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「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」...長寿の心得... (by 岸信介)

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前回の続きです。。。^^v

http://ja.wikipedia.org/wiki/諸行無常

「現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。この場合、諸行とは一切のつくられたもの、有為法をいう。三法印、四法印のひとつ。
涅槃経 に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、これを諸行無常偈(「げ」って読むようですね。^^)と呼ぶ。雪山童子はこの中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われる。
「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。
「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」
「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。後半偈は還滅門。
生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。
しばしば弘法大師空海に帰せられてきた「いろは歌」は、この偈を詠んだものであると言われている。

いろはにほへどちりぬるを  諸行無常
わがよたれぞつねならむ   是生滅法
うゐのおくやまけふこえて  生滅滅己
あさきゆめみじゑひもせず  寂滅為楽 」

http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/sanbouin.htm

「諸行無常偈(雪山偈)
釈尊がこの世で悟りを開くにいたった過去世の因縁としての物語の中で、一人の修行者が雪山(ヒマラヤ)でひたむきに修行していた。その真摯な態度に感動した帝釈天(仏法の守護神)は、悪鬼(羅刹)のすがたに身をかえて修行者の前にあらわれた。そして「諸行無常なり、是れ生滅の法なり」と雪山偈の半分を唱えたのでした。修行者はこの真理の二句を聞いて大いに驚き歓喜し、あたりを見回すがそれらしい人影はない。そこに立っているのはおそろしい姿の羅刹であった。修行者はおそるおそる鬼に話しかけた。「今の言葉はお前がとなえたのか」というと「そうだ」という。修行者は「今の二句は真理を説いてはいるが、それではどう生きたらいいかという後の二句が説かれていない。知っているなら是非とも続きを聞かせて欲しい」。鬼は答えた。「もちろん続きも知っているが、腹がへって続きを唱えることができん」というのであった。修行者は「それではお前の食べ物を私が探してこよう。一体何が食べたいのだ」と聞くと、「人間の血と肉を食べたい」と言う。そこで修行者は、真理を求めるために命を捨てる覚悟をして言った。「それでは、私の身体をあげるから続きを聞かせてもらいたい」ということになり、鬼は「生滅を滅し終わって、寂滅をもって楽となす」の言葉があたりにこだましました。修行者はこれを聞いて驚喜し、後世の人の為に四句を岩に刻み約束通り谷底に身を投じた。その瞬間たちまち鬼は帝釈天の姿になって、やさしく修行者のからだを受けとめ礼拝した−−。この修行者というのが前世で修行している時の釈尊であった、というのです。
この四句を諸行無常偈といい、葬儀幡として当寺で行う葬儀には葬儀会館にても必ずかかげていますが、都会の葬儀ではほとんど見られないと言う現状はまことに残念に思うのです。葬儀幡は四本幡(四幡)ともいい旗ではなく幡です。幡は仏菩薩を称え、教えを表示する役目を持っています。この無常偈は、修行中の釈尊を雪山童子(せっさんどうじ)といいましたので、雪山偈ともいわれます。

  諸行無常(しょぎょうむじょう)−−−すべての存在は移り変わる
  是生滅法(ぜしょうめっぽう)−−− 是がこの生滅する世界の法である
  生滅滅已(しょうめつめつい)−−− 生滅へのとらわれを滅し尽くして
  寂滅為楽(じゃくめついらく)−−− 寂滅をもって楽と為す

これを和訳したものがいろは歌だといわれています。 いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐの・・・ という、ひらがなを、重ね字なく並べて読みこんだ四十七字の歌を「いろは歌」といいます。昔は手習いの手本やカルタ遊びの読み札として用いられました。しかし、戦後の国語教育では、「ゐ」や「ゑ」という字が使われなくなり教えることもありませんから、この歌を知る人も少なくなりました。 ところで、このいろは歌を「仮名手本忠臣蔵」とも言うのです。なぜ忠臣蔵なのかというと、最初の紙に「いろはにほへと」と書く。次に「ちりぬるをわか」三枚目に「よたれぞつねな」となっている。この仮名手本の一番下の字をつないでいくと、「とかなくてしす」。つまり、「咎なくて死す」であって、赤穂四十七士は主君の仇討ちをした忠義の士となるというのです。主君の仇討ちという忠義の士を幕府は切腹の刑に処したという権力者への痛烈な批判が込められていますが、どこで切るかによって意味がまったく違ってしまう見本のようなものです。このいろは歌は、『諸行無常偈』和訳したもので、弘法大師の作とも伝えられますが、はっきりしたことはわかっていません。その真偽はともかく、甚深なる意味が含まれています。・・・

・「色は匂えど散りぬるを」花は爛漫と咲き乱れていてもやがて散ってしまうように、人にも寿命があり、すべての存在はうつりかわる。我が世と青春と肉体を謳歌していても、月日のたつのは実に早いものであるという「諸行無常」を示します。
・「我が世誰ぞ常ならむ」この世に存在するものは生滅する法(真理)です。釈尊は「一切のものは無常である。諸法は無我である。故にすべての存在しているものには永遠不滅なるものなどは内在しない」と示されています。
・「有為の奥山今日越えて」−− 有為とはインド語でサンスクリタ(作られたもの)英語で言うと the created しかし、キリスト教のように神によって創られたものということではなく、仏教では縁起思想ですから、原因と条件が合するところに万物は存在する。因縁は常に加わりますから、それに応じて常に相(すがた)を変えています。すなわち「無常」です。この「無常」なるものへのとらわれを滅して因縁の道理を知る、真実の道理に目覚めることです。有為とは為す有りとも読めます。人間のはからいとは「人生とはどうしたって有為なんだ」というのでしょうが、無為というのは為す無しということです。そのことに一所懸命には勤めるが、こうやったらこうなるだろうというアテを作らないこと。アテを作るとみんな、必ず手前みそになってしまうのです。
・「浅き夢見じ酔いもせず」寂滅をもって楽と為す−− 有為の奥山を越えて見たならば「浅い夢のようなもの」であり「酔っぱらっていた」ようなものである。「寂滅」とはやすらぎということです。我が滅しられ、煩悩の火が吹き消えた状態で、やすらぎ、悟りの境地をいいます。一切のものごとへのこだわりや、とらわれの心がなくなった状態です。」


画像:施身聞偈図(法隆寺・玉虫厨子)
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/syakanyoraino.htm

*http://ja.wikipedia.org/wiki/
「偈(げ、gaathaa(sanskrit))とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。「偈陀(げだ)」「伽陀(かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌(げじゅ)」という。」

目の前にあるものは幻みたいなもので、かりそめの姿でしか存在しない。現前物にこだわらず、欲を捨てれば浮かぶ瀬もある。私利私欲を離れないと何が本質であり、何が大切なものなのか道を誤る。
我執から自由になれれば苦から解放され涅槃の境地のように楽に成れる。ってことですよね。
でも、欲がないと生きてる甲斐がないってもんですけどねえ。^^;
苦楽はあざなえる縄のごとしですべて引き受けてこそ生の醍醐味だと思ってます。。。^^v
なんて、かっこよいこと言ってます。Orz〜

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般若心経は私の卒論の一部でしたので、懐かしくもあり、また常に身近にあるとでも言うか、、、「色即是空、空即是色」「一切皆空」苦も楽も全ては観点の違い、苦は楽でもあり、楽は苦ともなり得る。簡単に言語化できるものでもないのですが、修行は生活の中にこそあるものだと思い、日々の生活行こそ一番やりがいを感じる昨今でもあります。

2007/8/12(日) 午後 4:23 [ - ] 返信する

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うちの娘は意味分からないまま諳んじてましたよ...門前の小僧(おばあさんの)^^v 般若心経の言葉ってお釈迦さまが悟りそれを伝えたかったこの世の真髄が凝縮されたものなんでしょ?それにしても色即是空から入って来るのはいいね♪ そのあとの空即是色ってのが天才だろうなあ。だって簡単に並べてるけど、、、すぐ理解できないじゃん ^^; そんなことを言った人はこの世に生まれて来た中で初めての人ってことでしょ?しかも真理かも知れないんだし。言いきっちゃうんだからすごいとしか、、、ところで、『空即是色』って、どんな意味なんですかね?(そんなにシンプルに聞くなってね^^;)Orz〜

2007/8/12(日) 午後 8:25 [ スモークマン ] 返信する

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諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽 と同じですよね。いろは歌でもいいし、すべてに通じることだと、理解しています。私も聞き覚えでいつの間にか唱えていましたし、(生家は真言宗なので、当然)娘二人も3歳くらいには同じように唱えてましたねえ。。。

2007/8/13(月) 午前 0:38 [ - ] 返信する

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最先端の素粒子物理では無と思われていた真空は常に不確定原理からバブル、フロスのように泡立っていて、生成消滅が繰り返されてるってね。(聞きかじりです ^^;)生まれては消え、消えては生まれる諸行無常=色即是空、空即是色ってな意味でよいのでしょうかしら?

2007/8/13(月) 午前 6:08 [ スモークマン ] 返信する

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「無」と「空」は違うと思いますから、「無」はまさに無い、「空」は無いようで有り、有るようで無い、つまり固定化したものは何も無く、あらゆるものが生起する場といった理解かなって思います。まさに真空も然り。こうして言語化してしまうとそれに固定されてしまうので、また零れ落ちるものがあることは否めない、、、「空」は真理であり、それがあらゆる事象や物に表れたものが「色(しき)」だからこそ「色即是空」「空即是色」と言ったのだと理解しています。

2007/8/13(月) 午前 9:41 [ - ] 返信する

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