで虐げられていたユダヤ人たちがエジプトを離れた記念の祭り(詳しくは、聖書の『出エジプト記』に書いてあります)で、イスラエル人にとっては大切なお祭りです。祭りが迫っているときに、その前にやってしまおうと考えていたようです。お祭りなので、エルサレムには多くの人々(200万人くらい)がいたそうで、いつもとは違う雰囲気のときでした。それも、神様のご計画で、人々に十字架を印象づけるためなのかもしれません。

 14:3-9までは、高価な香油の話が出てきます。1デナリは1日の働き分だったそうなので、300デナリ以上の香油なんて、今でいう300万円くらいと高価です。それが家にあるっていうのもすごいなと思いますが、女の人は「自分のできる限りのことをした」のです。女の人の心からの思いというのが、現れていますね。ここを読んで、『自分も小さな者ですが、自分の今できることはこれです』と神様に自分を捧げ、そのような祈りをしていきたいという感想を言ってくれた方もいました。

 14:10からは、こんな感動的な女の人の行動の裏にユダの裏切りが進行していきます。ここを読んで、イエスさまはユダが弟子になった最初から裏切ると知っていたけれど、一緒にいることでいつかは変えられるのではという思いもありながら、一緒にいたのかもしれない...と思うと悲しく辛いなという感想がありました。イエスさまは悔い改めの機会も与えていたし(18節からの話)、決して放置していたわけではないのです。イエスさまは「生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」と厳しいことを言います。これは、突き放す言い方なのではなく、「ユダがそのような行為をしてしまう、罪を犯してしまうという悲しい行為をしてしまうのであれば...」という愛をもった言い方なのです。一番悲しいのはイエスさまですよね...。

 その19節で、裏切る人がいると言われた弟子達は「まさかわたしではないですよね」と言います。これは、「もしかしたら私が裏切るのかも?」と思ってしまうくらい、自分のことがわからないということです。人間の弱さが出ていますよね。私たちも、同じような場面に出会ったら、「何があっても裏切りません」と自信を持って言えるでしょうか?

 22〜24節は、聖餐式で今でも語られる場所です。

 32節からは、イエスさまの苦悩が描かれています。イエスさまは神様ですが、人間でもあり、人間としての苦悩を表しているところです。これを見るときに、私たちは勇気づけられます。イエスさまだって、苦しかったと。私たちと同じように苦しまれたのだと....。
 38節の『目をさましていなさい』は、霊的に眠っていることを表しています。

 このように、ここでは『裏切るのは私じゃないですよね?』と不安を持ってしまったり、眠ってしまったりする人間の弱さ、またイエスさまの人間としての苦悩が描かれていたところでした。今日は、ひとりひとりここの感想をなんでも良いので言っていただきました。こういう機会も良いですね!


 「目を覚ましていなさい」に関する聖書のことばです。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。(ペテロの第一の手紙 5:8〜9) 

だから、目を覚ましていなさい。いつの日、主が来られるか、あなた方は知らないからである。次のことをわきまえていなさい。盗人が夜のいつごろ来るかを知っているなら、家の主人は、目を覚ましていて、家に忍び込ませはしない。だから、あなた方も用意していなさい。思わぬときに人の子は来るからである。(マタイによる福音書24:42-44)

 M先生、解説をありがとうございました


今日の賛美


 今日の賛美は、『君は愛されるため生まれた』とM先生の作られた賛美『祈りは力』でした。
 また歌いたいですね!

 音楽が奏でられると、別室で遊んでいるお子さんが、見に来ます
 音楽って人を引き付けるものなんだなーと、いつも実感します。

M先生のメッセージ

「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という『良きサマリヤ人の法』がアメリカやカナダで施行されています。誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人(救急現場に居合わせた人、発見者、同伴者等)による傷病者の救護を促進しよう、との意図があります。
 

 

「良きサマリヤ人」ルカによる福音書10:29〜37


10:25するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。10:26彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。10:27彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
10:28彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。10:29すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。10:30イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。10:31するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。10:32同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。10:33ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、10:34近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。10:35翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。10:36この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
10:37彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。



 

1. わたしの隣人はだれか。。。

10:27 すると彼(律法の専門家)は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

律法の専門家(11:25)
旧約聖書の研究者であり、解釈者。
彼らは、宗教の外面的な形式にこだわり、自分たちと同じようにルールが守れない人を非難し、裁いていた。
 →私たちにも、そのようなところがありますね

そして、隣人とは、自分と同じ信仰で、愛情を持って自分を取り扱ってくれる同胞のユダヤ人と限定し、考えていた。
 →そういうことをわかって、イエスさまはこのサマリヤ人のたとえ話しをしたのです。

2. 傷ついた人への態度

助けを必要とする人に出会うと、私たちの中からいろいろな態度が引き出されます。

律法の専門家たちはどうだったでしょうか...
傷ついた人は、単なる議論の対象であった。→自分たちの正しさを証明するための対象でしかなかった。

強盗はどうだったでしょうか...
傷ついた人は、利用し、搾取すべき人であった。

宗教家(祭司やレビ人)たちはどうだったでしょうか...
傷ついた人は、(隣人ではなく)避けるべき問題であった。
もしかしたら、強盗が戻ってくるかも知れない。→自分が襲われる危険性!
もし、彼が死んでいたなら、儀式的な汚れをこうむる。儀式的なきよさが優先した。
 →死人にさわってはいけないという決まりがあった。

宿屋の主人はどうだったでしょうか...
傷ついた人は、料金のために奉仕するべき客であった。
二ヶ月も滞在してもらえる得意客。場合によってはさらに儲かるかも。
 →デナリ2つは、給料2ヶ月分くらいです。

サマリヤ人はどうだったでしょうか...
傷ついた人は、世話をし、愛する価値のある人間であった。
その場で出来る最善(オリーブ油→鎮痛、ぶどう酒→消毒、包帯→保護、家畜→安全な場所へ移動)をした。
自分のできるすべての事(宿屋での介抱、宿屋への依頼、全費用負担の約束)をした。

 ここで、自分は律法の専門家だろうか、宿屋の主人だろうか、宗教家だろうか...と当てはめてみることができますね。その上で、「サマリヤ人のようになりなさい」とイエスさまは言います。
 『隣人は誰ですか?』と律法学者は聞いていますが、イエスさまは直接答えてはいませんね。
 そして、「傷ついた人」については、何も書かれていませんね。
 どれが「傷ついた人」にとって良かったのか...その人の答えは直接には書いていないのです。


3. わたしは誰の隣人か。。。

愛は家庭から始まります。まず家庭の中で不幸な人を救いなさい。
両者が愛し合い、母親が家庭の中心となりなさい。
平和とうるおいの家庭が築けたら、隣人を愛しなさい。
自分が、自分の家庭が、愛に満たされなければ隣人を愛せません。
マザー・テレサ(1981年4月、初来日の際)

愛とは、人の必要を満たすために行動する事です。
イエス・キリストにとって、わたしたちすべての者は、そのために死ぬ価値がある大切なひとり一人です。

 私たちは誰の隣人となれるでしょうか?
 マザーテレサの言葉を借りれば、自分の子どもや夫の隣人にまずなれるでしょう。

 この言葉を読んで、私はコリント人への第一の手紙13章を思い出しました。
 ここは「愛の章」と呼ばれているところです。
 『もし愛がなければ、いっさいは無益である。』というみことばがありますが、
 私にとってこの言葉は衝撃で、指針となっています。みことばに感謝しています。
 
 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(コリント人への第一の手紙13章)

 M先生、メッセージありがとうございました!!

 オススメの本

  中村 茂 (著), 小林 豊 (イラスト), 斎藤 千代(構成)


 
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 今日は隣人のメッセージを聞きましたが、今から約80年前、群馬県草津でハンセン病に苦しむ人々の隣人となったイギリス人宣教師コンウォール・リーの半生を描いた絵本です。2階の本棚(子どものコーナー)に置いてあります。お子様と一緒に読んでみてくださいね。


 「愛は、あきらめない」(横田早紀江著/いのちのことば社)

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 1977年11月15日、横田めぐみさんが拉致されました。もうすぐ37年目になりますね...。今でこそ、めぐみさんがいなくなったのは、北朝鮮による拉致ということがわかっていますが、このときから20年も、なぜめぐみさんがいなくなったかわからなかったのです。
 その間に、母、横田早紀江さんは聖書に出会い、神様と共に歩んで来られました。
 そして、2014年3月、早紀江さんはお孫さん家族と会うことができました。
 それに至る過程も書かれています。
 北朝鮮による拉致というものはどういうものなのか...ということもわかる、1冊です。

 この本には、何度となく行われている、中学校での講演会の内容も書かれています。
 その中に「私たちは自分勝手な思いで好き勝手をやって他人に迷惑をかけることが、どんなに周囲を悲しませているかということを考えなければなりません。人間がわがまま放題やっていくことがどんなに大変な問題を生じるか、私は聖書から学ばせていただいています。一生に一回だけでも聖書を読んでみてくださると、みなさんの人生のいい羅針盤が与えられ、健康な心と体が与えられると思います」という一文がありました。中学生への講演ですが、心に染みます。講演を聞いた中学生の感想も掲載されていて、心のやわらかい時期にこのような命の大切さ、存在の大切さを語ってくださる早紀江さんに出会えるというのは大きな体験だと思いました。めぐみさんのために、ほかに拉致された方々、またご家族のために祈りたいと思います。

 やさしく読みやすいので、小学校高学年から読めるのではないでしょうか。オススメです。


 
 今日は、みなさんにお話をしていただいたので、「聖書を読もう」の時間を多く取りました。
 こういう時間も、良いなと思いました。
 託児は、教会のY姉とI姉でした。いつも感謝です。
 お子さんたちも慣れて、楽しそうに遊んでいます。

 来月は、11/26 9時半から11時半まで。
 「ゆるさない負債者」(マタイによる福音書18:23-25)です。
 ぜひいらしてくださいね
 




  みなさま、こんにちは。
  9月も下旬になり、すっかり秋ですね。
  今日は2学期最初の聖書の会。10名の方がいらっしゃいました。

  今日の賛美は、「ちから」と「そらとうみ」です。

  『ちから』

  かみさま下さい 元気な力を
  みんなといっしょに あそぶ力を
  かみさま下さい 助ける力を
  みんなといっしょに 助ける力を
  かみさま下さい 信じる力を
  みんなといっしょに 生きる力を

  運動会が近いので、幼稚園の子どもたちが歌っています

M先生のメッセージ


まずは.... 2014年度のテーマ聖句

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
                       ーテモテへの第二の手紙3:16ー
「全体が神様の霊感によって書かれた聖書は、何が真理であり、何が悪であるかをよく教えてくれます。また、私たちの生活をまっすぐにし、正しいことを行なう力を与えてくれます。」(リビング・バイブル)  

 

 「いなくなった息子」〜待ち続ける神〜 ルカによる福音書15:11-32


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 まずは、この絵がM先生からプレゼントされました...

 レンブラント(1606年〜1669年)の『放蕩息子の帰郷』。この「帰郷」という言葉が暗示するするものは、家を出るということだ。帰郷とは、家を出たのちに家に帰ること、つまり、すでに出てしまったあと、元に戻ることである。絵に描かれた父は、家に息子を迎えて大喜びしている。それは、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」からだ。行方不明になった息子を迎えた底知れない喜びの裏には、はるか以前の、息子が家を出たときの計り知れない悲しみが隠されている。
見つかるということには、前もっての喪失が、家に戻るということには、家出という出来事が隠されている。家を出るということの深い意味を探求する勇気を持って初めて、この帰還というものを真に理解することができる。(放蕩息子の帰郷:ヘンリ・ナウエン)

 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。
それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。
ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。ルカによる福音書15:11〜32

 

1. 家出したくなる気持ち

家出をしたことがありますか?とのM先生からの質問… 数名の方がいらっしゃいましたね

「出て行って、自分には価値があることを証明せよ…」との声。
固い意志、賢明な努力によらなければ、愛されないんだ!
愛される価値があることを、自分にも他人にも証明しなくちゃ!
他人から受け入れられるためには、何でもできる事をしなくちゃ!
愛は、無償の贈り物なんかじゃない!
「遠い国」に行けばきっと見つかる!

「わたしはあなたを愛している…」との声。
息子はこの声を唯一聞ける「家」を去り、「遠い国」を選んだ。

 放蕩息子は、「ゆるす」という例でよく出てきますが(今月の「子育ての学び」でも
 出てきましたね)、
 息子はまず、自ら出ていきました。自分が認められているという正当性を証明するために。
 愛は自分でつかむものだ!と言わんばかりに、遠い国へ出かけます。
 でも、放蕩に身を持ち崩してしまいます(聖書には、楽しかったことは書いてないですね)

2. 遠い国で捜す無駄(ルカ15:14−16)

「もし・・・なら」との声。
この世の愛には、終わりのない「もし・・・なら」が隠されている。

 私たちは「もし...なら」にすがることがあります。

「しがみついていれば、大丈夫」との声。
この世が差し出すものは(→自己実現)、心のもっとも深い渇望を満たすことができないので、依存性を強める。
「遠い国」での生活は、自分を見失った依存の生活。

  お金を使い果たしてしまったということは、自分の思い通りにはならなかったということです。

「なんで、こんなに不自由なんだろう…」との声。
   ...が、息子の心の中におこってきて、我に返ります。

 最初の絵を見ると、(聖書には書いていませんが)短剣だけは持っていて、服や靴、髪の毛は囚人のようです。短剣だけが、彼を我に返らせるものだったようです。それが、彼が高貴な生まれである「しるし」...『どこから出てきたのか』ということは、変わることはありません!

3. 息子の「しるし」

「息子と呼ばれる資格なし…」との声。
息子としての尊厳を失ったという感覚は同時に、失うほどの尊厳を持っていた息子であるという自覚をうながした。
すべてを失ったとしても、自分は父の子であるという事実は残る。
自分が息子であることを受け止める勇気が必要。

 私たちは神のもとに帰れる子どもであるということを思い出しましょう

4. 帰る道のりは長い?

「雇い人でも仕方ない…」との声。
悔い改めと雇い人への覚悟はしたが、赦してくださる神の尽きない愛の光りに照らされた「真の悔い改め」ではなかった。
うまくいけば、生き残れるかもしれないという自己保身の思い。
「帰ってくるな」と言われないために、「どうぞ、雇人のひとり同様にしてください」という言葉を用意していました。

神は、息子としてのわたしの尊厳を完全に回復したいと願っている(真の悔い改めを神さまは願っておられます。)のに、わたしは自分を雇い人の立場に置くことにこだわっていないか。


赦しを受け入れることは、神を神とすることであり、すべてが癒され、回復され、新しくされることを、ことごとく受け入れることです。


「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」…マタイ18:3
  信仰とは、自分にとって帰る家があるということを知り、今もそこにあるということを信頼することです!

 M先生、ありがとうございました

聖書を読もう

 今日はマルコによる福音書13章です。

 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
 13:3またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。
 13:9あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
 13:14荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。この事が冬おこらぬように祈れ。その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。
そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。
 13:24その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
 13:28いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、これらの事が起るのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない。目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。


 マルコによる福音書13章は、終末の様子が書かれたヨハネの黙示録に似ているので、小黙示録とも呼ばれます。世の終わりには、偽キリストがあらわれ、戦争、地震、飢饉が起こるが、今!?と惑わされないようにしなさい。
 
 13:24には、再臨の日のことが書かれています。再臨とは、イエスさまが再び来られる時のことです。それはいつの日かわかりません。苦難のときにどうすべきかが書かれています。それは、証することです。生みの苦しみということは、将来には希望があります。わたしたちは、どう生きるかが問われていて、それには、「心の目を覚ましている」ことが大切だということです。

 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。(使徒行伝1:9-11)

 ここにも再臨の話が書いてあります。
 M先生、解説をありがとうございました。
 実際にはもう少し詳しく説明していただいています。
 詳しく聖書のことを知りたい方、ぜひ参加してみてくださいね!
 
 「レフトビハインド」という映画(小説もあります)があって、ヨハネの黙示録に書いてあることが現代に起こる...といったことが描かれています。面白かったですよ。
 ネットの噂によると、ニコラスケイジによって今年リメイクされたものがアメリカで公開になるとか...。

 今日は、以前遠く千葉から訪れてくださった方からぶどうが届きました 感謝!
 聖書の会には残念ながら間に合いませんでしたが、おいしくいただきました。
 ありがとうございました

 次回は、10月22日(水)9時半から11時半まで
 「良いサマリア人」人を愛することとは。(ルカによる福音書10:30-37)
  です。みなさんのことを待っています!!ぜひいらしてください。







 
 台風が近づいている今日でしたが、幼稚園にいる間は雨もさほど降らず、
 守られました
 今日は、聖書の会と子育ての学びの合同ティーパーティーでした。
 台風のこともあるし、みなさん足を運んでくださるのかな...と心配でしたが、
 16名の方が集まりました。初めて参加された方もいらっしゃり、ほんとうに嬉しかったです。
 みなさん、ご参加ありがとうございます
 

今日の賛美

 今日は、「あの空はどうして青い」「主イエスとともに」
 M先生作詞作曲の「パワー」を歌いました。
 賛美というのは、神様、イエスさまを讃える歌です。
 どの曲も、幼稚園の子どもたちも歌っている曲なので、ぜひ覚えて一緒に歌ってくださいね。


 その後、お子さんお二人を聖泉幼稚園に入れ、その後教会員になったU姉が
 お証してくださいました。
 お証とは、「どうして私は神様を信じたのか...」などをお話するものです。
 様々な体験談を通して、イエスさまとも出会いを語ってくださいました。
 これは、出席した方だけの特典ということで、ブログにはアップしませんが、
 素晴らしいお証で、良かったです
 幼稚園のお預かりの先生として、また最近では聖書の会や子育ての会の託児担当として、
 みなさんとも良く顔を合わせているU姉がお証なさるということは、嬉しいものでした。
 U姉、ありがとうございました

 M先生のメッセージ

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【イエスさまへの愛着】
 
聖泉幼稚園はキリスト教保育だから......と選んでくださった方はどのくらいおられるでしょうか。


新キリスト教保育指針2010によると、
――――
キリスト教保育とは、
   子ども一人ひとりが、
神によっていのちを与えられた者として、
イエス・キリストを通して示される神の愛と恵みのもとで育てられ、
今の時を喜びと感謝をもって生き、
そのことによって生涯にわたる生き方の基礎を培い、
共に生きる社会と世界をつくる自律的な人間として育つために、
保育者が、
イエス・キリストとの交わりに支えられて共に行う
意図的、継続的、反省的な働きである。
――――
とあります。

 普段あまり深く考えた事は無いかも知れませんが、一言ひとこと考えられた深い意味があると改めて思います。
 
 キリスト教保育の動機は「子どもは、神によっていのちを与えられた者だから」ということです。その保育環境は「イエスさまを通して示される神の愛の中」にあります。そして、その目的は「今の喜びと感謝」であり、「生涯にわたって必要な自律的な生き方を養うこと」です。
 
 これらをひとことで言うと、子どもたちに「イエスさまに愛着をもってもらいたい」ということかなと思っています。
 
 「愛着」とは、特定の個人に抱く深い情緒的な結びつきをいいます。だから、イエスさまに、いつでもくっついててもらいたい。ぺたっ!て感じで。
 
「バンドエイドが早くはがせますように」って真剣に祈っている子どもの姿。それは、イエスさまへの愛着の姿です。「光の子は、あやまる子」って礼拝で教えられると、お友だち同士で注意し合う。それは、イエスさまに愛着している証拠です。
 
親子関係でも、お互い愛着しているかどうかが大切です。
クリスチャンの精神科医である佐々木正美先生の「花咲く日を楽しみに」という本にこうありました。


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「人間関係の成立には、親子の愛着関係の形成が不可欠。」と。
自律した人間とは、自らの意志で行動できる人です。こういう時はどうするか。お友達を見て、自分はどうするべきか。お母さんに叱られた、自分はどうすれば良いか。
これらは、人間関係から体得します。
 
さらに、こうありました。
「愛着のもとになるのは、”自分はこの人から無条件で愛されている”、”永遠に、一生愛されている”という確信、無条件の信頼感です。これを基盤にしながら、人は少しずつ他者との関係を築いていきます。」
 
お友だちのために祈ることは、まさしく、無条件の信頼感がイエスさまに対してあるということ。イエスさまは、「幼子のような心でなければ天国には入れません」と仰いました。わたしは牧師でありながら、そんな子どもたちの姿にいつも教えられます。祈る時に、自分自身に条件を付けたり、神さまの力に限界を設けたりしてしまうことに気付かされます。私自身も、イエスさまへの愛着心をもっともっと強くし、神への信頼を高めたいと思うのです。
 
 そのような時に、励まされ、イエスさまにもっとくっついていいんだと思える聖書のことばがあります。


「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ書43:4
 

1.この言葉は、「誰が見ているのか」を教えています。

 神は、あなたに最大限の興味を持っておられます。関心をもっておられます。ですから、神に見られていることをもっと意識するべきです。小さな子どもでも、幼稚園と、お母さんが一緒にいるときとでは態度が変わります。良くも悪くも、しっかり、お母さんに見られている事を意識しているのです。大人になると、さらに人の目を意識するようになります。なのに、神の目を意識することはほとんどありません。
 それでも、神の目はあなたに常に注がれています。その目は、悪いところや、失敗を見逃さないためではなく、あなたの良いところを、尊いところ、尊い行いを見逃すまいとする目です。
 

2.この言葉は「誰が価値を決めるのか」を教えています。

 世の中は、相対的に価値を判断します。あれこれを比べて。親子の間でも、あの子より、うちの親よりどうだ、こうだと。
 一方、神の価値観は絶対的です。絶対者である神が決めています。だれかと比べた結果としてではなく。
 
 よくクリスチャンは清い人というイメージがあるかもしれません。でも、清っぽい人がクリスチャンになるのでもなければ、クリスチャンになったからといって清くなるのではありません。ただ、神が価値を見出してくださっているのだから、少しでもそれにお応えしようとしているだけです。神に愛着をもって聖いお方だから、少しでもそれに近づきたいと頑張っているだけです。
 
 神の前には、誰も同じで、「わたしは神の愛する対象」という価値があります。同じように、どんな子どもにも、「親の愛する対象」という尊い価値があるのです。
 もし、子どもの価値に迷うようなことがあったなら、神がこの子のいのちの価値を認めているのだから、お任せしよう。この子の、価値は認められているんだから、安心していればいいんだと思ってください。
 
 先ほどの佐々木正美先生のアドバイスにもあったように、まず、親が子どもの価値を最大限に認めることをしなければ、子どもは親に愛着を持ちません。子育ての優先順位は、まず、親が無条件で子どもを愛し、そのいのちの価値を認め、自分にとって尊い存在であることを認めることから始まります。
 
 このことは、私たちの生き方においても同じです。神は、あなたの価値をまず認めておられます。だから、安心して神に「愛着」して生きていいんです。
 
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
 
この神からのこのメッセージは、
あなたのいのちの価値を認める言葉でありあなたが子どもを育てるために注ぐ全ての働きの価値を認めるものです。そして、子育てがどんなに尊い事かと言う保証です。
 
安心して、神さまについて行きましょう。
 
 
 キリスト教保育ってなんだろう? ほかの幼稚園とは、どこが違うの?と思われている方も
 いらっしゃるかもしれませんね。
 そのような話もしてくださり、良かったです。
 今日のメッセージは、「子育ての学び」で最初に学ぶ「子どもの価値」や
 「子どもを尊敬する」につながるものですね。

 そしてM先生からカードのプレゼントがありました。M先生、ありがとうございました。

 
イメージ 2

 
 かわいい手ですね
 今日のみことば(神様のことば)が書いてあります。飾ってくださいね。

 
 その後、賛美フラをU姉と私で披露させていただきました。
 「君は愛されるため生まれた」です。
 緊張しましたが、機会を与えてくださりありがとうございます


 
イメージ 4




 今日のメインはM先生お手製のたこやき
 写真には写っていなくてごめんなさい......。
  ガーリックトーストや韓国のりまき、おにぎり、キッシュ、サラダ、パウンドケーキ、
 ゼリーなどなど.......お世話係りや教会の方のお手製のものです。
 美味しゅうございました!
 みんなの伸びる手が...
 朝、そのホットプレートだけで大丈夫?と急遽ご自宅からたこ焼き器をお持ちくださったお母様も
 いらして、そのお心遣いに感激ありがとうございました。

 M先生がたこ焼きを焼いている間に、私たちは自己紹介ゲーム。
 あらかじめ、誰かにしたい質問を紙に書いてもらい集めておきました。 
 自己紹介と共に、幼稚園の思い出を話し、質問の紙をひき、その質問に答えていきます。
 「初恋はいつ?」とか「はまってるものは?」「好きな男性のタイプは?」
 「自由な時間があったら何がしたい?」「タイムマシンがあったら、いつに行きたい?」など、
 楽しい質問がありましたね。
 M先生に「好きな男性のタイプは?」が当ったときはウケました
 自分の幼稚園にまつわる思い出も、それぞれ面白いエピソードが聞けましたね。
 幼稚園の頃の記憶ってあるものですよね。
 M先生が幼稚園のコネを利用してウルトラマンのソノシート(古い!レコードみたいなもの)を
 手に入れた話とか....。ちなみにM先生は、この幼稚園を卒園していないんだそうですよ。

 
 13時にて解散。
 お片づけしてくださったお母様方、教会のみなさま、ありがとうございました

 次のパーティーはクリスマス会です。
 今回来られなかった方も、クリスマスにはぜひいらしてくださいね

 では、2学期もよろしくお願いいたします。



 

 

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