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2010年05月29日
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荘子(そうし)
だから...みんなを敵にしちゃう理由はこれかもね...?
「むかし、中国の衛(えい)の国に、哀駘它(あいたいだ)という、まったく風采のあがらない男がいました。ところが、彼と接した人たちは、みんな彼を慕って離れようとしません。誰もが、「あいつはいい男だ」「あんな気持ちのよい男はいない」などと絶賛します。たくさんの男たちが、彼と友達になりたがったのです。
娘たちがこの哀駘它を見ると、「ほかの男の妻になるより、お妾(めかけ)さんでもいいから、彼と一緒になりたい」と、数十人の女性たちが両親に泣いてせがむという始末。もう、モテモテで大変!
彼は、決して豪壮な家に住んでいるわけでなく、とりたてて財産があるわけでもありません。権力も地位もなく、ごくごく平凡な男に過ぎません。彼の魅力は、いったい何だったのか?
「和して、唱えず」。つまり、彼は、何を言われてもハイハイと素直に答える男だったのです。なぜ、彼がそのような態度を取り続けることができたのか。彼は、すべての人に好意が持てたからです。〜『荘子』の逸話から 」
わたしは...たしかに羨む...でも...闘うゆえに我あり ^^;...の自分は変えられない...
ゆえに...まったくもてず...覚悟のゆえあるね!!
すべての人に好意がもてる...なんて素敵なことだろう!!
でも...彼はそういうDNAを授かってたんだろうね...彼が偉いわけでもなんでもない...
たいていは...そうじゃない...だから...「和をもって尊し」なんて理念をわざわざ掲げなくちゃいけないんだもの...
だから...彼が相対的に浮かび上がってくるわけで...いわば突然変異...Orz
みんな彼のようだったら...果たしてもてただろうか...?
今度は逆に...わたしのような奴の方がもてるんじゃないのかなぁ...^^;?
その意味では...みんな哀駘它になってくれればいいのに...!!
そのときにゃ...きっと...わたしがもててるんだ♪
この関連で言うと...♀1匹で後全部♂の集団で...その♀がいなくなったら♂の中から♀に変異するものが出現する...って現象はよく知られてる...怠けるものを切り捨てたところで...新たな怠け者は生まれる...この世はバランスが取れるようになってる...言ってみればフラクタルなのよ...^^
哀駘它がいなくっても...誰かに哀駘它になる白羽の矢が射られちゃうだけのことなんだと...
孔子(こうし)
孟子(もうし)
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず
これは論語の言葉で、「子曰く、君子和而不レ同、小人同而不レ和。」
意味は「君子は協調はするが迎合はしない。小人は迎合はするが協調はしない。」という事ですね。和に関しての言葉には、「和を以って貴しと為す」があり、聖徳太子の十七条の憲法の1つです。他には、孟子の「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。」が有ります。 いずれにしても、社会では人の和はとっても大事だよ。という事だと思います。 只、気を付けなければならない事は、表題のように和と同の違いに留意しろという事でしょう。 多数を占めている意見に異を唱えたい場合や、上司の意見とは違うのだがという場合、自分に不利になるからと押し黙れば、多数派や上司は聞いて考える機会を無くします。 出来たら多数派や上司は、自分とは違う考えだとしても、価値観が違うとしても、ましてや好き嫌いで黙殺する事無く一応聞いたり、議論をして欲しいものです。 又、『中庸』という古典には「和して流せず」という同義の言葉があります。」 う〜む...「和して唱えず」と「和して同ぜず」とは違うよね...?
「和さず同ぜず」ってなわたしは...君子でもなきゃ...哀駘它でもない...
かといって...小人にも当てはまらず...小人閑居して不善をなす...には近いけど...^^;v
「小人閑居して、不善を為すこと至らざる所なし。 君子を見て、しかるのち、厭然(ようぜん)としてその不善を覆いて、 その善を著さんとす。 人の己を見ることは、その肺肝を見るが如く然れば、すなわち何ぞ益あらん。 此れを中に誠なれば、外に形(あら)わるという。 故に君子は必ずその獨を慎む。
要するに 「厨房は人が見ていないとやりたい放題、何をしでかすか分からない。 そのくせ、立派な人を見ると己を恥じて、自分の悪い部分を覆い隠し、 自分を良い人間に見せようと偽る。 しかし、そんな小細工をしても他人から見たらバレバレ。 内面の立派な人間は、必ずそれが外見ににじみ出る。逆もまた真なり。 だから立派な人間は、人が見ていない独りの時こそ言行を慎み、 裏表のない人間であるよう気をつけるのだ」……ってこと。 「閑居」は「ヒマな時」ではなく、朱子の注では「独りでいること」 なのだから、「ヒマこいてると犯罪する」は間違いと思われ。 」 |

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円周の50等分する50個の点のうち3点を結んでできる鈍角三角形の個数は?
解答
きれいな図柄♪
ライブ問にてまたいずれ ^^
やっとでけた...直感は裏切られるものね...^^;
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「全国良寛会常任理事・松本市壽さんが、南無の会機関誌『ナーム』に連載中の「良寛の心を生きる」を転載、今回はその7回目。(2006年7月号から「抹香くさくなし」です。)
抹香くさくなし それにしても良寛さんという人は、どんな感じの人であったか。後世になって、良寛のことがいろいろ書き立てられはしても、誰も良寛の実際の姿を見たわけではない。それぞれの思いこみによっているだけである。 そこへいくと解良栄重(けらよししげ)は実際に良寛と親しく面識があり会話してもいる。その栄重が『奇話』五十二段で、良寛は「神気(しんき)内二充(みち)テ秀発(しうはつ)ス」と書いた。それは、尊くもおごそかな気力が充満し風采はすぐれて立派で、その姿かたちは「神仙ノ如シ」、つまり神通力を得た仙人のようであった、という。 しかも上背があり、体格はすらりとしてスマート。鼻は高く、想像上の鳳凰という霊鳥の眼のよう。おだやかで素直なれど、きびしく公正を保つ態度に少しも抹香(まっこう)くさい感じがない。その人柄の内部をのぞき見したいのに、垣根で高く囲まれていて御殿の中はうかがい知れない。良寛に似た人を、近ごろでは見ることができない。宇治山に住んだという喜撰(きせん)法師 (*喜撰(きせん)平安時代の歌人。六歌仙の一。喜撰法師とも呼ぶ。「わが庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり」という喜撰の歌から、茶(宇治)の銘柄名。また茶の隠語。http://www.fesh.jp/utterer_1234_1_1.html より Orz〜) 以来の人というほかはないと、江戸から来た亀田鵬斎(ぼうさい)が言っていた、と。 栄重は最大級の賛辞を惜しまない。栄重は良寛より五十二歳年少だった。良寛が亡くなってから十七年目に『奇話』を書いた。親しくはあったが、良寛を心の底から尊崇する気持ちは変わらない。
その良寛の立ち居ふるまいは、「常ニ黙々トシテ、動作閑雅(かんが)ニシテ余り有ルガ如シ」(一段)。いつも黙ったまま動きはものしずかでしとやか、ゆったりとしていた。「心広ケレバ体(たい)ユタカ也トハ、コノ言(げん)ナラン」(同)。心が公正明大だと肉体もおおらかになる、と『大学』第二章にあるのは、良寛のこんな様子を言いあてたものではなかろうかと。
また「平生(へいぜい)、喜怒ノ色ヲミズ、疾言(しつげん)スルヲキカズ。其(その)飲食起居、舒(おもむ)ロニシテ愚ナルガ如ク」(十九段)。ふだんは喜びや怒りの感情を表にあらわすことはない。落ち着きもなく早口でいう言葉を聞いたことがない。食べたり飲んだりや立ち居ふるまいも、ゆっくりゆっくりとまるで愚(おろ)か者のようだったという。 ここで、大愚(だいぐ)良寛の「愚」が出てきた。わたしは「愚」を愚か者と訳したが、良寛の容姿と立ち居ふるまいを栄重は「神気内二充テ秀発ス」と書いたり、一方では「愚」(愚か者)のようだったと表現したりしているから、これを読む側にはとまどいがある。しかし、この矛盾の間に良寛がいる。
この「愚」の語は禅宗で常用される。よく愚生、愚僧、愚考、愚説、愚案など自分をへりくだっていうときに用いられる。浄土真宗の開祖親鸞(しんらん)も「愚禿(ぐとく)」と名のった。もともと『老子』や『荘子』に考え方のもとがある。自分の才能を「賢(さかし)」らにひけらかし、喧伝しようとする儒者の出しゃばりを退け、それには無頓着で老荘はむしろ才覚を包み隠した「和光同塵(わこうどうじん)」の態度のほうを尊重する。 「愚なるが故に道なり」とは『荘子』天運篇に説くところだが、愚は世間的には喜ばれない。しかしその愚には人間のさかしらな知識が働いていないから、それこそ本当の道に合致するという考え方が老荘思想である。少年時代は『論語』をはじめとする儒学を徹底して学んだ良寛が、まるでコペルニクス的な方向転換をなしたのはなぜだったか。ここが良寛を説明する際の大きな課題である。 良寛は二度も出家している、とはよく囁(ささや)かれる。その第一は大森子陽(しよう)の三峰館で儒学を学んだのち出雲崎(いずもざき)の名主見習役となった栄蔵時代に、現世で身を立てることを見限って仏門に転じたとき。第二は禅僧修行で印可(いんか)を受けながら法灯を継ぐ禅寺の住職とならず、ひとりの乞食(こつじき)僧となって詩歌三昧(ざんまい)の生き方を決めたとき。 お寺の経営を主体とする僧侶として生きるとは、葬式法事の利権によりかかり、むしろ一般の俗世間のように立身出世を目的とし足をひっぱりあう生活と変わらない。その内実は俗世間よりも醜いものがあると見た。その思いは五十二行の長詩「僧伽(そうぎゃ)」に綿々と書きつらねているのを読まれよ。
栄重が知っている晩年の徳聖あふれる良寛はいざ知らず、もともと栄蔵と呼ばれた少年時代の良寛は、自意識も過激な僻(ひが)みっぽい拗(す)ね者で、癇性(かんしょう)の父親以南(いなん)をしばしば激怒させた。ひょっとして自分は以南の子ではなく、本当の父親はほかにあったのではないかという思いが栄蔵の心の隅にあり、僻んでいた。それは家出につながり、やがて仏門に入ることになる。 過剰なくらいの自意識をかかえた栄蔵は、禅僧良寛になってからも研(と)ぎ澄ました鋭い視線で仏門の内実を見た。この堕落ぶりでは、とうてい世俗の人を救済するどころか、わが身も心も立たない。ひとり釈迦の原始仏教のありように立ち返る道を模索しよう、という決意が托鉢(たくはつ)をしながら、一方でわが思いを詩歌に書き取る詩偈(しげ)僧の生き方、これぞ良寛流の生き方を編み出したのである。 『荘子(そうじ)』徳充符篇に、哀駘它(あいたいだ)という名のたいへんな醜男の話がある。彼といっしょに住んだ男どもは、彼を慕ってそのそばから離れられないし、彼を見た女たちは、「他人の妻となるよりは、あの人の妾(めかけ)になりたい」といって父母にねだるほど。それも何十人で終わらない数だったという。哀駘它は自分の意見を主張するわけではなく、君主の持つ権力で人の死を救うのでもなし、蓄財によって人の飢えを満たしてやるわけでもない。だが、外の形にとらわれない内面の徳=和やかさを心のうちに生み出す力、生まれつきのままで欠けるところのない徳の源泉がそなわっていたという。 良寛は醜男でなかったが、とりたてて何かをお説教したり、権力や財力で人を救ったのでもない。外側に向けて光り輝いているよりも、その内なる充実が外面的な作為を通りこえて見る人を和ませ、神気さえも感じさせた。抹香くさくない托鉢僧の姿だった。【全国良寛会の最新記事】」 わたしの普段の行為は...この「大愚」とはほど遠い...愚の骨頂ってな代物みたいだわ...^^;
でも...どうせ阿呆なら踊らにゃ損々ってな気分もあるわたし...^^;v
哀駘它(あいたいだ)の話は...興味津々♪
またいずれ ^^v
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「18世紀最期のフランス革命以後に発展した理性を重んじる新古典主義、情熱に憧れたロマン主義などの19世紀フランス絵画を展示してありました。フランス革命、ナポレオン帝政から二月革命にいたる政治・社会が大変動した時代です。
人が人を殺す暗殺をモチーフにした絵や、戦争中(フランス革命?)の絵がメインでした。リアルで残虐な絵ばかりが並ぶんですが、絵の中で、神が人を愛してしまったり、人が神獣に立ち向かってたり実は空想画も多いのがとても面白いです。空想画なのに、あたかも本当にあったかのようなリアルさで。アングルの有名な「トルコ風呂」も空想画(上画像)だったのにはビックリ。神の存在や、王の権威、女性の弱さなどが時代が進むにつれて段々絶対的なものでなくなってきてる感じがしました。」 『論語』とフランス革命
『論語』をはじめとする儒教の考え方は、後世の歴史にさまざまな影響を与えたが、その驚くべき例の一つに、フランス革命がある。現代の民主主義や人権思想の源流であるフランス革命、一方、封建思想の典型のような『論語』。両者はおよそ結びつきそうにないものだが、そこには意外なつながりがあった。
そもそものきっかけは、キリスト教の神父たち、とくに日本史でもおなじみの、フランシスコ・ザビエルが所属していたイエズス会士の布教活動にあった。彼らは積極的に東アジアに進出し、熱心な布教活動に加えて、世界各地の知の遺産を集約する活動に力を注いだ。宣教師たちは、『論語』や『孫子』などの中国古典を次々と翻訳し、母国に伝えていった。その結果、フランスの貴族の間で中国ブームが巻き起こり、ルイ14世は中国服を着てパーティーに出席したというし、マリー・アントワネットの書庫にも中国古典を紹介した書物が収められていたという。しかし皮肉にも、これがフランス革命の下地になっていく。当時のヨーロッパにおいて、国王の権威は、「王権神授説」によって支えられていた。つまり、王の権利は神から与えられているので、民衆には一切責任を負う必要がないとする考え方だ。責任がない以上、民衆には過酷な政策が当然のように実施され、フランス国民は悲惨な状況に追い詰められていく。ところが、『論語』など儒教系の古典には、王朝の交替、つまり「革命」を起こしてもよい、とする思想があった。王であることは確かに天から命じられているが、しかしその天命は、民衆の支持によって決まってくる。民衆が見放せば、その王朝の天命が失われたと考えてもよいとされた。『孟子』にも、次のような言葉がある。
天の視るはわが民の視るにより、天の聴くはわが民の聴くによる(天は民衆を目として見、天は民衆を耳として聴く)
モンテスキューやヴォルテールといった当時の知識人たちは、この考え方に驚き、そしてフランスにもこの思想を取り入れるべきだと考えた。彼らは、王権神授説に対抗する思想的根拠を、儒教系の革命思想のなかに見出したのだ。そして1789年、バスティーユ監獄の襲撃が勃発、フランス革命が始まる。『論語』や儒教系の古典は、最初は宣教師の知の戦略として紹介され、たちまち貴族の間に広まったものの、それが結局、革命への思想的な背景を形作っていった。意外なところで意外な影響を及ぼしている古典、それが『論語』なのだ。」
たしかに...王権神授説ってのを習ったよねぇ...「由らしむ可し、知らしむ可からず」も、孔子の論語の言葉であるらしい...^^; けどね...もっと上手く...嫌み的には今の官僚のようにすれば...適当に玉の出を緩めれば...維持できたかもしれない...?
中国は...易姓革命って呼ばれてたのを思い出した...^^
「「由らしむ可し、知らしむ可からず」...この語は確かに為政者が国(民)を治めるときの心構えについて語ったものではあるけれど、国民に目隠しして、「黙って俺について来い」と命令しているのではない。この語の意味は、「為政者は国民から信頼されて導いていかなければならない。しかし、国民に正しい教えを完全に理解させるのはとても難しい。」というところにあるのである。・・・だからそれを、「文句を言わずに俺についてくればいいのだ」と言うような、専制君主の「問答無用」みたいな解釈を、この「よらしむべし、しらしむべからず」という言葉に託してもらっては、この言葉が困るのである。・・・」
*医者が患者さんにわかりやすいインフォームドを提供することの困難さを感じるもどかしさにも似てる...^^; 「易姓革命(えきせいかくめい)とは、古代中国において、孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を説明した理論。天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革(あらた)める)が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。無論、神話の時代を除けば禅譲の事例は実力を背景とした形式的なものに過ぎない。「後漢(劉氏)」から「魏(曹氏)」のように、前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(姓が易(か)わる)というのが基本的な考え方であり、本来、日本で言われているような「単に前王朝の皇室が男系の皇嗣を失って皇統が断絶する」ような状況を指す概念ではない。・・・ほとんどの新王朝の場合は史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆が強調される・・・このように、易姓革命論は実体としては王朝交代を正当化する理論として機能していたと言える。またこのような理論があったからこそ劉邦や朱元璋のような平民からの成り上がり者の支配を正当化することが出来たとも言える。これは西洋において長年にわたって君主の血統が最も重視され、君主の血統が断絶すると他国の君主の血族から新しい王を迎えて新王朝を興すのとは対照的である。
五行思想面からの説明では、万物には木火土金水の徳があり、王朝もこの中のどれかの徳を持っているとされた。たとえば、漢の末期を揺るがした184年の黄巾の乱は、「蒼天已死 黄天当立」(蒼天已(すで)に死す、黄天当(まさ)に立つべし)とのスローガンが掲げられた。漢は火の徳を持っているとされ、漢に代わる王朝は土の徳を持っているはずだとの意味である。」
これって...自由市場主義の原理そのものじゃん...?
血族会社の職員のモチベーションがだだ下がることは宜なるかな...「徳」は...DNAで受け継がれるものじゃないんだろうか...? 「徳」も...相対的なもので...より徳のある者がいれば、そちらに禅譲されるべきだと思うのが人の自然な気持ちなんだろうなぁ...そのとき...みんなの納得が得られ...正統性が担保されることになるってことかな...^^v
いまは...官僚にインフォームドされることがないままにもかかわらず...唯々諾々と異議を唱えるようとすることさえ忘れた...おとなしい飼いならされた羊の群れとして囲い込まれてるだけの日本人に成り下がってるような気がする...
大衆迎合(ポピュリズム)に陥ることと紙一重のような気もするけど...^^;? 少なくとも...
今の中国の人治主義と揶揄されているものよりも貴い思想が常識として民衆のなかに存在してたんだのに...今の方が腐敗してないとどうして誰も思わない/思えないのだろうか...?
いま、当局が躍起になって情報管理に努めてるようですが...歴史は循環の様相を呈してるように思える...^^
ただ...形式が違うだけで...今の日本と同じ状況でもあると思えるわけだけど...Orz...
「徳」とは...わたしが思ってるようなものでもなさそうだけど...以下参照
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