アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

深いい話

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画像:「接吻 Le Baiser」
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*ロダンと、弟子で愛人のカミーユ・クローデルがモデルだそう。
「真実こそ美そのものである・・・」   彫刻家オーギュスト・ロダンの言葉。
ロダンはあらゆる存在に対して、その内なる真実を求める。 一見して感じとられる形体の奥底に生きる内面の生命を見つめる。 存在の骨子をとらえ、内から湧き出て外に向かって伸びる力を見きわめないでは手を下さない。すなわち、あらゆる生命、あらゆる事物の中の本質そのものに迫ってゆく。 ロダンにとって美とはこの厳粛なる真実の中に生まれるのである。(富永惣一:作家論−ロダンの生涯とその作品−/現代世界美術全集 より一部抜粋)

この『接吻』は、 
ダンテの「神曲」 地獄篇の中のパオロとフランチェスカの物語から 題材をとったもの。*あらすじ はこちら (「地獄篇」第5歌の項)
禁断の愛に身を焦がした二人の物語を知らなくても、どこか哀しげなこの一組の男女の静かなる激情 に胸を揺らされます。それはそこに “真実” を感じるから。物語のディテールが重要なのではなく、そこに何かしらの真実を読み取るこらこそ、人々は胸を打つのでしょう。」

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神の手を持つ天才彫刻家を支えた女性達・・・内縁の4才年下のローズ、ロダンが長い不在の間も作品を管理し、妻と云うよりロダンの彫刻を支え続けた同士とも云うべき関係だったのでしょうか・・・若く美しい、才能ある24才年下のロダンの弟子の彫刻家カミーユ・クロデールとの出会い、そして愛人関係を続けるも、やがて彼の元を去って行く、才能ありながらも、いつも作品はロダンの影がつきまとい自分の才能を開花させずに愛をも成就できず、精神的に傷つき生涯精神病で入院し続けたクローデル・・・
ロダンの、その頃の作品が男女が抱き合う官能的作品「接吻」
19年の歳月をかけ待ち続けた内妻ローズ 結婚したのが73才わずか2週間でローズはこの世を去りその9ケ月後ロダンも死去!ロダン、内妻ローズ、愛人クローデル、愛と苦悩の日々はロダンにどんな創作意欲をかき立てたのであろうか・・・
後世にも残る傑作ロダンの「考える人」も、このような物語を背景に鑑賞するとまた、違った見方があり、興味深いものがあります。 ・・・」

画像:ヴィーナスの化粧 http://iei.jp/goods_html/6920326.html より Orz〜
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パリの下町で警視庁の書記の息子として生まれる。14歳で工芸実技学校に入学。
そのロダンの良き理解者であった2歳年長の姉・マリアの援助により帝国素描・算数専門学校に入学して美術を学ぶ。それ以後は古代ギリシアのペイディアスルネサンスミケランジェロを師にして、ほぼ独学で彫刻を学んだ。敬愛する姉の死で酷評にショックを受けたロダンは以後、12年もの長い間作品を発表しなかった。この年に生涯の伴侶となるローズ・ブーレと出会い、内縁関係を結ぶ。正式に結婚するのはロダンもローズも老齢になってからである。」

画像:「最後の幻影」

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白い大理石の表面に二人の顔が浮かび上がり、カリエールの絵画との結びつきが 最も明確に示された作品です。」

*カリエールの絵も素敵♪...またいずれ ^^v

画像:【カミーユ・クローデル】
http://blogs.yahoo.co.jp/gabriella12366/15477150.html より Orz〜
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「考える人」で有名なオーギュスト・ロダン。彼の愛弟子であり、ライバル、愛人であった、カミーユ・クローデル。18歳の時に42歳のロダンのモデルとなり、弟子となり、自らの作品を作り出した彼女はあまり知られていませんが、彼女の作品を見ると生み出さずにはいられない「本能と衝動」の赴くままに、作品を制作していってます。19世紀という女流彫刻家が認められていなかった時代に咲いた、狂おしいオンナそれも、ロダンに強烈な影響を与えながらも、ロダンの弟子の扱いを受け、ロダンの影の存在でその生涯を終えた女性、カミーユ・クローデル。」

画像:http://blog.goo.ne.jp/higaki_yjp/c/8b7a3ca4d0e590f0646bd979279ccb78/1 より Orz〜
【オーギュスト・ロダンの胸像(1888〜89):卒業制作】
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【分別盛り(1898年):ロダンとの決別】
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ロダンにはローズという内妻と息子がいました。ローズが病に倒れ「ローズかカミーユか」の選択にロダンは決断が出来ませんでした。彼女はロダンの元を去るのです。
この彫刻はローズを老婆にしカミーユの哀願からロダンを引き離しています。
彼女は30歳。すっかり疲れきっていました。
心に残る虚しさともどかしい愛は、作品への執念となって彼女の魂までも焼き尽くさんばかり。幸福を男女関係や人間関係の中よりも創造のなかに追及しようとするあまり、認められたいという欲求は増し、次第に精神のバランスを失ってゆきます。
常に支援してくれた父が亡くなった直後、カミーユは弟ポールの指示により強制的に精神病院に入院。死ぬまでの30年間 退院する事はありませんでした。」
 
画像:「心からの信頼」
カミーユによる、ロダンとの愛の絶頂期を表す愛の結晶
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*カミーユの本気度大好きだな!!...わたしも似てる...
選ばれなかった理由を納得させられなかったら/納得できなかったら...多分狂っちゃう...^^;
そうならないで済むとしたら...本気じゃなかったってことの証左ね!!...^^;
人は...盲目のルールに縛られてる/従ってることを忘れてる...ルールなんて糞喰らえ!!...
ルールなんて破っちゃえ!!...ルールを書き換えちゃえばいいんだ!!...^^
でも...そのときにゃ...こんな素敵な作品は生まれなくなっちゃうのかなぁ...^^;?

http://ja.wikipedia.org/wiki/オーギュスト・ロダン より Orz〜
フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダンFrançois-Auguste-René Rodin1840年11月12日 - 1917年11月17日)は、フランス彫刻家19世紀を代表する彫刻家とされ、『近代彫刻の父』と称される。代表作に『地獄の門』、その一部を抜き出した『考える人』など。
・・・ロダンはエコール・ボザールなどの美術の専門教育(アカデミズム)を受けず、特に青年期以降は殆ど独学で彫刻を習得した事で知られている
・・・姉が体調を崩して修道院で病没すると、姉の恋人を最初に紹介したロダンは激しい罪悪感に苦しんだという。姉の後を追うように修道院に入会したロダンは修道士見習いとして、美術から神学へと道を変えようとした。だがロダンの指導を任されたピエール・ジュリアン司教は彼が修道士に不向きだと判断して、美術の道を続けるように諭した。
修道会を離れたロダンは動物彫刻の大家であったアントワーヌ・ルイ・バリーに弟子入りして、深い影響を受けた。また24歳の時には生涯の妻となる裁縫職人のローズと知り合い、長男オーギュスト・ブーレ・ロダンを儲けている他、装飾職人としての労働も再開した。・・・30歳までロダンは家族を養うだけの稼ぎを持てなかった。・・・1875年、職人の親方との関係が悪化した事もあり、ベルギー滞在中に生活費を節約して貯蓄を続けていたロダンはローズを連れて、念願のイタリア旅行へと出かけていった。そこで目の当たりにしたドナテッロミケランジェロの彫刻に衝撃を受けたロダンは、多大な影響を両者から受ける事になった
彼は「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」と語っている。ベルギーに戻ったロダンは早速イタリア旅行で得た情熱を糧に『青銅時代』を製作、十数年ぶりに彫刻家として活動を開始した。

彫刻家ロダン 

この『青銅時代』はオーギュスト・ネイトと言う人物をモデルにした等身大の男性像で、極めて緻密でリアルな作品であった。ところがそのあまりのリアルさのために「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられ、憤慨したロダンは2年後に人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに作った。型を取ったのではなかったと解った審査員たちは、ロダンの彫刻に対して賞賛の言葉を送り、ロダンの名は一気にフランス中に広まった。
1880年、ロダンの元に国立美術館を建てるので、そのモニュメントを作って欲しいとの依頼が来た。そのテーマとしてロダンが選んだのがダンテの『神曲』地獄篇に登場する『地獄の門』である。ロダンはこの大作品に取り組むに当たり、粘土水彩画などでデッサンを重ねていったが、中々構想はまとまらなかった。この悩める時期に教え子のカミーユ・クローデルと出会い、この若き才能と魅力に夢中になった。だが優柔不断なロダンは、カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れた。数年後ローズが病に倒れ、カミーユがローズと自分との選択を突付けるまで決断できなかった。ローズの元に逃げ帰るロダン。ショックを受けたカミーユは以後、徐々に精神のバランスを欠き、ついには精神病院に入院、死ぬまでそこで過ごす事になる。1888年、美術館の建設計画は白紙に戻り(予定地だった所には現在はオルセー美術館が建っている)、ロダンに『地獄の門』の製作中止命令が届くが、ロダンはこれを断り、金を払って『地獄の門』を自らの物とし、彫り続けた。ロダンにとって最早『地獄の門』とは単なる作品ではなく、『神曲』の中の物語でもなく、ほかならぬロダン自身のモノとなっていたのである。そして1889年、『地獄の門』を覗き込む男を一つの彫刻として発表した。はじめこの彫刻には「詩想を練るダンテ」と名づけられていたが、発表するときは「詩人」と名づけられた。この像は誰を表しているのか、ダンテであると言う説もあるが、ロダン自身であると言う説もある。その姿は地獄の中を覗き込み、苦悩している姿であり、その地獄の中にはカミーユ、ローズとの間に出来た息子(この子のことをロダンは認知せず、世間にも隠していた)の姿がある。なお『考える人』と言う名はこの像を鋳造したリュディエがつけたものである。
1917年、ロダンは死期の迫ったローズと遂に結婚の手続きをした。ロダン77歳、ローズ73歳であった。その16日後にローズは死去し、更に9ヵ月後の11月17日にロダンも死去した。ロダンの末期の言葉は『パリに残した、若い方の妻に逢いたい。』だった。結局『地獄の門』は未完に終わった。・・・
常識人は自然なる人を不幸にする!!...それも無自覚に...自らが汚染されてることを疑いもしないからこそ...無自覚は罪...でも...だからこそ...誰も無実ではあるんだけれど...^^;...Orz...
名医の代名詞の耆婆扁鵲(ぎばへんじゃく)...の耆婆(ぎば)...の話...^^

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タイマッサージの創始者は、今から約2500年前の時代を、釈尊と共に生きていたインド人シワカ・コマラパ(Shiwog Gomarabat/ジーヴァカ・コーマーラバッカと発音することもある)とされています。・・・
彼は釈尊の主治医であり当時サンガ(仏教僧の集団)の筆頭医師として活躍していました。・・・
古代マガダ王国に、サーラヴァティーという遊女がいました。彼女はラージャガハという町(マガダ王国の首都)で男の子を産みますが、周りの人たちに知られたくなかったのでその子を召使いの女に渡します。その召使いの女は、その子を穀物ともみ殻をふるい分ける籠に入れ、ゴミの山に置いて来てしまいます。しかしちょうどそのとき、アバハヤ王子が通りかかり・その子を見つけ兵士に次のように尋ねました。「その子はまだ生きているか」と。兵士は「はい」と答えその子は王子によって拾われ、宮殿に連れて行かれ大切に育てられました。子供はシワカと名付けられましたが、それは「彼はまだ生きていた」という意味です。そして王子が彼の面倒をみたことからコマラパと呼ばれました。
コマラパとは、「王子によって養われた」という意味です。彼が自分で、生計を立てなればならない年齢に達したとき、彼は医術を習おうと心に決めました。タキシラに有名なアートレーヤという医師がいることを耳にした彼は、その町まで旅をしてその医師の徒弟になるのです。当時のタキシラは医学の習得や、技芸や科学、また伝統的バラモンの学習の中心地でした。

7年の間に、薬草に関しての知識や処方の仕方、脈診術、鍼術(漢語の文献による)などをマスターした彼は実地試験を受けることになります。そこでアートレーヤは、彼の薬草に関する知識を試すため彼を森に行かせ「森の中から薬にならない草を取ってくるように」と、指示しました。森の中には、薬にならない草が一つもないことを知っていた彼は見事に試験に合格をしました。
彼がアートレーヤの開頭手術を見ていたとき「開けた頭蓋から虫を除くのに、手術道具を熱くした方がいい」とアドバイスをし、アートレーヤは彼の医学の理解の深さに満足し、特別な開頭術を彼に授けました。
彼がアートレーヤのもとを去るとき、アートレーヤは彼に向かって「自分は今インドの医師の中では一番だが、自分が死んだ後は君が後を継ぐだろう」といったといいます。」

詳しくは以下参照...Orz...

http://ja.wikipedia.org/wiki/ジーヴァカ より
ジーヴァカ(耆婆、ぎば)は、古代インドのマガダ国ラージャグリハの医者である。
阿闍世(アジャータシャトル、アジャセ)が、父王・頻婆娑羅(ビンビサーラ)を殺害した後に悔恨の念を懐き悪瘡を生じたことから、釈迦仏に会いに行くよう勧めて仏教に帰依させた人として知られる。・・・
意味:固活、能活、活童子、寿命童子など
  • 南伝スマンガーラ・ヴィラーシニーでは、彼の名前の由来を説明して、娼婦の子として生まれ捨てられたのを、無畏(アバヤ)王子が拾い上げ「この子はなお生きている」といったのでジーヴァカといわれ、王子に育てられたゆえにコマーラヴァッチャ(王子に育てられし者の義)と呼ばれたとする。
  • 南伝クラヴァッガでは、小児科医ゆえに、コマーラヴァッチャ(子供を看病する者)と呼ばれたとする。・・・
中国や日本では、彼と戦国時代の名医扁鵲とをあわせ、〈耆婆扁鵲〉と並べて呼称することがある。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/アジャータシャトル 参照 
http://ja.wikipedia.org/wiki/アンバーパリー より
アンバーパリーサンスクリット語:Āmrapālī、音写:菴摩羅、菴没羅など多数、訳:捺女、奈女、非浄護など)は、釈迦仏の女性の弟子(比丘尼)の1人。
ヴェーサリー(毘舎離)の人でヴァイシャ出身。ヴェーサリー城外の Amba(アンバーとはマンゴーのこと)林に捨てられ、その番人に育てられたので、アンバーパリーすなわちアンバー林の番人の子といわれるようになった。長じて美貌を以って名声をなし遊女(あるいは芸妓女)となった。仏に帰依し、その所有していた林を僧団に献納し、後に比丘尼となった。彼女の一子である Vimala-Kondañña(ヴィマラ・コンダンニャ)もまた比丘となったという。『テリーガータ』1020には、彼女の美貌に心を奪われた比丘衆に阿難が誡めのために偈を説いている。
南伝『ディーガ・ニカーヤ』16には、リッチャヴィ(離車)族の公子らに先んじて仏を招待した。公子らがその招待を譲り受けんと乞うも彼女は譲らなかったという。その所有していた菴摩羅樹苑を僧団に寄進したとあり、この件は諸文献に通じるエピソードである。
南伝『マハーヴァッガ』には、彼女の美貌によりますます多くの人々が引き寄せられてヴェーサリーが潤ったという。ラージャガハ(王舎城)の民衆はヴェーサリーでこの模様を見て、ビンビサーラ(頻婆娑羅)王に帰って語って、Sāravatī(サーラヴァティー、五分律では婆羅跋提)をして娼婦たらしめたという。サーラヴァティーは、Jīvaka(名医ジーヴァカ、耆婆)を生んだという。
『雑阿含経』24.20には、菴摩羅樹苑にて、彼女が来るのを見て、仏は弟子集にその美貌で心が揺れないように四念処を説いたとある。
『捺女祗域因縁経』には、彼女はヴェーサリーのバラモンの捺樹の肉瘤(にくこぶ)から生まれたとし、美人なるをもって15歳の時に7人の王が求婚したが得られず、ビンビサーラだけが得てジーヴァカを生んだとする。Sumanā(須漫)、Padumā(波曇)の二女も彼女と同じように各々樹華より生まれたという。彼女と二女は共に500人の女性を率いていたが、仏の説法を聞いて出家し悟りを得たという。
したがって、北伝漢訳経典では、ジーヴァカは彼女とビンビサーラの間の子とするが、南伝パーリ語文献経典では、ジーヴァカはサーラヴァティーとビンビサーラの間の子とするという違いがある。」

小野小町と深草少将の話に似てなくもない...悲恋とハッピーエンドってところが大違いだけど...^^;...

* 医王耆婆伽(ぎばか)―名医
984年丹波康頼編纂の「医心方」のも耆婆の処方が多く記されている。
王舎城の美女の遊女サーラヴァティがビンビサーラ王と通じ生まれ、捨てられたのを、アバヤ王子が発見し、家来に命じてこの子を乳母に養育させた。王子はまだ生きているという意味の「ジーバカ耆婆伽」と名づけた。成長し自分は王家のものでない。自分に才能がなければここにすむことは出来ない。生きる道として、医術を学ぼうと考え、タッカシーラ国名医で7年間医術、薬学を学んだ。師の許しを得て、王舎城に帰る途中、頭痛の治療を始め多くの病を治し、開頭手術、開腹術(腸閉塞)、ビンビサーラ王の痔も治し、王は自身と後宮と釈迦の僧伽に侍医に任命した。ブッダの腸の不調を蓮の華を一定時間毎に嗅いでいただくことで便通を調えた。多くの宗教家は「医宗同源」で釈迦も阿難陀に、痔の種類と治療法、痛むときの陀羅尼の唱えを教えている。「療痔病経」として「医心方」に引用されている。

釈迦が涅槃に入られるとき、集まった弟子達の泣き叫ぶ中、阿那律は、その場に居合わせた最高長老として、枕元に侍して釈迦の涅槃を見届け、陀羅尼を励まし、供養の支度を整えた。釈迦の平素の教えを皆に改めて説き示して一夜を過ごした。
翌朝、陀羅尼に命じ、マッラ族に釈迦入滅の知らせを届けさせ、天眼で 諸天の意向を伺い、天冠寺のマッラ族の廟に遺骸を運び安置した。香と華と楽で供養し、遺骨を荼毘に付すとき、陀羅尼がいかにしても、金棺の回りに積んだ香木に火がつかない事態が起きた。陀羅尼は静かに釈迦の心を探り、「世尊は大迦葉の到着を持っておられる。それまで薪に火がつかない」と一同に告げた。
釈迦入滅後三ヶ月が過ぎ、大迦葉の召集で七葉窟で、第一結集が開かれた。優波離と陀羅尼が唱えたお釈迦さんの言葉を全員が「異議なし」と認めると、阿那律が釈迦もそれをよしとされているか、天眼で視た。これで経と戒律が決まった。」

天眼ってなんだ ?...天津飯のあの第三の目...^^?
画像:http://purelink.info/stone/tengan.htm より Orz〜
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天眼石(てんがんせき)

年輪状の模様が目玉のように見えるこの石は、天(神)の眼と言われ、
強い徳が宿り、持ち主に神仏の加護を授け悪霊を追い払い、開運へ導くると言われます。
また、本来『天眼石』は強い魔除になるといわれ、黒の天眼石は特に死者から、赤の天眼石特に生きている人間からの怨念めいたものを祓うともいわれています。・・・『ボツワナアゲート』と同様の『アゲート・瑪瑙』の仲間で写真のように縞模様が目玉に見えるものでチベットで産出されたものが『天眼石』と呼ばれるそうです。・・・この石は、チベットの僧侶に好まれ、ダライラマ14世が身につけている事でも有名であり、ノーベル平和賞の授賞式に身に付けていたことで注目を集めました。その他にも、『ハリソンフォード』『リチャードギア』『スティーブンセガール』『ジェットリー』など多く映画俳優や事業家などが天眼石を愛用しているそうです。・・・
穴の空ける位置を代え縞模様が目玉に見えるようにしたものを『天眼石』と呼ばれます。

これって...トルコ土産でもらったナザール・ボンジュに似てる♪(お気に入りなグッズ欄参照 ^^)
画像:http://allabout.co.jp/gm/gc/22675/2/ より Orz〜
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トルコでは、他人の羨望・嫉妬のまなざしはその人に悪影響を与える、と考えられています。これはヒッタイト時代から残る信仰で、こうした羨望のまなざしから守ってくれるのが、目玉の形をしたガラス玉、ナザールボンジュ。トルコの家や店には巨大なナザールボンジュが壁に掛けられており、その他キーホルダーや携帯ストラップ、ピアスなど、様々な形のナザールボンジュがあるので、大勢の友人たちに配るのにうってつけのお土産候補。ちなみに、何か嫉妬の視線から守ってくれた時、そのナザールボンジュは割れるのだそう。」

日本でも...鳩の害から守るために大学にこんな大きな目玉の案山子みたいなのしてたの思い出した...今もしてるかどうかは知らねど...^^;...
漢方で...サーチすると...痔によく効くらしき蓮神(れんしん:はす(蓮茎)を主体とした4種類の生薬のみを配合した内服薬)があるみたい...わたしゃよく知りませんでしたが...^^; Orz...

画像:http://renshin-seiyaku.co.jp/yurai.html より Orz〜

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レンシンはその昔、平安時代の醍醐天皇に仕えた菅原道真公が、延喜元年(901年)九州の太宰府に左還された折、一漁師が痔で苦しんでいるのを見て、持参していた四国高知で採取してきた蓮茎(はすのクキ)と中国より渡来した漢薬と調合してのませてみたところ、痔の痛みが数日で治ったという逸話がありました。・・・」

保険で処方する乙字湯(おつじとう)とは別物のようです...^^;...
保険で使える漢方で...清心蓮子飲(せいしんれんしいん:http://shohei-clinic.com/kanpo02-4.html 参照)、荊芥翹湯(けいがいれんぎょうとう:http://www.itaya.or.jp/about_c_medicine.php 参照を何とか思い出したけど...
「扁鵲(へんじゃく)とは、古代中国、とくに以前の中国における、半ば伝説的な名医である。その行動、人格、診察治療のありさまは『韓非子』や『史記』その他にさまざまな逸話を残し、「漢方医で脈診を論ずる者はすべて扁鵲の流れを汲む」とも言われ、また彼の言動業績から「六不治」(ろくふち)など多くの漢方医学の用語や概念がうまれた。 転じて、今では「扁鵲」もしくは「耆婆扁鵲」(ぎばへんじゃく)というと、それだけで名医の代名詞として用いられることも多い。」

画像:http://pedipo.jp/image_list?page=580 より Orz〜
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むかしむかし中国での話です。 扁鵲(へんじゃく)という伝説的な名医がおられました。鵲をシンボルとする名医のグループ名で個人ではないという説もあります。 は、スズメ目カラス科の鳥。腹肩翼の先が白く他は黒く尾は長くて緑黒色。天然記念物に指定。「カチガラス」「朝鮮烏」ともいわれています。
村上春樹の有名な小説「ねじまき鳥クロニクル」の冒頭はFMラジオから流れる「泥棒かささぎ」序曲ではじまります。」
画像:http://ja.wikipedia.org/wiki/カササギ より
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カササギ(鵲、Pica pica)は、スズメ目カラス科に分類される鳥類の一種。別名カチガラスもしくはコウライガラスとも呼ぶ。中国語では「喜鵲」と表記。大正12年3月7日、佐賀県の天然記念物に指定され、現在は同県の県鳥にもなっている。
カササギは鳥類のなかでも大きな脳を持っているという特徴があり、ほ乳類以外の動物では初めて鏡を認識したことが確認された生物であると発表された。日本においても、老人や子供は警戒しない一方で、若い男性など危害を与えようとするものには警戒して近寄らないという観察結果が出ている。
古代の日本には、もともとカササギは生息しなかったと考えられる。「魏志倭人伝」も「日本にはカササギがいない」と記述している。
しかし、七夕の架け橋を作る伝説の鳥として、カササギの存在は日本に知られることとなった。奈良時代の歌人大伴家持は七夕伝説に取材した下記の歌でカササギを歌っている。(『新古今和歌集』・『小倉百人一首』に収載)
鵲の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける
現在日本に生息するカササギは、豊臣秀吉朝鮮出兵の際に、肥前国佐賀藩鍋島直茂筑後国(現福岡県)の柳川藩立花宗茂など九州の大名らが朝鮮半島から日本に持ち帰り、繁殖したものだとされる。その一方で、冬に朝鮮半島から渡ってくるミヤマガラスの大群にカササギが混じっていることがあるという観察結果から、渡ってきたカササギが局地的に定着したという意見もある。

朝鮮半島 :朝鮮半島では、七夕伝説における織姫と彦星の間をつなぐ掛け橋の役を担う鳥として、親しまれている。朝鮮語ではカササギを「까치(Kkachi、カチ)」と呼ぶ。大韓民国では首都のソウル特別市をはじめとする多くの都市が市の鳥に指定している。

欧米 :英語ではカササギを magpie (マグパイ)と呼び、伝統的に「おしゃべり好きのキャラクター」としての表象を与えられている。また、金属など光るものを集める習性があることから、「泥棒」の暗喩に用いられることがある。「光り物好き」という意味もあるという。」


各地から往診の依頼が相次ぎ、カササギのように転々とする生活を余儀なくされたことから「扁鵲」の名がつけられたのだそうです。」

扁鵲(へんじゃく)は中国春秋時代末期に病気を治しながら諸国漫遊をしたお医者様です。様々な病気を治した名医として、そのエピソードは『史記』や『韓非子』にも記されているとか。
さてこの扁鵲はほかに兄と弟がいて三兄弟で医者をしていたという伝説があります。それは扁鵲と魏の文王との対話で明らかになります。・・・

『魏の文王が「三兄弟のうちで誰が一番名医か?」とたずねたところ「長男が一番、次が次男、私の技術は一番劣ります」と答えたとか。文王が「それならなぜ二人の兄は有名ではないのか?」と追求すると「長男は患者が病気になる前に、本人も気付かないうちにその病根を取り除いてしまう。だから有名にはならない。次男は病気がまだ軽いうちに治してしまう。だからその土地でちょっと名が知られるくらい。自分は患者の病気が重くなってからしか治せないので、すごいと思われ有名になった」と答えたというんですね。』

この話は『史記』などの古文書に伝わるものとは違ってあくまで伝説であり、出典がどうもはっきりしません。・・・
「未病」、これは最近言われ始めた言葉ですが、まだはっきりと「病気」になる以前に治してしまう、むしろ「病気にならない身体」を作る。これこそ本当の名医ですよね。マスコミでは脳外科手術の権威とか、「チームバチスタ」とか派手に活躍するお医者さんだけが取り上げられ、そういう名医はいたとしても、このセオリー通り名前が売れることなく、埋もれてしまっているようですが…。
しかし これを一般的な話に置き換えるとこうもいえるとおもいます。「大きな問題を解決」する以前に、「問題が起こらないようにしておく」ことがいかに大切か。結果が派手に出ないため目立たないかも知れませんが、重要な仕事であり、役割だと思います。地味な仕事こそ偉大、いえ、偉大だからこそむしろ地味なのかもしれません。」

*「後医は名医」にも通じる言葉ですが...^^
人は助けを求めて欲しいときこその助けにしか有り難みを感じられない...^^;?
未病を矯正する...?...それは...内政干渉だと思ってるわたし...
知識として啓蒙すればいいことで...けっきょくは...個人の生き方に関わって来ること...メタボ健診もそう思ってる...わかっててもする自由を人は有してるんだもの!!
未病の治療はすでになされてるしね!!...たとえば...高血圧の治療なんて最たるものでしょ?...将来の脳血管障害になりにくくするための治療なんですから ^^
これって...予防医学/予防治療なのよ!!...アポってから治すには...遅過ぎるから...将来的に...アポっても...ip細胞によって修復可能になる部分は増えるかも知んないけどね...^^
やっぱり...困ったときにその苦痛を撮ってあげられるのが患者さんにとっての名医でっしゃろ?...^^v

この逸話は去年の同門会で以下の松沢先生のお話に出てきて初めて知ったわけです♪

---住友病院院長 松澤佑次氏

≪中国故事から学ぶ≫

メタボリックシンドローム撲滅委員会の運動の位置づけに関係して、扁鵲(へんじゃく)の三兄弟という中国故事の話をしたい。春秋時代に扁鵲というすごい名医がいて、手術したり、最新の薬を工夫して使ったりしてどんな重病も治す。中国全土に鳴り響くほどの名医とされた。
そこで王様の文王が評判を聞き、「お金をたくさんもうけているおまえは名医であろう。国の高い地位につけてあげよう」と声をかけた。ところが、扁鵲は兄の方が偉いという。次兄は病状がそれほど重くない間に治してしまうので、その地域では名医とされ、お金も大いに稼いだらしい。
さらに、もっと偉いのは長兄だといい、本当の病気にまでならないように村人らに説いて回る。
このため、その地域では病気があまり発症しなかったものの、逆にそうなれば、扁鵲以外誰にも偉いと思われないので、貧乏のまま寂しく死んでいったという。

その三兄弟の話は時々、住友病院の研修医の選抜の試験に出して、感想を述べさせています。受験者の中には「名医になるより、長兄のような公衆衛生的な医療をやりたい」と、こっちの思いに過剰に反応して、ちょっと見え透いたことを書く人もいる。比較的しっかりした人の中には、「やっぱり名医になりたい、先端医療をやりたい」という人もいるわけです。

医師としてはそれぞれが大切でどれが一番偉いというわけでもなく、予防医学は大切だけどその価値は、なかなか一般にはわかりにくいという故事なのです。

≪沖縄26ショックの教訓≫

ただ最近、予防医学が非常に重要なことが、「沖縄26ショック」によりはっきり出たわけです。沖縄という長寿を誇っていた県でも生活習慣を受動的に世の流れに任せておくと、男女とも肥満率が日本でトップになり、突然、男性の平均寿命だけが26位になった。
この例は、予防医学が極めて重要だということを示すと同時に、太ることが、男と女でかなり結果が違うこともあらわしています。

まさしく撲滅委員会は、扁鵲の長兄のようなことを、マスメディアとわれわれ医学界と厚生労働省の産官学でやっている運動でしょう。効果は、直ちにわかりにくい部分がありますが、みなさん方のご支援を受け、ますます努力して続けていければ近い将来、良い結果が出ると期待しています。
このメタボについては、まだまだ誤解が多い。糖尿病には原因がいっぱいあるわけで、やせた糖尿病から、太った糖尿病、あるいはウイルスで侵されて激症で発症する糖尿病もある。原因は多岐にわたっています。・・・

≪疾患概念を提唱≫

私どもは、それぞれの病気の複雑な原因の中で、非常にシンプルに肥満、内臓脂肪が関係した部分を切り出してまとめた疾患概念を提唱したのです。糖尿病の側からみても、メタボ型や内臓脂肪型は必ず存在する。これが今の飽食と運動不足により増えていっている。
高血圧にしても、多くは原因不明ですが、その中で内臓脂肪が原因したものは、はっきりある。
それらを切り出していって、まとめた病態をメタボと定義しているのだと理解していただくと、対策が内臓脂肪を減らす生活習慣の改善ということになり、原因が改善すれば一網打尽に複数の病気が軽快するというきわめてわかりやすい疾患概念になるのです。
一方では、メタボ以外の糖尿病や高血圧、すなわち内臓脂肪とは無関係の生活習慣病の原因追究がもっと焦点が絞りやすくなる。その意味での位置づけからすると、このメタボという概念で、今の生活習慣病を理解することは、予防医学として非常に的を射たものではないかと、撲滅委員会としては考えています。」
*いい話ではあります♪...人は困らにゃ病院にゃ来られない...政治も自分の身に振りかからにゃ変わらない...上の内蔵脂肪の話は外来という場所で口が酸っぱくなる程辻説法してますけどね...^^;v...それと、人が如何様に生きるかという話は別物なのよね...!!
耆婆扁鵲」(ぎばへんじゃく)の耆婆(ぎば)のお話はまたいずれ ^^
実際の「深いい話」って紳介司会のテレビ番組でも紹介されたそうですね ♪
画像&文章とも...http://www.asahi.com/edu/ijime/sakanakun.html より引用 Orz〜

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            東京海洋大客員助教授・さかなクン 

「中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。 

広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。」

これって...自然法則ってことでもあるわけだよね...^^;...
自分が生き残るには...っていうか...常に敵がいたわけだよね...だから...
自然界では...共同戦線として...外の敵に臨み...
平和であるはずの環境においても...
敵を仮想しちゃう...
悪いとか何とかじゃなくって...
そういう風になっちゃう脳の仕組みに...生き残ってきたものの宿命として組み込まれてる...
だから生き残れたとも言えるのよ...
人間社会に認められる...パレートの法則にも似てる...?
仕事しない20%をリストラしたって...また残りの20%は同じように仕事しない者が生まれる...
みたいな...^^;?
だからこそ...人智で...そんな脳の無意識な暴走の歯止めのシステムを編み出さなきゃいけないんだよね...教育で...?...体育で...?...宗教で...?...人間以外のコンピューターでチェック...^^;?...

         http://ja.wikipedia.org/wiki/パレートの法則 より
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ヴィルフレド・パレート(Vilfredo Frederico Damaso Pareto、1848年7月15日 - 1923年8月19日)はイタリアの技師、経済学者社会学者哲学者
・・・
彼は、数理経済学の実証的な手法(統計分析)を用いて、経済社会における富の偏在(所得分布の不均衡)を明らかにした。これはパレートの法則とよばれている。この法則は、2割の高額所得者のもとに社会全体の8割の富が集中し、残りの2割の富が8割の低所得者に配分されるというものである。
パレートは、このような概念によって、社会全体の福利の適正配分と効用の最大化を目指す経済政策を理論的に基礎づけ、厚生経済学におけるパイオニア的存在となった。」

パレートの法則(パレートのほうそく)とは、経済において、全体の数値の大部分は、全体を構成するうちの一部の要素が生み出しているという説。
80:20の法則、ばらつきの法則などと呼ばれることもあるが、本来は別のものである。イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレート(Vilfredo Federico Damaso Pareto)が発見した冪乗則である。経済以外にも自然現象や社会現象等様々な事例に当て嵌められることが多い。ただし現代で言われるパレートの法則の多くは、法則と言うよりもいわゆる経験則のたぐいである。自然現象や社会現象は決して平均的ではなく、ばらつきや偏りが存在し、それを集約すると一部が全体に大きな影響を持っていることが多い、というごく当たり前の現象をパレートの法則の名を借りて補強している場合が少なくない。また主要な一部(80:20の法則で言う20%の部分)だけが重要で、残りは重要ではないという説明がまれに見られるが、それも本来のパレートの論旨とは無関係である。
現代でよくパレートの法則が用いられる事象
※パレートがこれらの説ひとつひとつを唱えたわけではない。いかなる時にも厳密に80:20であるとは限らず、90:10や70:30の場合もある。つまり何事にもばらつきがあることを例に挙げているにすぎない。
  • ビジネスにおいて、売上の8割は全顧客の2割が生み出している。よって売上を伸ばすには顧客全員を対象としたサービスを行うよりも、2割の顧客に的を絞ったサービスを行う方が効率的である。
  • 商品の売上の8割は、全商品銘柄のうちの2割で生み出している。→ロングテール
  • 売上の8割は、全従業員のうちの2割で生み出している。
  • 仕事の成果の8割は、費やした時間全体のうちの2割の時間で生み出している。
  • 故障の8割は、全部品のうち2割に原因がある。
  • 所得税の8割は、課税対象者の2割が担っている。・・・」
聖書より多く読まれている本ってご存知?
ラジオから流れてきたお話...
「ドジソンっていうイギリスの数学者がいた...彼は牧師になりたかったけどなれなかったらしい...大勢の前に出ると緊張から吃音になるためだった...そんな彼の前に...引っ越してきた家族にアリスって女の子と知り合う...その子とは気が合ったんだろう...彼女と話すときは吃らない...そんな彼が彼女に話して聞かせた創作があった...それが...「地底の国のアリス」!! そう...「不思議の国のアリス」って本らしい♪ しかも...その本は彼がアリスにクリスマスプレゼントとして贈ったんだって!!♪...彼の名前は...ルイスキャロルと呼ばれてる...」

調べてみると...聖書の次に多く読まれてる本って...「星の王子様」らしいけど...^^;?...
ま...それはともかくとして...なんとも素敵なプレゼントじゃないですか♪

         画像:http://ja.wikipedia.org/wiki/地下の国のアリス より
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不思議の国のアリス』(ふしぎのくにのアリス、Alice's Adventures in Wonderland )は、イギリス数学者にして作家チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが、ルイス・キャロルの筆名で1865年に出版した児童文学である。この作品では、白うさぎの縦穴を通り抜けて、人間の言葉を喋る動物や人間のようなトランプの札が住むファンタジーの世界へ落ち込んだ、アリスという名前の少女の物語が語られる。
・・・不思議の国の論理で演じられる物語は、世界中の大勢の子供達と、同じく大勢の大人達の間で親しまれ続けてきた。
本書の原題の直訳は、『不思議の国でのアリスの冒険』となるが、日本では後述するように『不思議の国のアリス』の訳題で知られている。英語でも、しばしば省略形であるAlice in Wonderlandの題名が使われる。この略題は近年の本作品の映画化などによって、広く用いられるようになった。
本書には『鏡の国のアリス』(Through the Looking-Glass, and What Alice Found There)と題された続編があり、両編の要素を組み合わせた映像化が何度も行われている。一説によれば、聖書の次に世界中で読まれている本である。」

         画像:http://ja.wikipedia.org/wiki/ルイス・キャロル より
             ルイス・キャロル自身による肖像写真
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ルイス・キャロルLewis Carroll1832年1月27日 - 1898年1月14日)は イングランド北西部チェシャー州ダーズベリ出身のイギリス数学者論理学者写真家作家詩人である。本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンで、作家として活動する時にルイス・キャロルペンネームを用いた。このペンネームは "Charles Lutwidge" をラテン語に直し、再び英語に戻して順序を入れ替えたものである。なお、Charles Lutwidge Dodgson:「Dodgson」の実際の発音は「ドジソン」ではなく「ドッドソン」に近いという説もあるが、この記事では慣例に従い「ドジソン」と表記する。作家としてのルイス・キャロルは、『不思議の国のアリス』の作者として非常に良く知られている。「かばん語」として知られる複数の語からなる造語など、様々な実験的手法で注目されている。数学者としては、チャールズ・ドジソン名義で著作を出している。キャロルの作品は出版以来人気を博し続けており、その影響は児童文学の域に止まらず、ジェイムズ・ジョイスホルヘ・ルイス・ボルヘスのような20世紀の作家らにも及んでいる。
・・・
若い頃のチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは、カールした茶色の髪と青い目を持ち、身長約5フィート11インチ(約180センチ)のすらっとしてハンサムな、夢見心地な表情の青年だった。17歳の終りの頃に、ドジソンは重い百日咳を患い、右耳の聴力に障害を負った。おそらくこの百日咳は、彼の後の人生における慢性的な肺の弱さの原因となった。ドジソンが成人期まで引きずった唯一の明らかな欠点は、彼自身が「ためらい(hesitation)」と名付けていた吃音癖だった。この性癖は幼少期に身につき、生涯にわたりドジソンを苦しめた。吃音はキャロルを取り巻く神話の重要な一部である。ドジソンが吃音を起こしたのは大人との交際の時のみであり、子供相手には自由にすらすらと喋れたというのがキャロル神話の一つだが、この主張を裏付ける証拠は存在しない。ドジソンと面識のあった多くの大人が彼の吃音に気付かなかった一方で、多くの子供が彼の吃音を記憶している。ドジソンの吃音は紋切り型の大人の世界への恐怖に由来するものではなく、生来のものだった。ドジソン自身は、彼が出会ったほとんどの人々よりも自分の吃音を深く気にしており、『不思議の国のアリス』においては、発音し辛い彼のラスト・ネームをもじった「ドードー」として、自分自身を戯画化している。吃音癖はしばしばドジソンに付きまとい彼を悩ませてはいたが、社交生活における他の長所を打ち消すほどひどい物ではなかった。
・・・
1856年に、キャロルは後に有名になるこの筆名で書かれた最初の作品を発表した。『The Train』誌に発表された Solitude(孤独)と題された短い詩の上に、「Lewis Carroll(ルイス・キャロル)」の名前が記された。この筆名は彼の本名のもじりである。「Lewis」は「Lutwidge(ラトウィッジ)」のラテン語名の「Ludovicus」を、「Carroll」は「Charles(チャールズ)」のラテン語名の「Carolus」を、それぞれ英語化したものである。・・・同年に、新しい学寮長であるヘンリー・リデルが、妻子を伴ってクライスト・チャーチに転任してきた。リデルの家族は、その後何年ものあいだドジソンの作家人生に重要な影響をおよぼした。キャロルはリデル家、特にロリーナ、アリス、イーディスの3姉妹と親しく交際した。ゴッドストゥニューナムでのリデル三姉妹を連れてのボート遊びは、一種の習慣となっていた。
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アリス・リデル(当時7歳)チャールズ・ドジソン撮影(1860)
1862年7月4日、ドジソンはリデル3姉妹および友人ロビンソン・ダックワースとの、アイシス川へのピクニックの途上において、のちにふりかえってみると彼にとって最初で最大の商業的成功をもたらすことになる、ある物語の筋書きを生み出した。最初の『アリス』の物語である。口頭で語った物語を、ドジソンはアリス・リデルから文章に書き起こすようにせがまれた。下書きの執筆は第2回ロンドン万国博覧会見物のための列車内で行われ、1863年2月10日に本文が完成した。1864年9月13日に書き上げられた手書きの挿絵を添え、 同年11月26日に「親愛なる子へのクリスマスプレゼントとして、夏の日の思い出に贈る」との献辞と共に、『地下の国のアリス』と題された肉筆本がアリスに贈られた。・・・」

彼がアリスと知り合ったのは...30歳のとき...^^;...?
恋には年の差なんて関係ないなぁ ^^v
歴史の影に女あり...♪...
男がその殻を破るのは...or...その契機は運命的な女性に握られてる...!!?...
詳しくは...上記サイト参照願います Orz~

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