アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

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アネモネ

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ボッチチェリの「春」の絵の中央付近に描かれている花が「アネモネ」だそうである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8D%E3%83%A2%E3%83%8D

「アネモネ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アネモネ(英名:anemoneまたはwind flower、学名:Anemone coronaria)は、キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。和名は牡丹一華(ボタンイチゲ)、花一華(ハナイチゲ)、紅花翁草(ベニバナオキナグサ)。Anemoneをアネモネ属ともいい、この属に属する植物の総称として表すこともある。
ギリシャ語で風を意味するヘνεμοV(anenos)から。又、ギリシャ神話中に、美少年アドニスが流した血よりこの植物が産まれたとする伝説があり、稀にアドニスと呼ぶ事も有る。(なお、”adonis”はフクジュソウ属の学名である。)
一般に春先に花開くが、その花は一重のものから八重咲のもの、花色も桃、青、赤、白等。草丈も切花用の高性のものから矮性種まで、野生種のみではなく、現在では様々な園芸品種が栽培されている。

種は長い毛を有し、風によって運ばれる。このため「風」が由来となっている名前が各地で見られる。花弁はなく、萼片が同じ働きをしている。

花言葉 「期待」 「はかない夢」 「薄れゆく希望」」

春を象徴する花ってことですね。v

leo.aichi-u.ac.jp/ ̄goken/goken_news/pdfs/No15.pdf 「GokenNews」

「『ギリシア・ローマ神話』と現代 (1) - 花に変身した美少年たち- 経営学部 山田晶子

【始めに】 今から4000年以上も前のこと、 古代のギリシアではキリスト教とは異なった神々が信仰されてい た。 ギリシアがローマ帝国に征服されると、 神々の名前は変わったがその性質はほとんど同じまま で、 信仰は受け継がれた。 キリスト教が支配的になった西暦1世紀頃、 この古代ギリシア・ローマの神々への信仰は廃れてしまったが、 その神々の物語は 『ギリシア・ローマ神話』 として21世紀の 今まで読み継がれ、世界各国で多くの言語に翻訳され、 現代までの文明・文化へ計り知れない程の影響を与えてきた。 西洋文明・文化を理解する上 で、『ギリシア・ローマ神話』は必須の読み物であり知識の宝庫である。 ・・・『ギリシア・ローマ神 話』 の集大成として有名な書物にオウィディウス (Ovid43B.C.~A.D.17?)の『転身物語』(Metamorphoses) がある。・・・ 題名が 『転身物語』とあるように、『ギリシア・ローマ神 話』では、登場する人間が、神々の罰や気まぐれあるいは憐れみからさまざまな植物・動物等の自然物に姿を変えられた。・・・
【ヴィーナスに愛された美少年アドニス】 ヴィーナスは愛と美の女神として日本でも広く知られている。 歌謡曲の題名にも使われているくらいである。そして絵画や彫刻の題材としても有名である。 「ミロのヴィーナス」 はルーヴル美術 館に入っているが、筆者はパリへ旅行に出かけた 昔、それを拝見した。ゆったりとした体つきで、「お母さん」のような包容力を感じさせる姿である。ボッチチェリ (S. Botticelli) の名作 「ヴィー ナスの誕生」に描かれた初々しい乙女のヴィーナス像とは対照的である。ヴィーナスはラテン名の 英語読みであり、ギリシア名はアフロディティである。さて、ヴィーナスに愛されたアドニスの物語では、ヴィーナスは母親として登場する。息子は 「愛の使い」のキューピッドで、ギリシア名はエロスである。キューピッドはラテン名の英語読みである。キューピッドは、「愛の喜びの使い」というよりも 「愛の悲しみの使い」と言った方がふさわしいのではないのだろうか。と言うのは、キューピッドは金の切っ先の矢と鉛の切っ先の矢の付いた2種類の矢を持っていて、それらを自分の好みで使い分けて、その矢に射られた神や人間を苦しめるのである。たとえば太陽と音楽と薬とスポーツの神として有名なアポロは、キューピッドを怒らせたために鉛の矢を射られて報われない恋に苦しんだ。そしてヴィーナスとアドニスの物語も悲恋であった。キューピッドの母親であるヴィーナスは、息子を抱きしめたときに金の切っ先の付いた矢で偶然胸を刺されたが、痛くもないので気にしていな かった (キューピッドの矢は射られたときは痛みを感じないのだ)。しかし彼女は、矢で射られた直ぐ後に見た少年、若くて美しいアドニス (多分 15,6歳であろう) を見てたちまち恋に落ちてしまったのである (恋は偶然人を襲うのである。意識的に恋をすることはできない)。だがこれはヴィー ナスの片思いであった。アドニスはただ狩りに夢中の美少年で、物語ではヴィーナスの側からの呼びかけがあるばかりで、アドニスが彼女を恋しているとは書かれていない。しかし嫌ったとも書かれていない。ヴィーナスが年上であると感じさせる話で、姉のように彼を気遣っているのが分かる。二人の間には性的な関係はなかったような感じである。 ヴィーナスは、イノシシやライオンや熊などの獰猛な獣からは離れているように、とアドニスに 注意を与えたが、彼はそんな戒めも気にかけていなく、あるときイノシシの牙にかかって命を落としてしまう。悲しみにくれたヴィーナスは、その女神としての力によってアドニスの血から赤いアネモネの花を咲かせて彼の思い出を永遠に留めた。女神に愛されると身を変えても永遠の命を授けられるのである。アネモネは春に咲く花で、花屋さんでも売っている。今は赤や紫や白などの様々な花がある。神話ではアネモネはアドニスのはかない一生を思わせるように風が吹くとサッと散る花であるが、現代では品種改良のためか長持ちするようである。」

画像:上:アネモネ・・・キンポウゲ科のイチリンソウ属(Anemone) 種 アネモネ

   花色は、紅色以外にもあるようですが、、、纏る話しからは赤い血の色が似合ってますね。^^

   下:福寿草・・・キンポウゲ科のフクジュソウ属(Adonis) 種 フクジュソウ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BD%E3%82%A6
「春を告げる花の代表である。そのため元日草(がんじつそう)や朔日草(ついたちそう)の別名を持つ。福寿草という和名もまた新春を祝う意味がある。」

Orchid

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別に花に特別な関心があるわけではないんですが、、、「蘭」=「Orchid」であることをたまたま知ったもので、、、早速グーグってみました。

http://www.i879.com/hana_j/PYA12.html

「東洋ランと西洋ラン、その仲間は多彩
ランは、ラン科に属する植物の総称で、その仲間は約700属2万種以上にものぼります。東洋ランは、古くから日本や中国で栽培されてきたランで、西洋ランは欧米から日本に入ってきたものをいいます。・・・
■歴史
妖しい魅力のランを求めてランハンターも出現
ヨーロッパにはもともと小型で地面に生える地生ランといわれるものしかありませんでした。18世紀に亜熱帯地方の木の上などに生える着生ランの仲間が紹介され、19世紀になると、その美しさと妖しい魅力のため一大ブームが巻き起こります。ランハンターと呼ばれる植物採集家たちが、熱帯の地の珍しいランを求めて繰り出し、発見されたランをもとに新しい園芸品種が次々と生まれました。 ギリシャ神話にもランは登場します。サテュロスの息子オルキスは、女官を襲った罰として八つ裂きになりますが、その亡骸はランとなって地上に残ります。そのためランの塊根は精力増進の効果 があるといわれていました。また、ランの学名は、ランがもつ2つの塊根が睾丸に似てることから、ギリシア語の睾丸(orchis)が語源になっています。

中国では四君子の一つ
中国では古来から、ランを高貴な美しい花として讃え、四君子(蘭、梅、菊、竹)の一つに数えていました。日本では、鎌倉もしくは室町時代にランが園芸用に栽培されるようになったといわれています。江戸時代には東洋ランの栽培が流行し、ランに関する書物もたくさん出されるようになりました。」

「12月の誕生花ランは中国でも古来より愛されていました。高貴で気品の高い美しい花とされ、草木の中の君子として称えた四君子(蘭、梅、菊、竹)の一つに数えていました。
春は蘭、夏は竹、秋は菊、冬は梅と、東洋画の題材となる事も多かったようです。」


蘭の塊根に似てるからってそのまんまのネーミングにしちゃうところが、、、なんともはやデリカシーに欠けるっていうか。。。そう思いませんか?^^;
漢方に「六君子湯」ってのがあるんですが、、、どうも直接の関係はないようです。

ちなみに、「君子豹変」って意味ご存知でしたか?
http://www.geocities.jp/koyanagimeijin/081.htm 君子豹変のすすめ
「◇『君子豹変』の意味を、急に態度を変える卑怯なことと考えていませんか?実はこれほど意味を誤解されていることわざは他にありません。君子豹変の本来の意味は、「豹の毛が鮮やかに抜け代わるように、過ちを素直に認めて善に移ること」。つまり、優れた人は過ちを認めればすぐに直す、という意味です。だからこそ、頭に「君子」がついているのでしょう。

◇かつて「蓄音機に商業的価値はない」と言ったのは、発明者だったエジソン自身。「コンピュータの需要など世界中合わせても5台程度のものだ」と言ったのは、後に世界最大のコンピュータ会社になるIBM会長のトーマス・ワトソンでした。もちろんいずれの予測も大はずれで、20世紀を代表する製品になりました。ただ、エジソンやワトソンの優れていた点は、自分の見通しの過ちに気づいた時、それを認め訂正したことでした。

◇つまらない面子にこだわって、見解を変えるに変えられないことがあります。でも時代は変化するもの。見通しが多少はずれるのは仕方ないことであり、それは恥ではありません。ただそれに気づいた時、過ちを認識し進路を変える勇気があるかどうかが大切なのです。」

だってさ。自分の過ちはきちんと認めて謝ることって大事ですよね。でも、ことによるかな。みんなの方が間違ってることも無いわけじゃないと思うことってないですか?^^;v

http://kojimatsk.hp.infoseek.co.jp/OrchidUnchiku.htm

「蘭は自家受粉などは一切せず、かならずほかの株からの花粉で受粉するという性質があるという。また、受粉をすると10ヶ月ほどもかけて大きな実になり、その中にはほこりのような小さな種子がものすごい数入っているそうだ。
われわれがもっともなじみがある蘭の種子は、といっても意識した人はすくないだろうが、高級店のバニラアイスなどに入っている黒い点である。これはバニラという蘭の実を発酵させたもので(バニラビーンズといい、黒いさやインゲンのような格好をしていて、たった一本が見てくれに似合わず600円もする。・・・)、中の蘭の種子を香り付けに使っているのである。蘭の種子はあのちいさな黒い点ほどに小さなものなのだ。」

知らなかった。。。Orz〜

画像:上:君子蘭
http://araraoasys.web.infoseek.co.jp/niwa13.htm

   中:胡蝶蘭・・・わたしは蘭といえばこっちしか知らなかった。。。美しい花ですね。
http://www.omega.ne.jp/swan/

ランは、12月の誕生花だそうですね。
胡蝶蘭(ファレノプシス)の花言葉は、「あなたを愛します。清純。幸福がとんできます。」v
  
   下:バニラ :ラン科 バニラ属 種 バニラ

「蔓(茎)は樹木やそのほかのものにからんで成長していく。長いときは60mを超える。種子は香料の原料となるが、収穫した豆(種子鞘)には香りはない。ここから発酵・乾燥を繰り返すキュアリングを行う事によって初めて独特の甘い香りがするようになる。鞘の中には非常に微細な黒色の種子が無数に含まれている。」

バニラ風味大好きです。これって蘭に関係してたんだ〜
人間も、いい香りが薫るように熟成したいものですね。^^;v

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前回の続きです。Orz〜

http://www.87-harmony.com/usa/35-2.html アメリカのお茶

「アメリカは、もともと日本茶の大輸入国だった。明治時代には、日本の煎茶の全生産量の8〜9割が主にアメリカに輸出されていた。しかし、1920年代後半には、イギリスの植民地のインドなどの大規模プランテーションから安価な紅茶がアメリカに出回るようになって、日本の煎茶はアメリカ市場から撤退を余儀なくされた。
その後しばらくは日本茶は停滞気味だったが、国民の6割が肥満という国民的課題、高い医療費、日本茶の効能の老化予防と優れたダイエット効果など、健康維持に関心の高いアメリカ人に日本茶が見直され始め、再び勢いを取り戻すようになった。 1977年のマックガバン報告で日本食の良さが実証されると、アメリカ国内には日本食ブームが起こった。それ合わせて日本茶も静かなブームとなってアメリカ中に浸透し始めた。 今やアメリカのお茶ビジネス(日本茶を含む)は5000億円近い一大成長産業となった。何種類もの茶葉からオーダーすることのできる本格的なティーサロンも増えてきている。
正確な数字はないが、LA地域全体だけでもティールームは1000軒近くあるのではないか。ビバリー・ヒルズのロデオ・ドライブ近くのティーサロンではたくさんの珍しい種類のお茶が用意され、連日、スノビッシュな芸能関係者達で賑わっている。
かつてロンドンにはコーヒーハウスが3000軒近くあったと言われるが、アメリカのティーサロンがその数に追いつくのも時間の問題だろう。

イギリスの宮廷・貴族社会のステータスシンボルとなった紅茶。中国やアメリカの歴史を変えるキッカケとなった紅茶。茶の湯として究極の美意識を追求する日本茶。健康オタクのアメリカ国民の心をしっかりと掴んだ日本茶。「お茶」の持つ底知れぬ魔力を感じる。

今、土曜日の朝。いつものようにコーヒー・ビーンズの店先のテーブルで、ブルーベリー・デイニッシュと玄米茶の朝食である。いくら直しても店員は相変わらず、「ジェンマイチャ」としか言えない。
いずれ、日本茶がこの店のトップ商品となって、「ジェンマイチャ」、と芽茶苦茶な発音ではなく、 ちゃんと「ゲンマイチャ」と呼ばれるようになるのもそう遠いことではなかろう。」

おもしろいので全部引用させて頂きました。^^v Orz〜
めちゃくちゃの語源、、、そうなんだ〜v

http://blog.livedoor.jp/takekan/archives/51259695.html
「さいきん、アメリカで、いとうえん(Itoen) のおちゃを見ることが多くなりました。 Itoen's "Teas' Tea" brand seems to be getting popular in the US (http://www.itoen.com/). 伊藤園 (Ito En) is founded in 1966 in Japan and it has been a pioneer in Tea beverage industry. In 1981, Ito En succeeded to produce canned Oolong Tea for the first time in the world, and then made canned green tea in 1985 for the first time. I remember, in those days, people did not believe selling canned tea would be a successful business, because teas were not something to buy: teas were supposed to be free.

Things have changed since then. People have become more health conscious and wealthier. In 2004, Japanese purchased canned/bottled tea about 6,000,000,000 litter (1,542,416,452 Gallons), paying about 4,500 million dollars (estimate). Now, Ito En is expanding its market share in the US.

Ito En's leading brand in Japan is "おーい、お茶 (ooi, ocha)" (http://www.itoen.co.jp/oiocha/). It is very well-known not only as the first brand of canned green tea, but it is known for its Haiku contest. Anyone can submit her/his Haiku to Ito En for the contest, and Ito En selects best ones and prints them on the can of "Ooi, Ocha". Why don’t you submit your own one? 」

http://info.linkclub.or.jp/nl/2005_04/buziness.html
「日本での缶入りウーロン茶の発売は1980年。当初はお茶ごときにお金を払うはずはないと言うアナリストの指摘も多かったが、それから20年を経た現在、お茶は清涼飲料市場の大きな一角を占めるほどにまで成長した。コンビニには各種のお茶が様々な容器やサイズで並び、夏は冷たく冬は温められて提供されている。 この市場のきっかけを作ったのが伊藤園だ。
伊藤園はすでに米国に進出している。米国で主流の清涼飲料は、コーラをはじめとする炭酸飲料が主流で、お茶をベースにしたものであっても、砂糖を加えた甘いものがほとんどだが、お茶本来の飲み方で勝負を挑む伊藤園の製品は甘味料は加えられていない。ニューヨークなど都市部では「スシ・バー」がブームで、そこで食事の際に無糖のお茶を経験する人が多いことなどが追い風となり、発売当初から評判となっている。折からの健康ブームや、禅や茶道などの日本文化への興味も手伝い、比較的裕福な層を中心にシェアを広げているようだ。現在の主力製品である『Tea's Tea』は、2002年3月発売当初は3種類でのスタートだったが、現在では7種類10品目にまでバラエティが広がっている。」

ガンバレ、伊藤園!^^v

画像:ワイルド・リリー・ティールーム Wild Lily Tea Room

http://wttv.jp/pc/shopdetail.php?uid=1465

「観光化されすぎたソーホーに代わり、現在、旬なギャラリーやデザイナーショップなどが最も集中しているのが、ここチェルシー。地下鉄から少し離れたエリアにもかかわらず、たくさんの人が足を伸
ばしている。1998年3月よりオープンしているこの店は、コンテンポラリー・アジアをイメージしている。 オーナーのイネス・サンが数年間温めて実現させたこのティーサロンは、インテリアからハンドメイドのメニューまで細かいところに彼女の手が行き届いていて、ちょっとしたギャラリーとしても楽しめる。ニューヨークでいろいろな種類のティーが揃っているのはここだけで、シーズンものも含め約50種類の日本や中国などのアジアとイギリスからのティーが飲める。ティーを通してさまざまな国の文化を自由に感じて欲しいと願っているイネスは、ティーのサーブする時のお客さんとのコミュニケーションと雰囲気作りを大切にしている。値段は、ティーとデザートで一人およそ15ドル前後。 」

アメリカのティールームの画像ってなかなか探せなかった。。。^^;

Tea^3

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大変勉強になるサイトを見つけました。そこから、、、Orz〜

http://www.87-harmony.com/usa/35-1.html :アメリカのお茶

「・・・週末は近くの自然食スーパーの“Whole Foods”に自然食品を買い出しに行く。最近、このWhole Foodsで、伊藤園の「おーい、お茶!」が売られ始めた。
名前は、「おーい、お茶!」ではアメリカ人にはわからないから「Tea’s Tea」と替えられ、パッケージもアメリカ人に受けそうなデザインに替わった。日本人相手の日本食料品店にはもちろん日本茶のペットボトルが置いてあるが、アメリカ人向けの自然食品大手スーパーで売られるのは初めてのことではないか。
コーヒー一辺倒のアメリカ社会でも、健康飲料としてのお茶の効用が見直されるにつれて、日本茶はアメリカでは静かなブームになりつつある。今回は、「アメリカのお茶」について考えてみる。
NYやLAなどの大都市では、“禅”、“気”などアジア的なものに対する高い関心、世界各国の料理が楽しめる環境、強まる健康への志向、低カロリー・高いダイエット効果、というお茶の効能がアメリカ人に注目されるようになってきた。
アメリカの街角には決まってスターバックスの店がある。近くにはライバルのコーヒー・ビーンズ(西海岸だけ?)の店もある。
コーヒー・ビーンズには、たくさんの種類のお茶が置いてある。ここでは、缶から茶葉をすくって熱いお湯を注いでお茶を作ってくれる。お茶党の私はこのコーヒー・ビーンズの長年の常連である。
私の好きなブランドはChai Tea、Japanese Cherry、Genmai-Chaの3種類だ。これを3ヶ月毎にローテーションして飲んでいる。(Genmai-Chaとは玄米茶のことだが、何回直してやっても彼らはジェンマイチャとしか言えない)
今や、LAのアジア・エスニック料理のレストランでは、ドリンクメニューに“グリーンティー”を見つけることはそれほど珍しくない。食後のデザートも、グリーンティ・アイスクリームは今や定番だ。
・・・

お茶の原産地は、中国雲南省からインドのアッサム地方にかけての山地だと言われている。
昔の中国のお茶は、茶葉を蒸して臼でついて固めた固形茶だったらしい。
宋時代には、多くの労力をかけて香料を加えた高価な固形茶が作られ、表面に金で龍や鳳の装飾をほどこして宮廷に献上していた。明時代になり、民の労力を省くため、このお茶の献上を禁じたことから固形茶は次第にすたれ、現代と同じような茶葉を煎じて飲むお茶が中心となった。
中国のお茶を飲む文化は、奈良・平安時代に大陸に渡った遣唐使の最澄や空海ら僧侶達によって、仏教や他の多くの知識と共に日本に伝えられた。お茶は唐代に栄えた禅宗と深く関わっていた。禅宗の高僧でも座禅では睡魔に襲われるらしく、お茶に含まれるカフェインは眠気覚ましになるし、心を清々しくして禅の心境を極められるというわけで、お茶は禅僧の間で盛んに飲まれるようになり、お茶と禅とが結びついて行った。
そう言えば、禅寺の石庭の風情と茶室の景色はとても似ている。石庭と茶室はその表現方法は違うが、簡素、謙虚、調和、という部分では同じような世界観を背景にしているようにも思われる。
鎌倉時代に入り、栄西禅師が宋の国から持ち帰ったお茶の樹の種が明恵上人にプレゼントされ、明恵上人はその種を京都の宇治近辺に蒔いたのが抹茶の始まり、と伝えられている。
禅宗が日本全国に広まると共に茶道も広まって行った。室町時代には、華やかな東山文化のもとで、村田珠光(じゅこう)が禅の精神を取り入れ、簡素静寂を旨とする茶道を興した。テレビのとんちの一休さん(和尚)は茶の湯に侘びの美意識を持ち込んだ人で、珠光の師匠である。
村田珠光の孫弟子が武野紹鴎(じょうおう)で、紹鴎は侘茶(わびちゃ)の骨格を作り上げた。
そして、紹鴎の弟子で堺の商人の千利休が侘茶を完成させた。
こうして、鎌倉時代には禅が武家の教養だったのに加え、茶の湯が武家のレクリエーションとなり、上流階級の社交手段となった。
お茶を飲むとストレスから開放され、愉快に会話が楽しめるためか、日本では「茶」という言葉がいろいろな形で使われる。「茶化す」、「茶々を入れる」、「茶番」、「お茶を引く」、「お茶を濁す」、、、。なぜか意外と不真面目なニュアンスの言葉が多い。固苦しくて上品な茶道を「茶化す」意味で、庶民がことさら「茶」を貶(おとし)めた、ということかもしれない。
究極は「めちゃくちゃ」だ。語源は「芽茶苦茶」らしい。
「芽茶」は、茶の葉の先端部の丸まった芽の部分の超上級葉だけを集めたお茶のこと。
「茶は三煎して味わう」、という言葉がある。
第一煎は、「新鮮な芽茶に、ぬる目のお湯を注いで、芽茶の甘みを味わう」
第二煎は、「少し熱くしたお湯を注ぎ、お茶の持つタンニンの渋みを味わう」
第三煎は、「熱湯を注ぎ、カフェインの持つほろ苦さを味わう」
このお茶の飲み方を知らない人間は、せっかくの芽茶にいきなり熱湯をかけるから、甘さも、渋みも、苦さもごっちゃになってしまい、風味などは吹っ飛んで、単に「苦々しい味」になってしまう。
「芽茶が苦茶になってしまう」から「めちゃくちゃ」である。

1600年代に、中国から紅茶を買い付け、ジャワ島からオランダ船で本国に送り、ヨーロッパに広めたのはオランダである。この頃は、紅茶はオランダの王侯・貴族など上流階級が飲んでいた。
イギリスでは、最初は、オランダで紅茶を飲んだことのあるイギリス貴族が飲んだらしい。その後、国王チャールズ2世に嫁いだポルトガル王の娘のキャサリン王妃が東洋趣味で、よく紅茶を飲んだことから、紅茶はイギリス宮廷の飲み物となった。」

「その後、東インド会社が中国との交易を始めたことでイギリスでの東洋趣味が一気に高まり、上流階級の家庭では、女王にあやかって銀や中国製の陶磁器のポットを使い、お客の目の前でお茶を入れることがステータスシンボルになった。また、客人はお茶の席で女主人と会話を楽しむのが社交のエチケットとされるようになった。
宮廷内や上流家庭でお茶を楽しむことがイギリス女性の社交であった一方、女人禁制のコーヒーハウスが男性陣の情報交換や社交の場であった。1700年代にはロンドンのコーヒーハウスは3000軒近くもあったという。郵便制度、株式取引所、保険、新聞はここから生れた。このコーヒーハウスで紅茶が飲まれ始め、庶民に深く浸透して行った。
面白いことに、最初にイギリスに持ち込まれた紅茶は烏龍茶を元にした粉緑茶であり、色は茶色ではなく緑色だった。元になった烏龍茶は、高級茶用に摘み取った後の三番茶を輸出用として製茶した最下級のものであり、品質は良くなかった。
肉類主体の食生活では、烏龍茶が口の中の油脂分をきれいに流してくれることが知られるようになり、烏龍茶の中でも発酵度合いの強い良い品質のものにイギリスの需要が移って行った。
この発酵度合いの強い紅茶は、培製(籠に入れて炭火で熱して乾燥する)という方法で作られる。茶葉に含まれる酸化酵素を活用して完全に発酵したものが紅茶で、赤黒っぽい色になる。火を入れて途中で止めたものが烏龍茶。始めに火を入れて発酵させたのが緑茶である。

1760〜70年代は、紅茶は庶民の間にさらに広がった。イギリスの紅茶消費量は激増し、中国茶の輸入が飛躍的に伸びたため、中国との交易決済の金銀が不足し出した。イギリス政府は、インドで採れるアヘンを中国に持ち込むことで金銀の不足問題を解決しようとした。 その結果、中国国内にアヘンが流通して大問題になり、清朝はアヘンの輸入・使用を禁止して密輸業者を厳しく処罰した。これに怒ったイギリスは、1840年、50隻の艦船、兵1万人を動員して攻撃に出た。これが「アヘン戦争」である。
イギリスに敗北した清朝は屈辱的な南京条約を結び、高額な賠償金、香港の割譲、アモイ、上海などの開港、居住・自由な商業の保証の権益をイギリスに認めた。
紅茶がキッカケとなったこのアヘン戦争は、以後100年にわたる列強の侵略、国の分裂、国力の停滞、眠れる獅子へと、中国を転落への道に引きずり込んだのだった。
・・・

to be continued

画像:Tea'Tea

Tea^2

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お茶も今では、ペットボトルの冷茶が席巻してますよね。日本人が冷茶を当たり前のように飲むようになったのもこれの出現があってからのようですから、喫茶の歴史上、エポックメーキングな出来事なんですね。海外のコンビニにもこれが当たり前のように並んでるそうです。v

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6
「ヨーロッパに茶が伝わったのは16〜17世紀。18世紀には紅茶が広く愛用され、イギリスでは午後の喫茶の習慣が起こった。初期には熱すぎて飲めないということでソーサーでさまして飲むという習慣ができた。
またイギリスから植民地のアメリカに輸出された紅茶には高い植民地税が課せられており、これを不満とする市民が起こしたボストン茶会事件が原因でアメリカ独立戦争がおきアメリカ合衆国誕生のきっかけとなった。」

ティーカップとソーサーの皿の方にいれて飲んでたんですね。^^v
歴史には疎いから、、、余りコメントできませんが、清王朝が崩壊するきっかけになったアヘン戦争もたしかお茶絡みでしたよね?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89
「阿片戦争に至る状況

アヘン貿易

当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。逆にイギリスから清へ輸出されるものは、時計や望遠鏡のような一部の富裕層にしか需要されないようなものはあったものの、大量に輸出できるようなものはこれと言って無く、イギリスの大幅な輸入超過であった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは清へ輸出出来る物品として、植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。

これに対し清は、すでに1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していたが、アヘンの密輸入はやまず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。またアヘンの輸入量増加によりイギリスの(銀)出超だったのが、清の(銀)出超になり、清国内の銀保有量が急速に減っていき銀の高騰をまねいた。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が使用されていた。交換比率は相場と連動しており、銀貨1に対して銅銭1000文であったものが、銀の高騰により銀貨1に対して銅銭2000文という比率になった。銀本位制であるから税金は銀で換算されるため、農民が納める税金は二倍になった計算である。銀が不足し値が上がる事は物価が上がる事と同義であり、地丁銀制が事実上崩壊し、経済にも深刻な影響を及ぼした。

アヘン取締

ここで官僚の許乃済から「弛禁論」が出た。アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い。と言う論である。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、今度はアヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う意見が出て、道光帝は林則徐を欽差大臣(特命大臣のこと)に任命し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。

林則徐は阿片を扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しい阿片取り締まりを行った。1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後一切アヘンを持ち込まない」と言う誓約書を出す事を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収し、これをまとめて焼却処分した。(実際は、海水<食塩水>と消石灰による化学反応によって、阿片を無害な物質に変えて処分したことから、その時まきあげた化学反応の煙によって、焼却処分したと庶民には伝承されてきた)この時のアヘンの総量は1400tを越えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。

イギリスの監察官のチャールス・エリオットはイギリス商船達を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を出せば貿易を許す」と返した。実際にアメリカ商人は誓約書をすぐに出してライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。それを横目で見ていたトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を出して商売を再開するようになった。これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出して引き止め、再度禁輸の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。

戦争勃発

1839年11月3日、林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にはイギリス本国の議会でも、野党であった後の首相ウィリアム・グラッドストンを中心に『こんな恥さらしな戦争はない』などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、イギリス東洋艦隊が清に向けて進発した。

艦隊は広州へは赴かず、いきなり天津沖に姿を現した。北京に近い天津に軍船が現れたことに驚いた北京政府は(政権内の権力闘争も兼ねて)林則徐を解任し、イギリスに対する政策を軟化させた。

1840年11月、イギリス艦隊は清政府に対して香港割譲などの要求を出す。北京はこれを拒否し、翌年1月7日、艦隊は攻撃。虎門の戦いでは関天培らが奮戦するも完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。

終戦後の推移

1842年8月29日、両国は江寧(南京)条約に調印した。

この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認などを余儀なくされた。ただ意外にも戦争の原因となったアヘンについては特には触れられなかった。恥ずべき原因を文書上に残すことをイギリス側が躊躇したためである。

このイギリスと清との不平等条約は、他の列強諸国も便乗するところとなり、アメリカの望厦条約、フランスの黄埔条約などが結ばれた。

この戦争をイギリスが引き起こした目的は大きく言って二つある。それは、東アジアで支配的であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、著しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせることである。しかし結果として中英間における外交体制に大きな風穴を開けることには成功したものの、もう一つの経済的目的−中国人一人 々 にイギリス製の靴下を履かせるという目論見は達成されなかった。中国製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからである。これを良しとしなかったイギリスは次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言われるアロー戦争へとつながっていくことになった。

戦争の余波

阿片戦争は清朝側の敗戦であったが、これについて深刻な衝撃を受けた人々は限られていた。主戦場が広東という北京からは遠く離れた場所であったことや、中華が夷狄に敗れ去ることはまま歴史上に見られたことがその原因である。しかし一部の人々は、イギリスがそれまで史上に度々登場した夷狄とは異なる存在であることを見抜いていた。たとえば林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集していたイギリスやアメリカの情報の委託をされ、それを元に『海国図志』を著した。「夷の長技を師とし以て夷を制す」という有名な一節は、これ以後の中国近代史がたどった西欧諸国の技術・思想を受容して改革を図るというスタイルを端的に言い表したことばである。この書は東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書であった。それまでにも地誌はあったが、西欧諸国については極めて粗略で誤解に満ちたものであったため、詳しい情報を記した魏源の『海国図志』は画期的であったといえよう。

さて阿片戦争における清朝の敗戦は、清の商人によって、いち早く幕末の日本にも伝えられ、大きな衝撃をもって迎えられた。以前より蘭学が発達していた日本では、中国本土よりも早くこの戦争の国際的な意味を理解し、危機感を募らせた。そのため先にあげた魏源の『海国図志』もすぐに日本に伝えられている。幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を、この阿片戦争から生まれた書物が担っていたのである。」

「紅茶(こうちゃ)とは、摘み取った茶の葉と芽を乾燥させ、もみ込んで完全発酵させた茶葉。もしくはそれをポットに入れ、沸騰した湯をその上に注いで抽出した飲料のこと。なお、ここでいう発酵とは微生物による発酵ではなく、茶の葉に最初から含まれている酸化酵素による酸化発酵である。

世界で最も紅茶を飲むのはイギリス人で、朝昼晩の食事だけでなく、起床時、午前午後の休憩にもお茶を楽しむ。このため、茶器、洋菓子なども発達し、洗練された。なお紅茶の文化は18世紀にアイルランドに伝わり、2007年現在国民一人当たりの消費量ではアイルランドがイギリスを抜いて世界一となっている。

紅茶の語源はその抽出液の水色(すいしょく)から、また、英語のblack teaはその茶葉の色に由来する。」

画像:帆走するエスメラルダ

話題と直接関係ないですが、、、帆船ってこんなに美しいんですね。^^v
「エスメラルダとは、エメラルドを意味するスペイン語およびポルトガル語である。

* エスメラルダはチリ海軍の練習帆船の一つ。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%86%E8%88%B9
「ティークリッパー(19世紀)

19世紀には紅茶を運ぶための快速船「ティークリッパー」が中国からイギリスまで新茶を届ける速さを競い合った。最初に届けられた 新茶は高値で取引されるため、船主に莫大な利益をもたらしたのである。この競争は「ティーレース」と呼ばれ、「カティーサーク」、「サーモピレー」などのティークリッパーがしのぎを削りあった。ティークリッパーは外洋を高速で帆走できるよう、 標準よりも長細い船型をしている。例えば「カティーサーク」では縦の長さは横幅の6倍に達している。微妙な操船が困難になる細長い船型が可能になった背景には、蒸気機関によるタグボートが普及し、曳航によって出入港が出来るようになったことがあげられる。

19世紀は帆船から蒸気船に主役が交代した時代でもあった。19世紀前半あたりでは、石炭の補給の問題から蒸気船は比較的短距離の航路での運用に限られていたが、給炭地が整備され、蒸気機関の性能が向上するにつれ蒸気船の優位性が明らかになってきた。蒸気船の優位を決定的にしたのは、1869年のスエズ運河の開通である。スエズ運河一帯はほとんど無風であるため、蒸気船の独壇場だったのである。帆船はその恩恵に与ることが出来ず、上述の「ティークリッパー」の多くは中国航路から、オーストラリアからの羊毛輸送に転向を余儀なくされ、やがて姿を消していった。」

前回と重複してます。。。Orz〜
見目麗しい姿をしてますね ^^

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