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良寛さんって...達観されてたんだろうか...それとも...イソップのキツネ...^^;?...Orz...
http://www.haruhino.com/archives/50527299.html より Orz〜
「・・・良寛の言葉の中で強い印象を与えられた言葉は、良寛さんが71歳ごろ書いた一通の手紙。新潟地方に大地震が会って、何千人もの死傷者が出たらしい。その見舞い状を親戚のものに充てた一節。
地震はまことに大変に候。
野僧、草庵は何ごともなく、親類中死人もなくめで度く存じ候。
うちつけに死なば死なずてながらへて
かかるうき目を見るがわびしき
しかし、災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。
死ねる時節には死ぬがよく候。
是はこれ災難をのがるる妙法にて候。
かしこ
地震が来たら地震で死ねばよろしい。
最後の時が着たら潔く死ねばよろしい。
そのような時のことを考える事をやめ、思い煩わねばよろしい。
(上の手紙の解説 「良寛さんと道元禅師 生きる極意」曹洞宗管長大本山総持寺 元貫首 板橋興宗著)
先のことなどで思い悩むな、まだ起きているわけでもないし起きるかどうかも分からないのだから。若し起きたらその時に考えればよい。今は今をしっかりと生きればよろしい。先のことなど思い煩うな。・・・という 思いっきりの良い言葉で強いインパクトを私に与えたのを忘れられない。
桜の季節に詠んだ
「散る桜 残る桜も 散る桜」 というのも記憶に残る良寛さんの言葉だ。
これも仏教の無常観を素晴らしくかつ平易な表現であらわしている句だと思う。この世のすべて、この宇宙に存在するもの、人の心にあるものまでが、絶えず変化をしていてひと時も同じ状態を保つことなどはありえないという無常観を桜の花が散るという現象を借りてあらわしているのでしょう。咲いている桜は、一つ残らず散るのだ、例外などはあり得ない。この宇宙に存在するものすべてが、例外なく変化をして、今の状態を保ち続けることは無いのだということを、桜の花にたとえているのだと私は理解している。・・・」
悟りなの...? それとも諦め...^^;?
いうのは簡単なんだもの...だけど...それができないからみんな悩んでるんじゃないのかいって...
ありのままっていうなら...「わかっちゃいるけどやめられない...」ってのも名言でっしょ!! ^^v
画像:貞心尼と良寛さん...
http://homepage3.nifty.com/tomokoworld/shougai3.htm より Orz〜
「島崎へ移ったその翌年、老いた良寛に明るい光が差し込んでくるような出会いがあった。貞心尼という女性との出会いである。文政九年(1826)年、良寛六十九歳、貞心尼二十九歳の時であった。
貞心尼は最愛の夫と死別の後、出家をした。良寛の高徳を彼女も耳にし、そのころ住んでいた閻魔堂から、良寛の住む島崎の草庵をひとり尋ねたのである。貞心尼は良寛に歌道においての弟子になることを望み、初めて訪れるとき、良寛の好きな手毬と共に、
「これやこの ほとけの道に 遊びつつ つくや尽きせぬ みのりなるらむ」
という歌を送り、師事を許されたのである。この時、良寛の返した歌は次の歌である。
「つきてみよ 一二三四五六七八九十を 十とをさめて また始まるを」
この時から七十四歳で良寛がこの世を去るまで、二人の暖かい交流は情愛を深めつつ続くのであった。二人は親子のようであり、又、師弟であり、心の通い合った恋人同士のようにさえ感じられた。貞心尼の存在は良寛にとってどのような意味があったのか。二人の真の関係は清らかな愛で包まれていたと言われるが、二人の「愛のかたち」はなかなか捉えにくく、不思議でわかりにくいものである。二人の愛は、ひそやかな自己解放の愛であり、誰も入る余地のない深いものだったと予想でき、私達はそういう点に於いても良寛と貞心尼に惹かれ、ますます不思議な魅力を感じるのである。
二人の春のように暖かく、お互いを尊敬しあえる関係は、良寛の没後に貞心尼が残した「蓮の露」に見ることが出来る。「蓮の露」には二人が交わした歌が収められている。
貞心尼の歌はしだいに良寛調に近づき、又、二人の呼吸はぴったりと合い、言葉を越えた優しさが伺える。良寛はこの時期、自らの老いを嘆いてはいたものの、その歌にも書にも若さ、明るさが蘇り、最も輝いていた時期であったといえよう。
1.「いついつと 待ちにし人は 来たりけり 今はあひみて 何か思はむ」良寛
「生き死にの さかひはなれて 住む身にも さらぬ別れの あるぞかなしき」貞心尼
2.「君や忘る 道やかくるる この頃は 待てど暮らせど 訪れのなき」良寛
「ことしげき むぐらの庵に 閉じられて みをばこころに まかせざりけり」貞心尼
●「世の中の 人には面のなかるらん 恋しきごとに声のありせば」良寛
(身を墨染めの衣に包みながら恋慕の情をつのるつど、それが外に現れてしまっては世間の人に会わす顔がない・・・・)
良寛も貞心尼も共に俗世を捨て、仏門にいる身である。恋心など御法度事である。しかし人の心は本来何物にもとらわれず、自由でありのままに生きることが出来れば、それが最も幸福である。良寛は世を捨て、一切の欲に惑わされる事はなかった。しかし、貞心尼の存在は明らかに良寛の心を揺さぶり、まさに薔薇色の世界へと塗り替えたのである。同時に良寛を慕い恋心を抱く貞心尼こそ良寛の真の芸術を知り得た数少ない理解者であり、同志であり、愛を大切に育む女性であったのだと思う。
②良寛の生命観・死生観
精神的にも若さを取り戻した良寛だったが、肉体的な衰えには逆らえなかった。
天保元年(1830)
七月頃より、良寛は下痢に苦しむ。由之、貞心尼などが見舞う。
天保二年(1831)
一月六日、由之、貞心尼などに見守られ、良寛の七十四年の生涯を閉じた。八日葬式。場所は浄土真宗信者木村家で、その墓も浄土真宗隆泉寺の木村家墓地にある。
良寛の墓石が建てられたときに貞心尼が詩を詠んだ。
「立ちそひて 今しも更に恋しきは しるしの石に残る面影」
良寛の死因は重い下痢症であった。その苦しみに耐えつつ、「言にいでて 言えば易けり瀉り腹 まことその身は いと耐えがたし」と、そのつらさを詠んでいる。
●「我が生何処より来り 去って何処にか之く 独り蓬窗の下に座して 兀々 静かに尋思す 尋思するも始めを知らず 焉んぞ能く其の終わりを知らん 現在も亦復然り 展転 総て是れ空 空中に且く我れ有り 況や是と非と有らんや 如かず些子を容れて 縁に随って且く従容たるに」
自分の生がどのようなものであるのか、どこへ向かっているのか、今も過去も、これからも分からない。是か非などあるのではないから、縁、運命に従ってゆったりと生きていく。・・・」
自分の欲望のままに生きた/素直に生きた/飾らず生きた...良寛さんは素敵です♪
そんな良寛さんに共振された貞心尼(ていしに)さんって女性もまた素敵♪
お互いに魅かれ合うのが最高の幸せ♪
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