アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

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エディプス^2

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エディプスコンプレックスの由来の中身のダイジェスト版です。^^v

http://www.counselingservice.jp/lecture/lec15.html

「「お前は自分の子供に殺される。」と神からお告げを受けたテーベ国(エジプト)のライオス国王は妻イオカステの生んだ男の子を殺すように家来に命令しました。しかし家来は、その男の子を殺さずに遠くの国に捨ててきました。遠くの国に捨てられた男は、羊飼いに拾われその国の王様の子供として育てられました。その国の王様は、男の子にエディプスという名前をつけたいそう可愛がりました。 
やがて大きくなったエディプスはある日、知り合いから、捨て子であり小さいころ王様に拾われたことを知らされます。それを聞いて驚いた彼は神様に真実を聞ききました。すると、神様はエディプスに、お前は父を殺し母と結婚する運命にあるとお告げをします。ショックを受けたエディプスは国を捨て放浪の旅にでました。放浪暮らしをしている途中で、ある男を殺してしまいます。エディプスはしりませんでしたが、その男は実の父親ライオスでした。やがて旅を続けている内に、王亡き後怪物スフィンクスに苦しめられているテバイ国の人々をエディプスがすぐれた知力により怪物スフィンクスを倒します。英雄となりテーベ国の人々に歓迎され、その国の王の未亡人イオカステと結婚しました。
知らぬ間に神様の予言どおり父親を殺し母親と結婚した事実を知ったエディプスは自分を罰し両目をつぶし再び放浪の旅に出て、やがて悲惨な死をとげました。これはギリシア神話の中にあるエディプスの神話の内容です。みなさんも1度は聞いたことがあるのではないでしょうか?エジプトにあるスフィンクス像もこの物語にでてきます。私たちは、このエディプスの神話のような経験を小さい子供の頃に経験してきます。この経験がすべての恋愛のパターンの基本になっているといってもいいくらいの経験です。この経験を通してできるコンプレックスを男の場合エディプスコンプレックス、女の子の場合エレクトラコンプレックスといいます。エディプスコンプレックスについて説明させていただきますと(女性の場合はエレクトラコンプレックスになります。今回の講座は男女ひっくり返して考えてもらっていただくとOKです。)私たちは、小さい頃異性の親に愛されたいと思います。
男の子の場合はお母さん(女の子の場合はお父さん)に溺愛されたいと思います。好きで好きでたまらないわけです。息子を持たれているお母さんなら子供から、「僕、大きくなったらお母さんと結婚してあげる。」と言われたことがあるのではないでしょうか?それほど好きで付きでたまらない時期があります。でも、大好きなお母さんをゲットするのには、恋敵がるのです。その恋敵というのは、お父さんになります。ということは、私たちの初恋は人妻、不倫ということになります。
三角関係、ドラマのような響きですね〜でも、本当なんです。お母さんのハートをゲットする為には、お父さんが邪魔者になってしまうので、お母さんを取ってしまうお父さんに憎しみを抱くのですが、同時に、大好きなお父さんに憎しみなんていだいてはいけない、お父さんにも愛されたいという思いも抱きます。この葛藤がエディプスコンプレックスの始まりになります。エディプスコンプレックスとはお母さんをめぐる私とお父さんとの三角関係です。それに勝利するか、敗北するかの葛藤の中で成長や、人間関係のパターンが作られていきます。もちろん恋愛のパターンもここで作られます。一般的にエディプスコンプレックスの勝者、お母さんをお父さんから取ってしまった、お父さんより自分の方をお母さんが愛してくれたと思っているほうは、大好きなお父さんからお母さんを取ってしまったという罪の意識、罪悪感を覚えます。お父さんから取ってしまったという罪悪感、罪の意識から取り返されるんじゃないかという恐れが恋愛においてでてきます。反対にお父さんにお母さんを取られてしまった方は、自分が愛される価値がないんだと無価値感を覚えます。敗者の自分は愛されないんだという無価値感や、取られたという経験から、恋愛において取られてしまうんじゃないかという恐れができます。
このことから相手を遠い存在、距離をおきたがる傾向もあります。」

スフィンクスの謎を解いたのはこのエディプスさんだったんですね ^^
っていうどうでもいいようなコメントしかできません。Orz〜

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
「エレクトラコンプレックス(独語:Elektrakomplex,英語:Electra complex)は、ジークムント・フロイトの創始した精神分析における自我発達の中心概念である。女児の自我発達の場合、このコンプレックスが働くとする。ユングによって「エレクトラコンプレックス」と命名され、それが一般化した。コンプレックスを日本語訳し、エレクトラ複合と呼ぶこともある。

概論

エレクトラコンプレックスは女児が父親に対して強い独占欲的な愛情を抱き、母親に対して強い対抗意識を燃やす状態を指す。ファザーコンプレックスは父親に対して羨望的な愛情を抱く事であるが、それよりも強いものであるとされる。エレクトラコンプレックスはエディプスコンプレックスと対になる概念であり、その主張は以下の通りである。

自我発達の途中の段階において、女児の自我は愛情を初めは母親に抱くが、3歳〜7歳頃になると女児は自分にペニスがないことを認識し、男児と比べて劣っていると感じ、ペニスがないのは母親も同じであることを知って失望するため、自分もペニスを持ちたいと願い、父親に対して愛情が起こる。同時に、その父親が受け入れている母親の存在に気づき、自己を母親に同一化させる。しかし、自我の発達が更に進展すると、女児の自我は、父親の所有において、母親は競争相手あるいは敵であるという認識を抱く。このようにして、母親と同一化した自我と、母親を敵視する自我の二つの位相が生まれ、自我は葛藤に直面する。

女児が母親に対し、自己に敵対しているのではないかという考えを持つ、というのはエディプスコンプレックスになぞらえた仮説である。しかしこのように仮説を立て、エレクトラ複合を通じて、自我が葛藤を脱するため、かつて母親に同一化していた自我の成分を無意識下に置き、「自我の理想形」すなわち「超自我」とすることで、女児の心理は発達するとされる。ただし、女児の場合は男児の様な去勢に対する不安が無く、そのため超自我の形成もあいまいになってしまうという。

超自我は、母親の規範としての像を維持し「なんじなすべし」または「なんじなすべからず」という定言命法(カント)を発する。これは道徳規範である自我理想、つまり超自我の成立とその発展を通じて、自我は、より高い道徳規範を志向するようになる。

この理論に見られる近親相姦的欲望をユングは、ギリシア悲劇の一つ『エレクトラ』(エレクトラ女王)になぞらえ、エレクトラコンプレックスと呼び始めた(『エレクトラ』は、父王を殺した母に復讐するという物語である。詳細は、オレステイアの項を見よ)。

他方、男児の自我発達の場合は「エディプスコンプレックス」が働くとする。

コンプレックスの概念

誤解されることもあるが、フロイト自身は「複合(Komplex)」という言葉は最後まで使わなかった。「コンプレックス(複合)」はユングの用語であり、明確で理解し易いので、それ自身がトートロジーのようなフロイトの用語法を、フロイトの弟子達が継承せず、勝手に「エレクトラ複合」と称したのであって、フロイトは弟子達に、最後まで「複合という言い方は間違っている」と批判したが、精神分析では、フロイトの意図に反して「エレクトラ複合」が正式な名称となってしまった。

批判

まず、エディプスコンプレックスの提唱者であるフロイトが、エレクトラコンプレックスの概念を不要のものと否定している。女性の場合、マザーコンプレックスが強いともされ、エレクトラコンプレックスが働く余地がないという指摘がある。男尊女卑ではないかとして「子宮願望」という概念も提唱された。さらに、近親姦が多いためフェミニズム運動からも非難された。
また、そもそもエディプスコンプレックスが女性の発想に立って生まれた理論ではなく、男性の発想に立った理論であるにもかかわらず、それを無理に借用しエレクトラコンプレックスという概念を立てただけではないかという批判もある。」

こんなことが本当に心理(無意識の)メカニズムとして働いているのかどうかなんて誰にも分からないし、確かめようがないんじゃないのかなあ。。。おもしろいけど、、、
しかも、こういう欲望って、本能にも近い人間の心の普遍的な動きだっていうわけなんでしょ?人である限り、それが自然発生的に生じるとすると誰もそれには抗いようがない。生れ出づる悩みってわけだよね?^^;

画像:近くのショップの駐車場の庭木・・・彼の春も間近かな・・・^^v

エディプス

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エディプスコンプレックス、エレクトラコンプレックスってよく聞きますよね。でも正確な意味をよく掴んでないし、、、フロイトさんが言い出しっぺだけど、、、ノイローゼ(神経症)を説明するために思いついたって言うと語弊があるでしょうが、仮説だよね?決して、帰納的に摘出した真理だなんて証明なんてできないでしょ?^^;

http://charm.at.webry.info/200507/article_14.html
「フロイトのエディプス・コンプレックスとコフートの自己対象との共感的関係

伝統的な精神分析と自己心理学派の赤ちゃんの精神構造のモデルも全く異なるもので、フロイトは赤ちゃんを、自他未分離で本能的欲求である“エスの人格構造”に支配された存在と見ていました。
エスとは、動物的本能や原始的欲求が混沌として渦巻く善悪の分別がない領域であり、破壊衝動や攻撃欲求の原資となるリビドーの源泉でもあります。しかし、エスで生み出されるリビドーは、破壊欲求のエネルギーとして利用されるだけではなく、成長過程で社会性や道徳観を学習していくにつれて、創造的な行動や建設的な欲求のエネルギーとしてもリビドーは利用されます。
フロイトによれば、赤ちゃんの攻撃性や衝動性は生得的な本能的欲求で、それは生まれながらのものですが、コフートによれば、赤ちゃんの攻撃性や衝動性は純粋な本能ではなく、思い通りにいかない自己対象(母親・養育者)との関わりの中で学習されるものであり、その時の自己愛的憤怒(narcissistic rage)が攻撃欲求の起源となっていると考えるのです。また、シグムンド・フロイトからアンナ・フロイト、メラニー・クラインといった人たちは、赤ちゃんが自分自身を外界の恐怖や脅威から自分を守る為に、原始的な防衛機制を用いると考えました。原始的な防衛機制として最も重要なものは、メラニー・クラインが発見した“投影性同一視(projective identification)”と“分裂(splitting)”ですが、その他にも取り入れ、否定、否認など幾つかの原始的防衛機制が定義されています。これらの原始的防衛機制に共通する特徴と機能は、“現実原則の考慮の欠如”であり、もう一つは“母親からの分離―個体化”への正当な評価がなされず、自己の外部の人に対しての対象恒常性が欠如していることです。これらの防衛機制は、境界例の精神分析や幼児の児童分析を通して見出されたものが多いことからも、小学生以上の発達年齢で原始的な防衛機制を頻繁に用いて、現実認識能力の低下や幼児退行的な自閉性が見られる場合には、境界性人格障害の病理性や発達障害などの可能性を考えなければならないかもしれません。フロイトの赤ちゃんに対する認識は、どちらかというと無力で自他未分離な不安定な精神状態にあり、全面的に親の世話と愛情に依存するだけの受動的な存在というものなのですが、コフートは、赤ちゃんにも母親に向かって積極的に働きかける能動的な面があり、“アサーティブ(自己開示)の能力”の芽生えも見られるとしました。また、伝統的な精神分析では、去勢不安を伴うエディプス・コンプレックス(異性の親への性衝動・独占欲と同性の親への嫉妬・敵対心)が強化されてくる4〜6歳の時期を将来の精神的健康を左右する非常に大切な時期だと考え、自由連想法や夢分析の技法では、このエディプス期の情緒的葛藤や混乱を心的外傷(トラウマ)の遠因として解釈することが多くなっています。しかし、コフートの自己心理学では、エディプス・コンプレックスの克服やトラウマをそれほど重視せず、異性の親を独占しようとした為に同性の親から懲罰を受けるとか迫害されるといった去勢不安も一般的なものではないとします。そして、男性の去勢不安と対置される女性のペニス羨望(男性性と権力欲求のメタファーとしての男根羨望)なども、客観的根拠のないファンタジーとして退ける立場です。自己心理学がエディプス期に重視する心理的発達課題は、自他未分離な母親との幻想的一体感を克服した子どもの健全な自尊心や自己肯定感の成長であり、その成長を親(養育者)が促進する為には、愛情と優しさに満ちたコミュニケーションや子どもの自発性や積極性を尊重して承認するようなアプローチが大切になってきます。コフートは、エディプス期に生じる同性の親への敵対心や反発心によって生じる去勢不安のようなものを重視しませんが、エディプス期が特別な心理的不安のない安定した時期、障害の少ない時期だと考えているわけでもありません。エディプス期の発達上の問題は、自己対象(自分と近い関係にある大切な人たち)が非共感的な対応をすることで、自己の統合性が乱されて断片化することで解離的な状態に陥る危険があることです。また、適度な強さや程度の自尊感情を抱くことが出来なくなると、様々な事柄・課題に対して消極的になり、対人関係からひきこもりがちになって社会生活(学校生活)に支障が出てくる事もあります。この時期に達成するべき心理的課題は、適切な強度と耐久力のある自尊感情と自信の成長であり、自己肯定感をもって、失敗や間違いを恐れずに色々な課題や問題に積極的にチャレンジしてみることだと言えるでしょう。そうした四苦八苦の試行錯誤と七転八倒の努力の繰り返しの中で、子どもは自分自身の能力の特性と可能性を認識して、友達と競い合ったり助け合ったりしながら、自己の長所を伸長させ、自己の短所を改善させていく事となります。
子ども達が、学校などの集団活動に適応し、自分の力や可能性を伸ばしていく為には、安定した精神状態と自分の存在と能力に対する肯定的な自覚が必要となってきますが、身近な家族から自分が承認されて受け容れられているという実感を持つことが出来れば、外部の世界でも自己肯定感情を持ちやすくなるのです。何故、子ども達は自分の両親や兄弟から尊重されて理解されることを求めるのでしょうか?何故、健全な精神の発達や情緒の安定の為には、身近な他者の承認や肯定が必要で、温かく見守ってくれる優しい眼差しがなければ不安や恐怖を感じるのでしょうか?
この問いに対する答えは、本当は極めて自明な事であり、言葉で論理的に説明できなくても誰もが実際の生活体験の中で『身近な人の愛情や信頼の大切さ』を実感しています。
また、未成熟な子どもではない十分に自立した大人であっても、身近な他者である家族や配偶者、恋人、友人から尊重され理解されることは生きていく上で欠かす事が出来ません。
自己心理学においてコフートが人間の精神的健康を維持する最大の要因として想定したのは、『自己対象の肯定・尊重・受容の態度』であり、私たちは日常生活の様々な感情体験の中でその事を深く実感することが出来ます。コフートのいう“自己対象(self-object)”とは、“主体性の中心的機能を担う自己”や“体験を認識する容器としての自己”とは全く異なる概念であり、自己対象とは『自己の一部として感じられるような大切な他者・自己の一部として機能しているような重要な他者』を意味する概念です。私たちは、内的対象のイメージとしての大切な他者との関係にせよ、外的対象の実際の人間としての重要な他者との関係にせよ、自分の周囲にいるかけがえのない人たち=自己対象との感情生活と情緒体験によって気分や感情が変化するので、充実した生活を満喫する為には自己対象とどのような関わりを持つべきなのかを考えていかなければなりません。また、この自己対象は、『自分にとっての味方』と『自分にとっての敵』を区別する心的過程の指標として考えることもできるのではないかと思います。自己対象に包含される『自分にとって高い価値のある他者』に対しては、崇高な自己犠牲による行動を取ることが出来る一方で、自己対象に包含されない『自分にとってあまり高い価値を持たない他者』に対しては冷淡な思いやりに欠けた対応をとることもあります。自己対象内部の他者と自己対象外部の他者とを完全に同等に取り扱うことは、無償の博愛であるアガペーの実践となるため通常の人間にはほぼ不可能なのですが、排他的理念に基づく激しい戦闘やテロが繰り返される世界情勢を見ていると、自己対象の範囲の狭小と関連した破壊性・排撃性の恐ろしさを思わされます。多くの伝統宗教で掲げられる他者に対して寛大な心をもつことの美徳は、そのまま自己対象の範囲を拡大することを意味するのですが、それを妨げる歴史的・文化的・経済的要因が現代社会にはあまりに多過ぎて解決の糸口が見え難いですね。『世俗の規範としての共同体倫理』よりも高い普遍性と強い正当性が望まれるべき『神聖の規範としての宗教倫理』が、時に戦争やテロを生み出す原因ともなるのは皮肉なことですが、その根本要因として『自己対象の内部・自己対象の外部』を対立する境界として設定する『二分法の危険性』を考えることも重要でしょう。」
いつも人の褌で相撲取ってて申し訳ないですが、、、よく理解されてる方のコメントの方が、また私自身分かりやすいって思えるものじゃないとアップする意味がないと思うもので、、、^^ Orz〜
心理学っておもしろいですよね。でも、説明を、解釈をすることが、実際に生き、悩むことにおいてはあとだしじゃんけんみたいな後追いでしかないんじゃないのかなって、、、また、過激なことをほざいてますか。。。^^; Orz〜

さて、エディプスって固有名詞が表すコンプレックスなるそもそもの中身については次回。v

画像:春の花シリーズ v

修身 斉家 治国 平天下

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安倍総理もなんだか皮相的な言葉で終始しているって言うか、ボンボン的なものがメッキが剥げて来て透けて見えてきたって感じがしてますが、、、自国の総理をぼろくそに言っては罰当たりですかねえ ^^; Orz〜 ただ、わたしは最初は、今宰相が好きで期待するものが大きかっただけに、、、失望も大きいわけです。。。結局、金持ち、や、何不自由したことのない人がトップになってはいけないんじゃないのかなあ。。。卑近な例で言わせてもらえれば、医者が自分が患者になった時、いかに、点滴が苦痛かってことがよく分かるし(長い時間じっとしてるのって腕が辛いよね)、検査一つにしても、それがどんなにきついものかって自分の身にしみる経験してないと分かんないよ。わたしは、脳血管撮影受けましたが、あれって、顔面が熱くなって結構辛いものです。また、脳血管障害による症状(半身のしびれ)も経験しましたが、これもなってみないと分かりません。麻痺にはなったことないけど、我が身に降りかからないと、その状況に自らが曝されないと、決して分からないと思うんです。腰椎椎間板ヘルニアによる坐骨神経痛の痛み、高血圧の時ののぼせ、ふらつき、、、全て経験済ですが、、、お陰で同じような方の辛さはよく分かりますから、痛みなんて、とにかくなんとか取ってあげたいって思いますよ。^^ 全て自分が経験できるわけではないですけど、、、わたしはそういう目に遭ってよかったと思ってますよ。だから、コーヒーにしろ、ラーメンにしろ、実際に自分で確認して確かめたいんです。ちょっと脱線してますね。^^;

修身 斉家 治国 平天下 ってコラムが素敵だったから以下に引用しますね。v Orz〜
http://iai-japan.at.webry.info/200701/article_3.html

「修身 斉家 治国 平天下
いまさら漢文でもあるまいに、と思われる方もあるかと思いますが、この言葉ほど社会や国家のシステムを巧みに、しかも簡潔に表現したものはない、といっても過言ではないでしょう。すなわち身を修め、家を整(斉)え、国を治めると天下を平らげることが出来る、という政治家のための教えといえます。中国ではこの教えを守って天下を取った人が多いようです。日本でも織田信長などはこの教えを守ったといえる歴史が残っています。これを企業に当てはめて考えると、斉家は企業内ガバナンスといえるでしょう。高いコンプライアンスは会社のトップを初めとして、組織内の構成要員が修身に徹すれば、おのずと斉家につながり、企業の内部統制が行われるのです。斉家のトップはCEOに始まるのであり、それは創業のときに起業家が会社はどんなに大きくなっても自ら修身に心を砕いて、組織を統率することを決心するところから始まるといってよいでしょう。
翻って日本の現状はどうでしょうか。学校では修身という科目は日教組(?)の反対でしょうか、なくなってしまいました。そして社会の慣習からも身を修めるという考えは失われているといっていいでしょう。家庭を振り返ると、家庭内暴力、DV(Domestic Violence)が横行して、しばしば傷害殺人沙汰が起こっており、斉家という状況ではない例が多発しています。暴力沙汰までに至らなくても、父親は会社人間で家庭を顧みず、母親も共稼ぎ、子供は鍵っ子、といった例では斉家とはいえないでしょう。民主主義といわれるわが国では治国には国民が強く関わっていなければならないはずですが、選挙での投票率は低迷し、国会議員やその秘書、県知事などが不正に手を染める例が後を絶ちません。これも治国とは言えないでしょう。そんな状況では天下が平和になるはずもなく、これは日本だけでなく、海外の多くの国でも天下が乱れた状態が多く見られます。企業の不祥事も日本だけでなく、アメリカその他の海外でも起こっています。アメリカのSOx法などは仕組みで斉家につなげようとの意図で始まりました。
さて、問題があることは明らかです。ではこれをどう解決するかですが、国民は政治が悪いから国が乱れる、と昔から言ってきました。すなわち国民はいつの世でもトップダウンで問題が解決する、あるいは解決するのが国を治める政治と行政の責任だ、と言うわけです。税金を納め、法律を守っている限り、これは正論のように思えます。しかし、一歩下がって反省すると政治家は国民が選んだ選良(?)であり、行政に携わる国家公務員はわれわれ国民の中から志願した人たちで、いわば仲間と言えます。選良と仲間に責任を押し付けて国民は知らん顔、というわけには行きません。選んだ政治家の行動、国会、県会などでの主張と行政の実績は国民の関心事のはずです。また、メディアの発達とオンブズマンの活動によって、それらの関心事が開示されている現代社会では、国民は知らなかったではすみません。企業におけるコンプライアンスにおいて、内部告発が必要かつ重要な仕組みとなっているように、国民はオンブズマンの活動にも関心を持って不正には告発という手段で、選挙公約違反には次の選挙で明確な意思表示をすることによって治国に関わることが出来ます。修身と斉家は国民一人一人の気付きによって正しい姿にできる他、コミュニティ活動で家庭内暴力を防止し、DVをなくす努力が行われることが望まれます。
ここで申し上げていることは一見草の根運動的ですが、日本中にこの問題に気付いている人はたくさんいるはずです。それらの人たちがほぼ同じ時期にこの努力の必要性を主張すれば、それは草原の野火のような広がりにつながる可能性はあり、また、期待されるところです。この主張が声となって社会に聞こえることを切に願っています。そして、声をあげる人が一人でも多く出てくることを強く期待します。」

自分でおかしいと思ったら、ちゃんと意思表示せずしておかしいとか、なんだとかぐちゃぐちゃ言うなってことでしょ。So do I.
おかしいことはおかしいと言う勇気(?)を持つようにしたいと思います。そうでないと、身の回りのことからはっきり発言することをせず、陰で、裏でいくら言っても、わたしには雑音にしかならないと思うし、卑怯だと思っています。思うところがあるなら堂々と物申すべきです。そうでないのなら、従容として従うべきなんです。自分でできないのなら、替わりを立ててでも意思表示するべきだと思っています。願いさえすれば何事も叶うなんて思ってやしません。。。が、願うこともなければ端から叶いようがないのははっきりしてますでしょ?って言うか、叶うも何もないわけですけどね、そもそも願うものが無いんだから。。。^^;

画像:春の花シリーズになってますね ^^v

485

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問題485

底面積が600cm2の直方体の容器と、底面積が100cm2の合同な直方体のおもりが2個あります。
容器に水を入れたあと、底面が下になるようにおもりを立てました。
おもりを1個立てると、おもりが水面の上に1cm出ました。
次に、もう1個のおもりを立てると、水面がおもりより1cm高くなりました。
この後、1個のおもりを真上に引き上げたところ、図のように水面がもう1個のおもりの高さと同じになりました。
このとき、図の「?」の長さは何cmでしょうか。









































解答

・わたしの

600*1-2*100=100*x
x=4
求める長さは、4+1=5 cm
ですが、、、
任意の大きさでも、
600*1-100*1-a*1=a*x
から、500=a*(x+1) なので、
600*1-100*1=100*x として、求められるんですね。^^v

藤原正彦

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こないだの日曜の早朝の番組(竹村健一さんがでてるやつ)で拝見しました。全くもって、確信的にこの国を憂い、処方箋も示されてましたね。いろんな国で修業、研究された方だから、余計、日本の良さ、ひどさが分かるんでしょうね。傾聴に値しましたし、感銘を受けました。共感するところが多かった。でも、彼が言うには、この国の75歳以下の者は総崩れなんだってさ。。。辛辣!しかし、そうなのかも知れないなって。わたしはよくおかしいって思うことが多くって、異議申し立てを折々にしてますが、、、この国が失ってるものだとしたら、無駄な抵抗をしてるに過ぎないのかも知れないな、、、なんて。^^;

http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/honda/200611/501829.html

「国家の品格」の著者である藤原正彦氏が「日本のこれから、日本人のこれから」と題して講演をされました。現在の日本の医療制度の問題を解決するための参考になることが多いので、少し長くなりますが紹介します。

 「日本を悪くしたのは国民だ、政府でも政治家でもメディアでもない」−−講演はまず、衝撃的な言葉から始まりました。政治家やエコノミストは、嘘に継ぐ嘘を繰り返している、そして国民はそれを追及しない。現在の日本は米国の属国になってしまった。戦時中の日本人がタイムスリップしてきたら、がっかりするに違いない。
 「地方分権」という甘い言葉にだまされて、日本の地方は破壊され続けてきた。これらはすべて「市場原理、規制緩和、自由競争」という言葉で進められてきた。「公平に闘ったのだから、勝った者がすべて取ってもよい」という考え方は正しいのか?小学校の6年生と1年生が戦っていいのか?、規制が必要な部分もあるのだ。「新自由主義」という自由競争が進めば、太古の時代に戻ってしまう。
 共産主義にはいかに美しい論理が通っていようと、76年もかかって、人類という生物には役立たないということが明らかになった。新自由主義も同様、理屈としては正しくても、人類には役立たない理論であることがもう少しで分かるだろう。
 市場原理によって、日本のあらゆるものが変わってしまった。終身雇用制度は崩壊した。会社の人間関係が情緒から論理になってしまい米国型になった。正規社員から非正規社員が増加し、今やフリーターやニートは500万人を超えている。もちろん短期的に考えれば、能力で人を評価することは重要だろう。ただし、これをやれば皆が敵となってしまい、穏やかな心で暮らしていけなくなる。フリーターやニートは、政府のケアを必要として、結局、国の負担が増加するのだ。
 市場原理は短期的には良いかも知れないが、長期的にはいい結果をもたらさない。米国が長年かけて主張してきたことが、この数年で改革という名の下に日本で進められてきた。公共投資(もちろん無駄はいけないが)はこの10年で完全に悪者となった。「内需拡大」も叫ばれなくなった。そして日本は、米国の国債を25兆円も買って、米国の経済を助ける結果となったのだ。
 私は、経済に関してはほとんど関心がない。それは、お金と幸せは関係ないことを知っているからだ。戦後を考えてみると、貧しかったが家族には笑顔があった。それがバブル崩壊によって、経済回復のためなら何でもする国となってしまった。経済回復が至上命題になってしまったのだ。現在、経済は回復しているように見えるが、将来はこのままいかないだろう。それは日本の構造(終身雇用制等)が根本的に変えられてしまったからだ。
 この数年、日本人は、いつでも勝ち馬に乗ろう、それが賢い人間だと思うようになってしまった。たった10年前には、“風見鶏”と言われたことが今は逆だ。自らの心情を貫くのは損だと思われるような、恥ずかしい国民になってしまった。
 日本に対して、経済界・財界がいかに口を出すようになったか、何故にこうなったのか。バブルの責任を一切省みないで、教育にまで口を出すようになった(小学校に英語教育を、パソコンをなど)。小学校はもっと伸び伸びと、そして日本語をしっかり教えるべきなのに。小学校から英語では国は滅びる。しかし経済界は英語教育に熱心だ。なぜなら日本人が英語ができないと世界での商売に負けて、経済発展が阻害されるからだと。英語ができて経済が発展するなら、なぜ20世紀の英国の経済は沈滞していたのか、アジアで日本より英語が出来る国が日本より経済が発展しなかったのはなぜか。どうしてこのような大事なことを国民に伝えないのか。
 もし経済界が勧める通りに、小学校からパソコンを使っていたら、日本にはパソコンやソフトを作れる人がいなくなってしまう。高度なものを作るためには、小学校の頃こそ基本的な勉強が必要なのだ。IT(情報技術)が発展したインドでは、掛け算を99×99まで教えている。しかし日本では、小学校から企業家精神を教えろと−−何を考えているのか、すべて米国の真似だ。日本の数学力は、10年前以上前には世界でダントツの1位だったのに、現在は世界で6位になってしまった。これでは日本は沈没する。日本こそ、数学が世界1位でなければやっていけない、資源がない国であるということを忘れてはならない。
 アジアでノーベル賞を取れる国だった国、日本。目の前の即物的なものに目がくらんだ価値観と教育では、日本の力は低下する。まさに現在の日本では、教育までが経済優先で痛めつけられている。
 日本は、そもそも金銭崇拝から最も遠い国だったのだ。日本人は、貧しいことを恥ずかしがらないという風土があった。貧しいことと尊敬とは、そのいい例が武士、日本では武士は尊敬を集めても金が無かった(「武士は食わねど高楊枝」)。しかし現在では、子供はつい先日までIT長者のホリエモンを夢見ていた。競争が最優先、社会には競争に適した部分とそうでない部分があることを、すっかり忘れてしまった。これはまさにエリートなき民主主義国家の悲劇と思う。
 民主主義は、あらゆるシステムの中で最低の主義である、と英国のチャーチルはいっている。しかし、人類はまだ、民主主義より良いシステムを持っていないだけなのだと。なぜなら国民は永遠に成熟しないという現実と歴史があるからだ。本当に名君がいれば、専制国家のほうがいい。第一次世界大戦も第二次世界大戦も、民主主義の国で国民の感情の爆発によって起きた。 
 つまり民主主義には、真のエリート(一般庶民とは圧倒的に違う大局観を持っている、広い教養を持っている)が不可欠なのだ。しかし日本では、敗戦後GHQによって旧制中学や高校が潰されてしまった。これが今に効いている。現在の日本には、真のエリートが不在なのだ。
 ちなみにヨーロッパでは、米国の新自由主義は嫌われている。それでも、少しずつ拝金主義がはこびるようになって、年々治安も悪くなっている。新自由主義の弊害は、世界を席巻している。
 古来より日本には、「美的情緒」という世界にも誇るものがあった。例えば、かつて日本の文学は世界を凌駕した。江戸時代の数学もそう、当時その独創性でも世界でも最高レベルだった。なぜ文学と数学が、日本でこれほど花開いたのか。その理由は数学や文学は、人の美的感受性が最も影響する分野だからだ。秋に虫の音を聞いて、人生の寂寥を感じられるのは日本の固有の文化だ。つまりヨーロッパでは、類稀なる詩人しか持たない感受性を、日本人は普通に持ってきたことを忘れてはいけない。外国人には死にかけた葉っぱと映るが、日本人には紅葉として愛でられる。このような、はかない者に美を感じる、それが日本人の情緒なのだ。桜もそう、1年のうちに5日間のみ咲いてパッと散る、自分の人生のようだと...。このような国民は世界でも珍しい。
 郷愁、懐かしさも、日本人に特有だ。武士道精神(慈愛、惻隠の情、卑怯を憎み名誉を重んじる)も。明治初期に外国を訪れた日本人は、テーブルマナーを知らなくても十分に尊敬されたらしい。その理由は、武士道精神と騎士道精神はそのほとんどがオーバーラップしていたからだ。それに対して米国では230年間、自由と平等を主張してきた。しかし現実には銃を持つ自由による高校での射殺事件、ハリケーンで死亡した国民のはほとんどが貧困層という現実を見れば、世界に主張している自由と平等が実現していないのは明らかだ。
 そもそも社会に本当に自由と平等があると思うのは間違いだ。人には平等がないから、「惻隠の情」が必要なのだ。最近、いじめが話題になっているが、昔からいじめはずっとあった。ただ最近の状況で問題なのは、それを見て見ぬふりをしている周囲の実態だ。生徒はもちろん、国民全体にも、いじめを注意する勇気がない、それが一番問題だ。
 本来、大勢で1人をいじめるのは駄目、大きなものが小さなものをいじめるのは悪、ということを、幼少から徹底してたたきこまないと、人は駄目になる。卑怯な行為、弱いものいじめは駄目、これが武士道精神だ。江戸時代に「ならぬことはならぬものです」という言葉があったが、それを子供のうちからきちんと教えないと駄目だ。人を殺してはいけない理由を説明するのではなく、それは「駄目だから駄目」でいいのだ。何事もいい理由、悪い理由を挙げれば、きりがない。
 この日本人に特有の資質をきちんと教えて、素晴らしい社会を作ることが現在求められている。老後の不安も医療の不安もない、鍵をかけなくてもいいほど治安がいい。月給が少なくてもいい。そのような国を作れば、世界が日本に注目する。なぜ素晴らしい国になったのか、日本人は論理、合理、理性を尊重しているが、それに情緒を付加しているのだと。現在の世界を救えるのは、日本人しかいないのだ。」

政治は国民の民度を反映してるんですよね。
政治が悪い、おかしいってみんな言うのなら、変わらなけりゃならないはずだよね。変わらないってことは、みんなそんなにほんとは思ってないのか、、、やっぱ、国民はバカ(言いすぎてたらごめんなさい Orz〜)なのかなって思ってしまいます。^^;
ほんの一握りの勇気と優しさがあれば、腐敗せずに生きてけると思うんですがね。。。
「国家の品格」って本は、活字も大きくて読みやすかったです。^^v

画像:夕日ってとってもでかくて、橙色の火球でしたよ。たまたま山の背に隠れる寸前をパチリしたけど、、、ズーム入ると、色も形もぼけちゃってますね。Orz〜

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