ついに龍馬が殺られた...
わたしゃ...「龍馬がゆく」(でしたね...^^  を血気盛んな大学のとき読んでファンになってた...
そして...そんな時代に生まれなかった自分が恨めしくもあった...^^;...ように記憶してる...
だから...NHKの番組は敢えて見なかった...わたしの龍馬像と違ってたらってな...
ただそれだけの危惧でもって...
でも...さっきちょうどその最期を観てしまった...けど...
「おいの人生、駆け抜けられたかいのぉ...?」...ってなセリフ...
(だいぶデフォルメされてるわたしの記憶...^^;...Orz...)...それが聴けて救われた...
わたしも...そんな風に言って死にたいもの!!...
風雲児の龍馬に合掌...m(_ _)m...
http://ja.wikipedia.org/wiki/坂本龍馬 より
画像:坂本龍馬。慶応2年または3年に撮影
「坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、日本の近世末期に活動した武士。土佐藩出身。・・・土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、倒幕および明治維新に影響を与えた。戊辰戦争の直前に近江屋事件で暗殺され頓死。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公として描かれて以降知名度を飛躍的に上げ、幕末の風雲児として国民的人気を得る。
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薩長同盟
慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。 龍馬が1月20日に下関から京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問い質したところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた。 そこで、その夜に龍馬は西郷を説き伏せて、これにより薩長両藩は1月22日に薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表となり、龍馬が立会人となって列席して、後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。盟約成立後も桂の薩摩に対する不信感は根強く、帰国途中で龍馬に盟約履行の裏書きを要求している。天下の大藩同士の同盟に一介の素浪人が保証を与えたものであって、彼がいかに信を得ていたかがわかる。
盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこの時、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。 明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお龍が窓外の異常を察知して袷(あわせ)一枚のまま二階に駆け上がり二人に知らせた。すぐに多数の捕り手が屋内に押し入り、龍馬は高杉晋作から贈られた拳銃を三吉は長槍をもって応戦するが、多勢に無勢で龍馬は両手指を斬られ、両人は屋外に脱出した。負傷した龍馬は材木場に潜み、三吉は旅人を装って伏見薩摩藩邸に逃げ込み救援を求めた。これにより龍馬は薩摩藩に救出された。寺田屋での遭難の様子を龍馬は12月4日付の手紙で兄権平に報告している。
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画像:楢崎龍(お龍)
総天然色の見つけた♪...別嬪やねぇ^^
画像: http://ag-skin.com/daily/skinblog.cgi?mode=2&sn=1637 より Orz〜
「楢崎 龍(ならさき りょう、天保12年6月6日(1841年7月23日) - 明治39年(1906年)1月15日)は江戸時代末期から明治時代の女性。名は一般にお龍(おりょう)と呼ばれることが多い。
医師であった父が死んで困窮していた頃に坂本龍馬と出会い妻となる。薩長同盟成立直後の寺田屋遭難では彼女の機転により龍馬は危機を脱した。龍馬の負傷療養のため鹿児島周辺の温泉を二人で巡り、これは日本初の新婚旅行とされる。龍馬の暗殺後は各地を流転の後に大道商人・西村松兵衛と再婚して西村ツルを名乗る。晩年は落魄し、貧窮の内に没した。」
寺田屋遭難での龍馬の傷は深く、特に左手人差し指が曲がらなくなり、以後、写真撮影などでは左手を隠していることが多い。 西郷の勧めにより、刀傷の治療のために薩摩の霧島温泉で療養することを決めた龍馬は2月29日に薩摩藩船・三邦丸に便乗してお龍を伴い京都を出立した。3月10日に薩摩に到着し、83日間逗留した。二人は温泉療養の傍ら霧島山、日当山温泉、塩浸温泉、鹿児島などを巡った。温泉で休養を取ると共に左手の傷を治療したこの旅は龍馬とお龍との蜜月旅行となり、これが日本最初の新婚旅行とされている。
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画像:海援隊旗 二曳(にびき)と呼ばれていた
海援隊規約によると、隊の主要目的は土佐藩の援助を受けて土佐藩士や他藩の脱藩者中の海外事業に志を持つ者を引き受け、運輸・交易・開拓・投機等の商業活動を行い土佐藩を助けることされ、隊士は土佐藩士(千屋寅之助・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬・新宮馬之助・長岡謙吉・石田英吉・中島作太郎)および他藩出身者(陸奥陽之助(紀州藩)・白峰駿馬(長岡藩))など16〜28人、水夫を加えて約50人から成っていた。 同時期、中岡慎太郎は陸援隊を結成している。
海援隊結成から程なく「いろは丸事件」が発生した。4月23日晩、大洲藩籍で海援隊が運用する蒸気船「いろは丸」が瀬戸内海中部の備後国鞆の浦沖で紀州藩船「明光丸」と衝突し、「明光丸」が遥かに大型であったために「いろは丸」は大きく損傷して沈没してしまった。龍馬は万国公法を基に紀州藩側の過失を厳しく追求、さらには紀州藩を批判する流行歌まで流行らせるなどした。後藤ら土佐藩も支援した結果、薩摩藩士・五代友厚の調停によって5月に紀州藩は、いろは丸が積んでいたと龍馬側が主張したミニエー銃400丁など銃火器3万5,630両や金塊や陶器などの品4万7,896両198文の賠償金8万3,526両198文の支払に同意した。
海運通商活動以外に龍馬は蝦夷地や竹島の開拓も構想しており、後年妻お龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。 一方で、海援隊の経済状態は苦しく、開成館長崎商会主任の岩崎弥太郎(三菱財閥創業者)はたびたび金の無心に来る海援隊士を日記に「厄介もの」と書き残している。・・・」
経緯
龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、慶応3年11月3日(1867年11月28日)に近江屋(醤油屋)に移った。11月13日(12月8日)、伊東甲子太郎が尋ねてきて、新選組に狙われているので河原町三条の土佐藩邸に移ったらどうかと勧めたが、龍馬は間近の近江屋に留まった。11月15日(12月10日)、夕刻に中岡が近江屋を訪れ、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後ろから斬られた(1日後に死亡)。大きな物音に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が二人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説などいろいろな説がある)。龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られ、とどめを刺されて絶命した。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気を催した後に死亡した。凶行時、騒動に気付いた近江屋家人の井口新助が土佐藩邸へ知らせに駆け込んだ。下横目の嶋田庄作が近江屋の門口で刺客が出て来るのを抜刀して待ち構えていた所へ、龍馬の遣いで軍鶏を買いに出ていた菊屋峰吉が戻り、嶋田と共に部屋を確認したところ刺客は既に去った後で、陸援隊の詰所である白川屋敷へ峰吉が知らせに走った。 土佐藩邸から河村盈進と同時に、曽和慎八郎が、続いて谷干城、毛利恭介、薩摩藩の吉井幸輔、陸援隊士の田中光顕、海援隊隊士の白峰駿馬らが現場に駆けつけた。なお、近江屋と土佐藩邸の位置関係は、河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)であった。
実行者は誰か
当初、刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していたことなどから、新撰組の原田左之助や大石鍬次郎らの仕業とされた。しかし、刺客が「こなくそ」と言ったという話は谷干城の証言以外には無い。明治になるまで新選組の仕業とされていたことや、池田屋事件などもあり、戊辰戦争においては新選組に対して徹底した粛清が行われている。特に谷干城は頑なに新選組犯行説を信じており、近藤勇への厳罰を強く主張した。この事件に関しては見廻組実行説が学説として最も有力であるが、薩摩藩陰謀説をはじめとする数々の陰謀説が唱えられたり、小説などでの創作(浅田次郎の『壬生義士伝』など)もさかんに行われているが、それらを裏付ける史料の存在は確認されていない。また、現在においても坂本龍馬の知名度は中岡慎太郎に比べて圧倒的に高いが、刺客の狙いが実は中岡慎太郎であったという文脈で議論される事がある。しかし、当時の風聞伝聞の類においても坂本龍馬の名前でしか話題にない。・・・」
無念も何も考える余裕はなかったと思われるけど...
彼は生前から...こんな言葉を残してたのよね...
龍馬
「いつどこで斬られるにしても死ぬ間際まで前へ進みたい。
たとえ、どぶの中で切り捨てられても私は前を向いて死にたい。
前のめりで死んでいきたい。」・・・」
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