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画像:https://bushoojapan.com/scandal/doctor/2019/04/09/62904 より 引用 Orz〜
北里柴三郎 ペストの日本上陸を食い止めた「細菌学の父」は義にも篤い人!
「北里柴三郎は1853年、熊本の庄屋に生まれます。東京医学校(現在の東京大学医学部)に進学したのが明治8年。在学中は教授と折り合いが悪く何度も留年したそうです。卒業後はドイツ留学でコッホに師事し、1889年には破傷風菌の純粋培養に成功、翌年には破傷風の抗毒素を発見します。更に菌を動物に少しずつ注射し、血清中に抗体を作らせる『血清療法』を開発し世界を驚嘆させました。そして、1890年には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で論文を発表。この業績により第1回ノーベル賞の候補に柴三郎の名前が挙がりましたが、受賞したのは共同研究者のベーリングでした。う〜ん残念。論文をキッカケに注目を浴びた彼は、欧米各国の大学や研究所から破格の待遇でスカウトされます。が、「医学が弱い日本のために国費留学したのだ」と誘いを固辞して帰国しました。1896年、横浜に入港した中国人船客がペストで死亡しました。これが日本初のペストで、幸か不幸か、この時は単発で終わりました。そして1899年11月、遂に日本でもペストが流行しはじめます。余談ですが同年5月、北里の推薦で横浜の海港検疫所に赴任した『野口英世』が入港した船にペスト患者2人がいることを発見し、水際で防ぐナイスプレーをしています。が、流行の兆しは決して否定しきれず、1899年は45人のペスト患者が発生、40人が死亡。不穏な空気が流れます。この時すでに北里はペストの防御策を講じていました。伝染病予防の大切さを大臣や役人に説明してまわり、1897年に「伝染病予防法」を成立。そこには彼の主張通り、患者の隔離、地域の消毒、船舶や列車の検疫など必要な事項が盛り込まれていました。そして1899年には「海港検疫法」にペストが追加されるのです。北里は、病人の隔離治療や環境の消毒をする一方、ネズミの駆除を徹底的に指示(ペスト発生地のネズミには、日本に存在しなかった「ケオプスネズミノミ」という種類のノミがみられ、これがペスト菌の運び屋と考えられました)。もし、このノミがイエネズミから、野生のげっ歯類に広がったら、根絶はほぼ不可能となります。ネズミの駆除作戦は効を奏し、1930年を最後に日本からペストはなくなりました。発生から終息まで27年間の死者数は2420人でした。さてその後の北里ですが東大医学部に意地悪をされ、なんやかんやありまして「伝染病研究所」の所長を辞職します。そして『私立北里研究所』を設立、様々な病気の血清療法を研究しました。また、諭吉の恩に報いるため慶應義塾大学医学部を創設して、初代医学部長、付属病院長となりました。ちなみに無給。」
*昔は、立派な日本人がいっぱいいらしたようで...儲けなんぞ度外視して自分のなすべき道を究められてる...渋沢栄一が資本主義を導入していわゆる先進国を目指したわけで...お金よりも大事な志ってのが、知らず知らず薄れてちゃっていくのも皮肉なことであります...^^;
解答
・わたしの...
これは解剖知ってないと?
親指には関節が1個(IP関節)
小指を含めた他の指には、関節が2個(PIP,DIP)
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