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続きです。
「魔女狩り:
太古から女性は、男性よりも自然にふかく接触していた。60
「太古以来、植物や薬草についての知識を受け継いできたのは女たちであった。女性の心身は、本来、豊かな自然を内包している。彼女たちは、人間と自然界や環境との間のリズムに敏感で、知覚にまで下った深いコミュニケーションをもち、人間心理の洞察も深く、それによって予言を行った。人間がまだナイーヴだったころ、そうしたすぐれた直感力を持つ女は、時には人々に畏敬の念を呼び起こさせた。」60
魔女判定の書インスティトリスとシュプレンガー共著『魔女の槌』(1487年)」
(魔女狩り 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
「魔女狩りの最盛期は16世紀から17世紀であったが、17世紀末になって急速に衰退していく。なぜ魔女狩りが衰退したのかということについてはさまざまな説があるが、どれも決め手に欠くきらいがある。たとえば17世紀はガリレオ・ガリレイ(1564年-1642年)、ルネ・デカルト(1596年-1650年)、あるいはアイザック・ニュートン(1643年-1727年)など近代的な知性の持ち主たちが次々と登場し、出版物によって人々の意識を変えた時代であったため、前近代的な魔女狩りが一気に衰退したという説明がされることがある。しかしこのような見方はあくまで現代人の見方である。印刷術が普及したといってもメディアの発達していない当時の社会ではある思想が階級や国境を超えて普及するのには長い時間が必要であり、ニュートンが錬金術に夢中であったことからわかるように、当時の先端を行く科学者たちですら、前近代的な思考スタイルから抜けていなかったことを理解する必要がある。
ただ、17世紀末期になると知識階級の魔女観が変化し、裁判も極刑を科さない傾向が強まったこと、カトリック・プロテスタントともに個人の特定の行為の責任は悪魔などの超自然の力でなく、あくまでも個人にあるという概念が生まれてきたことは確かなことである。依然として一般庶民の間では魔女や悪魔への恐怖があって「魔女」の告発が行われても、肝心の裁判を担当する知識階級の考え方が変化して、無罪放免というケースが増えたことで、魔女裁判そのものが機能しなくなっていった。イングランドで1624年に制定された魔女対策法が廃止されたのは1736年であり、最後の40年間はこの法律によって死刑となったものはいなかった。・・・
魔女狩りとは何だったのか
19世紀に入って近代的な歴史学が発展すると、魔女狩りを歴史の中でどのように理解すべきかについて多くの説が提示された。
たとえばドイツの歴史家ウィルヘルム・ゾルダン(Wilhelm Soldan)は魔女狩りとは権力者や教会関係者が金銭目当てで行ったものだという説を唱えたが、被告のほとんどが財産をもたない貧しい人々であったことや、告発者が利益を得る仕組みがなかったことが明らかになっているため、現在では否定されている。他にも、19世紀のフランス人ジュール・ミシュレ(Julet Michelet)やエジプト研究家マーガレット・マリ(Margaret Murray)は「魔女とされた人たちは、実はキリスト教の陰で生き残っていた古代宗教を信じていた農民であった」と考えたが、実際には被告のほとんどがキリスト教徒であって、当時の農民の中に異教の信仰があったという証拠は依然として何も得られていない。20世紀に入ってもゲラルド・ガードナー(Gerard Gardner)が「魔女というのはヨーロッパに古代から伝わっていた女神信仰(ウィッカ)を信じていた女性たちである」と唱え、自らウィッカなる新興宗教の主催者となった。他にもアメリカのフェミニスト研究者バーバラ・エーレンライク(Barbara Ehrenreich)とディアドラ・イングリッシュ(Diedore English)は、「魔女とされた人々は女性医療師たちであり、魔女の集会とは、女性医療師たちによる情報交換の場であった」と考え、「魔女狩りとは世俗権力や教会の指導者たる男性たちによる女性医療師への大規模な弾圧であった」という説を唱えた。しかし、この理論ではなぜ農民自身が魔女狩りを推し進めたのか、魔女狩りの被告となった少なからぬ数の男性たちがいた事実をどう説明するのかなど、理論としての精確さに欠けている。そのため、これらの説は現代の研究者たちには受け入れられていない。
20世紀に唱えられた説では、完全ではないものの複合的に要因の一つと考えうるものがある。たとえば魔女狩りが戦争や天災に対する庶民の怒りのスケープゴートであったという説。この説はペストや戦争が起こっていた時期と地域が、魔女狩りの活発さと関連していると主張するが、実際には三十年戦争のピーク時には魔女狩りが沈静化しているなど、それほどはっきりとしたつながりが見られない。次にイギリスの歴史家ヒュー・トレヴァ=ローパー(Hugh Trevor-Roper)らが唱えた「魔女狩りはカトリックとプロテスタントの宗派間抗争の道具であった」という説がある。つまりカトリックが優位な地域では、少数のプロテスタント市民に対し、魔女の烙印を押して迫害し、逆にプロテスタント地域ではカトリック市民が魔女とされたということである。しかし、この説も対立する宗派の人間がほとんどいなかった地域(たとえばイングランドのエセックス州、スイスのジュネーヴ、イタリアのヴェネツィア、スペインとフランスにまたがるバスク地方など)においても激しい魔女狩りが行われ、逆にカトリックとプロテスタントが激しく争った地域(たとえばアイルランドやオランダ)であっても魔女狩りがほとんどなかったところがあることを説明できないなど、確実な説とは言いがたい。
また、J.H.エリオット(J.H.Elliot)は魔女狩りが中央集権化した国家や教会の中枢による臣民のコントロール手段であったと考えたが、この理論では権力者が白魔術に対して寛容であったのはなぜか、あるいはなぜ教会や世俗権力が中央集権化した中世盛期に魔女と魔術を放置しており、近世初期になって突如魔女狩りが始まったのかを説明できない、権力者を一概に悪に決め付けているなどの批判がある。また魔女狩りという言葉は1970年代アメリカでフェミニストの研究者たちによって、キリスト教誕生以降起こったすべての女性への迫害をさす言葉として用いられるようになり、その犠牲者数は19世紀に女性の権利を訴えていた研究者マティルダ・ジョスリン・ゲージが出した900万人であるとさえした。時にこれを「女性へのホロコースト」という言い方をすることもある。しかし、現代の研究者たちは、女性に対する敵視が魔女狩りの原動力の一つであったことは否定しない一方で、魔女裁判の被告が必ずしも女性だけでなかったということ(たとえばアイスランドでは裁判を受けたものの80%が男性であった)も明らかにしている。
確実にいえることをまとめると、当時のヨーロッパを覆った宗教的・社会的大変動が人々を精神的な不安に落としいれ、庶民のパワーと権力者の意向が一致したことで魔女狩りが発生したということである。
現代の歴史学では魔女狩りについての通説の多くが覆されたにもかかわらず、現在の主流学説は社会に浸透しているとはいえない。現在も多くのメディアが否定された学説を根拠に魔女狩りを「キリスト教会主導で行った大量虐殺」と扱い、「キリスト教(及び宗教全般)の非寛容性、残虐性の証明」と位置づけている。」
自問自答しよう。自分は、分けもなく、あるいは、自らの理由だけで、相手を傷つけていないか?逆に、いわれなく虐げられてはいないかを!無自覚の行為もあるだろう。できるだけ、自覚して行為をしなければ。だって、無自覚な行為により傷つけたなら、こちらが気付かない限り謝りようがない。自覚してても、分けがあっても、傷つけることもあれば、傷つくこともある。サインを出そう!相手に謝れる時間を与えよう。傷つけたと思ったら、たとえ、こちらに正当な理由があっても謝ろう。謝れたなら、謝ってくれたなら、少しは傷も癒されやすいではないですか。
わたしは妻に謝らなければならない。彼女は傷ついている。理由は、正当性はどちらにあろうとも、彼女を傷つけたのがわたしであることには相違ないのだから。わたしも傷ついたけど、相手は無自覚だったかも知れないじゃないですか。わたしは、気付いたんだから、謝ろうと思います。相手が傷ついたことを知るとこちらの心も痛む。作用反作用っていうのかなあ?心の共鳴っていうのかなあ?自分以外誰も傷つけちゃあいけません。その数だけ自分の心もずたずたになるようです。なにより、人を傷つける権利なんて誰にもないはずだって信じたい。わたしも誰からも傷つけられたくないしさ!
画像:魔女の火刑
「火あぶりになることが多かったため、火刑法廷とも呼ばれた。処刑法としてはヨーロッパ大陸では焚刑(火あぶり)が多く見られた。」
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