アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

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モヘンジョダロ^2

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続きです。^^v

http://dateiwao-id.hp.infoseek.co.jp/mohenjodalo.htm
「モヘンジョダロの遺跡が語るもの
古代史研究家であるイギリスのデヴィッド・W・ダヴェンポートとイタリアのエットーレ・ヴィンセンティの二人はインドの古文献を研究する途上、「マハーバーラタ」、「ラーマーヤーナ」、「リグ・ヴェーダ」等の叙事詩に限りなく核戦争を思わせる記述を発見した。インドの叙事詩、「マハーバーラタ」は現在の形が確立したのは5世紀頃といわれるが、物語になった歴史的事実はそれよりもずっと古く、口述伝承されてきたものだ。「マハーバーラタ」とは「バラタ族の戦争を物語る大叙事詩」を意味し、紀元前10世紀頃に起きた大戦争を語り伝えたものである。−− 「英雄アスワタマンは、自らのヴィマナ(空飛ぶ戦車)に断固とどまり、水面に降りたって、神々すら抵抗しがたいアグネアの武器を発射した。・・・矢の雨が空に放たれた。その矢の束は、輝く流れ星のように落下し、光となって敵を包んだ。突然、濃い闇がバンダヴァの軍勢を覆った。そのため、敵は方向感覚さえ失ってしまった。恐ろしい風が吹きはじめた。・・・空に雲がうなり、血となって降り注ぐ。自然の秩序そのものがかき乱されたようだ。太陽が揺れ動く。宇宙は焼け焦げ、異常な熱を発している。・・・水は蒸発し、その中に住む生き物も焼けてしまった。・・・雷よりも激烈に爆発したこの武器に、敵の戦士たちは猛火に焼かれた木々のように倒れた。この武器に焼かれた巨大な象たちは、あたり一面に倒れ、ものすごい叫び声をあげた。やけどをした他の象たちは、恐怖に狂ったようにあたりを駆け回った。・・・・・・・・「太陽が1万個集まったほどの明るい、煙と火がからみあった光輝く柱がそそりたった。それは未知の武器、鉄の石矢、死の巨大な使者だった。都市の住民は灰と化した。死体はひどく焼けていて見分けがつかなかった。髪の毛や爪は抜け落ちていた。落ち着きを失って空中で輪を描いていた鳥たちは、白くなった。食料は毒されてしまった。逃げ出した軍勢のあるものは自分の息子や父親、友や兄弟を戦車にのせ、またあるものはよろいを脱ぎ捨て、水で体や装備を洗った。」あたかも現代の核戦争そのものを思わせる描写である。最後の部分は放射能汚染を思わせるのだ。」

画像:上:ヴィマナ(空飛ぶ戦車)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%84
「オーパーツ(Out Of Place ARTifactS、場違いな加工品)とは、考古学上その成立や製造法などが不明とされたり、当時の文明の加工技術や知見では製造が困難であるか、あるいは不可能と考えられる、主に出土品を指す用語である。ただし、正式な考古学用語ではなく、そういった出土品の存在を強調して考古学上の通説に疑義を唱える意図で良く使われる。なぜそのようなものが存在するのか、またどのようにして作ったのか、といったことが未だに解明されていない、と主張されるのが常であり、未知の(現代科学の水準を越えるような)超古代文明の存在や古代宇宙飛行士説の証拠とされることがしばしばある。実際には全てが説明不可能なものではなく、その時代の技術で作成可能なものも多くある。また、近代の発明でその頃には存在しなかったとされている技術が、一度見い出されて後に失われていた技術(ロストテクノロジー)であるということもあり得る。所謂超古代文明や宇宙文明に依らずとも、情報の散逸によって文明が著しく後退した時代もあるため、一度失われた後に再発見された技術や知識も少なくない事に留意すべきだと考えられる。(一例として「アレクサンドリア図書館」の項目を参照してほしい)出土した時代での製造が困難か(あるいは製造不能か)の判断は発見当時の考古学的・工学的知見をもとに行われるため、例えば現在の感覚では想像がつかないほどのコスト(時間、人的資源など)を費やして製造した、出土当時の考古学的知識よりもその文明の実際の行動範囲が広かった等といった事情で、のちに製造可能と判断されたものも今なおオーパーツとして語られることが多い点に注意が必要である。また、贋作や捏造に悩まされている事もオーパーツの特徴であり、捏造と確定したものから疑惑レベルのものまで含めると、オーパーツとされる遺物のうち、真に学術的にその価値を認められるものはごく僅かという状況である。」

   下:atomic bomb

この宇宙にわれわれ人類以外に知的生物がいるはずだってその証拠を探し求めてるのと同じように、古代に超文明の世界があったのではないのかってロマンを馳せるのは似てますね。^^
人類は孤独は嫌いなんだ。知的存在として人類がいるのは事実なんだから、きっと特殊なことでないはずであり、この広い宇宙には、また、今までの気の遠くなる時間の中に仲間がいた、いるはずだって思いたくなるのもふつうに演繹したくなることではありますね。^^v

モヘンジョダロ

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孫引きで、、、モヘンジョダロについて調べてみましたら、、、これがまたおもしろい。。。^^v
はっきりしてはいないようだけど、、、ドラビダ人が作ったインダス文明の遺跡のようですね。しかも、インダス文字はいまだ解読の手を免れてるらしい。。。そのうえ、、、日本語のルーツがドラビダ語では何かっていうような説もあるみたいですね。昔、大野博士の本で興味深く読んだのを思い出しました。。。^^

http://members3.jcom.home.ne.jp/dandy2/works/works_14_x.html
「死の都 モヘンジョ・ダロ 〜封印された古代都市の謎、その時、何が起きたのか?〜

 1921年、インダス川の下流に大きな仏塔の一部が大地からのぞいているのが発見された。それは、2世紀前後の大僧院の一部であろうとの予測のもとに、ただちに、発掘が開始された。ところが、掘り進むにつれて、その遺跡は、たんなる僧院などではなく、巨大な古代都市の遺跡であることが明らかとなった。 発掘は、十数年の間、休みなく続けられた。こうして、この古代都市の姿は、少しずつ姿をあらわしてきた。堅固な城塞、整然とした碁盤目状の街路、完備された排水設備、見上げるばかりの穀物倉、広大な沐浴場・・・それらは、何千年も前に、緻密な都市計画のもとに建設された周囲5キロにもおよぶ巨大都市であることを物語っていた。当時、この古代都市は、人口約3万人ほどを擁していたと思われ、絶頂期は紀元前2500年頃と推定された。さらに、この遺跡は、この時、すでに発見されていたハラッパの遺跡とあらゆる面で類似するものであった。しかし、ハラッパの遺跡は、インダス川の上流に位置し、こことは、600キロも離れていた。つまり、東京と大阪ほどの距離の隔たりがあったのである。しかし、中間地点に小規模の遺跡も次々と発見されるにつれ、驚くべきことに、この二つの古代都市は、ともに、巨大な文化圏を形成していたことが、その後の調査で判明したのである。現在、我々は、それを古代インダス文明と呼んでいる。発掘が進むにつれ、この古代都市の遺跡には、どうしても説明のつかない多くの謎が浮かび上がって来るようになった。そのひとつに、遺跡のあちこちに見られるわけのわからない人骨の山である。それらは、路上や井戸端、さまざまなところに、うつ伏せになったり、仰向けになったりして不自然な状態で横たわっていた。こうした、発掘中に発見された数十体の人骨のおかげで、この古代都市はモヘンジョ・ダロ(死の丘)というありがたくない名前を頂戴することとなってしまった。発掘された遺体は、全部で46体あった。・・・共通して言えることは、それらの遺体には、すべて虐殺された徴候がみられたことである。なぜならば、ほとんどの遺体には、頭部に打撃を受けた損傷があったのである。・・・このことから、恐らく、今から何千年も前のある日に、突然、凄まじい惨劇が、この一家を襲ったものと思われた。このような虐殺の痕跡は、600キロ離れたハラッパの遺跡からも多数発見されている。これが、きっかけとなり、好戦的な異民族、すなわちアーリア人の侵入によって、この古代文明は、滅亡したという説が生まれたのである。しかし、遺跡から、発見されたのは、46体のみで、当時3万人を擁したと思われるこの巨大都市の人々は、どこに消えたのか、依然、謎に包まれたままだ。発見された46体の遺体は、地表近くから掘り出されており、これが、比較的、新しい年代のものであることが判明した。・・・一度、アメリカの調査隊が、廃水ポンプをフルに活用して発掘に乗り出したが、遺跡の堆積は、どこまでも続いており見当すらつかなかったという。モヘンジョ・ダロは、何千年もの気の遠くなる時の流れの中で、最初の生活圏が廃虚になると、その上にさらなる遺跡が覆い、また、しばらくすると、その上に別な遺跡が覆うと言った感じで、年輪のように何十にも重なっていったのである。恐らく、この古代都市の起原は、紀元前4千年か5千年ほどと推測されるが、そうなると、世界最古の文明ということになる。つまり、インダス文明こそ、人類の文明発祥の地だということになるのだ。今日、この文明の起原も謎のままだが、どうしてこのような巨大な文明が崩壊して、忽然と滅んでいったのかは、もっと大きな謎に包まれている。アーリア人の侵入は、紀元前1500年頃とされており、もし、この異民族による侵入が原因で滅んでいったのなら、大虐殺や破壊の跡を示すもっと多くの痕跡が、至る所で発見されているはずである。しかし、大虐殺や破壊を示す証拠はなく、発見されたのは、例の46体の遺体のみなのである。しかも、それより下の古い地層からは、遺体はおろか、人が生活していた事を裏づけるような遺品もほとんど出てこないのだ。これは、一体全体、どういうことだろう?モヘンジョ・ダロは、アーリア人が南下して来た頃には、すでに、崩壊し、文明としては、寿命を終えたゴーストタウンのような状態で、土中に埋もれていたのではなかったのだろうか?すなわち、虐殺された46の遺体は、文明の死に際に起こったアーリア人による最後のダメ押しだったとも考えられるのである。最近までは、モヘンジョ・ダロを始めとする、古代インダス文明は、強大な異民族の侵入によって滅亡したことになっていた。しかし、今では、この文明に致命傷を与えたものは、もっと他に原因があったのではないかと考えられるようになった。
 第一の筆頭に挙げられるのは、気候の変化による環境の激変である。モヘンジョ・ダロの遺跡からは、多くの印章が出土しているが、それらには、トラ、水牛、像など、湿地帯や水辺に住む動物がたくさん描かれている。つまり、当時は、雨の量ももっと多く、水量の豊かな草木が生い茂る恵まれた自然環境だったと想像されるのだ。・・・ある地理学者は、雨を持たらして来た低気圧が、紀元前3千年頃から、ゆっくりと北に移動してしまい、それがために、インド西北部は、乾燥し、荒涼とした風土になってしまったと主張する。
 一方、人為的な環境破壊が原因だとする説もある。それによると、都市建設に必要なかま焼きレンガを焼くために、木を伐採し過ぎたため、大地の乾燥化が起こり、気温の方も一気に上昇してしまったというのである。確かに、千年以上も繰り返し繰り返し、燃料用の木の伐採を続けてきたことは、大地から森や草地を奪うことになる。裸地となり、蒸発しやすくなった大地は、地中の奥にある塩分を地表にどんどん吸い上げてゆくのだ。これが、長年続けられると、やがては、地表は、塩分で堅く覆われてしまい、作物は育たなくなってしまう。こうした、自然破壊が徐々に進んだ結果、塩害と環境の悪化で、人々は、都市に見切りをつけ、別な土地目指して、次第に移動していったのではないかというのである。自然環境の悪化の原因としては、大洪水とインダス川の水路の変化を挙げる説もある。モヘンジョ・ダロの遺跡にも、過去に大規模な洪水に見舞われた痕跡が少なくとも3度以上あるのだ。遺跡に残る70センチにおよぶ厚い堆積土は、洪水後も、なかなか水が引かず、長いことそこに留まっていたことを意味している。つまり、大洪水が、この文明に致命傷を与えたというのである。インダス川の河道が、変わってしまい、モヘンジョ・ダロから遠のいたからと言う説もある。そもそも、この広大な川は、たびたび氾濫を起こしては、次にどのようなコースで流れるかわからぬほど、気まぐれで不安定な川として知られていた。20年の統計をとった資料を見ても、よくもこれだけ好き勝手に河道を変えられるものかと感心してしまうほどである。現在、モヘンジョ・ダロは、一番近いインダス川の支流から、5キロは離れてしまっている。・・・水資源が遠ざかっていったために、滅亡したという話は、タクラマカン砂漠の桜蘭、ミーランがよく知られているが、インダス文明の一つのカリバンガンという古代都市も、そのことが原因で滅亡したと考えられている。カリバンガンは、大河の側にあり、豊かな水源に恵まれていたが、今では、タール砂漠のはずれで半ば埋もれてしまっている。その近くには、幅3キロにも及ぶ枯れた河床が見られるのみである。タール砂漠(大インド砂漠)日本の総面積の3分の2ほどの広さがある。
 突発的な天変地異が原因で、文明が滅亡したという説も拭いきれない。シンド地方(パキスタン南部)や、マクラーン海岸一帯は、元来、地殻変動が活発な所で、19世紀の始めには、長さ80キロ、幅24キロの地域が、突然、高さ4.5メートルももちあがったこともある。それによって、インダス川がせき止められ、4300平方キロ(琵琶湖の面積の6倍以上)の土地を水浸しにし、大惨事を起こしたこともあるのだ。2002年には、カンベイ湾の40メートルの海底から、9500年前の超古代都市の遺跡が発見されたという驚くべきニュースも報道されたが、こうした地殻変動や天変地異も文明を死に至らしめる原因となったのは確かなようだ。
 また、モヘンジョ・ダロにまつわる不思議の一つとして、現地の人々にガラスになった町と呼ばれ、黒いガラス質の石がびっしりと地面を覆っている場所がある。その半径400メートルほどのエリアは、恐らく、砂やレンガが2000度以上という超高熱を瞬間に浴びた結果、溶解しガラス状に固形化したものであろうと言われているものだ。しかも、そこでは、実に、通常の50倍という高濃度の放射能が検出された。 今日、これと同様の物質が見られるのは、ある特定の場所以外にはあり得ない。核実験が行われた砂漠である。そこでは、ものすごい熱によって、砂がガラス状になった物質を見つ出すことが出来るのである。すると、この場所で、何千年も前に、核爆発が起きたのだろうか?・・・」

おもしろいですね〜^^
こういう話し大好きでっす。v
モヘンジョダロ=死の丘 っていう意味だったんですね〜知らなかった。。。^^;

画像:上:発掘された遺体の一部、頭部には鈍器で殴られた跡があった。

   中:モヘンジョ・ダロの発掘現場

   下:モヘンジョ・ダロから出土した踊り子と呼ばれる青銅製の像。先住民をあらわしているとさ
     れる

トイレとスカート

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昔社会の先生だったかな、、、ヴェルサイユ宮殿にはトイレがなくって、女性は、おまるを持って庭でしゃがんで用を足すために、ああいう大きなスカートが必要だったんだって教えてもらった記憶が残ってる。そこで調べ直してみました、、、

http://homepage3.nifty.com/onion/labo/excretma.htm
「【トイレの起源】

トイレは人間の最も基本的な行いの場である。当然ながら文明の発祥以前からそれは存在し、また使われてきた。
「文明」というものが明確な形を取って現れてきた6000年前には、既に水洗型のトイレが使われていたという。これは「川を利用した」という原始的なものではなく、便座があり、下水道があり、またその素材に煉瓦や石をふんだんに使った、現在から見ても非常に高等なタイプである。
・・・インダス文明のモヘンジョ・ダロ遺跡からは腰掛式トイレと汚物の沈殿槽まで見つかっている。
・・・
【古代ギリシャ・ローマのトイレ】

古代ローマはトイレおよび上下水道に関して高い技術を持っていた文明の一つである。市内には公衆便所が設置され、その数は紀元前315年の時点で144箇所、紀元前33年には1000箇所を超えていたという。下水道は公衆浴場や公衆便所の排水溝のほか、一般市民の共同住宅にも直結しており、それらから出る汚水は水道管を通じてテベル川へと流された。
この下水道は2階以上の部屋には接続されていなかったので、2階の住民はいちいち1階までやってきて汚水を流さなければならない。ときおり、ズボラを決め込んだ住民が2階から「落し物」を直接道路にぶちまけることもあったようだ。・・・
下水道網は紀元前27年にローマ帝国が建国されたのちも引き続き使用されたが、人口が増加するに従って需要に供給が追いつかなくなり、やがてマラリアやペストなどの疫病を蔓延させる要因ともなった。これがきっかけとなり、ローマ帝国は滅亡したとも言われている。・・・

【中世のトイレ】

中世ヨーロッパの匂いは糞便の匂い、という人がいる。それほどまでに当時の人々は、排泄物に関して「始末」が悪かった。中世ヨーロッパでハーブや香料が発達した背景には、そうした「臭い」を解消する目的があった。

5世紀ごろに西ローマ帝国が滅ぶと、古代ローマのトイレ文化も失われた。トイレのレベルは古代文明を通り越してほぼ先史時代の水準にまで衰退した。構造も、穴が糞便槽に直結しているだけの単純なものとなり、構造によっては通行人に「黄害」が及ぶこともあったという。
一方で、排泄を恥ずかしいとみなすキリスト教の考え方から、個室トイレが発達する。中世の修道院や城館では、トイレはベッドと同数だけあるのが望ましいとされた。しかし、それを実現できたのは財力と権力を持つ一部の修道院や貴族に限られた。そのような手間のかけられない弱小貴族や一般市民の間では、「チェンバー・ポットChember Pot」すなわち「おまる」に頼るしかなかった。ひとまず排泄物を一箇所に溜めておき、それが満杯になると外に捨ててゆく、という方式を取ったようである。

現在、トイレは「はばかり」や「水洗所」「化粧室」というように、行為そのものを表す言葉を避けて呼ばれることが多いが、中世のおまるも、同じように直接的な表現を避けることがマナーとされた。英語ではトイレを表すのにガーダーローブgarderobe(衣裳部屋)、ワードローブWardrobe(洋服ダンス)、プリビーPrivy(秘密の小部屋)などの呼称を使ったという。
また、家具に化けたおまるも考案され、フランスではChaise d'affaire(用をたす椅子)、Chaire Percee(穴の空いた説教台)などの名前で呼ばれた。

12〜13世紀のパリでは、道路の真ん中に水が流れており、そこに「おまる」の中身を流した。この水路はセーヌ川に繋がっており、汚物は水の流れとともに水路へと運ばれてゆく。イギリスのケンブリッジでは、汚物はゴミと一緒に捨てられており、3週間ごとに市の職員が片付けるきまりであった。
しかしながら、こうした取り決めはほとんど守られていなかったようである。多くの一般庶民は「ガルディー・ルーGardy loo!」と叫んで、公道に直接ぶちまけていたという。この言葉はフランス語で「水に気をつけろ」を意味する「ガルデ・ア・ローGardez a l'eau」に由来する。住民が窓から身を乗り出して「そら、水が来るぞ! 気をつけろ!」と叫ぶと、通行人は一目散にその場を逃げ出して被害を回避したのである。・・・
ロンドンも状況は同じようなもので、汚物は道端の汚水溝にそのまま捨てられていた。だから、大雨が降ればゴミであっという間に詰まり、中身の汚泥が道中に広がった。石畳の道路は、こうした汚泥で常にヌルヌルした状態であったという。こうした道路を歩くためにハイヒールや丈の高い靴が発達した。ハイヒールは本来、こうした道路を歩くための男性の履き物であった。

当時の雑誌には、パリの公衆状況について次のように書かれている。
「パリはひどい。道路にはいやな臭いが立ち込め、外出もできない。(中略)道行く大勢の人々は悪臭を放ち、その臭いこと、とても耐えられるものではない」

こうした汚物を処理するために、中世ヨーロッパの都市では豚や羊が飼われた。特に豚は人糞や生ゴミを「処理」するものとして重宝がられたという。もっとも、当時の豚は「豚」というよりは、剛毛や牙の生えた「イノシシ」に近いものであったらしい。市民の中には、彼らに追突されたり、牙で引っ掛けられたりして大怪我する者が少なくなかったという。

町を汚すのは人間の落し物だけではない。馬車馬の放り出すモノや、豚自身の排泄物も相当な量に及んだ。ひとたび路地に入れば、彼らの「残り物」がうず高く山をなしていたという。上流階級の住む地域にも、彼らの排泄物と人間とのが10センチの厚さに積み重なっていたというから、一般庶民の住む場所は推して知るべしである。こうした非衛生な状況が、のちにペストやコレラを呼び込む要因となった。・・・

【近代のトイレ】

ヨーロッパの衛生状況は時代が下がっても、良くなるどころかますます悪化していった。人口は急増するのにトイレはちっとも増えず、公衆便所も14世紀のロンドンでわずかに24箇所。当時の人口が数十万というから、数万人に一つという有様であった。
こうした状況の中で、ペスト(黒死病)とコレラが大流行する。14世紀にロンドンで発生したペストによって、1日に7000人以上が死んだという記録が残っている。1625年にも4万人、1665年の大流行では10万人以上が死んでいる。コレラも19世紀の中ごろに流行をみせ、ロンドン市だけで数万人の死者を出している。この事態を受けて、いくつもの清掃条例が制定されたが、ほとんど効果はなかった。

16世紀には砂を使った乾式トイレのようなものが、1596年にはタンク式のトイレが作られている。しかし、当時の都市には下水道が完備されておらず、また汚物を流す手段もなかったので、結局普及はしなかった。わずかに、「1箇月に1度も風呂に入る」ことから「綺麗好き」と呼ばれたエリザベス1世の要請で、リッチモンド宮殿にこのタンク式のトイレが設置されたのみである。

産業革命を迎えても、汚物にまみれた町並みはしばらく続いた。
これが改善されるのは19世紀になってからである。
改善のきっかけとなったのは、1830年代のロンドンにおけるコレラの大流行であった。この頃から衛生改革が本格化し、上下水道が整備されてゆく。また、現代のトイレでもおなじみのU字型排水溝、水洗タンクなどもこの頃に発明された。
ロンドンに首都水道局が設置されたのは、何と20世紀に入ってからの1903年になってからであった。

【宮廷のトイレ】

「ヴェルサイユ宮殿にトイレがなかった」というのは、歴史を語る上でよく言われるところである。それは正解でもあり、間違いでもある。厳密には「常設のトイレがなかった」と言うのが正しい。

常設のトイレの代わりとして、宮殿では仮設椅子式便器が採用された。椅子の中が中空になっており、そこに「おまる」を仕込んだものである。ただし、その数はルイ14世の時で274箇。当時のヴェルサイユ宮殿には1000人の貴族・王族と4000人の召使いが常時出入りしたというから、まったく足りなかった。宮殿には水道が通っていたが、それはもっぱら噴水のために使用された。
しかし、トイレが不足していたからといって、当時の宮殿を利用する人が凄まじく「不便」な状況に置かれていたというわけではなかったようだ。なぜならば、王侯貴族をはじめとして、多くの人々は建物の片隅や庭先に平然と「落し物」をしたからである。ヴェルサイユ宮殿は糞まみれの宮殿でもあったのだ。

この不潔な状況はフランスだけでなく他の国でも同じようなものだった。1589年のイギリスでは、建物内での排泄を禁じる法律が制定されている。これはもちろん、建物内の「トイレ」に排出することに関するものではなく、建物に「直接」排出したことを禁じたものである。
1658年に書かれた本には、舞踏会に参加した女性が庭の鉢植えに立小便をしたという記述がある。同じ頃の作法書にも、「尿意を感じたらすぐさま放出すべし」と書かれている。中世のスカートといえば、胸より下の部分が大きく膨らんだ「フープ・スカート」が主流であるが、この形も立ったまま排泄しやすいようにとの配慮から生まれたものである。
また、「いかに優雅に垂れ流すか」についての模索も始まった。オランダの人文学者エラスムスは「用便中の人に挨拶するのは無作法である」と書き残しているし、18世紀初頭の作法書「紳士道」には、「用便中の人を見かけたら見てみぬふりをすること」という記述がある。」

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411408594
「貴族の館、ベルサイユ宮殿などでは、トイレがなく、広大な庭園のバラ園に限らず、花壇が用足しの場所であったという。貴族の女性の大きなフレアの広がりのあるスカートは、そのまましゃがんで、他人から見られることなく、用を済ませるための工夫でもあったという。「ちょっと花を摘みに」という女性の、用足しの言い訳は、ここから由来している。」

信じられないようなおおらかさだったようですね。^^; ハイヒールも同じようなことから発明されたんですねえ。しかも、男の履物だったんだなんて、、、^^
お風呂も余り入る習慣なかったのと、体臭がアジア人よりきつかったために、香水が発明されたんですよね。肉も痛みやすかったわけで、、、その臭い消し目的の意味で香辛料が重宝されたんですよね。。。?間違ってたらご指摘くださいませね。Orz〜

上下水道の普及率に伴って、経口感染症は激減し、ピロリ菌も昔の人ほど感染率が高いのもむべなるかななんですよ。下水道設備が整備されてる最古のものはモヘンジョダロ遺跡だったはずだから、その忽然と姿を消したという民族の科学?衛生観念って進んでたんでしょうね!


画像:ツツジ真っ盛り

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わたしも多分これだった可能性のある症例を経験しました、、、
なにぶん若い女性で、頚部リンパ節生検はしませんでしたが、、、1ヶ月くらい発熱が続きましたがNSAID(Non-Steroidal Anti-Inflammatory Drug :消炎鎮痛剤)のみで、その後は治癒されたようです。

http://www.jcr.or.jp/trc/255/s2/s2_1.html

「症例:10代女児

既往歴、アレルギーは特になし。
現病歴:明らかな誘因なく、圧痛を伴う左頸部腫脹を認めた。その後微熱が続き、近医で抗生剤を処方されるも下熱せず、吐き気、食欲低下も訴えたため入院精査となった。入院時、左頸部は手拳大に腫大していたがその他の部位には特記すべき所見を認めなかった。」

画像:MRIの横断像
      縦断像

「画像の説明:
左頸部の腫大リンパ節はT1強調像で骨格筋よりやや低信号、Gd-DTPAによる造影で、強い増強効果が認められる。」

「鑑別診断:
悪性リンパ腫、炎症性リンパ節炎(結核性、ウイルス性)、SLE、(血球減少が見られるので)血球貧食症候群」

「確定診断;亜急性壞死性リンパ節炎

検査所見は、白血球1900、血小板122000と低下、CRP2.62と上昇していた。血液諸検査、骨髄生検の結果、ウイルス感染、結核性リンパ節炎、膠原病、血球貧食症候群、悪性リンパ腫は否定的であった。左頸部の腫脹は自然軽快しつつあり、生検は行わなかったものの、亜急性壞死性リンパ節炎の診断にて、抗生剤、ステロイドなどの投与は行わず、経過観察のみとした。3週間の経過で、左頸部腫脹はほぼ消失、白血球、血小板、炎症反応の正常化を認めたため、退院となった。

亜急性壊死性リンパ節炎
(subacute necrotizing lymphadenitis, Kikuchi-Fujimoto disease)
概念:1972年に菊池らにより報告された原因不明のリンパ節疾患 
   10−30代の女性に多い(男:女=1:2)
臨床症状:発熱、一側あるいは両側の頸部リンパ節腫脹、腋窩、鼠径部に見られることもある。軽度の圧痛。
検査所見:白血球減少、血症板減少、CRP 陽性 LDH 高値。時に GOT,GPT 高値
予後:抗生物質無効
発熱や頸部痛に対して、非ステロイド系鎮痛下熱剤を投与することがある。発熱が持続する時にはステロイド剤が有効。予後良好で、1−3ヶ月で自然治癒。時に再発。」

http://www2.ocn.ne.jp/~toyamate/rinpa.htm
「リンパ節の腫れ

〜 生理的なものあり、病的なものあり 〜

血管の中を血液が循環していることは誰でも知っていますが、体にはリンパ管という血管よりもっと細くて軟らかい管が、もう一つ張りめぐらされており、その中をリンパ液がゆっくりと循環しています。リンパ管は腸から吸収された脂肪分を運んだり、血管から漏れ出た水分を回収したりする役目を負っています。また、血管とつながっていて、血液とリンパ液の中をリンパ球が行き来し、体の免疫(外から入ってきた異物への対応)に重要な役割を果たしています。リンパ管の途中には、ところどころにリンパ節というろ過装置があって、リンパ液の中を流れている異物や細菌などをせき止めます。そして、このリンパ節の中でいろんな反応が起った結果、それが腫れてくるのです。
【生理的なリンパ節の腫れ】
体の表面に近い部分で、リンパ節がたくさん集まっている場所は、上から、後頭部の髪の生え際〜耳の前後〜首筋〜アゴにかけてのライン、腋の下、そけい部(足の付け根)などです。誰でも、体の中に全部で数百個のリンパ節を持っているのですが、普通は小さくて皮膚の上からさわってもわかりません。ところが、カゼをひいたりケガをしたりして、細菌やウイルスがリンパ液の中に入り込んでくると、まず、リンパ節の中でせき止められます。やがて、それらの正体を見きわめたり、退治しようとして白血球やリンパ球が集まってきて、戦いを挑みます。多くの場合は、白血球方が勝利をおさめますが、その戦いの結果としてリンパ節が腫れてくるのです。多くの場合は、小競り合いですみ、発熱など他の症状は特になく、リンパ節を押さえても痛くありません。大きさもせいぜい小指の頭ほどで、知らないうちに、また小さくしぼんでいます。カゼひきやケガが多くて、しかも免疫の働きが活発な子どもの時に、小さなリンパ節が腫れて、皮膚の上からグリグリさわるのは生理的なことで、全く心配いりません。しかし、扁桃腺が腫れていたり、口内炎があったり、皮膚に傷やとびひがあったりして、どんどん細菌がリンパ液の中に入り続けている状態であったなら、抗生剤を内服して、それ以上細菌が入らないようにします。表面がツルツルしてよく動く、まるで大豆のようなグリグリを見つけて、外来を受診されるケースがよくありますが、以下に述べる、病的なリンパ節の腫れの始まりでしたら、どんどん腫れが大きく(2cm以上)、硬くなってきたり、数が増えてきたり、痛んだり、発熱など他の症状が出てきたりします。様子を見ていて、そのような変化があれば、再度病院を受診してください。

【病的なリンパ節の腫れ】
・ 化膿性リンパ節炎
細菌がリンパ節の中で白血球などの攻撃に打ち勝って、どんどん増え始めると、リンパ節の腫れがどんどん大きくなって、痛みや発熱を伴います。表面の皮膚にまで炎症が及び、赤く熱をもってくることもあります。上気道炎や扁桃腺炎を起している、ブドウ球菌や溶連菌などが首のリンパ節炎の原因となっていることが多いです。血液検査では白血球数が増加し、CRP、血沈などの炎症反応が上がります。早めに抗生剤による治療が必要です。
・ ウイルス性リンパ節炎
化膿性リンパ節炎に比べ、発熱と痛みがそれほどでもありません。通常、複数のリンパ節が腫れています。抗生剤は効きませんが、時間が経つと自然に腫れは治まってきます。
・ 結核性リンパ節炎
普通の抗生剤で効果がない、長びくリンパ節の腫れがあると、疑いを持ってツベルクリン反応をしておく必要があります。
・ 亜急性壊死性リンパ節炎
発熱を伴い、首のリンパ節が腫れて痛みます。原因は不明ですが、自然に治まってきます。最終的にはリンパ節生検(リンパ節の一部または全部をとって、顕微鏡で詳しく調べること)をして診断をつけます。
・ 猫ひっかき病
猫にひっかかれるか、接触すると、その部位に発疹を生じ、近くのリンパ節が腫れて痛むことがあります。バルトネラという細菌の感染により、腫れは数ヶ月続きますが自然に治まります。抗生剤はほとんど効きません。
・ 悪性リンパ腫、白血病などの悪性腫瘍
リンパ節の腫れが親指の頭大を超えてさらに大きくなる傾向があり、硬く、あまり動かず、押さえても痛まず、時には他のリンパ節も腫れてきた場合には悪性腫瘍の可能性も考えなければいけません。抗生剤は全く効果がなく、血液検査では炎症反応は陰性かあまり高くなく、LDHという酵素が上昇していることが多いです。疑えば、リンパ節生検をして診断をつけます。
・ 全身の症状の一つとしてのリンパ節の腫れ
病気の一つの症状としてリンパ節が腫れる場合があります。川崎病、伝染性単核症、若年性関節リウマチ、風疹などです。しかし、この場合はその他の症状の方が前面に出て、「リンパ節が腫れた」との訴えで来院されることはむしろ少なくなります。
・ リンパ節の腫れと間違いやすいもの
おたふくかぜ:耳下腺や顎下腺の腫れが、リンパ節の腫れと紛らわしいことがあります。
蜂窩織炎:皮膚の下の深い部分が化膿した状態です。化膿性リンパ節炎もひどくなると蜂窩織炎を伴います。 」

http://www.geocities.jp/study_nasubi/t/t4.html
「リンパ節腫脹の原因としては,良性のリンパ節腫脹が最も多く,84%程度。このうちの65%程度はウイルス感染症などに付随して起きる非特異的なもので,35%程度は伝染性単核球症,トキソプラズマ症,結核などの特異的な疾患である.残り16%が悪性疾患で,悪性リンパ腫ならびに癌の転移である.

診断のポイント
?@伝染性単核球症
若年者に多い.EBVの感染が原因で,発熱,咽頭痛とともに,頸部などのリンパ節腫脹をきたす.軽度の肝腫大と肝機能異常を伴うことがある.末梢血に異型リンパ球が出現し,血清学検査でEBV抗体としてVCA,EA,EBNA抗体を検査する.VCA-IgMが高値のときには診断価値が高いが,それ以外のときには間隔をあけたペア血清で抗体価の変化をみて判断する。
?A亜急性壊死性リンパ節炎
10〜30歳代の女性に多く,発熱と頸部,稀に腋窩や鼠径部のリンパ節腫脹をきたす.比較的リンパ節は硬く,コリコリと触れる.軽度の圧痛,自発痛をみることが多い.原因は不詳で,確定診断は生検で行われる.予後は良好で,1〜3か月で自然治癒する.
?Bリンパ節結核
側頸部に多い.弾性硬で,多数のリンパ節が融合して腺塊を形成して可動性の悪いことがある.皮膚に難治性の潰瘍を形成し,瘻孔をつくることもある.分泌物があるときには,それを培養する.診断はリンパ節を生検し,病理組織学的および培養検査で確定する.
?C悪性リンパ腫
弾性軟のリンパ節腫脹をきたす.1個のことも複数のこともある.通常は無痛性であるが,急速に腫脹するときには,圧痛・自発痛を伴うことがある.反応性のリンパ節腫脹が否定されたり,診断がつかないときには生検を行って確定診断を行う.病理組織検査だけでなく,表面マーカー,染色体,遺伝子検査も行い,病型の分類を行う.
?D癌の転移
非常に硬く,周囲と癒着して可動性の乏しいリンパ節として触知される.胃癌など消化管の悪性腫瘍は,しばしば左鎖骨上窩のVirchowリンパ節に転移する.その他の癌では,原発臓器の所属リンパ節を中心に転移がみられる.生検して確定診断する. 」

菊池病に関しては以下のサイトが詳しいのでご参照下さいませ。Orz〜

http://www.f-teisinhp.japanpost.jp/pdf/byokinoprofile/ProfileNo.27.pdf
「組織球性壊死性リンハ節炎   菊池病

この病気は1972年に福岡大学・病理学教室の菊池昌弘教授によって発見され、 また同じ年に独立に藤本吉秀氏らによって報告されたもので、病気の単位として確 立してからまだ30年に充たない病気である。 ここ福岡市と周辺地域の医療機関では毎年何例かの患者が訪れる。筆者もこの半 年で2例診る機会があった。おそらく他の地域でも同様であろう。 以前この病気は亜急性壊死性リンハ節炎 subacute necrotizing lymphadenitis と呼ばれていたが、近ごろでは組織球性壊死性リンハ節炎   菊池病 histiocytic necrotizing lymphadenitis (HNL)  Kikuchi's disease と呼ばれることが多く、国際的 にもこの病名が定着しつつある・・・」

ってことで、たまに遭遇することがありますようで。。。
鑑別が大事ですね。確定診断はやっぱり組織(生検なのかな。。。)

画像:頚部リンパ節捺印(Giemsa,HE)・・・すみません、、、アップできません。Orz〜
以下のサイトご参照下さいませ。

http://www.yamagiku.co.jp/byouri/syourei/syourei07.htm
「22歳女性、発熱、頚部リンパ節腫

1) 腫大した副皮質(T細胞領域)に核片(アポトーシス小体)を貪食するマクロファージが集簇する。周囲には活性化されたリンパ球(

閉鎖孔ヘルニア

イメージ 1

イメージ 2

症例 80代、女性。
主訴:腹痛、嘔吐、右大腿部痛。
現病歴:元来健康。急に夜中上記主訴にて受診。KUBx-p(腹部単純立位)にて、二ボー(niveau=
air fluid level:気体液面像)(+) を認め、イレウス(腸閉塞)と診断。入院とし、絶食、点滴にて、精査となる。血尿(+)。以前も同様のアタックあり、他院で尿管結石と診断され良くなった由。体格痩せ形。NSチューブ(鼻から胃に管を入れ、減圧を図る)挿入。肉眼的には、鼠径ヘルニア、大腿部ヘルニアは認めず。CT、エコーにて、閉鎖孔ヘルニアと診断され、上位病院に転送。緊急手術となり、状態回復された。腸管の一部は壊死に陥っていた由。

<閉鎖孔ヘルニア(Obturator hernia)について>

・ 閉鎖孔の外上方で、後腹膜腔から大腿に向けて閉鎖膜を貫いて走行している閉鎖管を通って大腿内
  側に脱出するものをいう。
・ 60歳以上の高齢者が80%を占め、男女比は 1:20〜25 と圧倒的に女性に多い。
  (やせ型の多産婦に多い。)
・ 嵌頓臓器はほとんどが、回盲弁から100cm以内の小腸である。
・ 一般の腸閉塞のうち閉鎖孔ヘルニアが原因となることは0.4%と非常に稀である。
・ ヘルニアは大腿の深部に突出するので、通常腫瘤として気づかれることはほとんどない。
・ ヘルニア門が小さく強靭であるため嵌頓を起こしやすく、嵌頓によって初めて症状が起こる。(小腸
  の嵌頓型は50〜78%が、腸管壁の一部が嵌頓す  る Richter 型嵌頓である。このため初期には不
  完全腸閉塞が生じて腹痛・嘔吐が出ても、自然環納が起こり症状が改善してしまうことがある。)
  自然環納が起こらずに時間が経過すると完全腸閉塞に進展する。そのまま早期診断がつけられず、
  単なる腸閉塞と診断され保存的治療が続けられると、嵌頓腸管が壊死に陥る。
・ 閉鎖管内を走行する閉鎖神経が圧迫されて、膝から大腿内側、時に股関節部に痛みが出現すること
  がある。痛みは大腿を伸展・外転・外旋させたり、咳をさせると増強する(Howship-Romberg
  sign)。

・救急総合診療の本より

開腹歴のない高齢女性の腸閉塞では、大腸ガンによるものと、ヘルニアを考える。鼠径/大腿ヘルニアは身体所見で診断できる。閉鎖孔ヘルニアは、骨盤の閉鎖孔に腸管が嵌頓し腸閉塞で発症する。
高齢で、低身長の痩せ形女性に多い。数年前までは、外表変化が全くないためベッドサイドで診断することは不可能とされてきたが、近年、CT で容易に診断できるようになり、さらに最近では、US による術前診断率が向上してきた。
腸閉塞では、腹部の診察だけで済ませがちであるが、下着を下ろして、鼠径部のUS を行うことが必要である。鼠径靭帯のやや尾側で、外閉鎖筋と、恥骨筋の間に嵌頓腸管が見える。直腸診で圧痛のある閉鎖孔ヘルニアを蝕知できる。
・Howship-Romberg 症状
 閉鎖神経圧迫症状による大腿内側におよぶ疼痛。

<症例アラカルト>

・2003.2.日臨外会誌
大腿膿瘍をきたした Richter 型閉鎖孔ヘルニアの1例

・2003.4.Journal of Joint Surgery
3ヶ月にわたり股関節痛を訴えた閉鎖孔ヘルニアの1例

・2003.6.日本腹部救急学会雑誌
術前診断し得た閉鎖孔ヘルニアの3例

・2004.3.日本腹部救急学会雑誌
4年間、嵌頓と自然整復をくり返した閉鎖孔ヘルニアの1例

http://www.aso-group.co.jp/aih/kouhou/kakuka/housya/tf/case420/answer.htm

画像:右閉鎖孔ヘルニア嵌頓によるイレウス

「<画像所見>
右閉鎖孔外側に、径約1.5cm大の造影効果を伴わない腫瘤影を認める。腫瘤は骨盤内の腸管と連続し、口側腸管の著明な拡張を認める。閉鎖孔ヘルニア嵌頓によるイレウスの所見。」

上の画像では、腸管内に、二ボーが見られます。
重複しますが、、、
「<解説>閉鎖孔ヘルニアについて

 閉鎖孔の外上方で、後腹膜腔から大腿に向けて閉鎖膜を貫いて走行している穴が閉鎖管であり、内部を閉鎖神経・閉鎖動静脈が通っている。閉鎖孔ヘルニアとは閉鎖管を通って大腿内側に脱出するものをいう。60歳以上の高齢者が80%を占め、男女比は 1:20〜25 と圧倒的に女性に多い。(やせ型の多産婦に多い。)嵌頓臓器はほとんどが、回盲弁から100cm以内の小腸であり、その他大網、卵管、卵巣、子宮などが含まれることもある。一般の腸閉塞のうち閉鎖孔ヘルニアが原因となることは0.4%と非常に稀である。
 
ヘルニアは大腿の深部に突出するので、通常腫瘤として気づかれることはほとんどない。ヘルニア門が小さく強靭であるため嵌頓を起こしやすく、嵌頓によって初めて症状が起こる。(小腸の嵌頓型は50〜78%が、腸管壁の一部が嵌頓する Richter 型嵌頓である。このため初期には不完全腸閉塞が生じて腹痛・嘔吐が出ても、自然環納が起こり症状が改善してしまうことがある。)自然環納が起こらずに時間が経過すると完全腸閉塞に進展する。そのまま早期診断がつけられず、単なる腸閉塞と診断され保存的治療が続けられると、嵌頓腸管が壊死に陥る。閉鎖管内を走行する閉鎖神経が圧迫されて、膝から大腿内側、時に股関節部に痛みが出現することがある。痛みは大腿を伸展・外転・外旋させたり、咳をさせると増強する(Howship-Romberg sign)。

治療は、ヘルニア環納・修復術、壊死腸管切除術が行われる。様々な手術法があるが、最近は腹腔鏡下手術による腹腔外からのアプローチが一般的になっている。」

この疾患の特徴では、大腿部を伸展すると、大腿部表面の神経痛の増強が特徴であり、確かに足を曲げられた状態であった。閉鎖孔ヘルニアは、肉眼では認められないため、エコー、CTが必須。痩せ形高齢の女性に多い。ヘルニアのタイプとしては、嵌頓は稀のようで、ケースレポートを見ても、何年も同様の発作を繰り返し、整形外科や泌尿器科的な疾患としてフォローされるケースがままあるようです。
イレウスの時は、診断のためにパンツを下ろしてみることが必要なのですよ!^^;

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