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讀売新聞2009.05.30.編集手帳より Orz〜
「名前を聞くとある年齢が浮かんでくる、そういう人がいる。「昆虫記」のファーブルならば56歳ーーー不朽の名著全10巻の執筆はその年に始まっている ◆ やなせたかしさん(90)ならば54歳ーーー漫画家としてなかなか芽の出なかったやなせさんが、アンパンマンを世に送り出したのはその年である。「てのひらを太陽に」は仕事もろくになかった冬の夜、ランプの電球を手にかざしていて浮かんだ詩であると、以前に本紙で語っている ◆ 森光子さん(89)ならば41歳ーーーなかなか役に恵まれず、<あいつよりうまいはずだがなぜ売れぬ>と嘆きの句も詠んだ森さんが劇作家菊田一夫の目にとまり、初の主役「放浪記」で女優開眼を遂げたのはその年である ◆ 暗い地中に一人じっと根を張った人だけが、やがては太い幹を天に伸ばすことができるのだと、その人たちの人生が語っている。「放浪記」の初演からほぼ半世紀、公演通算2000回の金字塔を打ち立てた森さんに国民栄誉賞が贈られるという・・・」
そうか...遅咲きと呼んでもいいような方々がいらっしゃるんだね♪
たしか、、、ダーウィン(「種の起源」は彼が50歳の時に著したもの)も、アンリルソー(「ルソーの代表作の大部分は彼が税関を退職した後の50歳代に描かれている」)も、そうじゃなかったっけ・・・?わたしの好きな綾小路歌麿さんも・・・「雌伏50年・・・」=鳴かず飛ばず...って言ってましたよね ^^
でもこれらはすべて結果論...だって...生前必ずしも認められることばかりじゃないわけで...
けっきょく自分でやりたいことをして生きるしかありません=やりたいことをするのが生きること...世に受け入れられるかどうかなんて株式相場みたいなもの...誰にもわからない...自分でもなぜ急に売れたのかなんてわからないはず...だと...思うけどなあ...^^;v
画像:アンリ・ファーブル
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン・アンリ・ファーブル より
「ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre、1823年12月21日 - 1915年10月11日)はフランスの生物学者である。昆虫の行動研究の先駆者であり、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。同時に作曲活動をしたことでも知られ、数々の曲を遺し、プロヴァンス語文芸復興の詩人としても活躍している。
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ファーブルが生きていた当時、彼の業績は祖国フランスではあまり理解されなかった。しかしその後『昆虫記』は世界中で翻訳されて注目を浴び、文章の魅力もあいまって業績が評価されていった。ファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりもカール・フォン・フリッシュやコンラート・ローレンツのようなドイツ語圏、あるいはニコ・ティンバーゲンのようなオランダ語圏の研究者に継承されて発展を遂げることになり、また古くからの昆虫愛好文化をもつ日本で広く愛読され、昆虫学の普及に役立った。
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1840年にファーブルはアヴィニョンに滞在していた時に、そこの師範学校で学生を募集していることを知り、入学試験を受け首位で合格する。3年後には師範学校を首席で卒業、小学校上級免状を取得した。その後独学で数学を習得。カルパントラのビクトル・ユーゴー学院で数学と物理学の教師になり、21歳で同じ学院の教師であるマリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと結婚する。この時期に娘と息子を儲けるも、幼いうちに亡くしている。その後コルシカ島の大学に進み数学を研究しながらも、昆虫学に傾倒していく。アヴィニョンに戻ったファーブルは1861年、博物館の館長として働き、同時に研究資金を稼いで大学教授となるための財産基準を満たすために、染料の材料であるアカネの研究に没頭した。そして天然アカネから効率よく染料のアリザリンを抽出し、精製する技術開発で大きな成果を挙げる。この成果でファーブルはレジオンドヌール勲章を得ることになる。しかしこの研究成果に基づく工業化は、ほぼ同時にドイツで人工合成に成功し、工業化された合成アリザリンとの競争に敗れ、事業からの撤退を余儀なくされた。1863年、アヴィニョンのサンマルシャル礼拝堂で市民を対象に「植物はおしべとめしべで受粉をする」という原理を説明するも、参加者のほとんどが女性であったことから大きな非難を浴びた。その後政界や教育界からの圧力により、彼は教壇を降りることとなる。・・・教員を辞めさせられると、彼の講義を受けていた生徒たちは置時計を記念に贈呈した・・・。その後、家主にも追い立てられたファーブルは、住み慣れたアヴィニオンを出てセリニアンに移り住む。ファーブルは大きな試練に立たされるが、『昆虫記』の執筆に注力するのはこの後のことである。セリニアンに移り住んで後に最初の妻を病気で失い、23歳の村の娘ジョゼフィーヌと再婚する。3人の子に恵まれ家族は8人の大所帯となる。セリニアンの自宅には1ヘクタールの裏庭があり、ファーブルは世界中から様々な草木を取り寄せて庭に植え付けると共に様々な仕掛けを設置した。老衰で亡くなるまで36年間、彼はこの裏庭を中心として昆虫の研究に没頭した。この時期にファーブルはオオクジャクヤママユの研究から、メスには一種の匂い(現在でいうフェロモン)があり、オスはその匂いに引かれて相手を探し出すということを突き止めた。試しに部屋にメスのヤママユを置いて一晩窓を開けていると、翌日60匹ものオスのヤママユが部屋を乱舞したという。ファーブルは高齢になると年金による収入がなく、『昆虫記』ほか科学啓蒙書の売れ行きも悪かったため、生活は極貧であったと言われている。このころヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動が起き、1910年、当時のフランス大統領ポアンカレはファーブルに年2,000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与えた。当時85歳を超えていたファーブルは健康を損なっており、横になったままの時期が多くなっていく。1915年5月、ファーブルは担架に乗せられて、アルマスの庭を一巡りする。これが彼にとっての最後の野外活動となってしまう。そして同年10月11日、老衰と尿毒症で92歳で亡くなった。葬儀のときファーブルの眠る墓にどこからともなく、虫が寄って来たという逸話が伝えられている。
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進化論への批判
ファーブルは、他方で進化論に対して非常に強く反対意見を持っていた。『昆虫記』の中で、再三そのことに触れており、特にチャールズ・ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンの観念的な進化論には強い批判を記している。ファーブルはチャールズとは親交があり、チャールズも彼を「たぐいまれなる観察家」と高く評価したが、彼は進化論への批判をやめなかった。
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パスツールとのやりとり
1865年に微生物学者のルイ・パスツールが蚕の病気の研究を行うことになったとき、ファーブルを訪ね、蚕についての基礎知識を得たという。ところが、パスツールはその時まで蚕の繭は蚕の幼虫が蛹になるために作るものだと言うことすら知らず、繭の中に蛹があることをこのとき初めて知ったので、ファーブルはたいそう驚くとともに、そこまで基礎知識を欠きながらも蚕の病原体の研究に挑もうとする蛮勇にむしろ感動したと昆虫記の中で述べている。
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ファーブルの知名度
アヴィニョンには現在ファーブルの功績を称えて、Rue Henri Fabre(アンリ・ファーブル通り)と名のついた道があるほか、パリにも蚤の市で有名なクリニャンクール Clignancourt に Rue Jean-Henri Fabre 通りがある。だが、皮肉なことにそれら道を行き交うほとんどの人が、「アンリ・ファーブル」が誰であるか知らないと言われている。さらに、ほとんどのフランス人はファーブルが何者であるかを知らない、とも言われている。
画像:サン・レオンのファーブルの生家と銅像
また、ファーブルの生地であるサン・レオンにはファーブルの功績を称えて銅像が立てられているが、この銅像は第二次世界大戦時に進駐してきたナチス・ドイツによって、武器の材料として接収されたことがある。しかし、その後レジスタンスによって奪還されて地中に秘匿され、今は彼の生家の庭にたたずんでいる。なお、日本、韓国、ロシアなどではファーブルの『昆虫記』を題材にした子供用の本が発行されていて、読まれ、彼の名は一般大衆に広く知られている。しかし、フランス、ドイツ、英米などではそういった本はなく、彼の名はそれほどよく知られていない。日本語ではなぜ「アンリ・ファーブル」と呼ばれるようになったかは、現在不明。」
ピカソといい好きなことを続けてると(それができれば)長命でいられるのかも知れないね♪
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