アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

続きです。^^v
http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/relativism.html より Orz〜

「二、歴史的・社会的状況としての文化相対主義

特定の歴史的・社会的状況との関係での「文化相対主義」のいくつかの様相について、最低限のおさらいをするところから始めよう。

後に見るように、文化相対主義は、その気になればギリシャにまで遡ることさえできよう。しかし今世紀の文化人類学の一種のスローガンにまでなった文化相対主義に直接、間接につながる出発点はドイツの哲学者ヘルダーに求められるのが普通である。デュモンによると「肯定的な意味でも、否定的な意味でも」彼は「私たちの直接の先祖である」(デュモン 1993: 301)。ヘルダーはあらゆる文化共同体に、それぞれ固有で独自の価値を認めるべきだと主張した。彼によると、普遍主義は表面的で画一的であり、ドイツ文化のような具体的な文化の生きた統一性に対しては、抑圧的に働くものである。彼のこうした主張は、「啓蒙時代の、主にフランスの普遍主義に対する、熱のこもった異議申し立て」(op.cit.:302)、中心によってその共同性が分断され危機にさらされていると感じた辺境ドイツからの、異議申し立てであった。それは一つの権利--自分たちが他者とは違った存在でいられる権利--の主張にほかならない。差異にたいする権利を自らの権利として要求したのである。それは当時のヨーロッパにおけるドイツの位置と歴史的状況からまさに生まれた思想であった。

文化人類学における相対主義は、たしかに、ヘルダー以来のドイツのこうした思想伝統を受け継いだ一人の巨人、アメリカにおける「文化人類学の父」フランツ・ボアズによって人類学の中にしっかりと植え付けられた。しかし、そこには一つの大きな逆転が含まれていた。ボアズがとったのは、西洋中心主義的普遍主義のとてつもない形態である進化主義に対する徹底した批判の立場であった。進化主義は、西洋にとっての文化的他者が示すあらゆる差異を、単に錯誤と不足に見せかけてしまう。つまりあらゆる違いを西欧に対する劣等性に還元してしまうことによって、諸文化を西欧を頂点とする一つのスケールの上にならべて見せたのである。文化相対主義は、これに対して、差異を優劣のしるしとしてではなく、差異そのものとして認めようとする立場であった。あらゆる文化には、それぞれ固有で独自の価値がある。しかしこれがヘルダーの主張とは逆向きのベクトルをもっていることに注意しよう。差異に対する権利を、自らの権利としてではなく、他者の権利として要求しているのであるから(註4)。それは他者に、自分たちと違った存在であることを認める立場である。これがそのまま、一国民国家内部で異なる集団が文化の差異を保持しつつ共存することを積極的に推し進める文化多元主義の立場を代弁する主張になりうることは、容易に理解できるだろう。この逆転には、こうした見掛け以上に重要な意味もある。この逆転によって、はじめて相対主義は自文化中心主義に対する有効な批判、自文化の諸前提の相対化の運動になりえたからである。それは他者の行う慣行に対して、我々自身が価値判断することに反対する。彼らの価値の基準がまったく異なっているかもしれないからである。事実判断すら差し控えるべきである。彼らはそれらをまったく異なる仕方で捉えているかもしれないからである。これは確かに、他者が自分たちとは絶対的に異なった存在でありうるという想定である。もし本当に他者が絶対的に異質な存在である場合、そんな相手を理解することは不可能であろう(註5)。しかし実際には、この想定は、他者の理解を断念するためにではなく、他者理解に至るためのものであった。それは、自らのものの見方と基準をただ相手に押し付ける自文化中心的な他者理解を徹底的に排し、自らのものの見方と基準を相対化することを自らに命じる。そうした自己の相対化を通じて相手との対話を開始するための出発点が探られる。こうした他者理解の戦略として要請された想定であった。

しかしながらそれが文化人類学の中心的なイデオロギーとなり、誰もが無反省に標榜するスローガンになっていくにつれて、文化相対主義の危険性もまた目についてくることになった。それは、生半可な態度で考えもなしに振り回すには危険過ぎる刃物のようなものだ。文化相対主義は、自らの正反対のものにすらなってしまうことが出来る。そのとき、文化や差異について語ることは、理解と対話の出発点ではなく、理解の停止と対話の断念を正当化する語りになる。ある表面的な差異や齟齬を認めたとき、それらを文化が違うせいであると述べるだけでは、ほとんど何も説明したことにはなっていない。文化が違うということで、具体的に何がどう違うと言おうとしているのか、明らかにされていないからである。それはさらなる理解に向けての出発点にすぎない。そこから問題の齟齬や差異のコンテクストの理解へ向けての努力が始まるのである。しかし、多くの人は「文化が違うからだ」と言われると、それだけでわかった気になってしまう。そこが理解の停止点になる。当初の表面的な差異や齟齬は、そのとき解消不能なものとして固定されてしまう。「文化が違うから仕方ないのだ」という訳だ。こうして自他の区別は絶対化され、人間は解消不能な文化の差異によって分断される。文化相対主義は、自らの差異の中に閉じこもる一種の自文化中心主義になってしまう。他者に対してもそれは、それぞれの文化の内部に他者を固定し閉じこめる「文化的アパルトヘイト」(スペルベル 1984)のようなものになり下がる。このような文化相対主義は、独自の文化を保持する権利を盾にとって外国人を排斥しようとするネオ・ナチやフランスの国民戦線などの差別的人種主義と、自らを区別することができなくなる。事実、文化相対主義はこうしたヨーロッパの極右勢力の理論的より所にすらなっているのである(梶田 1993)。ここでは文化相対主義は、いつのまにか再びそのベクトルを逆転させ、ヘルダー的な、差異にたいする権利の自己主張となっている。文化相対主義そのものがまさに、今日のさまざまな民族対立の状況の構成要素になってしまったかのようである。こうした診断は、再び普遍主義への回帰すらを望ましいものに見せるだろう(フィンケルクロート 1989)。今度は一切の差異を切り捨てて、一方的に一つの見方、一つの価値判断の優越が「普遍」の名の下に主張されてしまうのである。

(註4) 自分が他者とは異なっていることを主張することと、他者が自分とは異なっていることを認めることとは、結局同じことだと言われるかも知れない。差異は結局、両者の間にあるのであって、それをどちらから眺めようと同じことであると。しかし文化的差異は、つねに非対称性を含んだ磁場のなかでしか捉えることが出来ないのだということを考えに入れると、差異をどちら側から眺めるかは、決定的に重要な違いであることがわかる。

(註5) この点は理論的なレベルで、いわゆる普遍主義の立場から文化相対主義を批判する際に、しばしば持ち出されるアポリアである。文化相対主義における、絶対的な他者の想定を論理的に押し詰めれば、それは異文化理解の不可能性を帰結する、というのである。浜本 1985 は、この問題に関する一つの解決を提案している。問題は「体系内での位置」を質的に異なる体系間で相互に比較することは「原理的」には不可能であるという形で定式化できる。ある種の相対主義はこの事実を字義通りそのまま主張し、不可知論に陥り、一方普遍主義はこれが「実際上」は可能であるという事実から、二つの体系は実際には異なっておらず、そのあいだには共通のデノミネータがあるはずだという主張を導く。
浜本 1985は、ここでの相対主義/普遍主義の対立が、体系についての硬直した見方に由来する擬似問題であるということを明らかにしたものである。自分自身からずれだす体系の能力によって、異なる体系間に、共通の理解の地平を開くことは、常に可能である。これと似た見解は、鷲田 1989、小田 1994 を参照。」

To be continued...

話せば分かるってのは錯覚、傲慢、無知の物言いかもしれない。。。
でも、、、分からないかもしれないけど、分かろうとしないかぎり決して分かるはずはない。(宝くじの原理*・・・わたしの造語 ^^;)こうすれば分かるはずだってものがあると思うのは幻想かもしれないって謙虚さは必要だろうけど、だからといって平行線は絶対交わらないとも誰にも分からない。(非ユークリッドの原理*・・・わたしの造語 ^^;)わたしは、男と女は別人種だと思ってる。。。^^
わたしが女でない限り、女の考え感性感じ方なんて絶対分かりようがない。生理が陣痛が分からないように。。。それは女が男のことが分からないのも同じ。だったら、迷宮入り。。。分からないからといって、それを無視、唾棄することとは次元の違う話。敬う、畏敬することでもないはず。敬うことって蔑むことと裏腹じゃない? 差異は差異として認める、尊重するしかない。お互いにいがみ合ってっても仕方ないし、そうする理由がない。差異があるからこそ、動きがあり、思考でき、停滞から免れ、差異は新たな差異を生み出してくれ常に新しいものに遭遇できる喜びとなり、退屈でない時空間で遊べるっていうもの!♪ 性差が生まれたからこそより世界にマッチできる可能性がメリットがいや増したんでしょ? 進化論的にはその逆なんでしょうけど、、、でもより淘汰、篩に掛けられて残ってきた性差は優れたメカニズムだって証明されたようなものですよね。^^ 他人がいるからこそ自分の存在に気付ける。差異があるから知りたい欲望が生まれる。欲望のない生って無いに等しい。。。^^
ジェンダーだって、、、長年の文化、人類の知恵が醸成してきたものだと、、、だからそう簡単に壊しちゃうと、、、何かしらの不都合が生まれてもおかしくないだろうとも思うわけです。。。^^;
保守主義、コンサバって新鮮味がなく封建的でもあるけど、、、少なくとも、、、ある種の賢明さも含まれてるはずなんだ。。。
ちと、ずれた、差異のある話になっちゃってるかな・・・^^; Orz...

画像:
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20070611/1000806/?P=1 より Orz〜
オトコには分からない・・・めくるめく「オンナモノ」の世界
照明選びの“性差”をさらに発見! オトコを欺く機能付き「新型シーリングライト」が人気【その2】
「・・・男性はインテリアに、“非日常的な居心地の楽しみ”を求める。かたやオンナは、総じて「生活の空間」の中でインテリアを見ている。・・・そこでご飯を食べたり寝たりテレビを見たりする「日常の営み」をステキに演出したいと思うんですね。・・・じゃあ、女の人はどういう照明に興味を示すの? というと、「見た目のカワイイもの。例えばコレ」といいます。
・・・で、実際の反応は?「“カワイイわね”ってほめてくださる。でもあんまり売れない」。どうして?・・・女性はこれを見て、「葉っぱとツルにたまったホコリを掃除する自分」を即座に思い浮かべる。・・・これは実に女性的な視点です。インテリア照明にオトコが「生活感のなさ」を求めるのに対して、オンナは生活寄りのメリットを求める。ラブホ感覚の7色LED付き照明にパッと食いつく、新しモノ好きの男とは対照的ですよね。・・・」

続きは上記サイトでどうぞ・・・^^

1550:場合の数

イメージ 1

問題1550

1から12までの異なる整数の書かれた12枚のカードがあります。
これから、次の条件にしたがって、12枚のカードを1列に並べようと思います。

 ・左はしには必ず1と書かれたカードを置く
 ・となりあうカードに書かれてある数字の差は必ず2以下にする

たとえば、カードの並べ方としては次のようなものがあります。(※注)
1,2,3,5,4,6,7,8,9,11,12,10
では、このようなカードの並べ方は例も含めて何通りありますか。

《注意》
つまり、「1,2」とか「5,3」などの並びはよいのですが、「4,7」とか「8,4」などの並びがあってはいけません。










































解答

・わたしの

75,76・・・ が、4!
・・・67,57 が、4!
2,3,4,(576)か、2,3,4,(675) が、4!
結局、4!*(2*2+2)=144

・はなうさんのもの Orz〜

円順列で、となりが234でない場合の数とまったく同じこと。

7の隣の選び方は6C2で、そのうち、隣が両方とも1,5,6のどれかであるのは3C2なので、
6! × 3C2/6C2 =144

なるほど、、、なんだか素敵だ ^^ ♪

・ほげさんのもの Orz〜

円形に並んで 時計回りにボールをわたすと考える。

円形になる場合の数は
7の前の人は3通り 7の後の人は 2通り その次の人は4通り
その次の人は3とおり...
よって 3×2×4×3×2×1=144
1番の人からボールを渡し始めるとかんがえないわけです。

なるほど、、、はなうさんのとと同じかな・・・♪ ^^

イメージ 1

問題1549

出席番号が1番〜7番の生徒がキャッチボールをすることになりました。
いま、1番の生徒がボールを持った状態から始めて、全員に1回ずつボールが渡るようにします。ただし、7番の生徒は、2番・3番・4番の3人と仲が悪く、これら3人の生徒にはボールを投げることができません。また、同じ理由で、2番・3番・4番の3人の生徒は、7番の生徒にはボールを投げることができません。(2番、3番、4番の生徒間でボールが渡ることはできます。)
このとき、ボールが渡る順番は何通りあるでしょうか。




























































解答

ライブ問にてまたいずれ ^^
簡単そうだったのに、、、ちと悩んだり ^^;...

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

前回の関連の続き ^^v
画像:Claude L?vi-Strauss
http://orc.lolipop.jp/pukiwiki/pukiwiki.php?%BF%B2%A4%CA%A4%AC%A4%E9%B3%D8%A4%D9%A4%EB%B9%BD%C2%A4%BC%E7%B5%C1%2F%C2%E85%BE%CF より Orz〜

「1.実存主義に下した死亡宣告 †
レヴィ=ストロースは、『野生の思考』(1962)でジャン=ポール・サルトルの『弁証法的理性批判』を痛烈に批判。戦後15年間、フランスの思想界に君臨していた実存主義に死亡宣告を下すことになった。これを境に、フランス知識人は「意識」や「主体」について語るのを止め、「規則」と「構造」について語るようになる。「構造主義の時代」が名実ともに始まった。
両者が対立するのは論件が「主体」と「歴史」にかかわるときである。
我々はみな固有の歴史的状況に「投げ込まれて」いる。*7 これが「参加(アンガージュマン)」(engagement原義は「拘束されること」)という事態である。私の置かれている歴史的状況は、非中立的で、「待ったなし」で私に決断を求めてくる。「正解」を知らぬまま決断を下すのだから、判断を誤ることもあるかも知れないが、「よく分からないままに決断したのだから」という理由で責任を回避することは許されない。このいささかパセティックな決断が「参加する」(s'engager原義は「自分を拘束する」)と呼ばれる。
サルトルの「参加する主体」は、与えられた状況に果敢に身を投じ、主観的な判断に基づいておのれが下した決断の責任を粛然と引き受け、その引き受けを通じて、「そのような決断をなしつつあるもの」としての自己の本質を構築してゆくもののことである。

2.サルトル=カミュ論争の意味 †
歴史の「流れ」に法則性があり、それを正しく読み当てることができたなら、「参加する主体」はつねに「正しい決断」を下すことができるようになる。マルクス主義者によれば、「歴史の法廷」は「歴史を貫く鉄の法則性」が領している。だから、この「鉄の法則性」を知った者は、状況的決断において過つことがない、ということになる。サルトルはそう考えた。

1952年のサルトル=カミュ論争において、サルトルは歴史の名においてカミュを告発した。レジスタンスの伝統的闘士として戦後フランスの知的世界に君臨した1945年において、カミュの主張は歴史的に「正解」だった。しかし歴史的条件が激変した7年後には、別の答えが「正解」になる。レジスタンスを領導したときのカミュは歴史的に正しかったが、同じ立場にとどまって第三世界の民族解放闘争への全面的コミットをためらうカミュは歴史的に間違っている。「君が君自身であり続けたいのなら、君は変化しなければならない。しかし君は変化することを恐れた。」サルトルはこう言って、かつての盟友カミュに思想家としての死を宣告した。
実存主義はこうして一度は排除した「神の視点」を、「歴史」と名を変えて、裏口から導き入れたような格好になった。レヴィ=ストロースが咎めたのは、この点である。

3.かくてサルトルは粉砕された †
レヴィ=ストロースの『野生の思考』はいわゆる「未開人」が世界をどのように経験し、どのように秩序づけ、記述しているかについての考察である。浩瀚なフィールドワークに裏付けられたレヴィ=ストロースの結論は、「未開人の思考」と「文明人の思考」の違いは発展段階の差ではなく、そもそも「別の思考」なのであり、比較して優劣を論じること自体無意味である、ということだった。
『野生の思考』の冒頭に、ある人類学のフィールドワーカーが現地で雑草を摘んで、「これは何という草ですか?」と現地の人に訊ねたら大笑いされた、というエピソードが引かれている。ソシュールの用語で言えば、この雑草はこの部族では「記号」としては認知されていなかった。それぞれの社会集団はそれぞれの実利的関心に基づいて世界を切り取る。
「用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ違うということによるのである。」(『野生の思考』)
「文明人」と「未開人」はその関心の持ち方が違うのであって、「文明人」が見るように世界を見ないというのは、別に「未開人」が知的に劣等であるということを意味しない。「どちらにおいても世界は思考の対象、少なくともさまざまな欲求を満たす手段」に他ならないのだから。レヴィ=ストロースはこの前提から出発する。そして「あらゆる文明はおのれの思考の客観的指向を過大評価する傾向にある」ことを厳にいさめる。そして、まさにその点についてサルトルの「歴史」概念に異議を申し立てることになる。
「彼らのうちであれ、私たちのうちであれ、人間性のすべては、人間の取りうるさまざまな歴史的あるいは地理的な存在様態のうちのただ一つのもののうちに集約されていると信じ込むためには、かなりの自己中心性と愚鈍さが必要だろう。私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことができない。」(『野生の思考』)
サルトルはまさに「その『我思う』の虜囚」としてレヴィ=ストロースに筆誅を加えられることになる。
「サルトルが世界と人間に向けているまなざしは、『閉じられた社会』とこれまで呼ばれてきたものに固有の狭隘さを示している。」
「サルトルの哲学のうちには野生の思考のこれらのあらゆる特徴が見出される。*8 それゆえにサルトルには野生の思考を査定する資格はないと私たちには思われるのである。逆に、民俗学者にとって、サルトルの哲学は第一級の民族誌的資料である。私たちの時代の神話がどのようなものかを知りたければ、これを研究することが不可欠であるだろう」
この批評は戦後のあらゆる論争を勝ち続けてきた「常勝」のサルトルを一刀両断にした。サルトルは、構造主義は「ブルジョワジーがマルクスに対抗して築いた最後のイデオロギー的障壁」であるという定型的な反論を試みた。*9 「歴史の名においてすべてを裁断する権力的・自己中心的な知」として実存主義は批判されたわけだが、それに対して、サルトルは「歴史の名において」死刑宣告を下すという無策をもって応じた。こうして実存主義の時代はいかにも唐突に終わったのだった。・・・」

画像:フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェルディナン・ド・ソシュール より Orz〜
「分類・区別という、線引きの集まりを恣意的につくりあげる行為は"分節"と呼ばれるようになった。現実世界の認識の体系も、言葉を構成する音も、人間はそれら二つの体系を"分節"によって作りあげていることになる。(線引きが恣意的であることを、後にあえて"差異の体系"などと呼んだ評論家もいるが、それでは力点の置き方が異なってしまい、ソシュールの意図からは外れることになる)
ここで、2つの恣意的な体系も、恣意的に結びついていると指摘される。例えば「米」として分節された特定の対象物が「こ・め」という特定の音と対応していることには、必然性はない。
ソシュールはこれを一般化して、「言葉と意味、あるいは表現と内容(シニフィアンとシニフィエ)の関係は恣意的である」と定式化し、両者の関係のありかた、すなわち恣意的な関係性を「シーニュ」と呼んだ。(日本語ではシーニュに「記号」という訳語があてられ普及してしまったが、意訳せず音写にとどめるべきだった、とする人もいる。)・・・」

昔必死で面白いことを考えつく人っているもんだって読みました ♪
ソシュールのお話はいずれまた。。。^^

全1ページ

[1]


.
スモークマン
スモークマン
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(1)
  • ヤドカリ
友だち一覧
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

過去の記事一覧

検索 検索

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事