アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

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問題10580・・・http://jukensansu.cocolog-nifty.com/zan/ より 引用 Orz〜

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解答

・わたしの…
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もうわやですわ…^^; Orz…
(鍵コメT様ご指摘グラッチェ〜m(_ _)m〜)


x+2x/3=3 でした…のね ^^;;
so...
x=9/5
3*(9/5+9)/2=162/10=16.2 cm^2

Orz〜


赤字で訂正…^^;; 何度もバカげてる…Orz


・鍵コメY様からのもの Orz〜
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*メネラウスの定理自在に使えればスッキリなのねぇ☆
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問題10579・・・http://www.kimori.net/omosan27.htm より 引用 Orz〜

公園の池の周囲をラジコンのレーシングカーA,Bを走らせる。
同じ向きにそれぞれ一定の速さで同時に同じ地点から出発させた。
Aが1周したとき、Bはまだ1周していなくて、Aの後方5mのところを走っていた。
Bが1周したとき、Aは2周目で、Bの前方7mのところを走っていた。
池の周囲は□mである。

(灘中 2000年)























































解答

・わたしの

A : B=m : m-5=m+7 : m
m^2=m^2+2m-35
m=35/2=17.5 メートル

^^
もう算数じゃわからん…^^;
囲碁を最初に日本に伝えた人はいまだわかってはいないよう…

画像:http://karojinjya.jp/index.php?id=89 より 引用 Orz〜
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吉備真備(きびのまきび)公(695〜775)は奈良時代の学者で、兵法や経史にも通じたすぐれた政治家もありました。霊亀3年(717)と天平勝宝3年(751)に遣唐使として唐に渡り、儒学・律令・礼儀・軍事などを学び、囲碁をはじめ多くの書籍や器物を日本に伝えました。帰国後は大宰府長官や右大臣を歴任し、政界で活躍しています。
ボストン美術館が所蔵する『吉備大臣入唐絵巻(きびだいじんにっとうえまき)』には、入唐してきた吉備真備公の才能におそれをなした唐人たちが、真備公を幽閉し、博士や名人を遣わして『文選』の読解や囲碁の勝負を挑みますが、幽霊となった阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の手を借りつつ難題を切り抜けるという話が描かれています。賀露(かろ)神社(賀露神社 鳥取県鳥取市賀露町北1-21-8)にも真備公が唐の名人と囲碁の勝負をしている絵が残されています。・・・また、真備公が帰朝される際、助けたお礼として村人に囲碁を伝えたという言い伝えにちなみ、平成20年(2008)年からは真備公の功績をたたえて「吉備真備杯囲碁大会」が毎年開催されています。 」


https://ja.wikipedia.org/wiki/吉備真備 より Orz〜
江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』などによれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備とともに遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な「野馬台の詩」の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。唐人は挙句の果てには食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した。
真備が長期間にわたってに留まることになったのは、玄宗がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる。真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰という人物は、呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。また、帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたといわれる。中世の兵法書などでは、張良が持っていたという『六韜三略』の兵法を持ち来たらしたとして、真備を日本の兵法の祖とした。碁に関しても、日本に初めて持ち帰ったとされる伝承があるが、魏志倭人伝に碁と双六が齎されたことが記載されており事実ではない。また、吉備真備は、陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。このときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。その他、『今昔物語集』では、玄?遭を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし、『刃辛抄』では、陰陽書『刃辛内伝』を持ち来たらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている。宇治拾遺物語』では、他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある。」

*吉備真備といい、尾道の因島(いんのしま)出身の碁聖 秀策といい、中国地方の人に強い方多かったのねぇ^^
将棋だったら、大山康晴、升田幸三…もこの地域出身者なのよね ^^
空海も香川県出身じゃなかったっけ?…彼もおそらくべらぼうの打ち手だったのではないかと調べてみると...なんと...彼は囲碁を戒める訓戒を残しているらしい!!...勉学が疎かになっちゃう位面白いゲームだってことの証ですかね…^^…?


「「御遺告」とは空海が入定する6日前の835(承和2)年3月15日に弟子・信徒へ後世の為への戒めを25箇条にわたって示された遺言である。」


画像:https://ja.wikipedia.org/wiki/本因坊秀策 より Orz〜
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本因坊 秀策(ほんいんぼう しゅうさく、文政12年5月5日1829年6月6日) - 文久2年8月10日1862年9月3日))は江戸時代囲碁棋士備後国因島(現・広島県尾道市因島外浦町)出身で俗姓は桑原。幼名は虎次郎。法名は日量。父は桑原輪三。
・・・1846年(弘化3年)、井上幻庵因碩と数度の対局を行う。幻庵八段、秀策四段なので二子の手合だが、一局打ちかけて幻庵は秀策の実力を認め、破格の定先に変更しての対局であった。その中の一局は「耳赤の一局(みみあかのいっきょく)」と呼ばれる著名局である。幻庵因碩は後に「(あのときの)秀策の芸は七段を下らない」と評したという。
当時、一流の打ち手であった幻庵因碩に定先で打ち勝った事を機に、丈和と秀和は秀策を将来の本因坊跡目とする運動を始める(当時丈和は隠居、当主は丈策であり、秀和が跡目であったが、丈和・丈策が一年後に相次いで亡くなっていることから、この時点で両者ともに健康を害していたのではないかと推測されている)。しかし家元につけば同時に幕臣となるが、秀策は父・輪三の主君でもある備後三原城主・浅野甲斐守の家臣と言う扱いであり、甲斐守に対する忠誠心からこれを頑なに拒否。囲碁家元筆頭の本因坊家の跡目を拒否する事などは前代未聞であった。また師・秀和との対局でで打っていた所、秀策の大幅な勝ち越しになったため秀和が「手合いを改めよう」と言った所「師匠に黒を持たせるわけにはいきません」と答えたという(先の次は先相先となり三局に1回は上手が黒を持つ事になる)。1848年(嘉永元年)に正式に第14世本因坊跡目となり同時に六段昇段、また丈和の娘・花と結婚する。また翌年から御城碁に出仕し、それ以後19戦19勝無敗の大記録を作った。秀策最強説の有力な根拠がこれである。もっとも、秀策は御城碁の連勝にこだわっており、林有美(当時五段)との二子局を固辞したエピソードや、10世安井算英(当時二段)との二子局を秀和に打診された際、「二子の碁は必勝を期すわけにはいかない」と固辞したというエピソードが伝えられる。少なくとも、19局中に二子番が皆無というのはかなり不自然といわざるを得ない。ただし、同時に「互先の白番(=コミなし)なら誰が相手でも辞さない」といったことも伝えられている。秀策の無敵を支えたのは平明秀麗な碁風と、秀和と並ぶ正確な形勢判断である。また秀策の先番は秀策流と呼ばれる布石法が有名であり、秀策の先番は堅実無比と称された。秀策が御城碁下打ちの結果を聞かれた時、「先番でした」とだけ答えたと言う逸話も残っている(ただしこの話は謙虚な秀策の性格とはそぐわないため、「先番でしたので、なんとか勝つことができました」の前半部分だけが一人歩きしてしまったともいわれる)。1862年(文久2年)、江戸コレラが大流行し本因坊家内でもコレラ患者が続出した。秀策は秀和が止めるのも聞かず患者の看病に当たり、当人が感染しそのまま34歳で死去した。この年御城碁が中止され消滅した。なお、本因坊家では秀策の看病によりコレラによる犠牲者は秀策以外は1人も出さなかった。棋力のみならず極めて人格に優れ、本因坊道策(前聖)、本因坊丈和(後聖)に並び称され、後の囲碁ファンに与えた影響は多大である。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/阿倍仲麻呂 より Orz〜
阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年〈698年 - 宝亀元年〈770年1月)は、奈良時代遣唐留学生。中国名は仲満のち晁衡/朝衡(ちょうこう)。は朝臣。筑紫大宰帥阿倍比羅夫の孫。中務大輔阿倍船守の長男。弟に阿部帯麻呂がいる。科挙に合格し唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。・・・
文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。霊亀3年・養老元年(717年多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行しての都・長安に留学する。同次の留学生には吉備真備玄?遭がいた。
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『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』(月岡芳年『月百姿』)
仲麻呂の作品としては、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」が百人一首にも選ばれている。この歌を詠んだ経緯については、天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説だが、仲麻呂が唐に向かう船上より日本を振り返ると月が見え、今で言う福岡県の春日市より眺めた御笠山(宝満山)から昇る月を思い浮かべ詠んだとする説も存在する。」
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*少なくとも、阿倍仲麻呂の力を借りてということは、日本を経つ前には二人はかなりの打ち手だったのではと思えるのですよね…?…^^
以下のサイトにも...もっと前から伝えられていた形跡があるようです…^^

日本では枕草子源氏物語に囲碁の描写があり、源氏絵巻にも対局を楽しむ様子が描かれています。さらにさかのぼれば、奈良時代(710〜794年)にも宮廷では碁が打たれていたことが、様々な文献から分かっています。それでは、日本にはいつ頃、誰が碁を伝えたのでしょうか?最も有力とされているのは8世紀前半、唐に留学していた吉備真備(きびのまきび)が伝えたという説で、若干の疑問符付きながら半ば常識化しています。ところが、わが国最古の漢文詩集『懐風藻』に、それを覆す記載があります。『懐風藻』によれば、「弁正法師という人が少年時代に出家して唐に留学し、即位前の皇帝になる人に会って、囲碁が上手なので厚くもてなされた」とあります。留学は大宝年間(701〜703年)のことですから、吉備真備の帰国より少し前の出来事です。かの少年は留学前からすでに囲碁の腕前が相当だったことになり、当時の日本に彼が強くなる囲碁環境があったと考えられます。これで囲碁伝来は、ますます謎に包まれてしまいました。・・・『続日本紀』の天平10年(738年)の記載に、「長屋王が碁を打っている最中に、話のもつれから争いになって、相手を剣で切った」ことが記されています。このことからも、当時すでに宮廷では碁が日常的に打たれていたことが、容易に想像できます。」

たしか...正倉院御物(ぎょぶつ)に碁盤と碁石があったですよね?
聖武天皇が愛用されたということね♪


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正倉院に伝わる宝物を題材としたシリーズ切手が2014年(平成26年)から始まっています。その名も「正倉院の宝物シリーズ」といい、第1集は82円切手5種類。そのうちの1番目の切手がこの「木画紫檀棊局・棊子」というものです。漢字を読めない人も多いでしょう。自分もその一人です。日本郵便のサイトの説明によると「木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)・棊子(きし)」を描いたものと紹介しております。
正倉院には三面の碁盤が伝わっていますが、中でも木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)は最も技巧をこらしたもので聖武天皇御遺愛の宝物と伝えられています。材は紫檀で、各側面には象牙を人物・動植物などの形に切り抜き、毛彫り・淡彩を施したものがはめ込まれています。 棊子(きし)とは碁石のことで、正倉院に伝わる紅色と紺色の染象牙の碁石を切手の意匠に採用しています。
碁石についても「紅牙撥鏤棊子(こうげばちるのきし)」と「紺牙撥鏤棊子(こんげばちるのきし)」という名前がついております。囲碁は、中国から伝わったものですが、その時期ははっきりしていません。大宝律令(701年)の中に囲碁に関する記述があるとされており、奈良時代より以前に伝わったことになります。

*吉備真備が日本に戻る前に伝わってたわけね ^^

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