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画像:http://home.att.ne.jp/wind/gakusan/niji/tomogara/2soeka.html より Orz〜 「慧可 禅は中国で、その真価を発揮する。それは遥か西域を越えて達磨が東土に伝えたことを称して、達磨を鼻祖と言う。西天より数えて二十九代目の祖師であり、中国では第一祖となり、その法を慧可が伝えられたことにより、慧可は二祖と呼ばれる。禅の法系はここより始まるといって言いのだろう。・・・ 正統性とは、今を生きるものの寄る辺に他ならないのではないか、そんな気がする。正統性を大事にしつつ、その正統性を逆に生きた、歴史に現れない祖師たちも大事な人達だ。 二祖は中国可南省の人で、性は姫氏、父は寂といったらしい。家は貧しかったのか、裕福だったのか知り様もないが、父と母は、子供が欲しくて、神に授かりを願う睦まじい両親だったのだろう。 後魏光文帝の永宜15年(487年)正月1日夜、光明と共に母は子を授かり、『光光』と命名されたという。15歳で五経を覚え、30歳で竜門の香山寺宝情禅師を師し、禅定を修めたという。その年東京の永和寺で具足戒を受けたという。その後、香山寺で40歳の時、夜更けに神人が現れ、南方に行けとのお告げがあり、『神光』と名を改め、南方で達磨に相見することになる。 慧可が初めて達磨に師事したときは、少林寺の雪降る夜であった。太和10年12月9日とある。自らの肘を切断して、己の覚悟・決心を達磨に提示したとある。受け入れた達磨に、慧可は言う。 慧可。「心を落ち着かせてください」 達磨。「心を持ってきなさい」 慧可。「心を探しても、何処にも見つかりません」 達磨。「探せても、それがお前の心であろうか。 慧可。「今初めて知りました。一切諸法はもとより空寂であることを。悟りは遠くにないことを。菩薩は念を動かさないで、根源的な智慧の海に至り、念を動かさないで、涅槃の岸に登られる」(筑摩書房祖堂集より) この時、慧可は40歳を過ぎていたという。洛陽で長期にわたり荘子・老子の学問を積んでいたというから、道についてはかなりの知識を持っていたと思われる。その心の中に達磨は無造作に手を突っ込み、蓄え積もった知識を、何の役にも立たぬものとほっぽりだしてみせた。・・・ やがて、達磨の真理の印を受ける。そして袈裟を伝えられた。達磨は言う。 「私が入滅して、200年経つと、この袈裟は伝える必要がない。教えが広がるからだ。道を明かにする人は多いが、道を行ずる人は少ない。理を説く人は多いが、理に通ずる人は少ない」 以後、慧可大師は法を広めることになる。 天平年中(559)、14歳ぐらいの一人の居士に会う。 居士。「私は、心が病んで苦しんでいます。どうか私に懺悔させてください」 慧可。「君の罪を持ってきなさい」 居士。「罪を探しても見つかりません」 慧可。「私は今、君に懺悔させ終わった。君は今、仏・法・僧の三宝に帰依いたしなさい」 居士。「この世で何が仏であり、何が法であるか」 慧可。「心が仏であり、心が法である。法と仏には差別がない。君はわかるか」 居士。「今はじめてわかりました。罪の実体は、内にも外にもありません。私の心がそうであるように、法と仏に何の差もありません」 慧可はこの居士に、剃髪し具足戒を授け、名を僧サンと付けた。『三祖僧サン』の誕生である。 私は判断がつかない。私は困ってしまう。そのことに悩む。しかしその悩む私の実体は、何処にあるのだろうと、問いかけた時、その実体は容易に捕まえることのできない私であったと見極めた時、この問いかけは、問いかける本人をも巻き込んで、不可得と徹した時、法華経に言う諸法実相の世界が現前する。 もとより実体のない私が、もがく私であるわけなのだが、肝心なことはそのことを問う私こそ、癒す私自身であり、その私も実体のないことを知ることにほかならない。そしてその実体のない私は、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)により、他人と比較し、競う私なのです。」 真理を知りたいという欲望は...わが腕を切り落としてでも欲しいものなのね...^^;...
ひとは...死ぬまで...生きる意味を知るために生きてるわけだ... 「朝(あした)に道を聞かば 夕べに死すとも可也」... に通じると思うけど...これって...孔子様の言葉なのよね...^^;... 慧可は...孔子様が生きておられれば...孔子様の門を叩いたかもしれないのかな...? |

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