アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

素敵な言葉

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いま、彼の業績(経済改革)が注目されてるみたいなのね…今朝のNHKの番組で知りました♪
地元にこんな偉人・賢人がいらっしゃったとは…
"再建の神様"には近いところでは…やはり岡山県人の「土光敏夫」 氏もいらっしゃったのを思い出します ^^

より 引用 Orz〜
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http://ja.wikipedia.org/wiki/土光敏夫 より Orz〜
1981年(昭和56年)には鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、
  1. 首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
  2. 増税によらない財政再建の実現。
  3. 地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
  4. 3K(コメ国鉄健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。
の4箇条の申し入れを行い、実現を条件とした。行政改革に執念を燃やして、2年後の1983年(昭和58年)に行財政改革答申をまとめ、「増税なき財政再建」「三公社国鉄専売公社電電公社)民営化」などの路線を打ち出し、さらに1986年(昭和61年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務めて、行政改革の先頭に立った。謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から、「ミスター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「めざしの土光さん」などの異名を奉られた。
語録
「知恵を出せ、それが出来ぬ者は汗をかけ、それが出来ぬ者は去れ!」
但し松下幸之助はこの言葉を批判しており、「あかん、潰れるな」と呟いたといわれている。「『まずは汗を出せ、汗の中から知恵を出せ、それが出来ぬ者は去れ!』と云うべきやね。本当の知恵と言うものは汗から出るものや」と秘書を務めた部下の江口克彦に語っており、敏夫の語録を真似した経営者は失敗し倒産したという。

画像:http://ja.wikipedia.org/wiki/松下幸之助 より Orz〜
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松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年明治27年〉11月27日 - 1989年平成元年〉4月27日)は、日本実業家発明家パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電気器具製作所)を一代で築き上げた経営者である。
自分と同じく丁稚から身を起こした思想家の石田梅岩に倣い、PHP研究所を設立して倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。」



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「山田方谷(やまだほうこく)」という名前をご存じだろうか。山田方谷(1805〜1877年)は、幕末期に財政破綻寸前の備中松山藩5万石を立て直した名財政家であり、卓越した政治家である。わずか8年間の改革で借金10万両(現在の価値で約300億円)を返済し、余剰金10万両を作った。大変な力量と言わざるをえない。
なぜ、こんな短期間に成功できたのであろうか。しかも山田方谷は農民出身である。当時の士農工商の厳しい身分制度を考えると、通常ではあり得ないことを成し遂げた。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/山田方谷 より Orz〜
山田 方谷(やまだ ほうこく、文化2年2月21日1805年3月21日) - 明治10年(1877年6月26日)は、幕末期の儒家陽明学者。名は、通称は安五郎。方谷は備中聖人と称された。山田家は元は清和源氏の流れを汲む武家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。方谷はお家再興を願う父、五朗吉(菜種油の製造・販売を家業とする農商)の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれる。5歳になると、新見藩の儒学者である丸川松隠に学ぶ。20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。幕末の混乱期には苦渋の決断により、藩を滅亡から回避させることに成功した。しかし、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、一民間教育者として亡くなった。・・・
方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。
理財論は方谷の経済論。の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。

*最近の企業の所業の綻び(偽表示、捏造データ...)が露呈してますが…まさにこの逆の「利を計り、義を忘れ」たツケとしての倍返しってところでしょうか…!!

擬対策は方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。
方谷の思想は後に、弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展して、渋沢栄一らに影響を与えることになった。また、至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。
例えば、他人を小人呼ばわりした三島中州に「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。」と戒めたという。

安岡正篤は、「この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と評価している。

*安岡正篤 氏のことをわたしは名前しか存じ上げませんでしたが
少し勉強してみたいと…^^…

至誠惻怛 (しせいそくだつ)
まごころ(至誠)と、いたみ悲しむ心(惻怛)があれば、やさしく(仁)なれます。そして、目上にはまことを尽くし、目下にはいつくしみをもって接するのです。こころの持ち方をこうすれば物事をうまく運ぶことができると言います。つまり、この気持ちで生きることが、人としての基本であり、正しい道なのです。
河井継之助が山田方谷に師事した際、方谷から贈られた王陽明の一節である。
(王陽明は中国明代の儒学者で、知行合一、致良知の説(良知(是非・善悪・正邪の判断力)を養って、知識と実践とを一体化すべきだとするもの)を唱えた・・・陽明学といわれる学問(小学館Bookshelfから))」      

幕末維新期

藩主・板倉勝静白河藩主・松平定信の実の孫であり、元をたどれば徳川吉宗の玄孫にあたる。そのため、幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番寺社奉行老中と幕府の要職を務めた。しかし、幕府の重職を担うことは藩財政の逼迫を招くため、方谷は勝静の幕政参加に反対していた。・・・大政奉還とそれに続く鳥羽・伏見の戦いにおいて、老中として大坂城の将軍・徳川慶喜の元にいた勝静は、幕府側に就いて官軍と戦うこととなった(戊辰戦争)。これに対して朝廷は、岡山藩などの周辺の大名に、松山藩を朝敵として討伐するよう命じた。突然の出来事に対して、松山の人々は動揺した。方谷は、主君勝静に従って官軍と戦うよりも松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることと、松山城の開城を、朝廷に伝えた。

一説に、方谷が大政奉還の上奏文を起草したという説がある。

明治期

松山城を占領した岡山藩内では、旧幕府軍に加わっている勝静の代わりに方谷を切腹させるべきだという意見もあったが、彼を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した藩中央の意向でうやむやとされた。また、岡山藩で名君と慕われていた藩主・池田光政が陽明学を振興していたことも、岡山藩が方谷に好意的だった理由とも考えられる。

その後、方谷は、岡山の人々の依頼で、寛文10年(1670年)に池田光政が設立し、明治3年(1870年)まで続いた閑谷学校(日本最古の庶民学校)を、陽明学を教える閑谷精舎として明治7年(1874年)に再興した。明治新政府も方谷の財政改革を高く評価して、三島中洲らを通じて出仕を求めた。しかし、領民達を救うためとはいえ、心ならずも主君を隠居に追い込んで勝手に降伏した方谷に、再仕官をする考えはなかった。そして、明治10年(1877年)に死去するまで、弟子の育成に生涯を捧げることになったのである。」

画像:http://ja.wikipedia.org/wiki/河井継之助 より Orz〜
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河井 継之助(かわい つぎのすけ、文政10年1月1日1827年1月27日) - 慶応4年8月16日1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士越後長岡藩牧野家の家臣。
安政6年(1859年)正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙にしたためるなどの尊大な態度に出ていた継之助も山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。

北越戦争の開戦

継之助の長岡慶応改革によっても、先法御三家の組織上・軍制上の特権を壊せたとする史料は存在しない。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により当初新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日7月8日)に長岡城を奪われた。その後6月2日7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。これは軍事史に残る快挙であり、石原莞爾陸軍大学校における卒業論文は河井の戦術を研究したものであった。

*彼のことも知りたくなって来た…司馬遼太郎の』(新潮社)買ってるけどいまだ読んじゃいないもので^^;

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