アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

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ピアノマンさんのサイトで知りました ^^v
高木貞治先生のお言葉だそうですが...こんなオヤジギャグも残してんだ♪
外見は堅物っぽく見えるけど Orz...実際はどうもそうじゃないみたいですね...^^

画像:高木貞治(1857-1960)
http://www.kyouiku.tsukuba.ac.jp/~miya/HomePage/takagi.html より Orz〜
「高木貞治は、数学(類体論)で日本最初の 文化勲章を受章した世界的数学者である。
彼の母つねは、農家の木村家へ嫁いだが、 つねは、田作業の時に 数十匹もの蛭に血を吸われるのがたまらなく、これを嫌って出産を機に高木家へと帰り、貞治を生んでそのまま木村家へは戻らなかった。 貞治は伯父夫婦の長男として戸籍に記され、 つねと伯父夫妻により育てられた。
小学校に入学した彼は、 神童の噂が立つほど成績抜群で、 6年の過程を3年で終了し10歳で上等科へ進んだ。 岐阜県尋常中学校、 京都の第三中学校を経て明治27年東京帝国大学理科大学数学科へ、 無試験で入学した。 彼は文部省の留学生としてドイツへ行き、 洋行帰りの貞治は、 鼻眼鏡をかけてピンとはねたカイゼル髭をたくわえて 当時のハイカラさんだったという。 大変なおしゃれで、洋服は銀座の山崎という洋服屋で作らせていた。
数学に関して
彼が明治以後の日本最初の世界的数学者と呼ばれるのは、 第一次大戦中の「類体論」の業績による。
高木の類体論は大変難しく、 その名著「代数的整数論」では、 類体の定義だけのためになんと30ページを要している。 興味のある人は自分で調べよう。」

調べてみましたが...余り載ってないですね...^^;?
カイゼル髭は...西洋かぶれというよりも...尊敬してたヒルベルトの真似したんじゃないのかな...?^^

画像:http://www.ha.shotoku.ac.jp/~ishihara/hideaki/takagi/shougai.html より Orz〜
「・・・
岐阜尋常中学校時代
岐阜でただひとつの上級学校である、岐阜尋常中学校(現・岐阜高校)に通った。 片道12Kmもあった。 そのころの中学校は、ほとんど16歳か17歳で入学していたが、1人だけ11歳で入学した。
・・・
エピソード
このころから数学的素養では先生も及ばないだろうともっぱらの評判で、教師の助手として教壇に立つ姿がしばしば見られた。 数学の宿題に悩んだ上級生が助けてもらうこともあって、元岐阜県知事の武藤嘉門もその常連の一人であった。 原書や直訳のようなノートを頼りに、一人コツコツと勉強を続けていた。 熱中のあまり、朝が訪れたことも気付かずにいたこともあった。
「高木の脳ミソは特別製なのか」といううわさを聞いた数学教師が、ある日思い切り難しい問題でテストしたが、難なくこれを解いて、先生を驚かせた。
明治24年3月、1番の成績で岐阜尋常中学校を卒業。
成績は、代数が100点、漢文97点、英語93点という良いものから、体育77点、化学70点という不成績なものもあったが、平均して86点という良い成績であった。・・・
帝国大学理科大学時代
明治27年、19歳で日本でただ1つしかなかった帝国大学理科大学数学科に入った。 ・・・
エピソード
藤沢利喜太郎教授のある試験の時、年上の同級生で後にハガネの研究で、世界的に大きな貢献をし文化勲章も受章した物理学者の本多光太郎が、「俺はノートを4へん読み直したから、どこから、どこから出ても大丈夫だ。」と言うと、博士は微笑しながら「数学って、暗記する学問ですかね。」と言った。
菊池大麓教授が、講義の途中でちょっと席をはずされると、博士はいつの間にか教授の帽子をかぶって教壇に現れ、教授になり代わった形で、講義を続けるまねをして、みんなをどっと笑わせるようなこともあり、なかなかお茶目であった。
・・・
ドイツ留学
明治31年5月、文部省から3ヶ年のドイツ留学を命ぜられた。 当時文部省の派遣する留学生は、1学問にせいぜい1人であった。 ・・・ ドイツは世界の数学界の王者の地位にあった。
ベルリン大学の数学陣は、必ずしもドイツ最高というわけではなく、講義の内容も、博士が日本で勉強していたところとたいしてちがいはなかったという。 フロベニウスは、ノートも持たないで力のある講義をした。 1年半の勉強を済ませて、明治33年3月末、ドイツのゲッティンゲンへおもむいた。
ドイツ最高の数学者クラインの講義を興味深く聞いたが、それよりも大きな影響を受けたのはヒルベルト教授であった。・・・19世紀末から1930年頃まで世界の数学者のナンバーワンと言われた人である。この偉大なヒルベルトに直接教えを受けたことと、この人の書いた「整数論報文」を座右の書にしたことは、博士の生涯にわたる大きな精神的刺激であった。 毎週数学教室で行われた談話会は世界各国から集まったより抜きの少壮数学者たちの集まりであったが、博士は欠かさず出席するうちに第1線の創造的な研究の雰囲気を初めて体験した。 帰国してから発表した学位論文も、この活発な雰囲気の中に生まれたと言われる。 明治34年12月4日に帰国した。 ・・・
帰国後
26歳で、東大助教授として講座を受け持った。 4月には、谷國之助の娘としと結婚した。
・・・学位論文を書いたのち、約10年間、1つの論文も発表せず、内に力を養うことに専念して、一見あたかも研究を怠っているように見えた。 博士はこのころのことを、晩年のある文章で「アメリカの大学のように、目立った研究業績を上げないと、すぐ退職させる制度であったら、自分は到底、類体論の研究を成し遂げることは出来なかっただろう」と述懐している。 お酒2本をつけた夕食をすますと、そのままぐっすり寝る。そして真夜中になると机に向かって、世界の書籍や論文を手当たり次第研究し、自分の数学の力を深めていった。 しかし、ただそれだけでは満足出来ない何ものかを心深く持っていたらしい。しかも、それは、数学第一と言われたヒルベルトが、かねてから目をつけながら、どうしても解くことが出来なかった、世界の難問題をとらえ、内的な苦しいたたかいをつづけていたようである。(* まるで...フェルマーの最終定理を解いたワイルズを彷彿とさせますね...^^ )
こうして表面はあくまで無風状態に似た10年ではあったが、博士にとっては、貴重な充実と探究の時期であった。 博士の生活に1つの転機を与えたのが、大正3年に始まった、第一次世界大戦である。
ドイツから本が来なくなり、かつてドイツの教授フロベニウスが「自分で考えなさい。」と言ってくれたことを、いやおうなくせねばならなくなったことだ。 しかし、これがかえって大事業に結集する決意を不動のもにしたのである。 ところが、この類体論というのは、非常に難しい理論で、とても普通の者には分からないものだと言われる。 例えばすべての数学を解く場合に、いろいろの定理の証明が必要であるが、中学や高校の数学に出てくる定理の証明は、たいてい1,2ページですむのが普通だが、類体論では1つの定理の証明に、数10ページを要すると言われる。これから考えても、類体論の説明は極めて至難なものである。 ともかく博士は大学の講義をやり、夜は真夜中から大きな研究に取り組んで、1日を2日分に使うという超人的な努力を続けとのである。その影響で、博士の講義は毎日30分ぐらい遅れるのがおきまりとなったが、学生たちは、「30分で結構だ、60分も講義されたらこちらが参る。」と言うほど、充実した講義で、むしろ学生は満足していたという。 ・・・ 数学の証明は、「大体正しい」ではすまされない。博士はすべての定理を神経がすり減るまでも、ただ1人で、繰り返し、繰り返し、その正否を検討するほかになかった。 第一次世界大戦5ヶ年の内、世の中が勝利の夢に浮かれていた戦後でもねばり強く続けられ、大正9年、ついに、130ページに上る、論文を完成した。これをドイツ語にまとめて発表した。 こうして世界数学界の世紀の課題は、博士によって、見事に解決された。しかも尚この研究は同時に、1850年代から約100年間の間、未解決のまま、多くの数学者の頭を悩まし続けてきた難問(* クロネッカーの青春の夢と呼ばれてるものだと ^^)をも解決した。 それからも研究をひろめて、大正11年には、第2論文を発表して、「タカギ類体論」はここに完成された。 ドイツの数学者たちは、「タカギ類体論」を講演や著書や雑誌などで、どんどん世界の数学界に報告した。 「日本のタカギ」はついに「世界のタカギ」となり、「タカギ類体論」は、「世界の金字塔」として仰がれるようになった。 そしてオスロ大学の名誉博士、数学におけるノーベル賞にあたる、フィールズ賞の審査委員、日本の文化勲章など、内外の栄誉がその一身に集まったのである。
エピソード
・・・ 長男の話によると、「父は相当いらいらしていたようで、何でもないことにもよく腹をたてた。」と言っていた。博士自身も、「自分はノイローゼにかかっていたようだ。」と正直に告白している。 ・・・」

どうも...芽茶苦茶難しいみたいですね・・・^^;

画像:ダフィット・ヒルベルト
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヒルベルト より
「ダフィット・ヒルベルト(David Hilbert, 1862年1月23日 - 1943年2月14日)はドイツの数学者である。・・・ゲッティンゲン大学の教授職を勤め、19世紀末から20世紀初頭にかけての指導的な数学者となった。・・・彼の公理論と数学の無矛盾性の証明に関する計画はヒルベルト・プログラムと呼ばれる。彼は、1900年のパリにおける国際数学者会議において有名な「ヒルベルトの23の問題」を発表した。さまざまな数学者がこの問題に取り組んだことで、ヒルベルトの講演は20世紀の数学の方向性を形作るものになった。現在も未解決の問題もある(例えばリーマン仮説)。...」

画像:レオポルト・クロネッカー
http://ja.wikipedia.org/wiki/レオポルト・クロネッカー より
「レオポルト・クロネッカー(Leopold Kronecker, 1823年12月7日 - 1891年12月29日)はドイツの数学者である。・・・ユダヤ系。・・・ベルリン大学では、同僚のワイエルシュトラスと長期にわたって反目しあっていた。・・・彼の、「整数は神の作ったものだが、他は人間の作ったものである」・・・という言葉は有名である。また、クロネッカーの青春の夢を解決することで、高木貞治は類体論を発展させることになった。彼はもともと、既存の理論を単純化し、より洗練したものにすることに関心を抱いていたが、次第に先鋭化して、構成的で、有限の操作しか行わないような証明でなければ疑わしく感じるようになった。従って、・・・整数から有限の演算を施して得られるような数でないものは、存在しないものとまでみなすようになる。彼は、リンデマンによる円周率 (π) の超越性の証明(1882年)を「美しいが、しかし意味のないものだ。何故なら超越数は存在しないのだから」と評している。カントールは、超越数が無限に存在することを証明したが、彼の立場からいえば、この結果は全く意味のないものだった。彼は自分の考えを行動に移す人物で、カントールらの論文を自分の雑誌に掲載することを拒否し、カントールやデーデキントらの実数に関する理論、更にはカントールの人格まで公然と非難した。カントールはこれにひどく傷付き、このことはカントールが後に精神的に不安定になる要因にもなった。・・・」

クロネッカーの青春の夢に関しては以下参照・・・^^;
http://ja.wiki

2659:帽子の忘れ

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問題2659・・・ピアノマンさんのサイト http://blogs.yahoo.co.jp/pianomann01/17367607.html より Orz〜

5回に1回の割合で帽子を忘れるくせのあるK君が、正月にA, B, C3軒を順に年始回りをして家に帰ったとき,帽子を忘れてきたことに気がついた.
2番目の家Bに忘れてきた確率を求めなさい.





















































解答

以前同じ問題が出てるはずですが...Orz〜

・わたしの

とにかく忘れたので、AかBかC で忘れてるから、1/3のような気もするが...
分母は、(1/5)+(4/5)*(1/5)+(4/5)^2*(1/5)
分子は、(4/5)*(1/5) と計算上はなるはず・・・
(20/125)/(25/125+20/125+16/125)=20/(25+20+16)=20/61

・上記サイトより Orz〜

どこかの家で帽子を忘れという事象をE
家Bで忘れるという事象をFとする。
Eの余事象は、帽子を忘れない確率で、(4/5)^3=64/125
よって、Eの起こる確率はP(E)=1-64/125=61/125
(別解としては、P(E)=1/5+(4/5)*(1/5)+(4/5)*(4/5)*(1/5)=61/125)

E∩Fは、家Aで忘れず、家Bで忘れるので、その確率は、
P(E∩F)=(4/5)*(1/5)=4/25
よって、
P(F|E)=P(E∩F)/P(E)=(4/25)/(61/125)=20/61

人間の直感と合わないところが難しいね...^^;

2658:不等式(1+kx^2<=cosx)

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問題2658・・・ピアノマンさんのサイトより http://blogs.yahoo.co.jp/pianomann01/17409229.html#17409229 より Orz〜

任意の実数 x に対して, 不等式
 1+kx^2≦cos x
が成り立つような定数 k の値を求めなさい.











































解答

・わたしの

これはグラフで考えると、、、x=0 の時の傾きがcosx より強ければ、必ず 1+kx^2 は下にあるので、
2kx=<-sinx
2k=<-sinx/x
x→0 のとき、sinx/x=1 なので、
k=<-1/2

・上記サイトより Orz〜

f(x)=1+kx^2で頂点が(0,1)の放物線とg(x)=cosx を考える。
f(x)≦g(x)となるには明らかにf(x)は上に凸の放物線でkは負の値をとる。
また(x,y)=(0,1)で共有点を持ちかつその点での傾きは0で共通である。
f(x)≦g(x)を満足するためには、x=0から少し正の方へ移動した段階で
f(x)の接線勾配の方がg(x)の勾配より小さければならない。
よってf(x)の0に限りなく近い座標x=m(正の値)の時の接線勾配aは
a=2km。
g(x)の0に限りなく近い座標x=m(正の値)の時の接線勾配bは
b=-sin(m)。
このときa<bとなる必要があるので
2km≦-sin(m)
sin(m)+2km≦0
m(sin(m) /m +2k)≦0
mは微小で正の値なので
m(1+2k)≦0よりk≦-1/2

考え方は一緒ですね ^^v

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