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讀売新聞 よみうり堂 本 欄より Orz〜2009.05.17.
「菊池寛急逝の夜 菊池夏樹 著
文芸春秋を創設し、芥川・直木賞をつくった菊池寛は「日本の社会の偉大なプロデューサー」だったが、『真珠夫人』など人間の俗情に通じた小説も一流で、今年生誕100年の松本清張と、太宰治は、いずれも若き日に寛の小説を愛読している。本書では、その人間像に、孫である著者が迫る。愛人を囲ったかと思えば、女性の社会進出を促す紳士。帯がほどけたまま歩くなど自分のことには無頓着だったが、困った人がいると、ポケットからしわしわのお金を出す他人思い・・・・・・。将棋、卓球を楽しみ、競馬に入れあげ、大いに仕事し、遊ぶ一流の生活者だった。
妻に浮気をとがめられ、「六十歳になったら、マジメになります!」と宣言するが、59歳で死去。著者の叔母は「お父さんの勝ちだよね」と笑ったという。(白水社、2000円) (鵜)」
これいいな...♪
自分の死期がわかってたのか...だとしたらなかなかの策士だね...^^
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011298390 より Orz〜
「伯父 叔父 伯母 叔母の使いわけ
伯父
叔父
いずれも父・母の兄弟、またはおばの夫という意味ですが、父・母の兄には「伯父」、
弟には「叔父」と書きます。
伯母
叔母
いずれも父・母の姉妹、またはおじの妻という意味ですが、父・母の姉は「伯母」、
妹には「叔母」と書きます。」
著者の叔母ってことは、、、菊池寛の娘ってことだよね...^^;...わたしこういうの全くの苦手...
画像:大正8年の写真、一番左が菊池寛で、隣が芥川龍之介
http://ja.wikipedia.org/wiki/菊池寛 より
「香川県香川郡高松(現・高松市)生まれ。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったという。高松中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の東京高等師範学校に進んだものの、授業をサボタージュしていたのが原因で除籍処分を受けた。
しかし地元の素封家から頭脳を見込まれて経済支援を受け、明治大学法学部に入学。法律を学んで一時は法律家を目指したこともあったが、一高入学を志して中退。徴兵逃れを目的として早稲田大学政治経済学部に籍のみ置き、受験勉強の傍ら、大学図書館で井原西鶴を耽読した。
1910年、早稲田大学を中退して第一高等学校第一部乙類入学、しかし卒業直前に友人佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学。その後、友人成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた(後に本科への転学に成功する)。京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。私費で雑誌『文藝春秋』を創刊したところ大成功を収め、富豪となった。日本文藝家協会を設立。芥川賞、直木賞の設立者でもある。大映初代社長を務める。これらの成功で得た資産などで、川端康成、横光利一、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。テレビドラマ『真珠夫人』は、彼の作品が原作であり、長らく絶版となっていたが、2002年のテレビドラマ化に伴い復刊された。1927年、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。麻雀や競馬に熱中していたことでも知られ、日本麻雀聯盟初代総裁を務めたり、馬主として競走馬を所有したりしていた。また将棋にも関心があり、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。競馬では『日本競馬読本』は競馬入門本として現在でも評価が高い。また、戦前は多くの有力馬を所有しており、能力検定競走として軍人や関係者約200名のみが観戦した1944年の東京優駿も、所有馬トキノチカヒを出走させていた事から観戦している。
太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。(* 狭心症だったらしい...狭心症じゃ死なないから...心筋梗塞かな...?)
菊池寛の麻雀賛
「とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人と云はなければならないだらう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとは云へない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。そこが麻雀の面白みであらう。しかし、勝敗の数は別として、その一手一手について最善なる打牌を行う人は結局名手と云はなければならない、公算を基礎とし、最もプロパビリティの多い道を撰んで定牌に達し得る人は名手上手と云へよう、しかしさうした公算に九分まで、準據ししかも最後の一部に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは麻雀道の玄妙が存在してゐるのかも知れない。最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだらう。あらゆるゲーム、スポーツ、がさうであるが如く、麻雀、も技術より出で、究極するところは、人格全体の競技になると思ふ。そこに、麻雀道が単なるゲームに非る天地が開けると思ふ。」大正時代の中期から麻雀をやり続け、かなり強かったそうであるが、自分が負けると、ムッとして黙り込んでしまい、「くちきかん」と陰口を言われたそうである。
その他
高松市には「菊池寛通り」の愛称が付けられている市内道路があり(この通り沿いに生家があった。2006年まで第一法規四国支社があった場所)、その道路近くの中央公園には銅像が建っている。この通りは元々「県庁通り」と呼ばれていたが、1988年に香川県庁舎に面する香川県道173号高松停車場栗林公園線が「県庁前通り」と命名されたことに伴い改名したものである。
両性愛者の傾向があり、若い頃は旧制中学時代から4級下の少年との間に同性愛関係を持っており、この少年に宛てて女言葉で綴った愛の手紙が多数現存する。この少年との関係は大学時代まで続いた。一高卒業を目前にして、友人佐野文夫の窃盗の罪を着て退学の道を選んだのも、佐野に対する同性愛感情が関係していたからであるといわれる。また正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の一人に小森和子がいる。小森はあまりに易々と菊池に体を許したため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。
1977年9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巌谷大四や井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎の場合は、金ならありますと言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。永井荷風はそういう菊池の言動を嫌悪し、日記「断腸亭日乗」の中で散々にこきおろしている。
人材の発掘にも優れていた。文芸春秋社の映画雑誌の編集をしていた古川郁郎という青年が、余興に演じる芸が上手いので喜劇役者になるように勧めた。古川青年は喜劇俳優「古川ロッパ」として成功した。
出版社「ジュリアン」の代表取締役である菊池夏樹は、菊池寛の孫に当たる。・・・」
画像:www.honya.co.jp/contents/ archive/kkikuchi/ より Orz〜
「いま、菊池寛について深く語れる人間は少ない。
「父帰る」「藤十郎の恋」などの戯曲、「恩讐の彼方に」などの短編を一度は読んだことがあるという人ならたくさんいるだろう。「文芸春秋社」の創業者、「芥川賞」「直木賞」の創設者であることを知識として記憶している人も少なくはない。しかし、菊池寛という人間の「面白さ」「革新性」を、時代という文脈の中で語れる人間はほとんどいないのではないだろうか。彼が、大正・昭和を通して、「ジャーナリズム」と「映画」という新しいメディアの創出に大きく関わった事実を、多くの人々は知らない。インターネットの時代になぜ「菊池寛」なのか。それは、彼の言動と行動、足跡を追うことで理解していただきたい。例えば、私たちが菊池寛に取り組むきっかけとなったメッセージ「*『文藝春秋』創刊の辞」に何かを感じないだろうか。個人主義という視点からメディアを生み出していった「菊池寛」の人間像を、これから私たちは丁寧に追いかけてみたいと思う。1997年2月10日」
*「『文藝春秋』創刊の辞
私は頼まれて物を云うことに飽いた。自分で、考えていることを、読者や編集者に気兼なしに、自由な心持で云って見たい。友人にも私と同感の人々が多いだろう。又、私が知っている若い人達には、物が云いたくて、ウズゝしている人が多い。一には、自分のため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした。」
画像:真珠夫人
Amazon より Orz〜
「驚異的な視聴率をとった昼メロの原作
美貌の未亡人瑠璃子が、男性のエゴイズムに復讐しながら、最後は彼女を慕う青年に殺されるまでを描いた長篇小説。解説・川端康成 」
これは小説嫌いのわたしにでも読めるかもしんない...^^v♪
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