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正倉院に関連して・・・^^v
画像:「海の正倉院」沖ノ島大島・宗像大社の位置&沖ノ島で発見された金製指輪
http://takatami.hp.infoseek.co.jp/kyusyu/hakata/munakata.htm より Orz〜
「玄界灘に浮かぶ沖ノ島は神の島として信仰されてきた。奈良の正倉院はシルクロードの終着駅にあり、陸の正倉院とするならば、沖ノ島はシルクロードが日本につながる入り口にあり、その宝物の多さから海の正倉院と呼ばれている。博多津から77km、対馬から75km、韓国本土まで145kmと近い。この島を経由して日本へ文化が入ってきた。古代から海上交通の要衝であった。島全体が遺跡である。古代祭祀遺跡からは朝鮮半島、中国、遥かペルシアからもたらされた豪華な奉献品が発見された。その宝物が宗像大社の神宝館に保存展示されている。」
画像:西の正倉院
www.pmiyazaki.com/ nangou_ku/syousyouin/ より Orz〜
「西の正倉院
東大寺正倉院を忠実に再現
神門神社の東側に巨大な姿を見せる西の正倉院。奈良東大寺の正倉と寸分違わぬ造りで、その高さは4階建てのビルに匹敵するほど大きい。
それにしても、人口2500人の村がなぜこんな大きなものを作ったのか?
目的は、過疎の一途をたどる村の活性化だった。キーポイントとなったのが百済伝説と神門神社に伝わる宝物。昭和61年に、「奈良国立博物館に神門神社と記された銅鏡とが展示されている」という情報をきっかけに、神門神社の銅鏡の調査が始まる。そして宝物の中に、正倉院にあるものと同じ伝世品の鏡「唐花六花鏡」があることがわかった。しかも、正倉院のものが出土品であるのに対して、神門神社の鏡は大切に保管されたものだった。
これを足がかりに、この宝物を展示する施設として村に正倉院を造ろう、という壮大なプロジェクトが動き始める。「本物をつくる」ことにこだわり抜き、門外不出の正倉院の設計図を学術目的で入手。木曽の国有林からヒノキを調達。建築方法から瓦、金具にいたるまで学術支援のもと、古代建築の修復などに携わった名工が呼ばれた。・・・「本物」にこだわって敷地のすみずみまで天平建築に統一された西の正倉院は、計画から10ヶ年の歳月をかけて平成8年に完成。館内には銅鏡をはじめ、神門神社に集積された宝物、また伝説の証とされる師走まつりに関連するものなど、百済伝説を紹介する品々などが展示されたまるごとミュージアム。小さな村の壮大な歴史のロマンがここに集まっている。」
画像:銅鏡
www.town.miyazaki-misato.lg.jp/ 315.htm より Orz〜
「中でも百済王族の遺品と云われる24面の銅鏡の中には奈良東大寺大仏殿の台座から出土した銅鏡と同一品である「唐花六花鏡」をはじめ学術的にも貴重な国宝級の宝物が展示されています。」
点と点を結んだ線は人々の足取りを彷彿とさせますよね!
やっぱり駱駝(ラクダ)で宝物は運ばれたんだろか・・・^^; ?
どちらも行ってみたいところです♪
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天智天皇が派遣した日本軍が白村江で壊滅的な打撃を受け、百済の独立運動が敗北したとき、敗残する日本軍は百済人を大量に亡命させるためにかなり尽力したようです。これは日本の歴史の誇るべきところです。実はこの戦いの前に亡命した百済人の間で内紛が起っており、総司令官が副官を殺し、百済王子がその総司令官を殺すというように、もうバラバラの状態でした。
これでは勝てるわけはない。
「困難なときはよく協調するがよくなると内輪もめをおこす」という百済人の民族的性格を日本の朝廷は嫌い、結局百済人たちは没落し、ある者は山奥に移り住み、ある者は人知れず同化していったのではないかと
2013/5/22(水) 午前 7:02 [ 川の環境・歴史を勉強 ]
>高津川や益田の環境・歴史を勉強 さん、いらっしゃいませ ^^
お詳しいのね☆
たしか、わたしは...「白村江の戦い」って本を買ったはずなのに...積ん読のままになってるよう...面白そうと思ったから購入したんだと思うんだのに...ま、いつものことあるね...^^;v
「白村江の戦い〜その敗戦の原因は?」
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/08/post_eb0a.html
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2013/5/22(水) 午後 1:34 [ スモークマン ]
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wikiより...「この戦いは唐の勝利に終わった。大陸に大国である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役である。白村江の戦いでの敗北は、日本史上でも第二次世界大戦後のアメリカ合衆国による占領をのぞけば、日本が外国の占領下に入る危険性が最も高くなった敗戦であった。この敗戦により倭国は領土こそ取られなかったものの、国防体制・政治体制の変革がなされ、急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令法令群が策定、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進み、倭国は「日本」へ国号を変えた。・・・
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2013/5/22(水) 午後 1:35 [ スモークマン ]
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天智天皇は白村江の敗戦のあと、唐・新羅による報復と侵攻を怖れて北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。さらに667年には、天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移して、防衛網を完成させた。・・・701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。白村江の敗戦は倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設をもたらしたと考えられている。」
もし、このとき勝利していたら...ってなターニングポイントなる戦いだったんですよねぇ...Orz〜
2013/5/22(水) 午後 1:35 [ スモークマン ]