アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

叫び

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画像:http://blog.livedoor.jp/sachimam0920/ より 引用 Orz〜
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患者さんから昨日もらってた歌☆

 『源平の水島合戦  平家勝つ

           日蝕伝説  われ知らざりし』

*我も知らざり...^^;
平家が源氏に勝ったと言われる唯一の海戦がこの近くの海だったのよ♪
しかも...日蝕が神風のように平家に味方したらしい☆☆☆
科学は無知蒙昧を雲散霧消させる...
人は枯れ尾花に恐れ戦くものなのねぇ...Orz...

スコープ2012:21日に金環日食 源平水島合戦、勝敗分けた天文知識 日食予測、平家が勝利 /岡山

毎日新聞 2012年05月19日 地方版

「◇往時しのび観光客増−−倉敷・玉島

 太陽が月の影に隠れる金環日食が21日、国内で25年ぶりに観測される。県内では金のリングは見ることができないが、太陽の9割以上が欠ける部分日食を楽しめる。約830年前、倉敷市玉島地区で源氏と平家が戦った「源平水島合戦」では、日食を知っていた平家が勝利したといわれ、同地区を目指す観光客も増えているという。源平合戦と日食に沸く同地区を訪れた。【石井尚】
 源平水島合戦は、木曽義仲の軍勢と屋島(香川県)を本拠地とする平家が旧暦の寿永2年うるう10月1日(1183年11月17日)、現在の玉島港を挟んで戦った海戦だ。軍記物「源平盛衰記」には、日食を知らなかった源氏の兵士は混乱し、平家が勝った模様が描かれる。
 倉敷市で今月あった源平水島合戦と金環日食に関する講演で、当時の日食について詳しく解説された。郷土史に詳しい元吉備国際大非常勤講師、小野敏也さんは平家の戦い方について「船をつなぎ揺れを防ぐなど海での戦い方を知っていた」と説明した。源平盛衰記に書かれた日食について「当時、平家は公家として暦を作る仕事をしていた。日食を予測する知識があったと思われる」と指摘した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/水島の戦い より
「水島の戦い(みずしまのたたかい)は、平安時代末期における治承・寿永の乱戦闘の一つである。寿永2年10月1日ユリウス暦1183年11月17日 グレゴリオ暦換算1183年11月24日)、備中国水島(現在の倉敷市玉島において源義仲軍と平氏軍との間で行われた。
当時、平氏軍の拠点は讃岐屋島にあった。平氏を追討するため、寿永2年(1183年)9月20日に源義仲軍は都を出発して屋島方面へ進軍していったが、閏10月1日、四国へ渡海する前に、水島付近で平氏軍に敗れた。義仲軍を率いていたのは、義仲の部将足利義清海野幸広である。
平氏は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡すことにより、陣を構築した。源平両軍の船舶が接近し、互いに刀を鞘から抜いて、今にも白兵戦を始めようかという時、平氏の射手が義仲軍へ矢を浴びせかけて戦闘が開始した。平氏軍は船によく装備された馬を同乗させており、その軍馬とともに海岸まで泳いで上陸した。最終的に平氏軍は勝利し、義仲軍は足利義清・海野幸広の両大将や足利義長(義清の弟)、高梨高信といった諸将を失い壊滅、京都へ敗走することとなった。この勝利により平氏軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津福原まで戻り、一ノ谷の戦いを迎えることとなる。
なお、この戦いの最中に95%ほど欠けた金環食が起こったことが、「源平盛衰記」等の資料によって確認されている。(参照:「日食」→日本での記録→金環日食)
当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから、平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある。」

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〜平家が勝った唯一の合戦〜
【水島の合戦物語】木曾義仲勢によって京都を追われて北九州へ落ち延びた平家一族は、瀬戸内の水軍を何とか味方に引き入れて体制を立直し、京都奪還を目指して東進を開始した。平家方は平重衡、通盛、教経の三勇将が率いる兵船300余隻7000人が柏島沖に出陣して、満所(政所か、玉島大橋西詰の小高い丘)付近に赤旗を並べ柵を設けて陣地を構える。一方、木曾義仲は後白河法皇の策謀に利用されて平家追討の院宣のもとに山陽路を西下した。そしてその手始めとして、当時備中の南部一帯に勢力を持っていた平家方の武将妹尾兼康、宗康父子をその根拠地板倉(現岡山市吉備津神社西方)で討取り、勢いに乗って先鋒隊の矢田判官義清、海野十郎行広の二勇将が率いる兵船300余隻5000人が乙島の渡里(わたり)付近に出陣し、城(玉島大橋東詰の北方標高30mほどの台地)と呼ばれるところへ白旗を押し立てて陣地を構えた。両軍は、わずか500mほどの海峡(玉島大橋の下付近の海域)・・・当時は「水島の途(瀬戸の意味)」と呼んでいたようである)をはさんで、時こそ来れと相対峙した。初冬を迎えた寿永2年閏10月1日(新暦12月初め頃)、夜明けとともに合戦の火蓋が切っておとされた。初めのうちは勇猛をもって聞こえた木曾源氏が有利に見えたが、なにしろ木曾の山中で育った軍団だけに騎馬戦にはめっぽう強いが、海戦には全くの不慣れとあって次第に旗色が悪くなった。 その上、山猿と悪口を言われる文盲が多かった木曾勢は、これから起こる日蝕と言う奇異な自然現象を全く知らず、ただ恐れおののくだけで戦意を失い敗れることとなる。
わずか数時間の海戦であったと言われているが、源平合戦史の中で平家が勝ったのはこの合戦だけであった。命からがら京都へ逃げ帰った木曾源氏の軍団はごく僅かであったといわれ、その後、時を経ずして源頼朝一族の率いる関東源氏によって滅ぼされることとなる。また平家一門は翌寿永3年2月には「一ノ谷の合戦」に敗れ、さらにその翌年の元暦2年2月には「屋島の合戦」に破れて下関へ走ることとなる。
かたや海戦に強く、しかも戦術に長けた平家軍の策略に全くまり込んだ木曾源氏が体制を立直そうとする頃、にわかに西風が激しく吹き出して海はおおしけとなり、海戦に慣れない源氏の兵士たちは船の上に立つことが出来ない有様となる。その上、真昼というのにあたり一面薄墨を流したような暗闇となり、日蝕を知らない源氏の兵士たちは天変地異にすっかり恐れをなして大混乱・・・さらに不運にも矢田義清、海野広行の二人の大将まで討取られた木曾源氏は全軍総崩れとなり、平家軍の一方的な大勝利で終わった。・・・」

          画像:http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisi/genpeigassen.htm より 引用 Orz〜
【源平合戦(げんぺいがっせん)の流れ】
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運動会の赤組白組ってのはこの名残なんでしたよね♪
源氏が「白」旗、平氏が「」旗を掲げて戦ったから...^^
紅白歌合戦も...?
ちなみに...
左翼の「」は...飛行機の左翼のランプがだからでしたよね ^^

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