多種多様な考えの持ち主である多くの人々が、自然じゃなく(本能という原理を失った)、お互いに納得するためのルールを作って集団生活を営んだ...そうでもしなきゃリバイアサンじゃないけど...弱肉強食(矛盾するけど...^^;)...無政府状態の事態を見れば想像できる...そのルールってのは...みんな考え方が違うとすれば決めようがない...そのときどうするか...人間を超えたもの(神)から賦与されたルールだってことにすれば...誰も文句の言いようが無くなる...
それでもなお、それに従えない/納得できな人々はいるに違いない...だから...宗教も多様に存在するんだと...
でも...ポジションは同じ...どういうことかというと...自分らの信じるもの(神)以外は認められない...だって...両方は相容れないからこそ別れたんだから...ってことは...自分の神以外のルールに従うものは折伏しないことには...安心してこの世で生きられない...ってことに帰納的になるわけ...だから...宣教師は世界の果てまで布教することをミッションと思えたのは自然なこと...
そこで...他の神(ルール)に従って生きてる人々を洗脳して廻る...野蛮人として殺戮する(十字軍)...
この世がモノトーンになるまで止まらない...でも...真空が常に揺らぎの性質を持っているように...つまり...不確定性がどこにも内在してるゆえ...この行為は永遠に終わることもないのもわかる...
わたしは...自分が生きやすいために戦ってるだけなんだろか...?
そこに理屈を付けて...?
そうじゃないって思いたいけど...?
国で言えば、基本の憲法にそぐわないルールに異議を唱えてるんだって思ってる...
ただ...憲法解釈ってのは自衛隊の存在を例にだすまでもなく...意外と恣意的に解釈できる自由度があるわけ...そこは...すでに...宗教と同じ...だから...宗教戦争だって思ってる...不毛なんだ...^^;
わたしもその同じ土俵に乗ってるわけなんだけど...戦うためには同じ土俵の上で戦うべきだと思うし...
そんな不毛な戦いを避けたけりゃ...お互い...自分も含め...一神教の信者なんだってことに気づき...その愚かさを知らなきゃどうしようもないって気づいた...
たしかに...一神教は生きにくい...身をもってわかる...^^;...じゃ...
多神教...視点を無数に持てばいい...? それこそランダムに...? ルールと言ったって所詮恣意的/たまさかのもの...どっちも変わりゃしない...君子は豹変するんだ...変化し続けりゃいいんだ...
そうですか...ならそうしまひょう...また困ればそのとき変えればいいし...
朝令暮改...みんなそれで行きまっしょ!!
でも...それは戦いは避けられるとしても...
真理を知ること/知れたと感動することからの真反対になる...とわたしには思えちゃう...^^;
「朝(あした)に道を聞けば、夕(ゆう)べに死すとも可なり」ってことは叶わなくなることを心するべきなんだ...!!
そういってるわたし自身...殉教するだけの自信なくなってきてる...情けないけど...^^;...
一神教はある意味...crazy...なんだよね...^^
わたしは...crazyなるまま生き抜きたいけど...疲れてきてるのも事実...Orz...
「「子曰わく、朝(あした)に道を聞けば、夕(ゆう)べに死すとも可なり」
●意味は
「孔子は言いました。朝に人間として生きる道を悟ったならば、
夜に死んでも後悔はしない」
この前後は「仁」(愛・思いやり)について語っているので、
生きる道というのは、「仁」そのもののことです。
禅問答のような言葉ですが、同じ一生を送るなら何か使命感をもって
いつ死んでも構わない充実感のある人生を送りたいものです。」
*達筆すぎて...わたしにゃ読めなかったり...^^; Orz...
ご参考までに論語にぞっこんだった大町桂月の訳(明治45年)を転載しておきます。
(壷竹訳)
下等動物は、生殖の役がすめば、すぐに死ぬ。種族継続が動物にとって唯一の仕事だ。
進化した人間となると、物質的精神的の二方面がある。物質的方面から言えば、妻子が立ちゆくようにさえすれば死んでもよい。しかしそれだけでは、まだ動物的だ。精神的方面は、動物になくて、人間にのみにある。道というものがあってこそ人だ。道を悟らないなら、万巻の書を読んでも、巨万の財を積んでも、飛行機を作っても、まだ人間の役がすんではいない。道を悟れば、人間の極に達したといえる。うれしや、うれしや、これで死んでも遺憾ない。道を悟らずに酔生夢死する人は、七十八十まで生きた処で、まことに気の毒なものだ。朝夕と言いわけているのは、『直に』の意に、あやをつけたものだ。人間にあっては、種族の継続は、最早問題にならない。それが問題になるような人は、動物よりも劣った人だ。生死よりも道が重い。種族の継続が動物の生命であり、道の継続が人間の生命だ。
道に達したら、直に死ねと、命令的に強いているのではない。道に達したら、この身はどうなっても、遺憾ないといふ意味だ。他動的ではなく、自動的だ。
忠臣が忠に死し、義士が義に死し、愛国者が国に殉じて、遺憾ないのは、即ちこの心の発露だ。この言葉は、求道者の真情を吐露し、人を鼓舞して万鈞の力がある。道というものの尊い理由を極度に発揮している。孔子の萬言の極致が結晶してこの一言に在る。・・・(後略)・・・ 」
「過激なタイトルに目を引かれて手に取った本。著者は臨済宗の僧侶を経て渡米し、ハーバード大学神学部などに学んだ比較宗教学者だ。そうした経歴からもわかるとおり、これはリチャード・ドーキンスの『神は妄想である/宗教との決別』のような、無神論者による「反宗教本」ではない。著者は宗派を超えた「宗教性」と祈りのたいせつさを認めつつ、既成宗教、とくに一神教を批判する。「比較宗教学者として世界各地を飛び回るようになり、仏教やキリスト教以外の宗教にも、直接触れる機会を多くもつことになった」という著者の宗教体験の豊富さは、群を抜いている。本書は、著者のそうした経験をふまえた、評論色の濃いエッセイという趣の本である。著者が「ほかならぬ『宗教』こそが、人類最大の敵だ」と考えるに至ったさまざまな体験が、随所で紹介される。それらの体験はいずれもすこぶる興味深く、私はそこにこそ本書の価値を感じた。・・・」
でも...わたしの拙い/単純な/直感的な発想からは...人は宗教性を帯びない限り...ルールの正統性の依って来るすべがないと思えるんだけどね...^^;...この本まだ読んだことないままですけど...Orz...