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「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

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続きです。^^v
http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/relativism.html より Orz〜

「二、歴史的・社会的状況としての文化相対主義

特定の歴史的・社会的状況との関係での「文化相対主義」のいくつかの様相について、最低限のおさらいをするところから始めよう。

後に見るように、文化相対主義は、その気になればギリシャにまで遡ることさえできよう。しかし今世紀の文化人類学の一種のスローガンにまでなった文化相対主義に直接、間接につながる出発点はドイツの哲学者ヘルダーに求められるのが普通である。デュモンによると「肯定的な意味でも、否定的な意味でも」彼は「私たちの直接の先祖である」(デュモン 1993: 301)。ヘルダーはあらゆる文化共同体に、それぞれ固有で独自の価値を認めるべきだと主張した。彼によると、普遍主義は表面的で画一的であり、ドイツ文化のような具体的な文化の生きた統一性に対しては、抑圧的に働くものである。彼のこうした主張は、「啓蒙時代の、主にフランスの普遍主義に対する、熱のこもった異議申し立て」(op.cit.:302)、中心によってその共同性が分断され危機にさらされていると感じた辺境ドイツからの、異議申し立てであった。それは一つの権利--自分たちが他者とは違った存在でいられる権利--の主張にほかならない。差異にたいする権利を自らの権利として要求したのである。それは当時のヨーロッパにおけるドイツの位置と歴史的状況からまさに生まれた思想であった。

文化人類学における相対主義は、たしかに、ヘルダー以来のドイツのこうした思想伝統を受け継いだ一人の巨人、アメリカにおける「文化人類学の父」フランツ・ボアズによって人類学の中にしっかりと植え付けられた。しかし、そこには一つの大きな逆転が含まれていた。ボアズがとったのは、西洋中心主義的普遍主義のとてつもない形態である進化主義に対する徹底した批判の立場であった。進化主義は、西洋にとっての文化的他者が示すあらゆる差異を、単に錯誤と不足に見せかけてしまう。つまりあらゆる違いを西欧に対する劣等性に還元してしまうことによって、諸文化を西欧を頂点とする一つのスケールの上にならべて見せたのである。文化相対主義は、これに対して、差異を優劣のしるしとしてではなく、差異そのものとして認めようとする立場であった。あらゆる文化には、それぞれ固有で独自の価値がある。しかしこれがヘルダーの主張とは逆向きのベクトルをもっていることに注意しよう。差異に対する権利を、自らの権利としてではなく、他者の権利として要求しているのであるから(註4)。それは他者に、自分たちと違った存在であることを認める立場である。これがそのまま、一国民国家内部で異なる集団が文化の差異を保持しつつ共存することを積極的に推し進める文化多元主義の立場を代弁する主張になりうることは、容易に理解できるだろう。この逆転には、こうした見掛け以上に重要な意味もある。この逆転によって、はじめて相対主義は自文化中心主義に対する有効な批判、自文化の諸前提の相対化の運動になりえたからである。それは他者の行う慣行に対して、我々自身が価値判断することに反対する。彼らの価値の基準がまったく異なっているかもしれないからである。事実判断すら差し控えるべきである。彼らはそれらをまったく異なる仕方で捉えているかもしれないからである。これは確かに、他者が自分たちとは絶対的に異なった存在でありうるという想定である。もし本当に他者が絶対的に異質な存在である場合、そんな相手を理解することは不可能であろう(註5)。しかし実際には、この想定は、他者の理解を断念するためにではなく、他者理解に至るためのものであった。それは、自らのものの見方と基準をただ相手に押し付ける自文化中心的な他者理解を徹底的に排し、自らのものの見方と基準を相対化することを自らに命じる。そうした自己の相対化を通じて相手との対話を開始するための出発点が探られる。こうした他者理解の戦略として要請された想定であった。

しかしながらそれが文化人類学の中心的なイデオロギーとなり、誰もが無反省に標榜するスローガンになっていくにつれて、文化相対主義の危険性もまた目についてくることになった。それは、生半可な態度で考えもなしに振り回すには危険過ぎる刃物のようなものだ。文化相対主義は、自らの正反対のものにすらなってしまうことが出来る。そのとき、文化や差異について語ることは、理解と対話の出発点ではなく、理解の停止と対話の断念を正当化する語りになる。ある表面的な差異や齟齬を認めたとき、それらを文化が違うせいであると述べるだけでは、ほとんど何も説明したことにはなっていない。文化が違うということで、具体的に何がどう違うと言おうとしているのか、明らかにされていないからである。それはさらなる理解に向けての出発点にすぎない。そこから問題の齟齬や差異のコンテクストの理解へ向けての努力が始まるのである。しかし、多くの人は「文化が違うからだ」と言われると、それだけでわかった気になってしまう。そこが理解の停止点になる。当初の表面的な差異や齟齬は、そのとき解消不能なものとして固定されてしまう。「文化が違うから仕方ないのだ」という訳だ。こうして自他の区別は絶対化され、人間は解消不能な文化の差異によって分断される。文化相対主義は、自らの差異の中に閉じこもる一種の自文化中心主義になってしまう。他者に対してもそれは、それぞれの文化の内部に他者を固定し閉じこめる「文化的アパルトヘイト」(スペルベル 1984)のようなものになり下がる。このような文化相対主義は、独自の文化を保持する権利を盾にとって外国人を排斥しようとするネオ・ナチやフランスの国民戦線などの差別的人種主義と、自らを区別することができなくなる。事実、文化相対主義はこうしたヨーロッパの極右勢力の理論的より所にすらなっているのである(梶田 1993)。ここでは文化相対主義は、いつのまにか再びそのベクトルを逆転させ、ヘルダー的な、差異にたいする権利の自己主張となっている。文化相対主義そのものがまさに、今日のさまざまな民族対立の状況の構成要素になってしまったかのようである。こうした診断は、再び普遍主義への回帰すらを望ましいものに見せるだろう(フィンケルクロート 1989)。今度は一切の差異を切り捨てて、一方的に一つの見方、一つの価値判断の優越が「普遍」の名の下に主張されてしまうのである。

(註4) 自分が他者とは異なっていることを主張することと、他者が自分とは異なっていることを認めることとは、結局同じことだと言われるかも知れない。差異は結局、両者の間にあるのであって、それをどちらから眺めようと同じことであると。しかし文化的差異は、つねに非対称性を含んだ磁場のなかでしか捉えることが出来ないのだということを考えに入れると、差異をどちら側から眺めるかは、決定的に重要な違いであることがわかる。

(註5) この点は理論的なレベルで、いわゆる普遍主義の立場から文化相対主義を批判する際に、しばしば持ち出されるアポリアである。文化相対主義における、絶対的な他者の想定を論理的に押し詰めれば、それは異文化理解の不可能性を帰結する、というのである。浜本 1985 は、この問題に関する一つの解決を提案している。問題は「体系内での位置」を質的に異なる体系間で相互に比較することは「原理的」には不可能であるという形で定式化できる。ある種の相対主義はこの事実を字義通りそのまま主張し、不可知論に陥り、一方普遍主義はこれが「実際上」は可能であるという事実から、二つの体系は実際には異なっておらず、そのあいだには共通のデノミネータがあるはずだという主張を導く。
浜本 1985は、ここでの相対主義/普遍主義の対立が、体系についての硬直した見方に由来する擬似問題であるということを明らかにしたものである。自分自身からずれだす体系の能力によって、異なる体系間に、共通の理解の地平を開くことは、常に可能である。これと似た見解は、鷲田 1989、小田 1994 を参照。」

To be continued...

話せば分かるってのは錯覚、傲慢、無知の物言いかもしれない。。。
でも、、、分からないかもしれないけど、分かろうとしないかぎり決して分かるはずはない。(宝くじの原理*・・・わたしの造語 ^^;)こうすれば分かるはずだってものがあると思うのは幻想かもしれないって謙虚さは必要だろうけど、だからといって平行線は絶対交わらないとも誰にも分からない。(非ユークリッドの原理*・・・わたしの造語 ^^;)わたしは、男と女は別人種だと思ってる。。。^^
わたしが女でない限り、女の考え感性感じ方なんて絶対分かりようがない。生理が陣痛が分からないように。。。それは女が男のことが分からないのも同じ。だったら、迷宮入り。。。分からないからといって、それを無視、唾棄することとは次元の違う話。敬う、畏敬することでもないはず。敬うことって蔑むことと裏腹じゃない? 差異は差異として認める、尊重するしかない。お互いにいがみ合ってっても仕方ないし、そうする理由がない。差異があるからこそ、動きがあり、思考でき、停滞から免れ、差異は新たな差異を生み出してくれ常に新しいものに遭遇できる喜びとなり、退屈でない時空間で遊べるっていうもの!♪ 性差が生まれたからこそより世界にマッチできる可能性がメリットがいや増したんでしょ? 進化論的にはその逆なんでしょうけど、、、でもより淘汰、篩に掛けられて残ってきた性差は優れたメカニズムだって証明されたようなものですよね。^^ 他人がいるからこそ自分の存在に気付ける。差異があるから知りたい欲望が生まれる。欲望のない生って無いに等しい。。。^^
ジェンダーだって、、、長年の文化、人類の知恵が醸成してきたものだと、、、だからそう簡単に壊しちゃうと、、、何かしらの不都合が生まれてもおかしくないだろうとも思うわけです。。。^^;
保守主義、コンサバって新鮮味がなく封建的でもあるけど、、、少なくとも、、、ある種の賢明さも含まれてるはずなんだ。。。
ちと、ずれた、差異のある話になっちゃってるかな・・・^^; Orz...

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http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20070611/1000806/?P=1 より Orz〜
オトコには分からない・・・めくるめく「オンナモノ」の世界
照明選びの“性差”をさらに発見! オトコを欺く機能付き「新型シーリングライト」が人気【その2】
「・・・男性はインテリアに、“非日常的な居心地の楽しみ”を求める。かたやオンナは、総じて「生活の空間」の中でインテリアを見ている。・・・そこでご飯を食べたり寝たりテレビを見たりする「日常の営み」をステキに演出したいと思うんですね。・・・じゃあ、女の人はどういう照明に興味を示すの? というと、「見た目のカワイイもの。例えばコレ」といいます。
・・・で、実際の反応は?「“カワイイわね”ってほめてくださる。でもあんまり売れない」。どうして?・・・女性はこれを見て、「葉っぱとツルにたまったホコリを掃除する自分」を即座に思い浮かべる。・・・これは実に女性的な視点です。インテリア照明にオトコが「生活感のなさ」を求めるのに対して、オンナは生活寄りのメリットを求める。ラブホ感覚の7色LED付き照明にパッと食いつく、新しモノ好きの男とは対照的ですよね。・・・」

続きは上記サイトでどうぞ・・・^^

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前回の関連の続き ^^v
画像:Claude L?vi-Strauss
http://orc.lolipop.jp/pukiwiki/pukiwiki.php?%BF%B2%A4%CA%A4%AC%A4%E9%B3%D8%A4%D9%A4%EB%B9%BD%C2%A4%BC%E7%B5%C1%2F%C2%E85%BE%CF より Orz〜

「1.実存主義に下した死亡宣告 †
レヴィ=ストロースは、『野生の思考』(1962)でジャン=ポール・サルトルの『弁証法的理性批判』を痛烈に批判。戦後15年間、フランスの思想界に君臨していた実存主義に死亡宣告を下すことになった。これを境に、フランス知識人は「意識」や「主体」について語るのを止め、「規則」と「構造」について語るようになる。「構造主義の時代」が名実ともに始まった。
両者が対立するのは論件が「主体」と「歴史」にかかわるときである。
我々はみな固有の歴史的状況に「投げ込まれて」いる。*7 これが「参加(アンガージュマン)」(engagement原義は「拘束されること」)という事態である。私の置かれている歴史的状況は、非中立的で、「待ったなし」で私に決断を求めてくる。「正解」を知らぬまま決断を下すのだから、判断を誤ることもあるかも知れないが、「よく分からないままに決断したのだから」という理由で責任を回避することは許されない。このいささかパセティックな決断が「参加する」(s'engager原義は「自分を拘束する」)と呼ばれる。
サルトルの「参加する主体」は、与えられた状況に果敢に身を投じ、主観的な判断に基づいておのれが下した決断の責任を粛然と引き受け、その引き受けを通じて、「そのような決断をなしつつあるもの」としての自己の本質を構築してゆくもののことである。

2.サルトル=カミュ論争の意味 †
歴史の「流れ」に法則性があり、それを正しく読み当てることができたなら、「参加する主体」はつねに「正しい決断」を下すことができるようになる。マルクス主義者によれば、「歴史の法廷」は「歴史を貫く鉄の法則性」が領している。だから、この「鉄の法則性」を知った者は、状況的決断において過つことがない、ということになる。サルトルはそう考えた。

1952年のサルトル=カミュ論争において、サルトルは歴史の名においてカミュを告発した。レジスタンスの伝統的闘士として戦後フランスの知的世界に君臨した1945年において、カミュの主張は歴史的に「正解」だった。しかし歴史的条件が激変した7年後には、別の答えが「正解」になる。レジスタンスを領導したときのカミュは歴史的に正しかったが、同じ立場にとどまって第三世界の民族解放闘争への全面的コミットをためらうカミュは歴史的に間違っている。「君が君自身であり続けたいのなら、君は変化しなければならない。しかし君は変化することを恐れた。」サルトルはこう言って、かつての盟友カミュに思想家としての死を宣告した。
実存主義はこうして一度は排除した「神の視点」を、「歴史」と名を変えて、裏口から導き入れたような格好になった。レヴィ=ストロースが咎めたのは、この点である。

3.かくてサルトルは粉砕された †
レヴィ=ストロースの『野生の思考』はいわゆる「未開人」が世界をどのように経験し、どのように秩序づけ、記述しているかについての考察である。浩瀚なフィールドワークに裏付けられたレヴィ=ストロースの結論は、「未開人の思考」と「文明人の思考」の違いは発展段階の差ではなく、そもそも「別の思考」なのであり、比較して優劣を論じること自体無意味である、ということだった。
『野生の思考』の冒頭に、ある人類学のフィールドワーカーが現地で雑草を摘んで、「これは何という草ですか?」と現地の人に訊ねたら大笑いされた、というエピソードが引かれている。ソシュールの用語で言えば、この雑草はこの部族では「記号」としては認知されていなかった。それぞれの社会集団はそれぞれの実利的関心に基づいて世界を切り取る。
「用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ違うということによるのである。」(『野生の思考』)
「文明人」と「未開人」はその関心の持ち方が違うのであって、「文明人」が見るように世界を見ないというのは、別に「未開人」が知的に劣等であるということを意味しない。「どちらにおいても世界は思考の対象、少なくともさまざまな欲求を満たす手段」に他ならないのだから。レヴィ=ストロースはこの前提から出発する。そして「あらゆる文明はおのれの思考の客観的指向を過大評価する傾向にある」ことを厳にいさめる。そして、まさにその点についてサルトルの「歴史」概念に異議を申し立てることになる。
「彼らのうちであれ、私たちのうちであれ、人間性のすべては、人間の取りうるさまざまな歴史的あるいは地理的な存在様態のうちのただ一つのもののうちに集約されていると信じ込むためには、かなりの自己中心性と愚鈍さが必要だろう。私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことができない。」(『野生の思考』)
サルトルはまさに「その『我思う』の虜囚」としてレヴィ=ストロースに筆誅を加えられることになる。
「サルトルが世界と人間に向けているまなざしは、『閉じられた社会』とこれまで呼ばれてきたものに固有の狭隘さを示している。」
「サルトルの哲学のうちには野生の思考のこれらのあらゆる特徴が見出される。*8 それゆえにサルトルには野生の思考を査定する資格はないと私たちには思われるのである。逆に、民俗学者にとって、サルトルの哲学は第一級の民族誌的資料である。私たちの時代の神話がどのようなものかを知りたければ、これを研究することが不可欠であるだろう」
この批評は戦後のあらゆる論争を勝ち続けてきた「常勝」のサルトルを一刀両断にした。サルトルは、構造主義は「ブルジョワジーがマルクスに対抗して築いた最後のイデオロギー的障壁」であるという定型的な反論を試みた。*9 「歴史の名においてすべてを裁断する権力的・自己中心的な知」として実存主義は批判されたわけだが、それに対して、サルトルは「歴史の名において」死刑宣告を下すという無策をもって応じた。こうして実存主義の時代はいかにも唐突に終わったのだった。・・・」

画像:フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェルディナン・ド・ソシュール より Orz〜
「分類・区別という、線引きの集まりを恣意的につくりあげる行為は"分節"と呼ばれるようになった。現実世界の認識の体系も、言葉を構成する音も、人間はそれら二つの体系を"分節"によって作りあげていることになる。(線引きが恣意的であることを、後にあえて"差異の体系"などと呼んだ評論家もいるが、それでは力点の置き方が異なってしまい、ソシュールの意図からは外れることになる)
ここで、2つの恣意的な体系も、恣意的に結びついていると指摘される。例えば「米」として分節された特定の対象物が「こ・め」という特定の音と対応していることには、必然性はない。
ソシュールはこれを一般化して、「言葉と意味、あるいは表現と内容(シニフィアンとシニフィエ)の関係は恣意的である」と定式化し、両者の関係のありかた、すなわち恣意的な関係性を「シーニュ」と呼んだ。(日本語ではシーニュに「記号」という訳語があてられ普及してしまったが、意訳せず音写にとどめるべきだった、とする人もいる。)・・・」

昔必死で面白いことを考えつく人っているもんだって読みました ♪
ソシュールのお話はいずれまた。。。^^

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面白い論文(解説?)を見つけました ^^v
http://members.jcom.home.ne.jp/mi-hamamoto/research/published/relativism.html より Orz〜
ここから少しずつ拝借しながら、、、わたしの意見も交えながらアップ始めたいと思います...
一種のコラボメモ・・・^^;v
著者がどなたなのか不祥です、、、ご免なさい m(_ _)m

「一、はじめに

あるものの見方が、特定の歴史的・社会的な状況によって産み落とされ、そうした状況のおかげで広く信奉者を獲得するということは、それほどめずらしい話ではない。そして状況の変化に応じて、その内実を変え、姿を大きく変えていくということも、またよくある話である。その挙げ句に、そのものの見方が、それを産みだし、あるいは変形した状況自体を構成する要素になっていくというのも、おおいにありうる話である。私がこれから論じようとする一つのものの見方--文化相対主義--も、そんなふうに状況と結び付きその構成部分となった経緯をもつものの見方の一つである。

文化相対主義とは、通常理解されているところによれば、人間は、それぞれが独自の価値を持った異なる文化に所属しており、一つの文化の価値や認識の基準を別の文化に単純に当てはめて理解することは出来ない、という考え方である。こうした考え方が、人間が--それぞれの国民国家の内部においてさえ--実際にさまざまに異なる共同体に分断されており、しかもそうした共同体相互の関係が現実的な問題として浮かび上がってきているような歴史的・社会的状況と無関係だ、などと本気で考える人はいないだろう。

しかし私はここではあえて、文化相対主義を当面の歴史的・社会的状況と関連させて論じることはしない。いかなるものの見方も、特定の歴史的・社会的状況にしばられ、それに規定されていることは確かであるが、ただその点にすべてを還元してしまうことは、そのものの見方の息の根をとめてしまうことでもある。ある思想、あるものの見方の真の価値は、その思想が、特定の状況に縛られつつも、どれだけそこからずれ出し、離脱しうるか、そして自らを縛る当の状況を相対化しうるかという点ににあるのであって、けっしてそれがいかに特定の状況にマッチしているか--縛られてしまっているか--というところにはないからである。 ものの見方が--そして一人一人の思想的営みが--状況によって規定され拘束されていることを強調するあまり、それがそうした拘束から離脱し得るという可能性さえをも否定し去ることは、そのまま、そう論じる論者自身に跳ね返ってきて、自らの可能性すらを封印してしまうことになる。私は文化相対主義を特徴づけていたものの見方のもつ価値と可能性を、あらためて主張しようとしている。

文化相対主義の最も重要な特質であると私が考えているのは、一言で言えば、自文化の自明性と絶対性によりかかった「自文化中心主義」に抗する「反・自文化中心主義」という側面である。反・自文化中心主義は、だからといって、もちろん他文化中心主義になる訳ではない(註2)。それは自文化の自明性と絶対性に対する疑いから発する他者への関心、他者が示す差異への関心に突き動かされた脱中心化の運動である。上のパラグラフとの関係で言えば、文化相対主義は、まさに状況の拘束から離脱し、それを相対化しようとする懸命の努力そのものなのである。

文化相対主義は、しばしば普遍主義との対立において捉えられている。しかしこの対立の意味は、見かけほど単純ではない。私が以下で論じたいのは、文化相対主義はたしかに普遍主義に対して互いを牽制するような仕方で自らの主張を展開するが、実際には両者は相互に依存しており、文化相対主義に含まれる「反・自文化中心主義」的契機は、普遍主義の伝統によってはじめて可能になったものだという点である。文化相対主義も、普遍主義も、その本来の可能性の中心にはいずれも自己の相対化の運動があり、他者を自己を相対化する契機とするというその構図は、もともと普遍主義をこそ特徴づけるものだったのである。結論を先取りする形で言えば、文化相対主義とは「普遍」という幻想から醒めた普遍主義なのだと言ってもよい。

もちろんこうした議論が、今日文化相対主義が問題とされる理論的文脈からかなりはずれた議論であることは承知している。というのは一方において、おなじく文化相対主義、あるいは普遍主義の名の下に展開される「自文化中心主義」の様々な主張が存在しており、むしろこちらの方が今日の相対主義をめぐる理論的文脈を形成してしまっているからである。

相対主義 . .
普遍主義 . .
. 自文化中心主義 反・自文化中心主義
このように4つのます目のそれぞれの位置に対応する異なる種類の相対主義・普遍主義が区別されることになる。しばしば理論攻撃は同じ列内の相手に対してだけではなく、対角線上の相手に対しても展開される。実際の攻撃相手が対角線上の相手であるのに、それを同じ列内の相手だと思い違えたり、またその逆があったりといった具合に、話は単純ではない(註3) ギーアツが、自文化中心的な普遍主義に対する批判を、文化相対主義をストレートに名乗ることによってでなく、「反・反相対主義」という形で提示せざるをえなかった理由も(Geertz 1984)ここにある。この錯綜した交差関係がまた、文化相対主義をめぐる論評の多くに見られる混乱を説明する。

実際には相対主義と普遍主義の対立の軸よりも、自文化中心主義と反・自文化中心主義の対立軸の方が、圧倒的に重要である。しかし議論はしばしば、相対主義と普遍主義という表面的な差異に惑わされて、問題の本質を捉えそこなってしまう。他者に--より正確には、自分たちとは異なる共同性に所属する文化的他者に--自分たちとは異なった存在であることを許し、自文化において不問に付されている諸前提を対象化することを通じて、こうした他者に対する理解と対話の可能性を模索する知的態度。これこそが、普遍主義の双生児の片割れである本来の文化相対主義であり、それは自らの自明性のうちに安住しているあらゆる自文化中心主義--文化相対主義の語り口で語られるものを含めて--にするどく対立するものなのである。

To be continued...

(註1)この論考は一九九四年七月九日に東京大学で行われた日本民族学会関東地区例会における口頭発表メモ(オリジナルは http://www.higashi.hit-u.ac.jp/~jwijwi/hamamoto に公表されている)に若干の手を加えたものである。また、ここで展開されている議論は「文化相対主義の代価」と題して十年以上前に公表した論考(浜本満 1985)における議論とその考え方の基本は変わっていない。それはその後の、鷲田清一氏(鷲田 1989)や小田亮氏(小田 1994)の議論とも共通する部分が多い。これが意味しているのは、ただ一つのこと、つまり文化相対主義をめぐってなしうる妥当な議論というのは、結局ありきたりな一点に落ち着くしかないということかもしれない。

(註2) このように自他という区別を立てること自体は、人間を諸「文化」、つまり相互の差異によって隔てられた複数の単位に分断し、その内部に閉じ込めてしまう語り口につながるものとして、大いに批判されうる。文化というイディオムを用いた語り自体に内蔵された危険である。ここでは、この点にまで立ち入ることはせず、自他の区別や、文化のイディオムを用い続けることになろう。ただし、自他の区別を立てることにおいて、その区別を絶対的なものとはせず、諸文化について語ることにおいて、それを完結し相互に孤立した単位であるかのようには考えない、という点は強調しておく必要がある。文化相対主義が、自他の区別を立てるのは、それによって対話を断念するためではなく、むしろ対話を開始してその区別を乗り越えるためであり、文化という単位を想定するのも、人々を分断し囲い込むためではなく、境界を対象化し、再度その境界を流動化するためなのである。

(註3) 現在における文化相対主義をめぐる諸議論をバランス良く論じるということは、この錯綜した状況を細かく紹介するということを意味する。しかし私はこの状況の紹介そのものにはあまり意味を見出さない。数々のレベルの低い議論をいちいち紹介していくことを考えただけでも意気阻喪させるに充分である。                                      」

文化相対主義って、あのレヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」なんて本を思い出しちゃうけどね。。。
そういうことでいいんでしょ?ヨーロッパ文化だけが唯一絶対の価値を持つものじゃなくって、未開と思ってるだけの世界にも意味のある別の文化がちゃんと存在してんだってことを紹介したんですよね?
って、分かったようなことを書いてますが、、、実は、憧れて購入したもののパラパラっとしか見ちゃいない。。。^^;Orz...
でも、同時に、、、他文化の別の価値を理解できるっていう意味では所詮人間でさえあれば根本的なところでは似たりよったりの社会を維持する普遍的な文化ってのがあるんだってことをも発見したわけだよね。わたしは、そもそも構造主義といういわば人間の思考の根っこにあるものを見いだすことに思い至る端緒になる研究をしたのはソシュールだと理解してるけど。。。?

画像:Claude L?vi-Strauss
http://orc.lolipop.jp/pukiwiki/pukiwiki.php?%BF%B2%A4%CA%A4%AC%A4%E9%B3%D8%A4%D9%A4%EB%B9%BD%C2%A4%BC%E7%B5%C1%2F%C2%E85%BE%CF より Orz〜

砂糖/記憶力

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www.sugar.or.jp/ health5/0401.shtml より Orz〜
記憶力を良くする力
「特別インタビュー
女流棋士 矢内 理絵子
やうち りえこ
1993年、13歳でプロデビュー。当時最年少の女流棋士として、一躍話題に。1997年には女流王位戦で初タイトル。2004年、女流四段に。NHKテレビ「囲碁将棋ジャーナル」の番組司会を務めるほか、将棋の普及のための活動などにも多忙な毎日。

将棋というのは、相手の出方によって100手ぐらい先を読み続けなければならないので、かなりの集中力が必要となります。1日中の対局で体重が2〜3kg減ってしまったことも。対局が長時間にわたると、だんだん頭の中にモヤがかかってしまったような感じになります。そんな時にチョコレートなどの甘いお菓子を食べると、パッと霧が晴れるように疲れていた頭がすっきりし、気分も新たになるのです。まったく違う新しい手が見えて、もうダメかなと思った対局が、甘いもののおかげで持ち直したこともありました。

画像:あなたの脳年齢は?
ブドウ糖だけが脳の厳しいチェックをパス
脳は、たいへんな大食漢!摂取するエネルギーの約24%を費やしています。でも、そのエネルギー源となるのは、唯一、ブドウ糖だけです。また、他の臓器ではタンパク質や脂肪もエネルギーとなりますが、脳は、脳血管関門といわれる検問所で厳しいチェックを行い、ブドウ糖以外のエネルギー源を通しません。しかも、脳に蓄積できるブドウ糖量はごくわずかなので、常に補給し続けなければ活動できません。
砂糖は摂るとすぐにブドウ糖になり、すばやく脳のエネルギーとなります。さらに、砂糖とタンパク質を同時に摂るようにすると、脳の働きをよくする神経伝達物質のひとつ「セロトニン」の合成を促し、学習・記憶能力がアップします。

砂糖と記憶力
20歳の女性たちを対象に、ブドウ糖と言語の記憶力や流暢さの関わりを調べたところ、ブドウ糖を含む飲み物を摂ったグループの方が頭がすっきりし、多くの単語を思い出せたという結果も出ています。すばやくブドウ糖に分解される砂糖は、脳の速効性エネルギーとして脳の働きを活性化し、記憶力アップを助けます。
画像:D.Bentonら、1995年

砂糖を甘く感じるのは、口より「脳」です
砂糖を「甘くておいしい」と感じるのは、脳の働きによるものです。食べ物のさまざまな味を最初にキャッチするのは口の中にある味細胞ですが、その味の情報は、味神経から脳へと伝わります。
味神経は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味といったそれぞれの味「基本味」ごとに反応しますが、甘味の情報が流れてくると、中枢神経が刺激され、エンドルフィンという快感ホルモンが分泌され、快感と感じるのです。

画像:甘味情報の流れ

甘いものが 欲しくなるのは、「脳からの指令」です
ある食べ物を十分に摂ると、もうその食べ物を欲しくなくなったり、逆に、特定の食べ物が不足すると食べたくなったりしますが、これは、脳の神経の働き。サルに高濃度のブドウ糖を摂取させた上で舌にブドウ糖を与えると、脳の前頭葉あたりでの応答が減り、多量に与えられたブドウ糖はもう摂取したくなくなったという実験結果もあります。
疲れたときに甘いものが欲しくなるのも、脳から味覚機能への指令なのです。」

たしかに、脳のエネルギー源は、ブドウ糖とケトン体だけです。。。
満腹中枢に従って食べるべきでしょうね。^^
ギャル曽根ちゃんの満腹中枢はどうなってんだろか、、、不思議だ。。。^^;
満腹中枢はストレスとかに影響されるから、、、過食症やら、拒食症やらが起きやすいんですよね、、、しかもどういうわけか女性に多いんです・・・?
むかし、全共闘につるし上げられてた教授らはチョコレートをポケットにしのばせてたらしいね。^^
雪山遭難でも、、、たしか、チョコやら、マヨネーズやらで助かった方がいらっしゃったよね♪
貯蔵してるグリコーゲンが使われたら、、、次は脂肪が分解されて、糖新生が起きる。脂肪が燃やされるためには、30分以上の運動で初めて生じると言われてる。その次には、筋肉の蛋白が分解されて、やはり糖新生が起きる。ことほど左様にブドウ糖って必須なわけなんですよね。^^v
摂りすぎちゃうとその逆にメタボ(内臓脂肪が溜まっちゃう)になるってわけです。。。
糖尿病の方は、血中にいくらブドウ糖があっても末梢の組織がインシュリン不足だと利用されないために、脂肪の分解が起こり、、、ケトン体が増えてきて、いわゆるケトアシドーシスを起こしやすくなるわけです。血液が酸性になっちゃう。。。普通の人も飢餓状態では、ケトン体が血中、尿中に出てきます。頭はブドウ糖がないと低血糖症状に成り、、、ひどいと意識を失うし、不可逆的な脳障害を生じます。また、血中にNA(ノルアドレナリンというカテコラミンの一種)が副腎髄質から放出され、手の震え、冷や汗、イライラ感が増強します。かといって、多すぎると、、、相対的なVitB1不足から、すでにお話ししたウェルニッケ脳症に成ったりしますしね、、、

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http://www.excite.co.jp/News/release/JCN43089.html より Orz〜
アステラス製薬、精神疾患の発症に関わるG 蛋白共役型受容体SREB2/GPR85を発見 [ 04月08日 ]

「Tokyo, Apr 8, 2008 - (JCN Newswire) - アステラス製薬株式会社(TSE:4503、以下「アステラス製薬」)は米国国立精神衛生研究所(NIMH)との共同研究において、G 蛋白共役型受容体 SREB2(別名:GPR85)が脳の大きさや行動に影響を及ぼし、統合失調症の疾患感受性に関与することを解明し、現地時間4月7日付けの米国科学アカデミー紀要(Proceedings of National Academy of Science of the United States of America、通称「PNAS」)に発表しました。

細胞上にはG 蛋白共役型受容体(GPCR)と呼ばれる膜蛋白質が存在します。GPCRはホルモンや神経伝達物質などのリガンドと結合することにより、細胞外からの情報を受容し細胞内に伝える重要な役割を担っています。受容体という性質を利用してGPCR を標的とした創薬研究が盛んに行われています。

ヒトのゲノム上には1000 種類以上のGPCR が存在すると言われており、これまで上市された薬剤の半数がGPCR を標的として開発されたものです。従って、新しいGPCR の機能及び疾患との関連性を研究することは、新しい創薬標的の発見につながるものと期待されています。今回、精神疾患との関連性が明らかとなったSREB2 は、GPCR ファミリーに属する新しいGPCR です。

SREB2 はアステラス製薬のゲノム創薬研究から発見された、脊椎動物の進化において進化遺伝学上最も重要と考えられるGPCR です。その後NIMH との共同研究により、その発現が神経系に限局し、特に可塑性が高い脳領域、例えば記憶学習機能で重要な働きをしている海馬などで発現が高いことを明らかにし、これまでに報告してきました。その後、精神疾患との関連性を明らかにすることを目的に共同研究を継続してきました。

本発表では、SREB2 が脳の大きさ、行動を決定する因子であると同時に、統合失調症の疾患感受性遺伝子であることを報告しました。SREB2 を過剰に発現する遺伝子改変マウスでは、脳重量の低下、脳室の拡大といった脳の形態異常に加え、社会性行動の低下、情報処理機能及び認知機能の低下など精神疾患と関連する行動学的異常が観察されました。

一方、SREB2 を持たない遺伝子欠損マウスでは脳重量が増加し、記憶能力が向上することが観察されました。SREB2 過剰発現遺伝子改変マウスの表現型と精神疾患との関連性に基づきNIMH 保有の統合失調症患者サンプルを用いて遺伝学的な解析を行ったところ、SREB2 が統合失調症の疾患感受性遺伝子であり、SREB2 の遺伝的多型と統合失調患者の海馬の大きさに相関性があることが判明しました。

今回の研究成果として、SREB2 を標的とする薬剤が、従来の薬剤にはない新しい作用機序に基づく、統合失調症や認知症などの精神疾患の画期的な治療薬となる可能性を見出しました。今後のさらなるSREB2 の機能、疾患関連性の研究は、創薬研究にインパクトを与えるのみならず、基礎研究の分野でも、これまで知られていなかった重要な神経機能の発見につながるものと期待しています。

アステラス製薬は中枢領域を重点研究領域と位置づけており、同領域において抗精神病剤「セロクエル(R)」や選択的セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)「ルボックス(R)」などを販売しています。今後も画期的な新薬の研究開発に取り組むことで、精神神経疾患治療に貢献することを目指します。」

面白い発見ですね♪
頭の良くなる、、、記憶力のよくなる薬も夢でなくなるかもよ。。。
で、受験のときにもドーピング検査が導入されたりなんかしてきたり、、、^^;

記憶力テスト
http://www.kiwi-us.com/~knp3/judge/memory-test.shtml
ちなみにわたしの記憶力は70%でした。。。^^;
こんなの嫌い...

も一つしてみた ^^
http://cgi2.coara.or.jp/cgi-bin/cgiwrap/~skodama/checkpc.cgi?testno=23
記憶力診断
「注目の診断結果は?
あなたのタイプ 優秀な記憶力を持つタイプ
解説
・・・
このタイプの人の短所は何かというと、結構人を傷つけてしまう可能性があることです。
自分自身の能力が高いところにあるので、そこから物事をみてしまい傾向がかなりあります。記憶力がいいのは、大変いいことなのですが、今回の質問文の4番に「普段から気に入らないことも含めて文句言う」を選んだ方は特に気をつけて下さい。
それが原因で人間関係が破綻する恐れがあります。能力が優れていると、それを鼻に掛けて、他人にやたらと厳しくなる可能性があります。そうなると「ただの嫌味な人」になります。表面では仲良く振舞っていてくれても、いざとなるとあなたは避けられる人になってしまうかもしれません。ご注意下さい。大切なことは、自分自身の高い能力を活かし、周囲の人をそれとなくフォローしてあげることです。そうすることで周囲はあなたを自然と評価してくれることでしょう。」

あってるような気がするところが憎らしい...^^;

画像:記憶力を改善する薬剤を開発  2007-01-29 08:46:58
blog.goo.ne.jp/ senses1123/m/200701 より Orz〜
「脳内のグルタミン酸濃度を高めることによって記憶力を改善する薬剤が、米カルフォルニア大学のGary Lynch博士らによって開発された。BBCニュースによると、CX717と呼ばれるこの薬剤はジェットラグ(時差ボケ)やアルツハイマー病治療に使用することができるが、健常者の記憶力を高めることにも使用できるという。 CX717は承認を得るためにはさらに臨床試験が必要である。睡眠障害を来した患者16例を対象とした英国の臨床試験では、同薬の服用によって覚醒状態および精神力の改善効果が認められた。 Lynch博士は「CX717はニューロン間の情報伝達をわずかながら改善する。疲労を来すと、脳細胞間の情報伝達機能が低下し始めるが、CX717の投与により伝達機能が改善される」という。同薬の副作用は認められていない。 製薬会社は、CX717をナルコレプシー(睡眠発作)や注意欠陥多動障害(ADHD)の治療薬としての使用を検討している。

アメリカでは他にティム・タリー博士によって記憶力を高める薬を開発した。HTO712と言われる薬で、現在は臨床段階ではあるが、5年〜8年後には認証され、市販されるだろう。
記憶の鍵を握っているのが「CREB」タンパク質である。
記憶にはタンパク質の合成が必要であり、CREBがタンパク質合成を促進するのである。ティム・タリー博士は、このCREBの働きを促進することに着目し、研究を続けてきた。
当初は認知傷害、記憶障害、アルツハイマーなどの使用が考えられている。ただし、普通の人がこの薬を服用すると余計なことまで記憶してしまうので、極度のストレスや副作用など考えられる。
確かに、記憶力が衰えたと自覚をする高齢者の方々を私はよく見ているが、決して記憶力は低下しているのではありません。
記憶した事を思い出す。記憶を引き出す能力が低下しているので、そのように自覚するのです。
加齢と共にCREBは眠った状態になり、活発に働いてくれないのだ。そこにこのHTO712の薬の開発で俄然とCREBがやる気を起こし、活発化することで記憶力や記憶力の引き出し、思い出す能力も向上するという薬である。
日本にはアメリカで発売され、安全性が確認されてから認可が降りるので10年以上先になりそうである。
新薬の開発には、日本は認可が世界一厳しいと言われているが、実は体質が古いだけなのである。これらを改善しないと新薬など「創造薬」はアメリカなどの海外が一歩も二歩も先を行っている。
今月も大手の製薬会社が日本国内の工場を閉鎖やリストラなど製薬会社も大変である。開発するより、新薬を海外から輸入や買い付けした方が早いし、コストダウンになるからである。
日本では、ここ数年新薬の開発が殆ど進行していないし、開発も遅れている。残念なことだが、現在の状態では仕方ない事かも知れない。
私共はこれら鑑み、群馬県での医学薬科大を構想しているが、その薬学部では、日本の製薬会社、勿論、海外の製薬会社も含め、共同開発に手がけたいと考えている。日本での認可が取れなければ、アメリカなどの海外で認可を取り、臨床実験を行い、市販薬として販売されることを夢見ている一人である。
日本では「創造薬」という聞き慣れない言葉ではあるが、アメリカなどでは次々に新しい薬が造り出されている。その一つが記憶力を高める薬であり、新薬なのである。
日本でも斬新な新薬の開発など望みたいところだが、製薬会社などのリストラ合併など、日本国内では新薬の開発が立ち後れている。
今後、製薬会社だけでなく、病院、大学、研究所、製薬会社と枠を超えて取り組まなければならない問題でもある。・・・」

画像:記憶力の向上にはバラの香りが有効=独調査
miyuken.com/ken/archives/ 2007/03/index.php より Orz〜


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