アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

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読売新聞2008.04.11 に奇しくもこの前の記事に符合するかのように彼、ソシュールの記事が載りました ♪

ソシュールの講義ノート全訳完成
「『近代言語学の祖』といわれるフェルディナン・ド・ソシュールが晩年に行った「一般言語学」全3回講義の初の全訳が、完結した。ソシュールの思考を正確に理解する上で重要な手がかりとなる本書翻訳の意義は大きい。・・・
「差異の体系」構造主義への発展
ソシュールは言語を意味の体系としてとらえるが、その意味は言葉が指す具体的な事物とは必ずしも結びつかず、むしろ他の言葉との差異や関係によって決まるとする。事物に命名することで、言葉が生まれるのではなく、実体を持たない言葉の差異を通じて、人は初めて事物の存在を認識する。この「差異の体系」こそが言語の本質だという考えは、20世紀の思想に大きな影響を与え、文化人類学者レヴィ・ストロース(1908〜)や哲学者メルロ・ポンティ(1908〜61)らによる構造主義へと発展した。またロラン・バルト(1915〜80)は言語の意味分析を政治、美術、モードなど様々な分野に応用し、記号学の発展に貢献した。「言葉による意志疎通はいかにして可能になるのか」というソシュールの問いは、今日では脳科学などほかの分野に研究の中心が移り、言語学は先端的学問としての使命を終えたとの意見も一部にはある。しかし加賀野井さんは、「言語の本質が実体を持たないとすれば、自然科学的アプローチによる研究には限界があるはず。言語は依然として謎であり、ソシュールは今後も言語学の古典として生き続ける」と予想する。」

http://homewww.osaka-gaidai.ac.jp/~kamiyama/necroMartinet.htm より Orz〜
「『一般言語学講義』で有名な現代言語学の祖ソシュール(Ferdinand de Saussure)は最先端の印欧語比較言語学者であった.『講義』の無理解からか,あるいは故丸山圭三郎氏の数多くの夢想的著作の影響もあってか,困ったことにわが国ではこの事実はあまり知られておらず,ソシュールを思想家と誤認する書物さえ散見される.1878年,ソシュールは比較言語学史上最大の発見のひとつを21歳の若さで成し遂げた.今日では通例「ラリンガル(喉音)理論」と呼ばれるこの発見によって一躍名を上げたソシュールは,例外的若さでパリの高等学術研究院[TK1]に抜擢され,比較言語学を講じつつ特にサンスクリットとバルト語を研究した.1891年,故郷ジュネーヴに職を得たソシュールは,パリを去るに際して弟子のメイエ(Antoine Meillet)を後任に据えた.アルメニア語やスラブ語を中心とした,印欧語比較言語学全般におけるメイエのその後の活躍については駄弁を弄すまでもないだろう.メイエ門下からは印欧語学のバンヴェニスト(Emile Benveniste)やクリウォヴィッチ(Jerzy Kury?owicz),スラブ学のヴァイヤン(Andr? Vaillant)やファン・ウェイク(van Weik)など,錚錚たる面々が巣立った.
アンドレ・マルティネ先生はメイエの晩年の弟子である.なるほど先生は師のように生涯を印欧語のみに捧げることはなく,ゲルマン語を中心にすえて印欧語比較言語学を修めながらも,トルベツコイ(Сергей Трубецкой)とヤコブソン(Роман Якобсон)によって華々しく創始されたばかりのプラハの音韻論に傾倒し,あるいは後にはプラハのFSP(functional sentence perspective=aktu?ln? ?len?n? v?ty)とは別の意味で言語の「機能」を追及して,その過程では先達の誰もが気付かなかった人間言語に固有の特徴「二重分節」の定理に到達した.・・・」

二重分節の定理?ってなんだろ?・・・またいずれ・・・^^v

http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/symbolnoumi/content/works/papers/semiotics.html より Orz〜
画像も Orz〜
上:フェルディナン・ド・ソシュール
下:チャールズ・パース

記号論の二人の生みの親
「・・・スイス人フェルディナン・ド・ソシュール(Saussure,Ferdinad de,1857‐1913)である。彼の主著として知られる『一般言語学講義』(1916)は、彼の死後に弟子たちによって編纂・刊行されたものだが、ソシュールの母国語がフランス語であったために、記号論におけるいわばフランス学派が形成され、多くの研究者を生み出したというわけである。ちなみにこの系譜につながる記号の研究を「記号学」と呼ぶことが慣わしになっている。
だが、記号論の歴史を語るうえで逸することのできないもう一人のキーパーソンがいる。こちらは英語で著述をしたアメリカのチャールズ・パース(Charles Peirce,1839‐1914)である(右下の肖像)。たしかにパースのほうが大分年上だが、没年はほとんど一緒であるし、同時代人といってもかまわないだろう。これは記号論の成立ということにとって偶然の暗合なのかどうか、とても興味深いことだ。ソシュールは生前にそう沢山の本を書いていない。その独自な業績が注目されるようになったのは、没後に出た、厳密には彼の著作とは言えない、前記の講義ノートによってであった。彼の残した膨大な遺稿はいまだに全部が刊行されないままになっている。ところがパースについても、その業績が世に出た事情はソシュールの場合と酷似している。パースも生前はそう本を書いていない。そして彼もまた雑誌論文その他のかたちで本としては刊行されていない多くの文章を残した。以前に遺稿を含めた著作集が刊行されたことがあるが、いま新たに遺稿を網羅した著作集が出始めている。こんなところも、この二人の類似点としていやでも目に映る。そしてパースは、英米圏における記号論の生みの親だといっても過言ではない。こちらの伝統に連なる記号の研究はふつう「記号論」と呼ばれ、前記の「記号学」と区別することが多い。・・・」

記号論に関しても時間あればいずれまとめてみたいです・・・^^v

満地球

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http://www.jaxa.jp/press/2008/04/20080411_kaguya_j.html より Orz〜
満月ならぬ満地球って言葉が生まれた瞬間のようですね!♪

「宇宙航空研究開発機構(JAXA)および日本放送協会(NHK)は、平成20年4月6日(日本時間、以下同様)に高度約100kmの月周回観測軌道上の月周回衛星「かぐや(SELENE)」からハイビジョンカメラ(HDTV)による「満地球の出」(注)の動画撮影に成功しました。
月面越しに地球が昇っていく「地球の出」は、アポロ計画で初めて撮影されました。「かぐや(SELENE)」で平成19年11月7日に撮影した「地球の出」は満地球(全面が青く輝いて円く見える地球のこと)ではなく、少し欠けた地球でした。今回は、この「満地球の出」※1を約38万km隔てた遠い宇宙からハイビジョン撮影したもので、これは世界で初めてです。なお、「かぐや」からハイビジョンカメラにより満地球を撮影できるタイミングは、月、地球、太陽と「かぐや」の軌道が一直線という位置関係に並ぶ年に2回しかない貴重なものです。

撮影は、「かぐや(SELENE)」に搭載されたNHK開発の宇宙仕様のハイビジョンカメラ(HDTV)によって行われたものです。「かぐや(SELENE)」で撮影した動画をJAXAにて受信し、その後、NHKにおいてデータ処理を行いました。

(注1)今回、「満地球の出」という表現を使っていますが、これは月周回衛星「かぐや(SELENE)」やアポロ有人宇宙船のように月のまわりを回る衛星で見られる現象です。月面上に立つ人間からは地球は絶えずほぼ同じ位置に見え、地球が地平線から昇ってくるような「満地球の出」を見ることはできません。」

以前アップしたものは完全な満地球じゃなかったんだ・・・
動画も見ました♪ 地球は美しいね♪
月面に人間が移住するようになっても、、、満地球の日の出は見れないんだねえ...^^;

画像:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080411-00000017-jijp-soci.view-000 より Orz〜

がんを防ぐ生活習慣

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読売新聞 2008.04.12 医療ルネッサンス新潟フォーラム
基調講演 国立がんセンター がん予防・検診研究センター 予防研究部長 津金昌一郎さん

「日ごろの生活習慣に気をつけることで、がんになる確率を下げることができます。世界の研究データ、日本人を対象としたデータを総合し、現状において日本人に勧められるがん予防法として、六つのポイントが挙げられます。
1.まず、たばことがんとの関係です。日本人10万人の生活習慣を追跡調査する研究によると、たばこを吸わない人の肺がんになる確率を1とした場合、たばこを吸う人の肺がんになる確率は男性で4.5倍、女性では4.2倍です。数本数が増えるほど肺がんになりやすく、吸っている期間が長いほど、危険性は高くなります。逆に、禁煙後の期間が長くなるほど危険性は低くなります。たばこは肺がんだけではなく、胃がんや子宮頸がんなどあらゆる臓器のがんを招き寄せます。喫煙により何らかのがんになる確率は1.5倍ほどになります。他人のたばこの煙を吸う受動喫煙でも肺がんの危険性を高めます。
2.お酒については最近、食道がんや肝臓がんに加えて大腸がんや乳がんにもなりやすいということがわかってきました。飲酒により何らかのがんになる確率は日本酒換算で、男性では一日2合以上で1.4倍、3合以上で1.6倍と上がります。一日2合以上の過度の飲酒は男性のがんの原因の約12%を占めます。一日1合程度であれば、心筋梗塞とか脳梗塞に対する予防効果があります。
3.これをとっていればがんを予防できるという単一の食品、栄養素は、現状ではわかっていません。とり過ぎるとがんの危険性を上げる可能性のある成分とか、調理、保存の過程で生成される化学物質などがあるので、危険を分散させるために、バランスのよい食事をとることが原則です。特に日本人が気をつけなければいけないのは高塩分食品です。秋田、新潟などの日本海側のいわゆる米どころでは、塩分の摂取が多く、胃がんの死亡率が高い。
4.体形では、男性はむしろやせているほうががんの危険性は高くなります。栄養不足ががんを押さえ込む力を弱めるためです。太り過ぎてもいけないし、やせすぎてもいけません。
5.運動は、がんの予防にとっても非常に重要です。運動不足の人は結腸がん、閉経後の乳がんなどになりやすい。運動量が多いほど、結腸がんの危険性が下がることもわかっています。
6.肝がんの発生を防ぐためには、肝炎ウイルスに感染しているかどうか、血液検査を受けて調べることが大事です。

がんはだれにでも起こる老化の一種。一生のうちに、男性の2人に1人、女性は3人に1人ががんになります。両親ともががんになる確率は6人に1人で、珍しいことではありません。40歳までにがんになった人が家族にたくさんいれば、がんになりやすい体質を受け継いでいる可能性があります。よりいっそう予防を心がけてください。」

今まで言われてたことと同じことで、特段目新味はないですね。。。^^;Orz...
メタボの方は、内蔵脂肪細胞からでてるがん抑制物質の減少によって、がんになりやすいってことも書きましたよね。で、生命保険会社からのデータでは、身長ー100の体重の方が一番長生きしてるってことも。ただ、、、がんにすでになってしまったら、体重は減っちゃうからどんなデータなのかはわからないと思ってます。。。^^;
運動することで結腸がんが減るってのは、、、どうなんだろ?便秘が減るとか、内臓脂肪が減るからとかって意味じゃないのかな?それとも、運動は前頭葉の賦活化に有用だと言われてるから、、、精神ー免疫機構を介してがん監視能力が高まってるのかもしれないね。笑い、運動によって、がんをやっつけるNK(ナチュラルキラー)細胞が賦活化されてるはずだし・・・
塩分は血圧にも、胃粘膜を保護する粘液がはがれちゃうから(タコのヌルヌルをとる時塩を使うでしょ)発ガン性物質との接触がモロになりやすいことも以前書きましたよね。。。胃がんに関しては、ピロリ菌のことが触れられていませんね。。。これはいずれまたアップします〜^^v
たばこの発ガン危険性もず〜っと言われつづけてる、、、のにも山にもかかわらず売られつづけてる ^^タールが悪いなら、そのタールを抜いてみれば?発ガン性物質は山のように分かってるんだったらそれらをすべて抜いてみれば?世の中には同じようなものなんていくらでもあるしその中で生きてるんだよね。。。いみじくも、わたしが患者さんに言ってる、「がんになったからってびっくりすることなんてないですよ。。。3人に1人はなっちゃうし、もう一人は脳卒中になっちゃうし、、、長生きすればそういうことになるんです。って言うか、それらになるのが老化というものですから避けて通れないものなんですよ〜わたしもあなたも、、、がんなんて当たり前のようなものなんです。」って。^^;v
最近、睡眠方でも不足でも寿命が短くなるって報告されてるみたいですね・・・
いずれにしたって、、、みんないつかは消えちゃうんだから、、、だから、毎日、自分のしたいことをするべきなんですよ!だったら、いつお迎えがやって来たって悔いないはずなんだ。。。
こないだ、鯛の握りを喉に詰めて息できなくなって他所の病院に運ばれたって方がいらっしゃったので、、、そん時何を思ったかお尋ねしたんですが、、、「このままわしは死ぬのか・・・」って思っただけだったらしい。苦しかったのは苦しかったらしいんだけど、、、案外冷静なものなんだね。でも、、、愛する人の顔なんて浮かばないだろうか、、、愛する人にありがとうって声はだせなくっても感謝の気持に包まれて幸せを感じて逝けるってものじゃないのかな・・・^^;
当然、その方には、そんなときはれいのハイムリッヒ法(Minor Emergency 欄参照 Orz...)ってのがあることをお伝えしましたけど、、、回りが知ってないことにはどうしようもないわけですけどね。。。たまたま、回りの人たちが、その人の胸を押してたら(ハイムリッヒ法もどき ^^)口からポンって飛び出てきて助かった〜ってな顛末だった模様です。♪

画像:主要死因の推移
www.mhlw.go.jp/shingi/ 2003/06/s0626-8c.html より Orz〜
がんが増えてんじゃなくって、、、長生きする方が増えたための死因構造の変化だと私は思ってます・・・^^
画像:ヒトの発ガン因子
www.1kampo.com/ prevention.html より Orz〜
食べ物も、酒も、たばこも、、、生きてる上で切っても切り離せないものだと思ってる。。。^^;
だから、、、ヒトがこれらのもので生命を維持してるかぎり、、、それらによってもたらされるものが原因になるのは当たり前だと私は思うけどね・・・もし、人工栄養物なるものが編み出されたとしても、、、それでも、、、発ガン因子には、今度はそれらが原因を占めてくるようなグラフに変わるだけのことだって思ってる。。。^^;v
画像:私たちの健康と野菜
   がん予防食品ピラミッド
   がんを防ぐための12ケ条
alic.lin.go.jp/ panel/pane-yasai.htm より Orz〜

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http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/relativism.html より Orz〜
続きです ^^v

「三、文化相対主義と普遍主義:4つの類型

歴史・社会状況的おさらいは、この程度で充分だろう。上の簡単な紹介の中で、すでに文化相対主義は2種類の正反対とすら言える姿を垣間見させている。文化的差異について語ることは、自文化中心主義の主張にも、反・自文化中心主義の主張にもなりうるのである。それに対して普遍主義の方ではどうであろうか。上の紹介の中では、こちらの方はそれ程はっきりした像を結んでいない。この節では、文化相対主義と普遍主義の4つの類型の違いを、異文化認識の態度の違いとしてもう少しはっきりさせるよう試みよう。
話が抽象的になりすぎないように、まず最初に、人類学において極めてありふれた異文化理解の型を具体的に取り上げよう。ただし、違いを明確にするための単なる、そしていささか極端な、たとえ話にすぎないということを忘れないよう。
「人々はXをAとして見ている」という構文で表現されるタイプの理解、これは人類学者が自分の理解を伝達しようとする際に、どこかで必ず顔をだす、ほとんど常套表現といっていい表現形式である。この異文化理解の基礎構文を仮に命題(1)としよう。もちろん、人々自身は単にAを目撃しているだけなのであるから、彼ら自身の理解が表明される構文がこんな形を取るわけではない。それは単に「我々はAを見ている」という形をとっているはずである。これを命題(2)とする。では命題(1)にいきなり登場するXは、いったいどこからやってきたのだろうか。言うまでもあるまい。それは人類学者が問題の対象をその記述のもとで捉えるカテゴリーである。つまり本来それは、人類学者自身によるもう一つの命題(3)「私はXを見ている」の中に登場するのである(註6)。
このことは、命題(1)の地位を著しく曖昧なものにする。たしかに(2)と(3)がともに真である限り、(1)は私にとっては常に真である。しかし、それは全くの誤り、ナンセンス、でもあり得るのである。
次のようなたとえで考えてみよう。見方によっては壺とも、向い合った人の顔とも見えるレヴィンの壺とよばれる有名な図がある。それを壺としか見ることの出来ない人が、仮にいたとしよう。あるいは彼はそれを壺として以外見たことがなかったし、またそれが壺以外の何かに見えるかもしれないとは考えたこともないし、考えるつもりもない。
ところで、もし彼が、それを向い合った人の顔と見る人々について、「彼らは壺を人の顔として見ている」と語ったとしたら、どうであろうか。確かにレヴィンの壺の絵を見るたびに、彼は「X=壺」をそこに見ることになるし、人々は「A=人の顔」を見ていると語ることになる。したがって、彼にとっては次の推論は全く正しい。「それは壺である」=真、「彼らはそれを人の顔として見る」=真、故に「彼らは壺を人の顔として見る」=真。しかし、彼が、とんでもない間違いを犯していることは明らかであろう。そして彼がそれを得意げに、自分が彼らに対して得た「異文化」理解として開陳するに及んでは、もはや滑稽を通り越して悲惨ですらある。
実際、笑いごとではない。例えば「〜においては、人々はトランスを--あるいは狂気を--霊による憑依として解釈する」という類の表現は、人類学者の一部では今でもしっかり流通している。上のやや極端な例が我々に示してくれるのは、(1)の形式の命題は、仮に誤っているとしても、当の命題の持ち主には全く明らかではない仕方で、誤っているということである。この異文化理解の基本構文自身の中に、何か問題がある。
ところが自文化中心的な相対主義と普遍主義においては、自分自身の相対化へ向かう志向が欠けているというまさにその理由から、いずれもこの異文化理解の基本構文を疑問視することができないのである。たとえば相対主義は、こうした形で示される差異、つまり自文化の側から見たときに見えてくる差異を、そのまま絶対的な差異として認めてしまう。「彼らには壺が人の顔にみえるのだ。奇妙だけれど、彼らが誤りを犯しているのだとは考えまい。彼らには確かにそう見えているのだ」と。しかしこの気前の良い寛容さは、このままでは文化的アパルトヘイトに行き着くだけである。それは「壷をどうしても顔と見る人がいるが、それは文化の違いだから仕方がない。尊重しよう(=ほっておこう)。」ということに他ならず、逆に「お前たちにどう見えようと、私たちにはそれは顔に見えている。ほっておいてくれ。」という主張も可能にしてしまう。あるいはさらに「理解」を進めて、「仮に壺が顔であるという前提に立とう。その場合他の同様な命題との関係はどうであろうか」などと問い始めることも有り得る。うまく行けば--あるいは具合の悪いことにか--このやり方で首尾一貫した「人々の世界」を描き出してしまうことすら可能かもしれない。そこに住む人々をますます奇妙な存在に見せかけるだけのそんな記述を読むことだけは、願い下げであるが。かなり戯画化されているとはいえ、自己相対化を伴わずに他者との差異を絶対化するというのは、こういうことなのである。
自己の相対化をともなわない普遍主義の方も、この点では似たりよったりになる。そこではXは無条件に普遍的なカテゴリーの地位を占める。普遍主義は単に、この構文で定式化された差異を誤謬として位置付けるかもしれない。「人々は壺を顔だという。そしてそれは誤りである。」という訳である。あるいはこれに「彼らももっとよく見ることを学べば--あるいは真理に目覚めれば--それが壷であることに気付くだろう。」などという説教がもっともらしく付け加えられるかも知れない。別の普遍主義者は、あるいは「彼らのカテゴリー『顔』は、じつは壺を意味しているのであって...」という翻訳をやってのけ、見事に人々のカテゴリーが普遍的なカテゴリーに翻訳できたことを得意そうに示すかもしれない。これもかなりな戯画化ではあるが、他者を自己のカテゴリーによって捉えるというのは、基本的にはこうしたことなのである。
こうやって見ると、こうしたいいかげんな文化相対主義と、いいかげんな普遍主義は驚くほど互いに似ていることがわかる。前者に見られるのは、自文化の自明性を全く疑いにさらさない楽観主義であり、後者においては自文化のカテゴリーを普遍的なカテゴリーだとする傲慢さである。違いがあるとすれば他者に対する姿勢が、優越性に裏打ちされた非関与の姿勢か、他者を飲み込もうとする攻撃の姿勢かの違いだけである。そしていずれにおいても、他者との真の対話が成立する余地はない。それは最初から放棄されているか(文化相対主義)、こちらからの一方的な宣言(普遍主義)にとってかわられている。こうした相対主義と普遍主義が仮に対決のポーズをとっているとしても、せいぜい強盗と掏摸がなじりあっているようなものだ。自文化中心主義どうしの衝突にすぎない。・・・

(註6) ここでは言語の違いと、言語間の翻訳の問題をとりあえず捨象することにする。実際にはXとAは異なる言語体系に属した概念であることが普通で、この異文化理解の基本構文はそのことによってかえって自らの異常さを隠しおおせることが多い。例えば、このレヴィンの壷の例を、たとえばAに当たる部分にスワヒリ語を用いて「人々は壷を sura ya mtuとして見る」といった形で提示するとき、その間違いは容易には目立たないものになる。一方、言語間の翻訳という作業自体が、この基本構文に依存している面がないわけではない。」

To be continmued...

なかなか易しく説明されてるようで、、、わたしには生硬な文章だな・・・^^;
自らを疑うことのないアプローチは表面上の違いがあるように見えて同じ穴のムジナだっていうことだと、、、もっとその土台となってるもの、当たり前で気付けてないものに気付ってこと、、、でいいのかな・・・?
言語間の翻訳ができるってことは、普遍的なものが存在してるからこそなんだけどねえ、、、そもそも同じ言語を使ってるもの同士のコミュニケーションにおいてさえ、間主観性を担保に成り立ってるわけで、、、いまいち自家薬籠中にできないまま、未消化なままですが。。。Orz...

画像:エトムント・フッサール
http://ja.wikipedia.org/wiki/エドムント・フッサール より Orz〜
「エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl, 1859年4月8日 - 1938年4月27日)は、オーストリアの数学者・哲学者である。
ゲッティンゲン大学、フライブルク大学で教鞭をとる。
初めは数学基礎論の研究者であったが、哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。
現象学運動は20世紀哲学の新たな流れとなり、マルティン・ハイデッガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロー=ポンティらの後継者を生み出し、学問のみならず政治や芸術にまで影響を与えた。・・・

現象学
「・・・フッサールにおける超越論的現象学(げんしょうがく)は、彼の継承者と批判者とによって展開され続けている哲学の一分野である。世界がすでに「ある」とする態度を棚上げ(エポケー、「判断停止」と訳される)して、そのような信念がどのようにして成立するか、そしてそのような「ある」ものとしての世界は、経験からどのように構成されるのかを探求する。エポケーとは古代ギリシアの哲学者であるピュロンにより初めて用いられた。そこでは物の本性を把握するのは不可能でありそれゆえ「判断を差し控えるべき」であるとされ、現象学に通ずるものがある。
現象学の学問的潮流は「現象学運動」と呼ばれる。19世紀末から20世紀にかけてヨーロッパ哲学の主流であった心理学主義と歴史主義への批判を出発点とする。
その後、現象学で培われた多くの概念や方法論は、二十世紀末期に勃興した心の哲学へと波及し、心身問題や主観的な体験であるクオリアの問題を論じるさいに参照される、重要な知的リソースの一つとなっている。・・・」

画像:フッサールの現象学による自我構造
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~ayamamot/fundamenta.html より Orz〜

いずれフッサール、間主観性についてはアップする予定・・・^^v

画像:言語記号の三角形
  :間主観性の三角形
http://www.nagaitosiya.com/b/evolution.html より Orz〜
永井俊哉ドットコム
複雑性と進化の関係

ここもおもしろい♪ いずれまた、、、^^v

SとM

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読売新聞 2008.04.13 書評欄 「本 よみうり堂」より

「『SとM』鹿島茂 著 幻冬舎新書 720円
                     評・春日武彦(精神科医)
知識や経験が心に蓄積され、自信と余裕とが生まれてくるようになると、やがて思いがけないもの同士が頭の中で結びついて、突飛な仮説や興味深い分類などが不意に閃くようになる。ある種の成熟が、半ば冗談や法螺話に近い形で表出されてくることがあるわけで、そうした妙味が生じるからこそ学問には価値があるのだと思わずにはいられない。本書のタイトルは、ご賢察の通り、サド(S)とマゾ(M)とを示している。いわゆる変態性欲と呼ばれがちな、あのSMである。ただし本書を読んでも性的満足は得られない。手に入るのは知的満足だけである。なぜSMなんてものが出現したのか。西欧のSMと我が国でのSMとではずいぶんトーンが異なるが(西欧では鞭や流血が好まれ、本邦では縄で縛るのが好まれる等)、その本質の理由は?そうしたテーマが、フランス文学と思想に関する深い知識と洞察とを経由して軽妙かつ明快に語られる。あまりにも明快なので、それこそ冗談や法螺話かもしれないと感じられたりもするが、邪馬台国の場所を推理したりするのとは意味が異なる。人間の心を、欲望を理解しようというシリアスな姿勢に基づいているのだから。キリスト教における自己処罰と救済といった概念や、民主主義とMとの関連などから話はスリリングに広がっていく。著者は語るのである、「SMというのは、想像力をもとにした特殊な愛情関係の結びかたであり、文化の進化のひとつのバロメーターといえるのではないか」「衣食足りて、ヘンタイ(SM)を知る」。この大胆な言い切り方は、あえてSMを語るという露悪的な高揚を背景としなければ出てこないだろう。そうしたところに本書の面白さがある。ところで、西欧では苦痛を介して神に出会うといったパターンがSMに関連してくるが、日本では自由であることへの戸惑いが拘束への願望、つまり縄を用いたSMプレイにつながってくるという。いやはや刺激的な指摘に満ちた一冊である。

◇かしま・しげる=1949年生まれ。共立女子大教授・フランス文学」

まさに「衣食足りてヘンタイを知る」だと思うなあ。。。とりあえず、、、本能的欲望が満たされた後じゃないと想像する余裕なんてないもんね。礼節も、ヘンタイも紙一重・・・^^; ♪
頭脳が差異を求めちゃうんですよね、、、同じことには耐えられない頭脳って、、、すぐ飽きちゃうから、、、新しいものを探ろうとし、それが余剰としてのヘンタイとなり、そういう際限のなさを分かったが故に自らの荒々しさ/攻撃性/暴力性にタガを嵌めるために礼節も編み出された・・・^^
またその礼節/ルールを破るという快感(蜜の味)も頭脳は知っちゃった・・・礼節とヘンタイはあざなえる縄の如く、あたかもDNAの螺線構造のようにスパイラルな関係なのかもしれない。。。

画像:S と M そして L
http://blog.livedoor.jp/vtrstart/ より Orz〜
「サディストがS マゾヒストがMだったっけか
たぶん世間一般の人達は SとMは相性が良いと思っている。
Sはイジメることで快感を Mはイジメられることで快感を。
しかし、オレはそんなことはないと思うよ。
仮にSの人がムチで、Mの人をひっぱたくとしよう。
Mの人はいいさ。ひっぱたかれて、痛くて、ジンジンジンで、さぞかし満足だろう。
しかし、Sの人はどうだろう。最初はいいさ。思い切りひっぱたいて、さあ泣くがいい、泣き叫ぶがいい!と思ったのもつかの間。Mの人ったら喜んでるじゃあないか。ほんとうのサディストってのは人が嫌がるのを快感に思うものさ。これじゃあダメじゃないか!
悔しそうな、悲しそうなSの表情が目に浮かぶ。・・・」

あはっ、、、たしかにわたしもそう思う ^^; ♪
今まで何回も書いたけど、、、究極のSは、自己に向かう時、、、Mになるはずだよね ^^v

画像:〜ひめまる公式〜SとMの法則 (単行本)  御茶 姫○ (著)
http://www.amazon.co.jp/〜ひめまる公式〜SとMの法則-御茶-姫○/dp/4434113739/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1208070034&sr=1-1 より Orz〜
「あなたにはなりたい自分がありますか? 今迄の概念を覆す、価値観と行動のSとM!この本はただの心理テストでない、なりたい自分になる為の本だ。行動を起こすとき、自分主義な人と他人主義な人がいる。価値をはかるとき、社会のものさしではかる他人軸の人と自分のものさしではかる自分軸の人がいる。どちらがいいとか悪いとかではなく、その特長を生かし、次の自分を作っていくのがなりたい自分になる一番の近道だ。 ・・・」

これも面白そうだね・・・♪
わたしは、自分主義=自分軸・・・=限りなく不透明な自己中かな? ^^;

ちなみにこんなサイトがあるんだ・・・
http://goisu.net/cgi-bin/psychology/psychology.cgi?menu=c014 
ヘンタイ度チェック(心理テスト)

さて、、、わたしのヘンタイ度は・・・・?

幼女少年系倒錯度  24%
自虐残虐系倒錯度  100%
同性愛系倒錯度  53%
電波系倒錯度  8%

あなたは【SM系ヘンタイ】なタイプ。
あなたの潜在意識下では「誰かを支配したい/支配されたい」という欲望が渦巻いているようです。
もともと誰かの言いなりになったり、あるいは誰かを服従させたりすることにこそ、喜びを見出すタイプといえるでしょう。あなたのヘンタイ気質は、普段、誰からも気がつかれないという特徴があります。恋人など、ごく近い相手にのみ本心を明かす、少々厄介な人、といえるかも知れません。
・・・                                   」

当たってるかもね。。。^^;
みんな大なり小なりS&Mだと思ってる、、、けど?

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