アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

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ヴィーナスの変遷^9

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前回の続きです。v

http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~ssuzuki/ClassLecture/Matriachy_Myth_Hyuga_Transformation_Venus.htm
「ロココ的楽園:ブランコ
逸楽・優雅・芳香→〈雅の宴〉fete galante
「男がこれほど粋で上品に見えたことはなかった。この時代では真理でさえ裸であるかずに、ちゃんと着物をつけて、いつでも才気をきらめかした」(フックス)180 

ポリフォニー:「うずくまる女と子供」(ピカソ)
スキンシップ(フィジカル・コンタクト)がある作品は、名作だ。197 

形態の発展(アンリ・フォション進化論)からヴィーナスの変貌を説明する。209 」

http://art.pro.tok2.com/R/Rococo/Rococo.htm
「ロココ 18世紀

マリー・アントワネットの時代である。フランス革命まで続く。17世紀末のベルサイユ宮殿に代表されるような豪華さはないが、貴族的な優美さがある。ロココスタイルはフランスを中心に、18世紀のヨーロッパへ広がって行った。 以前のように、真面目な美術ではなく、ちょっと薄っぺらで軽いのが特徴である。ロココという言葉はフランス語で、貝殻装飾(ロカイユ)からきている。政治的には安定期である。しかし、美術の世界では、少しだが、変化はある。
フランスはアカデミーの理論が力があったが、1704年のサロンでは、はじめて、風俗画が大量に登場している。歴史画が中心だったアカデミーに対する挑戦である。
18世紀は、歴史上の英雄や理想的な風景よりも、現実に目を向けるようになった。加えて、アカデミーの合理主義的な理論とともに、「感情」が重視されるようになる。19世紀のように価値の多様化はまだ、そう多くは見られないが、その礎は築かれつつあったのである。そうした、流れは、現実生活の変化にも由来する。ロココ装飾に表れた中国趣味、1738年に始まったヘルクラネウムの発掘、続くポンペイの発掘は、18世紀に生きる人々に、ヨーロッパ以外の世界、あるいは古代世界を、身近なものとしてとらえていく機会となった。社会の中心も貴族だけではなく、市民階級が台頭し、美術のパトロンとしても参加するようになる。
シャルダン、フラゴナールなどは、経済力をつけてきた市民の支持なしには活躍できなかった。
ルイ14世の長い治世の後、ルイ15世(在位1715-1774)の、再び長い治世が始まっていた。
ルイ15世は、王権に対して、さほどの絶対性はなかった。ルイ14世は王権を造り上げなくてはならなかったが、ルイ15世にとって、王権は、与えられたものだったからである。美術の分野ではアカデミーは、その権威を振るっていた。
画家は名誉が欲しければ、アカデミーに「歴史画家」として、入会することが、一番であった。上流市民が増え、歴史画家でなくても、注文が取れ、生活できた画家たちも、名誉が欲しくて、歴史画に挑戦した。シャルダン、グルーズ、フラゴナールがそうであった。風俗画、肖像画家として、人気があったのにもかかわらず、歴史画家になることを痛烈に望んだ。肖像画は、18世紀、「人間」に興味が向いていくのと同時に、そのレパートリーを広げていく。人間の性格や心理を表現するようになり、より自然で、親しみやすさが強調された。特に、17世紀にはほとんど見られなかった、子供の肖像画が増えたのは特徴的である。それまでは、子供は単に、身体の小さい「大人」だった。しかし、18世紀になると、ルソーに代表されるように、子供は「純粋無垢」の存在である、という考えが広がった。これは、今日まで継承されている思想である。」

http://www.artcyclopedia.com/artists/detail/Detail_fragonard_jean-honore.html
画像:上:The Swing
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/h-inb1/h-roc/h-fra/IPA-inb640.htm
画像:中:【ブランコ】 ジャン・オノレ・フラゴナール[フランス 1732-1806]

二枚の絵は微妙に違いますよね?
子犬は見当たらないし、、、左側の天使は下にはいないし、、、
どちらかが版画で少しアバウトになってるんでしょうか、、、^^;

http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/051008.htm
「ジャン=オノレ・フラゴナール作『ぶらんこ』は、18世紀中頃のフランスで絶賛された絵画。

緑濃い森の奥深く、太い枝に吊られたブランコで遊ぶ妙齢の貴婦人と、その足元でスカートを覗き込む若い男。木陰にはブランコを揺する老人が描かれます。 周りのキューピッドたちは戸惑いを見せたり、指を立てて合図を送ったりします。まるで見てはいけない、大人の恋の物語を覗いたかのような絵画です。
35歳のフラゴナールが描いた『ぶらんこ』は1767年、版画に刷られて出回るほどの評判でした。当時は後に「ロココ時代」と呼ばれる、愛と恋、エロスに彩られた時代。そして『ぶらんこ』の端々には、エロスのモチーフが溢れています。
フラゴナールは南仏出身ですが、幼少時からパリで暮らしていました。
絵の才能を発揮した彼は、人気画家・ブーシェのもとで修業を積みます。そして弱冠20歳で画家の登竜門であるローマ賞を受賞し、イタリアへ留学しました。帰国後フラゴナールは、堅固な構図と際立つ明暗法で古代ギリシャの物語を描き、美術アカデミーの準会員になりました。

18世紀のロココ時代、ファッションは華麗で繊細、贅沢な貴族趣味を反映していました。そして家に縛られてきた貴族の女性たちは、結婚と出産の後に、自由な恋愛を謳歌していたといいます。

『ぶらんこ』に描かれた若い2人は、注文主の男爵とその愛人。男爵からは揺らめくスカートの中が窺えます。
そして女性の足先から飛んでいるのは、踵のないミュール。履きやすくて脱ぎやすい靴に、恋愛を楽しむ女性の思惑が表れています。右隅の子犬は男性自身、男爵がひそむバラの花は女性自身の象徴。男女の仲を取り持つ天使、ブランコの空を舞う感覚など、モチーフには性的な意味がありました。画家の目の前にいるのは、それまでの道徳や常識の枠から遠く離れた貴族たち。その屈託のない自由な恋愛に接して、フラゴナールは性的なシンボルを明るく描き込みました。
さらにフラゴナールは『ぶらんこ』で、注文主の依頼とは異なる演出をしていました。それは貴婦人のブランコを揺する老人。この人物を司教として描くように男爵は依頼したといいますが、フラゴナールは貴婦人の夫に変えて描きました。奇妙な三角関係、貴族たちが繰り広げる滑稽な現実を、画家は皮肉を込めて描いたのかもしれません。

『ぶらんこ』により、フラゴナールは時代の寵児となりました。ポンパドール夫人らを中心に、ヴェルサイユ宮殿はロココ芸術で華やいでいました。しかし1776年、フラゴナールに予期せぬことが起こります。 ポンパドール夫人の亡き後、ルイ15世の愛人となったデュバリー夫人の依頼で、彼は連作『恋のなりゆき』を描きました。華やかさで繊細な曲線に飾られた、素晴らしい作品であります。
ところがこの作品は、デュバリー夫人に突き返されてしまったのです。恋の駆け引きにうつつを抜かす貴族たちを、フラゴナールはユーモラスに活写しました。デュバリー夫人は、彼の心の中に気付いてしまったのでしょうか。

『ぶらんこ』は1865年、ロンドンのウォレス・コレクションに収められます。ハートフォード侯爵家が5代に渡って集め、後に国家に寄付された、豪華絢爛なコレクションです。18世紀という貴族社会末期の文化、ロココ美術の棹尾を締めくくる名画『ぶらんこ』は軽やかで優雅、少しエロティックです。

そして軽薄な貴族社会を皮肉る、冷静な市民の目も隠されています。ジャン=オノレ・フラゴナール作『ぶらんこ』は、有り余る才能を繊細な絵筆に託し、ロココという時代を浮き彫りにした画家の洒脱なエロスである。 」

画像:下:閂<かんぬき>(1780年、ナショナルギャラリー (ロンドン)収蔵)
画像:最下:ヴィーナスの目覚め

わたしは軽薄と呼ばれかねない絵ってのも好きですね。^^
自分が軽薄なだけに(?)親しみやすい。。。フラゴナールさんには失礼ですか。。。Orz〜
描きたいものを描きたいから描いたのなら、如何様に解釈されようとも、フラゴナールさん自身は微動だにされないはずだとは思いますけどね、、、^^;

「うずくまる女と子供」(ピカソ) は、探せませんでした。。。^^; Orz〜

ポリフォニーに関して・・・以下のサイト(書評)を ^^
http://www.bk1.co.jp/product/22913/review/2445

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奇数の完全数^4

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%95%B0

「奇数の完全数

奇数の完全数が存在するか否かは、未解決である。もしNが奇数の完全数ならば、Nは次の各条件を満たさなければならない。
*N=q^αP_1^2e_1・・・p_k^2e_kである。
*ここでq,p_1,p_2,...,p_kは相異なる素数でq≡α≡1 (mod 4)を満たす (Euler)。
*上記のとき、Nは 2^(4^(k+1))より小さい(Nielsen 2003)
*上記で、e_1≡e_2...≡e_k ≡ 1 (mod 3) でない(McDaniel 1970).
*上記で、e1 = e2 = ... = ek = βのとき、βは1,2,3,5,6,8,11,12,14,17,18,24,62でない.(Steuerwald,Hagis,Cohen)。
*上記で、e1 = e2 = ... = ek = βのとき、kは4β^2 + 2β + 2以下である。(山田智宏)。
*Nは12m+1または36m+9の形をしている(Touchard, 1953およびSatyanarayana, 1959)。
*Nは二つの平方数の和でなければならない(Stuyvaert, 1896による?)。
*N > 10^300 (Brent, Cohen, Te Riele, 1991)。
*Nは少なくとも9個の相異なる素因数を持つ (Nielsen, 2006)。3で割り切れない場合は12、3でも5でも割り切れない場合は15、3でも5でも7でも割り切れない場合は27個の相異なる素因数を持つ。(Nielsen,Norton 1960,2006)
*Nは10^8より大きい素因数を持つ(大野泰生、後藤丈志, 2006)。
*これは1955年にMuskatによって主張されていたが、その証明は発表されていない。これより古い下界としては10^7 (Jenkins, 2003), 10^6 (Cohen, Hagis, 1998) などがある。
*Nの2番目に大きな素因数は10^4より大きい (Iannucci, 1999)。
*Nの3番目に大きな素因数は100より大きい (Iannucci, 2000)。
*kを上記のようにおいた場合、Nのi番目に小さい素因数をp_iとすれば、p_1< 2+2k/3である(Gr殤, 1952)。またi=2, 3, 4, 5, 6のとき、p_iは2^(2^(i-1))*(k-i+1)より小さい(Kishore, 1981)。
*Nは重複も数えて少なくとも75個の素因数を持つ (Hare, 2005)。」


上のうち、

1) N=q^αP_1^2e_1・・・p_k^2e_kである。
は、今までのわたしのアルゴリズムから言えてますよね。^^v

2) ここでq,p_1,p_2,...,p_kは相異なる素数でq≡α≡1 (mod 4)を満たす (Euler)。

これも言えますね。

3) 上記で、e_1≡e_2...≡e_k ≡ 1 (mod 3) でない(McDaniel 1970).

これも言えそう。

*Nは二つの平方数の和でなければならない(Stuyvaert, 1896による?)。
これは不思議だなあ。。。全く思いつかない、、、^^;

2),3) に関してはそのうちアップいたします。^^v

画像:レオンハルト・オイラー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC
「オイラーの言葉

* 素数列に何らかの神秘を見出そうという数学者の試みは今日に至るまで実を結んでいない.いろいろ考え合わせると,どうやらこれは人間精神には決して入り込むことのできない神秘ではないかと思われる.
* (右目を失明したとき)おかげでこれからは気が散らなくてすむ.

オイラーへの言葉

* オイラーを読め,オイラーを読め,彼こそ我らの先生だ. - ラプラス
* 生涯全てで…彼は,純粋数学と応用数学の両方にわたって,彼の時代の数学全部を頭に詰め込んでいたかのようである. - アンドレ・ヴェイユ
* 私は,いわば高等解析学の幼少期を与えたにすぎないが,あなたはそれを十分に成長した大人のレベルまでもっていきました. - ヨハン・ベルヌーイ
* 本当に数学の好きな人はオイラーをいつも読まねばならない.彼の本はすべて分かりよく,いい方がうまく,計算がたくみだ,…「人はつねに源において学ぶべきである」 - ラグランジュ
* オイラーは,人が呼吸をするがごとく,鷲が空中にその身を浮かせておくがごとく,はた目には何の苦労もなく計算をした. - フランソワ・アラゴ」

http://nkiso.u-tokai.ac.jp/math/komori/jpeg/euler.htm
「オイラーはスイスで牧師の子として生まれた.父親は数学が好きで ヤコブ・ベルヌーイの弟子となって勉強した.オイラーはヨハン・ベルヌーイ の下で勉強した. (2人の ベルヌーイ には面白い逸話があります.)

 26歳で結婚したオイラーには13人の子供がいた.

 「オイラーは人間が呼吸するごとく,また鷲が空を舞い遊ぶごとく, 見た目には何の苦労もなく計算した」と言われるように, オイラーは子供たちと 遊びながら 数学の研究論文を書いたのである.

 1735年に彼は右目の視力を失ったが,その不幸にもかかわらず彼の研究論文の 数は決して減ることはなかった.

 彼は一生のうちに 500以上 の書物および論文を出版した.そして オイラーの死後も半世紀間,彼の論文はペテルスブルグ・アカデミー から刊行され続けました.

 スイスの援助の下で出版されている彼の全集は 75巻 に達しようとしています. そしていまだかつていかなる数学者もオイラーの論文数を陵駕した者は いません.

 オイラーは早くから国際的名声を得ていたが,フランスアカデミーの 賞を何と 12回 も取っている(1回取るだけでも大変な名誉).

 生涯の最後の17年間は全くの 盲目 で過ごすことになるが,この悲劇さえも 彼の研究と出版の奔流はとどまることなく,1783年にお茶をすすりながら 孫の相手をしている最中に,突然76歳の生涯を閉じるまで続きました.

 オイラーの業績をすべて紹介することはとても無理ですが, π e i の記号はオイラーの考案であることは覚えておいてもよいでしょう. 」

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