知らなかった!!
自然が、一番速い(岩盤の硬さやら高低差やらの複合的最適合)経路を
教えてくれているという意味で...人も倣えってことあるね ^^
「フォッサマグナ(羅: Fossa magna、意味:大きな溝)は、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本と西南日本の境目となる地帯。中央地溝帯(ちゅうおうちこうたい)、大地溝帯(だいちこうたい)とも呼ばれる。端的に言えば、古い地層でできた本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に新しい地層が溜まっている地域である。
本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断位置する。西縁は糸魚川静岡構造線(糸静線)、東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線となるが、東縁には異説もある。フォッサマグナはしばしば糸静線と混同されるが、糸静線はフォッサマグナの西端であり、フォッサマグナそのものではない。地図の上でもフォッサマグナが「面」であるのに対し、糸静線はその一方の境界を成す文字通りの「線」であることが一目瞭然である。・・・この地域は数百万年前までは海であり、地殻が移動したことに伴って海の堆積物が隆起し現在のような陸地になったとされる。原始の日本列島は、現在よりも南北に直線的に存在して、アジアに近い位置にあったと考えられている。約2,000万年前に、プレートの沈み込みに伴う背弧海盆の形成が始まった。背弧海盆とは、沈み込んだプレートがマグマとなって上昇し、海溝の内側のプレートを押し広げてできるものであるが、これによって日本海が現在のように広がり、日本列島もアジアから離れていった。ただ、日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフと日本海溝の2つだったため、日本列島は中央部が真っ二つに折られる形でアジアから離れた。折れた原始日本列島の間には日本海と太平洋をつなぐ海が広がり、新生代にあたる数百万年間、砂や泥などが堆積していった。そして数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って日本列島に接近した時に、真っ二つになっていた列島が圧縮され始めた。この時、間にあった海が徐々に隆起し、新生代の堆積物は現在陸地で見られる地層になったと考えられている。」
*で...フォッサマグナの位置とは関係ないようでしたわ…^^;
「一般国道41号は、富山市と名古屋市を南北に結ぶ東海・北陸地方の主要幹線道路です。このうち富山市と高山市間は、古くから富山湾で獲れるブリを長野県や岐阜県に運ぶ道であったことから「ブリ街道」と呼ばれ、現在も地域の暮らしを支える道路となっています。平成14年に2人の方が栄誉あるノーベル賞を受賞され話題となりましたが、このお2人を含め日本に12人しかいないノーベル賞受賞者のうち4人がこの「ブリ街道」の通る地域にゆかりのある方であることが分かりました。これを機にこの区間は「ノーベル街道」とも呼ばれ、地域が一体となって観光整備が進められています。 出典:ノーベル街道」
「梶田隆章さんのノーベル物理学賞受賞決定で二十四人となった日本人受賞者。このうち半分の十二人が、出身地や研究拠点などで中部地方にゆかりがある。その軌跡をたどると、国道41号に沿って列島を縦断する「ノーベル街道」が浮かび上がった。」
「(注)大隅教授の出身地は福岡市なのですが、岡崎国立共同研究機構基礎生物学教授をされていました。」
不思議でんなぁ〜〜〜!!
たしかに、鰤(ブリ)には脳にいいと言われるDHAが豊富とは言えねぇ…^^;…?
「先日テレビで数学者の“岡潔教授”という方の個性的な生活風景の話を見て印象に残った話が、電車に乗る時のスタイル。(あの湯川秀樹さん、朝永振一郎さんも教え子だったそうな)岡教授は電車の中で靴を脱いで座席に正座をして窓の外の風景を眺めるという行動をとっていたとのことでした。ただその子供のような行動も本人にとっては計算された?ものだそうで、窓の外の風景を見ることによって数学の問題の解の求め方が“ひらめく”という理由からとのことでした。美しい風景は脳波に良い物質を発生させる刺激の一つのようです。それは風景に限らず感動を与えてくれるものは何でもそうであろうとは思いますが。
それで思い出したのが遠景に山のある風景のあるところ。このような地域も脳波に良いかもしれません。“立山連峰”の美しく見える富山県からはじまる“ノーベル街道”にはノーベル賞を受賞する学者が誕生し、レーニア山の見えるシアトルもテクノロジーの街ともいわれ国際的な企業アマゾン、マイクロソフト等の企業があります。最近アップル社の研究開発の拠点が“横浜”にというニュースがありましたが、横浜で富士山が見えるところだとさらに良いアイディアが生まれるかもしれません。地理的に日本の部品メーカーとの交渉、打ち合わせなどのアクセスの良さも目的の一つでしょうが。」
*美しい景色が脳を刺激する…?…
れいの…三上(さんじょう)に近い気がするけど…?
「三上 - 良い考えの生まれやすい状況のこと。馬上、枕上、厠上。それぞれ「乗り物に乗っている時」、「布団で寝ている時」、「便所の中」」
で...こんなの見つけた…^^☆
ノーベル街道とイザナギライン
「富山市から名古屋市にいたる国道41号線を、ノーベル街道とよぶそうだ。ノーベル賞受賞者や研究施設にゆかりの国道を、富山県と岐阜県が観光PRとしてそう名づけた。・・・ノーベル賞受賞者15名のうち7名が41号線ぞいの地域にからんでる。正直、異常だ。ノーベル街道の呼称もけっして大げさじゃない。
富山市・神通川⇒神岡町(スーパーカミオカンデ)⇒宮川(一宮川)⇒飛騨国府⇒飛騨高山⇒飛騨一宮(水無神社)⇒位山(両面宿禰)⇒飛騨川⇒下呂温泉⇒金山巨石郡(9/2震度1)⇒木曾川⇒尾張一宮・真清田神(8/28豪雨被害)⇒熱田神宮国道41号線は南北に流れ込む木曽川(飛騨川)と神通川(宮川)にほぼそって走っている。その分水嶺にあたるのが、おなじみの「位山」だ。聖徳太子や貴族の持つ笏は位山のイチイの木でつくられた。神々に位をさずける山とされ両面宿禰の怪神伝説でも知られる。この怪神を討ったのが難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)。難波区の「キャッツなんば店」放火事件のとき、ヤマトヲグナさんにご指摘いただいた武神。神功皇后・応神天皇母子に反乱した忍熊皇子と香坂皇子を追討した。香坂皇子が亡くなった神戸の都賀川でもこの夏被害が出ている。位山(くらいやま)の飛騨王朝といえば、超古代史のジャンルで高天原のロマンとともに語られる。41号線が走っているのは、その位山を中心とするエネルギーラインなのだ。富山〜愛知間には、大日ヶ岳を分水嶺とする庄川と長良川のラインも並行している。7/8の北陸豪雨は越中国一宮のあるこっち側の反応。位山も大日ヶ岳も、北緯36度のミロクラインにある。鹿島神宮を起点とするミロクラインは、分水嶺ラインでもあるわけだ。歴史の分かれ目にさしかかった今、その動きに注目する理由がわかってもらえるかと思う。位山ラインの中で、下呂は地殻の反応が活発な地域だ。岩屋ダム付近の金山巨石群もピンポイントで反応している。下呂市は長野の更埴付近でわかれた日本武尊と吉備武彦の軍が合流した地点。吉備武彦は位山ラインを南下してきたと思われる。日本武尊の行軍路が単なる征討路と思えないのは、こうしたエネルギーライン・エネルギーポイントを意識して移動しているから。彼が地震にからむのは、ある意味とうぜんともいえる。ただそれだけじゃ今回の受賞者の産土神社やノーベル街道とのつながりは説明できない。いったい彼はなにをした、あるいはなにをしようとしてるんだろう・・・?社会をささえるのは流通だ。縄文のむかしから変わらない。かつての高速道路は海であり川だった。海や川が列島の大動脈であり、エネルギーラインだった。
だけども、神話や文献だけでそれを追うのは難しい。いまの古代史研究は血管の場所さえわからずに表面の腫瘍だけほじくってるようなものだ。海人たちは山と川と海を循環するエネルギーラインとしてとらえていた。流通をになった彼らが、悲しいかな痕跡をのこさないタイプの人たちなのである。イザナギラインは、神代における神聖な大動脈として存在していたはず。さもなくばストーリー的に神通川なんて粋な名まえはつかないし、上野国の神保氏が越中国を治めることもなかったろう。事象としての重要性はたぶんフォッサマグナをこえる。なぜならこのラインがむすぶのは、根の国と、尾張(終わり)の国。その先には伊勢もある。そしてミロクラインとの交差地点に、神々に位をあたえた位山ピラミッドがどど〜んとそびえとるのである。ノーベル街道の名のとおり、イザナギラインは歴史の分岐点において、次世代フォーマットとなる頭脳を過去いく度となく輩出してきたラインなのかもしれない。たとえば信長のような・・・。」
*よくわからないが...はやし浩司さんのお話とも符合するようで面白し♪
だれも、これを偶然の一致だなんて片付けちゃうのは...知性の放棄/感性の暴挙に過ぎますでっしょ!!…Orz〜
and...思いついて調べてみると…
神通川→神通力といえば…
あの念写実験の福来(ふくらい)博士が…なんと、飛騨高山のご出身なのよ!!
高橋貞子での実験
1913年(大正2年)、福来を信奉していた催眠術者高橋宮二が妻の高橋貞子を指導し初歩の念写を成功させ、福来の指導を仰ぎに来た。福来は疑惑の要因を一切断って井上哲次郎や筧克彦などの立ち会いの元で念写を成功させたとしている。
岡山県和気(わけ)郡の位置(緑:和気町 薄黄:後に他郡に編入された区域 薄緑・水色:後に他郡から編入された区域)
*同じ岡山県人なのに…地理不案内…^^;;…
あの道鏡の事案...宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)の
和気清麻呂って方を思い出しました ^^
学会追放
高橋貞子での実験成功に力を得て、1914年(大正3年)9月に『透視と念写』を出版した。学長であった上田萬年から10月に呼ばれ「東大教授として、内容的に好ましくない行為」として警告を受けたが、透視も念写も事実である旨主張して東京帝国大学を追放(公的には休職)され、1915年(大正4年)10月28日付の東京日日新聞や萬朝報でも報じられた。彼が取り上げた人物も「イカサマ」「ペテン師」などの攻撃を受けることになってしまった。
その後
物理的検証といった方法論を放棄し、禅の研究など、オカルト的精神研究を行なった。
土井晩翠や志賀潔の協力を得て仙台市青葉区台原に「福来心理学研究所」を設立して超能力者三田光一の育成など独自の研究を進めるが、すでに世間の信用を失った友吉は一般の注目を浴びることなく1952年(昭和27年)3月妻多津子に看取られてその生涯を閉じた。福来博士記念館には高野山で滝行を行なう修験者姿の友吉の写真などが展示されている。
博士論文「催眠術の心理学的研究」は、日本における催眠の学術的研究の嚆矢。」
*何かとっても面白すぎる♪
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