アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

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http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200804/sha2008042003.html より Orz〜
画像:昨年12月のプーチン大統領とリュドミラ夫人のツーショット(AP)
画像:大統領の再婚相手と報じられた31歳年下の元新体操世界女王、カバエワさん

「プーチン大統領怒った!?「カバエワと再婚」報じたロシア紙休刊
ロシアのプーチン大統領(55)が離婚し、元新体操世界女王のアリーナ・カバエワさん(24)と再婚すると報じたロシア紙が18日、一時休刊となった。大統領が「事実無根」と完全否定した直後だった。過去、反大統領キャンペーンを張った女性記者が殺害されたこともあるだけに、今回の事態はさまざまな憶測を呼びそうだ。

このロシア紙は日刊の「モスコフスキー・コレスポンデント(モスクワ通信)」。妻子持ちの大統領が再婚するというスクープを報じてから1週間後、大統領の完全否定からわずか数時間後に電撃休刊が決まった。
「報道は事実無根。性的妄想を抱いて他人の生活に鼻を突っ込むような人物は許せない」
大統領は18日、滞在先のイタリアでベルルスコーニ前首相との会談後、再婚報道を否定。不快感をあらわにしていた。その直後、同紙を発行するメディア企業は一時休刊を発表した。
企業側は「報道には根拠がなかった」とスクープを撤回し謝罪する一方、「休刊決定に関しては、いかなる政治的背景もない」と強調した。同紙のウェブサイトは同日夜、突如閉鎖され、編集長は解任された。
大統領は、1983年に結婚した元スッチーのリュドミラ夫人(50)との間に2女をもうけている。しかし同紙は11日付で、大統領のパスポートには既に出身地サンクトペテルブルク市の登録局の離婚印が押されていると指摘。カバエワさんと6月15日ごろに再婚すると伝えていた。
カバエワさんは現在、与党「統一ロシア」所属の下院議員。党首は、プーチン氏が大統領を退任する5月7日以降に就任する運びになっている。
同紙のオーナーは、企業家のアレクサンドル・レベジェフ氏。今年3月に米経済誌フォーブスが発表した「世界の長者番付」で358位に付け、資産31億ドル(約3176億円)を誇る大富豪だ。
今回の電撃休刊の背景には、いったい何があるのか。
ロシアの事情に詳しい青山学院大名誉教授の寺谷弘壬氏(70)=国際比較研究所所長=は、レベジェフ氏が大統領と同じ旧ソ連国家保安委員会(KGB)の出身で、同紙はクレムリン寄りと説明。「大統領ににらまれると怖い。KGBの力で抹殺されることがあるからだ」と指摘した上で、「一時休刊は自らの生き残り戦術で、ほとぼりが冷めるまでの一時的なエクスキューズ(言い訳)」と推測している。
★女性記者射殺や毒殺事件も
プーチン政権が、欧米などから「報道の自由への抑圧」と指弾された事件がある。同政権を厳しく批判していた女性ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤさんが2006年10月、モスクワの自宅アパートで射殺体で見つかった件だ。捜査は難航している。この事件の情報を収集、ロシア政府の関与を追及していたアレクサンドル・リトビネンコ氏(元ロシア連邦保安局中佐)も06年11月、亡命先のロンドンで毒殺されている。

■アリーナ・カバエワ
 1983年5月12日、ウズベキスタン生まれ。15歳で新体操の欧州選手権を制し、99年世界選手権で個人総合優勝。2000年シドニー五輪は銅メダル。03年世界選手権Vの後、04年アテネ五輪で金メダルを獲得した。昨年12月、ロシア下院選挙に出馬し当選。01年には日本映画「RED SHADOW 赤影」に女盗賊役で出演している。1メートル67、48キロ。」

カバエワさんって奇麗だよね〜♪
プーチンさんは絶対、、、サルコジ仏大統領を羨んでるに違いありませんよ〜^^v
でも、、、それならば、、、言論を封殺しちゃいけませんよね、、、
堂々とどうだって生きればいいだけであってさ!^^
フランスとの格差はまだまだずいぶんとあるようですね。。。

「わからんまち」

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木村聡さんのブログで『和華蘭』(わからん)ラーメン屋さんの看板が紹介されてたもので、、、
http://blogs.yahoo.co.jp/w_61_07_0082000/32153313.html#32153313 より Orz〜
いろんな方のコメ記事から、、、わたしはチャンポンだろうと推測したわけ。。。で、早速調べてみましたら、、、やっぱりピンポン/ビンゴ♪

http://allabout.co.jp/family/countrylife/closeup/CU20070428A/ より Orz〜
「坂の街に漂う開放的な長崎の県民性
日本の鎖国時代、唯一の貿易港「出島」という外国への窓口をもっていたのが長崎。そこからヨーロッパや中国などの影響を受け、独特の文化や歴史を形成しました。
日本・中国・西洋「和・華・蘭」の文化が今なお色濃く混在する長崎。それを称して「わからんまち」となるのだとか。色々な文化を混ぜこぜにする、チャンポン文化とも言えます。
鎖国という風通しのよくない江戸時代、長崎だけには新しい近代の風が吹いていました。当時の最先端の西洋学問が集まり、それを求めて勝海舟や坂本龍馬、桂小五郎などが、また蘭学や医学を学ぼうとする者たちが全国から長崎へ集まりました。この進取の気質と風土が、地方にありながらも洗練されたクロスカルチャーな街を誕生させたといえます。
長崎市といえば、坂の多い街としても知られています。海に通じるほとんどの道は急な坂道を下ったところにあり、また坂を登るにつれて、道は狭く細く入り組んでいます。しかしブラブラと坂を登りきって振り返れば、眼下に広がるのは約600といわれる無数の美しい小島。いつでもどこからでも海を見渡せる立体的な地形、このロケーションの素晴しさが長崎の開放性に通じているのかもしれません。
長崎のじげもん(地元の人)はコスモポリタン(国際人)。あけっぴろげで楽天的、新しいもの好き。また、男尊女卑の風潮が強い九州の中にあって男女平等意識も高く、九州らしくない県だともいわれています。一方、家族団らんが大切、しきたりを尊重すべきといった内向的な面もあるようです。ちょっと意外な感じもしますが、これは半島や島の多い「タコ足型県」といわれる地形が要因となり、人々の交わりが少なかったことによると思われます。・・・

◆長崎県のプロフィール
長崎の街は,深く入り込んだ長崎港、それを取り巻く標高300〜400m級の山が衝立のように囲んでいます。市街地は、港に注ぐ河川沿いの平坦地とそれに連なる斜面上に形成されており、市域面積の約13%の地域に約77%の人々が居住するという、すり鉢型の高密度な市街地となっています。
湾や入江が多いため豊かな自然と美しい景観に恵まれ、2つの国立公園と2つの国定公園、6つの県立自然公園があります。県域の広さと海に囲まれた地形であるため、壱岐と対馬、長崎市と五島、雲仙周辺やその他の山地の3つの異なった型の気候が特徴ですが、山岳地帯を除けば全体的に温暖で雨の多い海洋性気候です。気温は暖流の対馬海流の影響をうけ1年間の最高・最低の温度差は少なく平均摂氏16.6度。

長崎の県民性ランキング
・島の数/1位(島数971で全国一。島暮らしが好きなら候補地がてんこ盛り)
・海岸線の長さ/2位(約4,200キロ。1位北海道の北方領土を除けば大差で1位)
・漁港の数/1位(漁船数と漁業生産高は北海道に次ぐ2位)
・温泉の放熱量/1位(雲仙市小浜温泉。高温で豊富な放熱量を誇る)
・びわの収穫量/1位(全国の収穫量の33%を占め日本最大)
・路面電車/日本最古(今でも動く木造ボギー車としては日本最古の車両)
・電車運賃の安さ/1位(長崎電気軌道(株)の電車運賃は、全区間均一100円)
・・・
・「日本で最初」が長崎県人の自慢らしい
長崎から全国に広がったモノ・コトのルーツは多い。220年にわたる鎖国政策下で唯一の対外貿易の拠点だったため、様々な国の文化が流れ込んできた。西洋音楽、バトミントン、ボウリング、ビール、カルタ、コーヒー、そろばん、線香、電信機、英字紙、メガネ、写真機……といった「事始め」は実に沢山ある。
なかでもユニークなのが、長い航海を経て日本へ始めてやってきた珍獣たち。例えば、ゾウ、ラクダ、ダチョウ、オランウータン、オウム、カナリアなど。当時は贅沢品で、将軍家へ献上されたり金持ちのペットにされていたという。
現代でも長崎県人のナンバーワンへのこだわりは健在らしい。県のオフィシャルサイトには、日本最大のカブトガニの飼育、飼育年数世界最長のペンギン、アライグマやラマ、カピパラの飼育頭数日本最多など、誇らしげに紹介されている。

・長崎県では漬物にも砂糖を使っているらしい
日本で最も甘党なのは長崎県人。三大名菓と言われる、カステラ、コンペイトウ、鶏卵ソーメンはいうまでもなく、普通の料理の味付けにも砂糖がたっぷり使われている。例えば、大皿に盛られた料理を円卓を囲み味わう、卓袱(しっぽく)料理。和・洋・中の料理の要素が互いに交じり合っていることから、和華蘭料理(わからんりょうり)とも評される。
卓上には刺身や煮物と共に、なんとお汁粉や甘いまんじゅうも並べられるのだ。極めつけは漬物。長崎では普通、漬物と言えば冬瓜、ショウガ、ザボンなどを砂糖漬けしたものが出されるという。永禄時代にポルトガル人の伴天連(ばてれん)が持ち込んだハイカラな洋菓子。この異国の味は、長崎人にとってただ甘いだけではなく、豊かな異国文化の体験だった。約400年後の現在まで、砂糖の甘さはご馳走であり豊かさのシンボルであり続けたのかもしれない。・・・」

でっしょ!^^
長崎にも学会で行ったことありますよ、、、で、そこで食べたちっちゃなお店だったけど、、、チャンポンの味がまっこと美味かったのを今も憶えてます〜〜〜^^v
今度行くことあったら同じ店に行って絶対食べようと思ってます♪
たしか、、、当然とはいえ、、、カステラもコーヒーも長崎が日本人が始めて遭遇した場所なんだよね ♪

画像:http://asianet.cocolog-nifty.com/nippon/2006/10/post_e4f4.html より Orz〜
「・・・372年の歴史のある長崎くんちは日本三大まつりのひとつに数えられ、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。・・・
町の幹部の装束も面白い。日本の羽織に、下は中国の唐人パッチを履き、西洋の山高帽子をかぶるのだ。そう、和・華・蘭(わからん)チャンポン文化なのである。・・・」

画像:http://gk.q-q-q-q.com/mt/archives/cat_event.html より Orz〜
このサイト芽茶詳しいよ〜〜〜☆☆☆
「くんちの練習風景を見たり、・・・しているうちに陽も落ちた。・・・眼鏡橋がライトアップされていた。少し涼しくなったお盆過ぎの中島川であった。・・・
長崎ときたらチャンポンだ!・・・」

眼鏡橋も昔見た記憶はあるんだけど、、、この写真の風情とはまったく異なってるのはなぜなんだろう。。。懐かしい景色でいいなあ...♪
ここ!ここの中華街の中のお店でわたしはたしかにあのおいしい、幻のように美味のチャンポンを食べたんです!!この写真のものとはまた別なんだけど・・・今度はきっちり写メしますね ^^v

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読売新聞2008.04.11 に奇しくもこの前の記事に符合するかのように彼、ソシュールの記事が載りました ♪

ソシュールの講義ノート全訳完成
「『近代言語学の祖』といわれるフェルディナン・ド・ソシュールが晩年に行った「一般言語学」全3回講義の初の全訳が、完結した。ソシュールの思考を正確に理解する上で重要な手がかりとなる本書翻訳の意義は大きい。・・・
「差異の体系」構造主義への発展
ソシュールは言語を意味の体系としてとらえるが、その意味は言葉が指す具体的な事物とは必ずしも結びつかず、むしろ他の言葉との差異や関係によって決まるとする。事物に命名することで、言葉が生まれるのではなく、実体を持たない言葉の差異を通じて、人は初めて事物の存在を認識する。この「差異の体系」こそが言語の本質だという考えは、20世紀の思想に大きな影響を与え、文化人類学者レヴィ・ストロース(1908〜)や哲学者メルロ・ポンティ(1908〜61)らによる構造主義へと発展した。またロラン・バルト(1915〜80)は言語の意味分析を政治、美術、モードなど様々な分野に応用し、記号学の発展に貢献した。「言葉による意志疎通はいかにして可能になるのか」というソシュールの問いは、今日では脳科学などほかの分野に研究の中心が移り、言語学は先端的学問としての使命を終えたとの意見も一部にはある。しかし加賀野井さんは、「言語の本質が実体を持たないとすれば、自然科学的アプローチによる研究には限界があるはず。言語は依然として謎であり、ソシュールは今後も言語学の古典として生き続ける」と予想する。」

http://homewww.osaka-gaidai.ac.jp/~kamiyama/necroMartinet.htm より Orz〜
「『一般言語学講義』で有名な現代言語学の祖ソシュール(Ferdinand de Saussure)は最先端の印欧語比較言語学者であった.『講義』の無理解からか,あるいは故丸山圭三郎氏の数多くの夢想的著作の影響もあってか,困ったことにわが国ではこの事実はあまり知られておらず,ソシュールを思想家と誤認する書物さえ散見される.1878年,ソシュールは比較言語学史上最大の発見のひとつを21歳の若さで成し遂げた.今日では通例「ラリンガル(喉音)理論」と呼ばれるこの発見によって一躍名を上げたソシュールは,例外的若さでパリの高等学術研究院[TK1]に抜擢され,比較言語学を講じつつ特にサンスクリットとバルト語を研究した.1891年,故郷ジュネーヴに職を得たソシュールは,パリを去るに際して弟子のメイエ(Antoine Meillet)を後任に据えた.アルメニア語やスラブ語を中心とした,印欧語比較言語学全般におけるメイエのその後の活躍については駄弁を弄すまでもないだろう.メイエ門下からは印欧語学のバンヴェニスト(Emile Benveniste)やクリウォヴィッチ(Jerzy Kury?owicz),スラブ学のヴァイヤン(Andr? Vaillant)やファン・ウェイク(van Weik)など,錚錚たる面々が巣立った.
アンドレ・マルティネ先生はメイエの晩年の弟子である.なるほど先生は師のように生涯を印欧語のみに捧げることはなく,ゲルマン語を中心にすえて印欧語比較言語学を修めながらも,トルベツコイ(Сергей Трубецкой)とヤコブソン(Роман Якобсон)によって華々しく創始されたばかりのプラハの音韻論に傾倒し,あるいは後にはプラハのFSP(functional sentence perspective=aktu?ln? ?len?n? v?ty)とは別の意味で言語の「機能」を追及して,その過程では先達の誰もが気付かなかった人間言語に固有の特徴「二重分節」の定理に到達した.・・・」

二重分節の定理?ってなんだろ?・・・またいずれ・・・^^v

http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/symbolnoumi/content/works/papers/semiotics.html より Orz〜
画像も Orz〜
上:フェルディナン・ド・ソシュール
下:チャールズ・パース

記号論の二人の生みの親
「・・・スイス人フェルディナン・ド・ソシュール(Saussure,Ferdinad de,1857‐1913)である。彼の主著として知られる『一般言語学講義』(1916)は、彼の死後に弟子たちによって編纂・刊行されたものだが、ソシュールの母国語がフランス語であったために、記号論におけるいわばフランス学派が形成され、多くの研究者を生み出したというわけである。ちなみにこの系譜につながる記号の研究を「記号学」と呼ぶことが慣わしになっている。
だが、記号論の歴史を語るうえで逸することのできないもう一人のキーパーソンがいる。こちらは英語で著述をしたアメリカのチャールズ・パース(Charles Peirce,1839‐1914)である(右下の肖像)。たしかにパースのほうが大分年上だが、没年はほとんど一緒であるし、同時代人といってもかまわないだろう。これは記号論の成立ということにとって偶然の暗合なのかどうか、とても興味深いことだ。ソシュールは生前にそう沢山の本を書いていない。その独自な業績が注目されるようになったのは、没後に出た、厳密には彼の著作とは言えない、前記の講義ノートによってであった。彼の残した膨大な遺稿はいまだに全部が刊行されないままになっている。ところがパースについても、その業績が世に出た事情はソシュールの場合と酷似している。パースも生前はそう本を書いていない。そして彼もまた雑誌論文その他のかたちで本としては刊行されていない多くの文章を残した。以前に遺稿を含めた著作集が刊行されたことがあるが、いま新たに遺稿を網羅した著作集が出始めている。こんなところも、この二人の類似点としていやでも目に映る。そしてパースは、英米圏における記号論の生みの親だといっても過言ではない。こちらの伝統に連なる記号の研究はふつう「記号論」と呼ばれ、前記の「記号学」と区別することが多い。・・・」

記号論に関しても時間あればいずれまとめてみたいです・・・^^v

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http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/relativism.html より Orz〜
続きです ^^v

「三、文化相対主義と普遍主義:4つの類型

歴史・社会状況的おさらいは、この程度で充分だろう。上の簡単な紹介の中で、すでに文化相対主義は2種類の正反対とすら言える姿を垣間見させている。文化的差異について語ることは、自文化中心主義の主張にも、反・自文化中心主義の主張にもなりうるのである。それに対して普遍主義の方ではどうであろうか。上の紹介の中では、こちらの方はそれ程はっきりした像を結んでいない。この節では、文化相対主義と普遍主義の4つの類型の違いを、異文化認識の態度の違いとしてもう少しはっきりさせるよう試みよう。
話が抽象的になりすぎないように、まず最初に、人類学において極めてありふれた異文化理解の型を具体的に取り上げよう。ただし、違いを明確にするための単なる、そしていささか極端な、たとえ話にすぎないということを忘れないよう。
「人々はXをAとして見ている」という構文で表現されるタイプの理解、これは人類学者が自分の理解を伝達しようとする際に、どこかで必ず顔をだす、ほとんど常套表現といっていい表現形式である。この異文化理解の基礎構文を仮に命題(1)としよう。もちろん、人々自身は単にAを目撃しているだけなのであるから、彼ら自身の理解が表明される構文がこんな形を取るわけではない。それは単に「我々はAを見ている」という形をとっているはずである。これを命題(2)とする。では命題(1)にいきなり登場するXは、いったいどこからやってきたのだろうか。言うまでもあるまい。それは人類学者が問題の対象をその記述のもとで捉えるカテゴリーである。つまり本来それは、人類学者自身によるもう一つの命題(3)「私はXを見ている」の中に登場するのである(註6)。
このことは、命題(1)の地位を著しく曖昧なものにする。たしかに(2)と(3)がともに真である限り、(1)は私にとっては常に真である。しかし、それは全くの誤り、ナンセンス、でもあり得るのである。
次のようなたとえで考えてみよう。見方によっては壺とも、向い合った人の顔とも見えるレヴィンの壺とよばれる有名な図がある。それを壺としか見ることの出来ない人が、仮にいたとしよう。あるいは彼はそれを壺として以外見たことがなかったし、またそれが壺以外の何かに見えるかもしれないとは考えたこともないし、考えるつもりもない。
ところで、もし彼が、それを向い合った人の顔と見る人々について、「彼らは壺を人の顔として見ている」と語ったとしたら、どうであろうか。確かにレヴィンの壺の絵を見るたびに、彼は「X=壺」をそこに見ることになるし、人々は「A=人の顔」を見ていると語ることになる。したがって、彼にとっては次の推論は全く正しい。「それは壺である」=真、「彼らはそれを人の顔として見る」=真、故に「彼らは壺を人の顔として見る」=真。しかし、彼が、とんでもない間違いを犯していることは明らかであろう。そして彼がそれを得意げに、自分が彼らに対して得た「異文化」理解として開陳するに及んでは、もはや滑稽を通り越して悲惨ですらある。
実際、笑いごとではない。例えば「〜においては、人々はトランスを--あるいは狂気を--霊による憑依として解釈する」という類の表現は、人類学者の一部では今でもしっかり流通している。上のやや極端な例が我々に示してくれるのは、(1)の形式の命題は、仮に誤っているとしても、当の命題の持ち主には全く明らかではない仕方で、誤っているということである。この異文化理解の基本構文自身の中に、何か問題がある。
ところが自文化中心的な相対主義と普遍主義においては、自分自身の相対化へ向かう志向が欠けているというまさにその理由から、いずれもこの異文化理解の基本構文を疑問視することができないのである。たとえば相対主義は、こうした形で示される差異、つまり自文化の側から見たときに見えてくる差異を、そのまま絶対的な差異として認めてしまう。「彼らには壺が人の顔にみえるのだ。奇妙だけれど、彼らが誤りを犯しているのだとは考えまい。彼らには確かにそう見えているのだ」と。しかしこの気前の良い寛容さは、このままでは文化的アパルトヘイトに行き着くだけである。それは「壷をどうしても顔と見る人がいるが、それは文化の違いだから仕方がない。尊重しよう(=ほっておこう)。」ということに他ならず、逆に「お前たちにどう見えようと、私たちにはそれは顔に見えている。ほっておいてくれ。」という主張も可能にしてしまう。あるいはさらに「理解」を進めて、「仮に壺が顔であるという前提に立とう。その場合他の同様な命題との関係はどうであろうか」などと問い始めることも有り得る。うまく行けば--あるいは具合の悪いことにか--このやり方で首尾一貫した「人々の世界」を描き出してしまうことすら可能かもしれない。そこに住む人々をますます奇妙な存在に見せかけるだけのそんな記述を読むことだけは、願い下げであるが。かなり戯画化されているとはいえ、自己相対化を伴わずに他者との差異を絶対化するというのは、こういうことなのである。
自己の相対化をともなわない普遍主義の方も、この点では似たりよったりになる。そこではXは無条件に普遍的なカテゴリーの地位を占める。普遍主義は単に、この構文で定式化された差異を誤謬として位置付けるかもしれない。「人々は壺を顔だという。そしてそれは誤りである。」という訳である。あるいはこれに「彼らももっとよく見ることを学べば--あるいは真理に目覚めれば--それが壷であることに気付くだろう。」などという説教がもっともらしく付け加えられるかも知れない。別の普遍主義者は、あるいは「彼らのカテゴリー『顔』は、じつは壺を意味しているのであって...」という翻訳をやってのけ、見事に人々のカテゴリーが普遍的なカテゴリーに翻訳できたことを得意そうに示すかもしれない。これもかなりな戯画化ではあるが、他者を自己のカテゴリーによって捉えるというのは、基本的にはこうしたことなのである。
こうやって見ると、こうしたいいかげんな文化相対主義と、いいかげんな普遍主義は驚くほど互いに似ていることがわかる。前者に見られるのは、自文化の自明性を全く疑いにさらさない楽観主義であり、後者においては自文化のカテゴリーを普遍的なカテゴリーだとする傲慢さである。違いがあるとすれば他者に対する姿勢が、優越性に裏打ちされた非関与の姿勢か、他者を飲み込もうとする攻撃の姿勢かの違いだけである。そしていずれにおいても、他者との真の対話が成立する余地はない。それは最初から放棄されているか(文化相対主義)、こちらからの一方的な宣言(普遍主義)にとってかわられている。こうした相対主義と普遍主義が仮に対決のポーズをとっているとしても、せいぜい強盗と掏摸がなじりあっているようなものだ。自文化中心主義どうしの衝突にすぎない。・・・

(註6) ここでは言語の違いと、言語間の翻訳の問題をとりあえず捨象することにする。実際にはXとAは異なる言語体系に属した概念であることが普通で、この異文化理解の基本構文はそのことによってかえって自らの異常さを隠しおおせることが多い。例えば、このレヴィンの壷の例を、たとえばAに当たる部分にスワヒリ語を用いて「人々は壷を sura ya mtuとして見る」といった形で提示するとき、その間違いは容易には目立たないものになる。一方、言語間の翻訳という作業自体が、この基本構文に依存している面がないわけではない。」

To be continmued...

なかなか易しく説明されてるようで、、、わたしには生硬な文章だな・・・^^;
自らを疑うことのないアプローチは表面上の違いがあるように見えて同じ穴のムジナだっていうことだと、、、もっとその土台となってるもの、当たり前で気付けてないものに気付ってこと、、、でいいのかな・・・?
言語間の翻訳ができるってことは、普遍的なものが存在してるからこそなんだけどねえ、、、そもそも同じ言語を使ってるもの同士のコミュニケーションにおいてさえ、間主観性を担保に成り立ってるわけで、、、いまいち自家薬籠中にできないまま、未消化なままですが。。。Orz...

画像:エトムント・フッサール
http://ja.wikipedia.org/wiki/エドムント・フッサール より Orz〜
「エトムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl, 1859年4月8日 - 1938年4月27日)は、オーストリアの数学者・哲学者である。
ゲッティンゲン大学、フライブルク大学で教鞭をとる。
初めは数学基礎論の研究者であったが、哲学の側からの諸学問の基礎付けへと関心を移し、全く新しい対象へのアプローチの方法として「現象学」を提唱するに至る。
現象学運動は20世紀哲学の新たな流れとなり、マルティン・ハイデッガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロー=ポンティらの後継者を生み出し、学問のみならず政治や芸術にまで影響を与えた。・・・

現象学
「・・・フッサールにおける超越論的現象学(げんしょうがく)は、彼の継承者と批判者とによって展開され続けている哲学の一分野である。世界がすでに「ある」とする態度を棚上げ(エポケー、「判断停止」と訳される)して、そのような信念がどのようにして成立するか、そしてそのような「ある」ものとしての世界は、経験からどのように構成されるのかを探求する。エポケーとは古代ギリシアの哲学者であるピュロンにより初めて用いられた。そこでは物の本性を把握するのは不可能でありそれゆえ「判断を差し控えるべき」であるとされ、現象学に通ずるものがある。
現象学の学問的潮流は「現象学運動」と呼ばれる。19世紀末から20世紀にかけてヨーロッパ哲学の主流であった心理学主義と歴史主義への批判を出発点とする。
その後、現象学で培われた多くの概念や方法論は、二十世紀末期に勃興した心の哲学へと波及し、心身問題や主観的な体験であるクオリアの問題を論じるさいに参照される、重要な知的リソースの一つとなっている。・・・」

画像:フッサールの現象学による自我構造
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~ayamamot/fundamenta.html より Orz〜

いずれフッサール、間主観性についてはアップする予定・・・^^v

画像:言語記号の三角形
  :間主観性の三角形
http://www.nagaitosiya.com/b/evolution.html より Orz〜
永井俊哉ドットコム
複雑性と進化の関係

ここもおもしろい♪ いずれまた、、、^^v

SとM

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読売新聞 2008.04.13 書評欄 「本 よみうり堂」より

「『SとM』鹿島茂 著 幻冬舎新書 720円
                     評・春日武彦(精神科医)
知識や経験が心に蓄積され、自信と余裕とが生まれてくるようになると、やがて思いがけないもの同士が頭の中で結びついて、突飛な仮説や興味深い分類などが不意に閃くようになる。ある種の成熟が、半ば冗談や法螺話に近い形で表出されてくることがあるわけで、そうした妙味が生じるからこそ学問には価値があるのだと思わずにはいられない。本書のタイトルは、ご賢察の通り、サド(S)とマゾ(M)とを示している。いわゆる変態性欲と呼ばれがちな、あのSMである。ただし本書を読んでも性的満足は得られない。手に入るのは知的満足だけである。なぜSMなんてものが出現したのか。西欧のSMと我が国でのSMとではずいぶんトーンが異なるが(西欧では鞭や流血が好まれ、本邦では縄で縛るのが好まれる等)、その本質の理由は?そうしたテーマが、フランス文学と思想に関する深い知識と洞察とを経由して軽妙かつ明快に語られる。あまりにも明快なので、それこそ冗談や法螺話かもしれないと感じられたりもするが、邪馬台国の場所を推理したりするのとは意味が異なる。人間の心を、欲望を理解しようというシリアスな姿勢に基づいているのだから。キリスト教における自己処罰と救済といった概念や、民主主義とMとの関連などから話はスリリングに広がっていく。著者は語るのである、「SMというのは、想像力をもとにした特殊な愛情関係の結びかたであり、文化の進化のひとつのバロメーターといえるのではないか」「衣食足りて、ヘンタイ(SM)を知る」。この大胆な言い切り方は、あえてSMを語るという露悪的な高揚を背景としなければ出てこないだろう。そうしたところに本書の面白さがある。ところで、西欧では苦痛を介して神に出会うといったパターンがSMに関連してくるが、日本では自由であることへの戸惑いが拘束への願望、つまり縄を用いたSMプレイにつながってくるという。いやはや刺激的な指摘に満ちた一冊である。

◇かしま・しげる=1949年生まれ。共立女子大教授・フランス文学」

まさに「衣食足りてヘンタイを知る」だと思うなあ。。。とりあえず、、、本能的欲望が満たされた後じゃないと想像する余裕なんてないもんね。礼節も、ヘンタイも紙一重・・・^^; ♪
頭脳が差異を求めちゃうんですよね、、、同じことには耐えられない頭脳って、、、すぐ飽きちゃうから、、、新しいものを探ろうとし、それが余剰としてのヘンタイとなり、そういう際限のなさを分かったが故に自らの荒々しさ/攻撃性/暴力性にタガを嵌めるために礼節も編み出された・・・^^
またその礼節/ルールを破るという快感(蜜の味)も頭脳は知っちゃった・・・礼節とヘンタイはあざなえる縄の如く、あたかもDNAの螺線構造のようにスパイラルな関係なのかもしれない。。。

画像:S と M そして L
http://blog.livedoor.jp/vtrstart/ より Orz〜
「サディストがS マゾヒストがMだったっけか
たぶん世間一般の人達は SとMは相性が良いと思っている。
Sはイジメることで快感を Mはイジメられることで快感を。
しかし、オレはそんなことはないと思うよ。
仮にSの人がムチで、Mの人をひっぱたくとしよう。
Mの人はいいさ。ひっぱたかれて、痛くて、ジンジンジンで、さぞかし満足だろう。
しかし、Sの人はどうだろう。最初はいいさ。思い切りひっぱたいて、さあ泣くがいい、泣き叫ぶがいい!と思ったのもつかの間。Mの人ったら喜んでるじゃあないか。ほんとうのサディストってのは人が嫌がるのを快感に思うものさ。これじゃあダメじゃないか!
悔しそうな、悲しそうなSの表情が目に浮かぶ。・・・」

あはっ、、、たしかにわたしもそう思う ^^; ♪
今まで何回も書いたけど、、、究極のSは、自己に向かう時、、、Mになるはずだよね ^^v

画像:〜ひめまる公式〜SとMの法則 (単行本)  御茶 姫○ (著)
http://www.amazon.co.jp/〜ひめまる公式〜SとMの法則-御茶-姫○/dp/4434113739/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1208070034&sr=1-1 より Orz〜
「あなたにはなりたい自分がありますか? 今迄の概念を覆す、価値観と行動のSとM!この本はただの心理テストでない、なりたい自分になる為の本だ。行動を起こすとき、自分主義な人と他人主義な人がいる。価値をはかるとき、社会のものさしではかる他人軸の人と自分のものさしではかる自分軸の人がいる。どちらがいいとか悪いとかではなく、その特長を生かし、次の自分を作っていくのがなりたい自分になる一番の近道だ。 ・・・」

これも面白そうだね・・・♪
わたしは、自分主義=自分軸・・・=限りなく不透明な自己中かな? ^^;

ちなみにこんなサイトがあるんだ・・・
http://goisu.net/cgi-bin/psychology/psychology.cgi?menu=c014 
ヘンタイ度チェック(心理テスト)

さて、、、わたしのヘンタイ度は・・・・?

幼女少年系倒錯度  24%
自虐残虐系倒錯度  100%
同性愛系倒錯度  53%
電波系倒錯度  8%

あなたは【SM系ヘンタイ】なタイプ。
あなたの潜在意識下では「誰かを支配したい/支配されたい」という欲望が渦巻いているようです。
もともと誰かの言いなりになったり、あるいは誰かを服従させたりすることにこそ、喜びを見出すタイプといえるでしょう。あなたのヘンタイ気質は、普段、誰からも気がつかれないという特徴があります。恋人など、ごく近い相手にのみ本心を明かす、少々厄介な人、といえるかも知れません。
・・・                                   」

当たってるかもね。。。^^;
みんな大なり小なりS&Mだと思ってる、、、けど?


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