アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

深いい話

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知らなかった...^^;...

画像:http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-1534.html より Orz〜
2009.04.22 ミスUSA:同性婚に反対意見を述べたせいで王冠を逃したキャリー・プレジャン(ミス・カリフォルニア)
「・・・今年の全米一美しい女性を決める“ミスUSA”の最終選考が、米国時間の4月19日(日本では20日)にラスベガスのホテル『プラネット・ハリウッド・リゾート&カシノ』にて開催された。主催者はいつもどおり若い美女大好きの不動産王、ドナルド・トランプだ。
2009年度のミスUSAの最終審査に残ったのは、ブロンドの髪型や青い目、そして、身長や体型まで、まるで双子のようにそっくりな2人だった。ノース・カロライナ州代表のクリステン・ダルトンさん(写真上)とカリフォルニア州代表のキャリー・プレジャンさん(写真下)。・・・こんな感じで、外見ではほとんど優劣がつけられないような二人だったんだけど、結局、ミス・ノースカロライナのクリステン・ダルトンさんが優勝した。しかし、その勝敗を分けたのは、ミス・カリフォルニアのブレジャンさんが質疑を受ける審査員として選んだペレス・ヒルトン氏への回答が、ペレス・ヒルトン氏の期待していたものとは正反対で、彼を苛立ててしまったからではないかと、今日の北米のネットで話題となっている。
それでは、ミスUSAの審査員であったゲイのセレブ・ゴシップ・ブロガー、ペレス・ヒルトン氏が、どんな質問をしたかと言うと、さすがは、ゲイだけあって、同性婚に賛成か反対かという質問だった。
「最近、ヴァーモント州は米国で4州目の同性婚が合法の州となりました。これを全ての州も見習うべきだと考えますか?その理由もあげてください。」
ペレス・ヒルトン氏がゲイだと知らないわけはないと思うけど、プレジャーンさんは、ヒルトン氏がむっとして「ダメだこりゃ」というときにする首をふる動作をするような回答をしてしまった。
「米国では異性との結婚も、同性との結婚もどちらも選べるようになっているということはすばらしいことだと思います。でもね、それは、米国や私が育った家族の中でも、結婚はあくまで男と女によるものだと信じています。私は、そのように教えられて育ってきました。」と観客からの大きな拍手と共に答えた。あ、この人、きっと共和党支持者かもなんて考えてしまったのだが、あまりにも、言い方がきつかった。
カリフォルニア州では、最近、同性婚を認めない法案が成立しており、ゲイである故に、その法案の反対活動を進めているヒルトンにとって、彼女の回答はとんでもないものだった・・・
プレジャンさんは、記者会見で、審査員の番号をひいて、ヒルトン氏の質問を聞いたとき、「ああ、やっかいな奴に当たっちまったぜ(笑)。」と心の中で思ったとか。常識的な答えか、自分に正直な答えか一瞬迷ったけれども、ここまで来るのに本当に苦労したし、このコンテストは、何万人という人が見ていた。非常に緊張していたので、自分の心に耳を傾けて、正直な気持ちで答えたと答えている。
しかしながら、ヒルトン氏の質問に答えた後、ああ、コンテストは、これで落ちたなと思ったと正直に語っている。"The Huffington Post"によると、プレジャンさんは、ヒルトン氏を傷つけ、怒らせてしまったことに対して、「とても失礼なことを言ってしまった。心から謝りたい。」と述べている。実際、プレジャンさんの妹は、米軍で派遣されている女性兵士であり、ゲイであることは否定しているが、ゲイを支援するための活動家である。ヒルトン氏からの質問では、そのことに一言触れて、同性婚について反対意見を述べる代わりに、最初の一言、「米国では異性との結婚も、同性との結婚もどちらも選べるようになっているということはすばらしいことだと思います。」で終わらせればよかったのに・・・・。もしかしたら、それで結果が変わっていたかもしれない。
しかしながら、上のインタビューで、「もし、もう一度やり直せるとしたら、又同じ質問に同じように答えるか。」と聞かれると、プレジャンさんは、「はい。もう少し、詳しい説明を加えて同じように答えると思います。結婚は男性と女性の間で行われるべきという考えは全く変わりません。」と主張している。
一方のヒルトン氏は、ラリー・キング・ライブに出演し、「プレジャンさんの回答は、ビューティ・コンテスト史上最悪の答えだった。」と酷評したり、自分の質問の正当性を訴えた時のクリップや、ブリトニー・スピアーズが同性婚に賛成であることを褒め称えたエントリーを自分のブログで紹介している。
"Love is love! People should be able to do whatever makes them happy! -Britney"
「愛は愛。人は自分を幸せにするために何でもできる可能性を持つべき。ブリトニー」
・・・」

わたしは...嘘も方便は必要だったと思ったはずだのに...自分を利用されてるように思えたから...敢えて意地悪く言っちゃったんだと思うなあ...^^;
ま...準優勝でも...これだけ話題になったら優勝者より有名になれたんじゃないのかな♪
それに...ヒルトンはケツの穴が小さいんじゃないの...^^; Orz...

http://takedanet.com/2009/06/post_5e2f.html より Orz〜
もの言えば唇寒し秋の風
「・・・私には「長い間,人間がその中心的な道徳としてきたことを,言論の自由があると考えられる国で発言し,それによって若干でも不利を受ける」ということが,これほど歴然とでたのも少ないように思う。
でも,アメリカは移民でできた新しい国であり,「建国の実験」をしているようなものだ.
アメリカの銃の規制についても,日本でたびたび議論になり,多くの意見は「あんな危ない物を個人個人が自由に持てるなんて」という意見が多い.ところがアメリカはなかなか銃の規制をしない.それはアメリカという国は「個人の集合体」としての意味が強いからだ.
まず国家があるのではなく,まず個人があり,個人が銃を持って身を守る。だから国家が決められることには限界があるという感覚だ。
著者が経験したこと・・・パリで駐車違反がなぜ取り締まれないのか?・・・と言う私の質問に対して「フランス国土はフランス人のものだから,駐車して国土を占有したからと言って警官が取り締まることはできない」という返事で,当時に私はビックリしたものだ.
よその国を理解するのは難しい.このミスの発言は私にはなにが問題か?と言うことすら理解できない.・・・」

http://thu.sakura.ne.jp/others/proverb/data/mo.htm より Orz〜
「物言えば唇寒し秋の風(ものいえばくちびるさむしあきのかぜ)
人の悪口を言えば、後味の悪い思いをするということ。また、よけいなことを言うと、そのために災いを招くということ。芭蕉の句。「人の短をいふ事なかれ己が長をとく事なかれ」という座右の銘に添えられている。 類語: 「言わぬが花」、「口は禍の門」・・・」

『雄弁は銀、沈黙は金』とも言うが...銀の好きなわたしはおしゃべりに過ぎるきらいがあるし...秋風が身に染みること多し...^^;

紫陽花(アジサイ)

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http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20090609AS1K0900109062009.html より Orz〜
春秋(日本経済新聞)(6/10)
「紫陽花(あじさい)ほど水滴が似合う花はない。雨にぬれると、花弁の青と枝葉の緑が一段と鮮やかに輝き始める。天の恵みを受け止めてパラパラと鳴る元気な音も心地よい。学名は「ハイドランジア」という。文字どおり「水の器」という意味だ。
▼今は世界各地で夏の訪れを告げるが、原産地は日本だそうだ。幕末に長崎に住んだシーボルトがこの花を愛した話はよく知られる。妻の「お滝さん」の名をとって「オタクサ」と命名し、欧州に紹介した。女性への想いを仕事に持ち込んだのが気恥ずかしかったのか。名の由来は地名だと小さなウソをついていた。
▼北鎌倉の明月院では、そろそろ満開。境内を埋めつくす800株は、ほとんどが国産の品種だという。外来種のように、色そのものが七変化することはない。真っ白から淡い水色へ、そして次第に濃さを深め、円熟の群青色へ……。無から始まり空や海に同化して戻っていく姿は、仏教の輪廻(りんね)の思想にもつながる。
▼時は移ろい、季節は巡る。梅雨入りを教える寺の花にも小さな秘密がある。参拝者が毎年眺めるのは、同じ紫陽花ではない。咲き終わった株は刈り込み、挿し木で鉢に植え替えて2年。さらに山の地面に移して3年。境内に登場するまで舞台裏で粘り強い努力が続く。潤いの美しさは一朝一夕に成るものではない。」

画像:おたくさ花
photovenir.exblog.jp/ 8538178/ より Orz〜
「シーボルトが愛した人「お滝さん」は、なんにでもよく気の回る人で臨機応変
「おたくさ花」は、そんなお滝さんにちなんで、シーボルトがあじさいにつけた名前なんですって・・・」

www.kanie139.com/ blog/archives/cat17/ より Orz〜
「あじさいというと、次々に色が変わるので日本の花言葉では「移り気なこころ」といわれますが、
以外なことにフランスではあじさいの花言葉は「元気な女性」なんだそうです。
調べてみると、あじさいには「一家団欒」「家族の結びつき」「強い愛情」なんていう花言葉もあるんですって。」

画像:Hydrangea macrophylla forma normalis(ガクアジサイ:アジサイの原種)
画像:あじさいに燕(葛飾北斎・画)
http://ja.wikipedia.org/wiki/アジサイ より Orz〜
「・・・
花の色は、アントシアニンのほか、その発色に影響する補助色素(助色素)や、土壌のpH(酸性度)、アルミニウムイオン量、さらには開花からの日数によって様々に変化する。そのため、「七変化」とも呼ばれる。一般に「土壌が酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」と言われているが、土壌のpH(酸性度)は花色を決定する要因の一つに過ぎない。花弁(正確には装飾花)に含まれる補助色素によっては青になり得ない・なり難いものがあるほか、pHは地中のアルミニウムがイオン化する量を左右する要因に過ぎないため、仮に酸性土壌であっても地中のアルミニウムの量が少なければ花が青色になることはない。また、初めは青かった花も、咲き終わりに近づくにつれて赤みがかかっていく。
「あじさい」の名は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が訛ったものと言われる。また漢字表記に用いられる「紫陽花」は唐の詩人・白居易が別の花(ライラックか)に名付けたもので、平安時代の学者・源順がこの漢字をあてはめたことから誤って広まったといわれている。
・・・
アジサイは毒性があり、ウシ、ヤギ、人などが摂食すると中毒を起こす。症状は過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て死亡する場合もある。日本では、飲食店などが毒性を持つアジサイの性質を知らずに料理に使用してしまい、経口摂取した客が中毒する事故が発生している。
アジサイには青酸配糖体が含まれており、それが中毒の原因であると考えられている。ただし、農業・食品産業技術総合研究機構動物衛生研究所によると、原因物質は青酸配糖体ではない可能性があるとしている。厚生労働省の課長通知においても、アジサイに青酸配糖体が含まれていることについての知見が十分ではないことから、2008年8月18日付けで「アジサイの喫食による青酸食中毒について(2008年7月1日)」の文書を廃止している。・・・」

ミツバチもいなくなってるって話だけど...ツバメもめっきり見られなくなってません・・・^^;?

http://blog.ottava.jp/ottava_moderato/2008/06/post-f21f.html より Orz〜
「2008/06/27 紫陽花、シーボルト、お滝さん
明日28日は『放浪記』で知られる作家、林芙美子の命日。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」という言葉を残した林芙美子は47歳の若さで亡くなりましたが、紫陽花が好きだった彼女を偲び若い頃、彼女が暮らしていた広島県の尾道では28日を「あじさい忌」としています。俳優石原裕次郎さんの命日7月17日も「あじさい忌」です。
ところで、紫陽花を巡る愛情物語があります。主人公は、幕末の日本で活躍した医師シーボルトと、その妻・お滝さん。博物学者でもあったシーボルトは著書『日本植物誌』の中で、日本の紫陽花を紹介し、妻・お滝さんの名前をとって、ヒドランジア・オタクサと名付けました。オタキが発音できずオタクサに変化したのでしょう。学名として採用されていませんが、シーボルトの妻への深い愛情を示すエピソードといえそうです。
ところで、幕末の長崎出島で活躍したシーボルトのことをオランダ人だと思っている方も多いですが、彼はドイツ人です。シーボルトは1796年、現在のドイツ・バイエルン州ヴュルツブルク市の医学者の家に生まれました。大学の医学部に進み医学の他、動、植物学や民族学なども学びました。卒業後、見知らぬ国の自然を勉強したかった彼は当時のオランダ領東インド会社に渡り陸軍軍医となります。そして、西洋医学を日本に広めたかったオランダと、まだ見ぬ国の植物や動物を研究したかったシーボルト。お互いの利害が一致してシーボルトは日本に派遣されたのです。しかし当時、出島に滞在することを許されていたのはオランダ人だけだったのでシーボルトは国籍を偽ったのです。
そのシーボルトが日本で恋に落ちた女性がお滝さんでした。お滝さんに関しては、遊女であったという説明と、当時出島に出入りできる女性は遊女に限られていたため、遊女であると偽ったという説明があります。
結婚した2人には女の子を設けました。それがシーボルト・イネ、日本名は楠本イネです。イネは西洋医学を始めて学んだ日本人女性となり、外科や産婦人科の発展に大きな貢献を果たしました。
なお、今お話したあたりの事情に関しては、みなもと太郎さんの漫画『風雲児たち』(リイド社)のワイド版13巻以降に詳しく書かれています。徳川幕府成立から明治維新までの300年間を壮大なスケールと丹念な資料の読み込みから得た独自の歴史解釈、そして懐かしいギャグ満載で描いた『風雲児たち』こそ、現代の大人が読むべき教養書だと僕は思っています。」

minori.s289.net/ article/96778766.html より Orz〜
「♪〜シーボルト〜お滝さんとのロマンス〜♪
シーボルトは1823年長崎に渡米しました。シーボルトは来日早々長崎奉行の計らいで出島を出て日本人の患者を治療することを許されました。その患者の中に美しい女性がいました。シーボルトはこの美しい女性に心を奪われました。このシーボルトとお滝さんのロマンスの中、2人の間に生まれた娘イネは日本初の女医として知られています。
お滝さんは出島に入ることが出来ない、それで丸山の芸者置き場引田屋の遊女とゆうことにし、出島に入って2人は結婚しました。シーボルト29歳お滝さん17歳、シーボルトは故郷へ当てて「素晴らしく可愛い日本女性と結婚しました。決して彼女以外の女性を妻に迎えることはないでしょう。」と書き送っています。シーボルトは、お滝さんを熱愛し、日本で見つけたアジサイの花に「オタクサ」という学名をつけた。2年後、2人の間に女の子が生まれました。イネと名づけられました。

*「鳴滝塾」シーボルトの深い学識を知り、全国から続々と医学生が集まった。実地に即した臨床医学であり日本最高の水準であったと言われています。
出島で過ごしたシーボルトは任期が切れて、オランダへ帰国することになった。日本に残していかねばならない、お滝さんと娘イネのこと当時日本の妻と子どもは、法律上連れて行けませんでした。シーボルトは何とかともに帰国出来ないだろうか」といろいろな人に相談したと言われています。

        〜シーボルト事件〜
一時帰国を計画しますが、幕府の禁制の地図、徳川家の御紋入り羽織など〜を持ち帰ろうとしたことが問題となり〜出島に拘禁された。「日本に帰化して、日本人になります。と日本帰化を願い出る」が1830年永久国外追放の処分が決まった。お滝さんとシーボルトとの生活は6年半であったと言われています。お滝さんは幼いイネを背負い小船に乗ってシーボルトの乗った船が見えなくなるまで見送ったと言われています。
やがて時も過ぎ〜中国ではアヘン戦争が〜このままでは日本は占領されてしまう
シーボルトはペリーとも親交があり「どうか平和的に、日本に開国を進めてほしい」とぺリーに進言している1853年ペリーは黒船に乗って浦賀に来航、大砲をぶっ放し徳川幕府に開国を迫った。
やがて日本は開国してシーボルトの国外追放も消されて約30年ぶりにお滝さんやイネ、かっての弟子達とも涙ながらの再開をはたしたと言われています。
その後2年7ヶ月を日本で過ごしたあと故郷のドイツに帰り、67歳で病気で亡くなりました。
日本の自然と平和を愛したシーボルト臨の床で「私は美しいく平和な国へ行く」と呟いたそうです。
1969年お滝さんも体調を崩し死の床に昔シーボルトと食べたオランダイチゴを食べたいと〜
オランダイチゴを食べてこれで思い残すことはないと言って63歳で亡くなったそうです。

シーボルトとお滝さんとのロマンス〜
しあわせな時間はわずか6年半〜愛する2人を引き裂いてしまうとても悲しい出来事でした。
この時代日本人が外国に行くことも出来ませんでした。
無理やり愛する2人を引き裂く悲しい別れ〜今の時代にも語り告がれています。  」         

相手が異邦人ほどロマンスが生まれやすいのかな...^^?
相手がミステリアスである時空でのみ成り立つものが恋・・・?

画像:シーボルト
www.mirokuya.co.jp/ mlmag/archive/vol38.html より Orz〜
画像:稲本たきさん(シーボルト『日本』所蔵)とシーボルトおいねさん2才のときの像
www2.ktarn.or.jp/ ~kenchan//oine.html より Orz〜
「シーボルトのお抱え絵師 川原慶賀の筆になると伝えられる
現在、「シーボルト」の名は意外にも子孫の間では残っていません。
シーボルトの次女がブランデンシュタイン家に嫁ぎ、その息子(かれの名もアレクサンダー)が、飛行船建造で有名なツェッペリン伯爵の娘と結婚して両方の家名を継いでいます
シーボルト家の遺産を受け継いでいるのは、現在このブランデンシュタイン=ツェッペリン家のみとなっています。(現在ツェッペリン家は五代目、シーボルトの玄孫はコンスタンチン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン氏) 」

イネさんは、混血で碧眼の美人だったと伝えられてるようですね・・

遅咲き=長命?

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讀売新聞2009.05.30.編集手帳より Orz〜
「名前を聞くとある年齢が浮かんでくる、そういう人がいる。「昆虫記」のファーブルならば56歳ーーー不朽の名著全10巻の執筆はその年に始まっている ◆ やなせたかしさん(90)ならば54歳ーーー漫画家としてなかなか芽の出なかったやなせさんが、アンパンマンを世に送り出したのはその年である。「てのひらを太陽に」は仕事もろくになかった冬の夜、ランプの電球を手にかざしていて浮かんだ詩であると、以前に本紙で語っている ◆ 森光子さん(89)ならば41歳ーーーなかなか役に恵まれず、<あいつよりうまいはずだがなぜ売れぬ>と嘆きの句も詠んだ森さんが劇作家菊田一夫の目にとまり、初の主役「放浪記」で女優開眼を遂げたのはその年である ◆ 暗い地中に一人じっと根を張った人だけが、やがては太い幹を天に伸ばすことができるのだと、その人たちの人生が語っている。「放浪記」の初演からほぼ半世紀、公演通算2000回の金字塔を打ち立てた森さんに国民栄誉賞が贈られるという・・・」

そうか...遅咲きと呼んでもいいような方々がいらっしゃるんだね♪
たしか、、、ダーウィン(「種の起源」は彼が50歳の時に著したもの)も、アンリルソー(「ルソーの代表作の大部分は彼が税関を退職した後の50歳代に描かれている」)も、そうじゃなかったっけ・・・?わたしの好きな綾小路歌麿さんも・・・「雌伏50年・・・」=鳴かず飛ばず...って言ってましたよね ^^
でもこれらはすべて結果論...だって...生前必ずしも認められることばかりじゃないわけで...
けっきょく自分でやりたいことをして生きるしかありません=やりたいことをするのが生きること...世に受け入れられるかどうかなんて株式相場みたいなもの...誰にもわからない...自分でもなぜ急に売れたのかなんてわからないはず...だと...思うけどなあ...^^;v

画像:アンリ・ファーブル
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン・アンリ・ファーブル より
「ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre、1823年12月21日 - 1915年10月11日)はフランスの生物学者である。昆虫の行動研究の先駆者であり、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。同時に作曲活動をしたことでも知られ、数々の曲を遺し、プロヴァンス語文芸復興の詩人としても活躍している。
・・・
ファーブルが生きていた当時、彼の業績は祖国フランスではあまり理解されなかった。しかしその後『昆虫記』は世界中で翻訳されて注目を浴び、文章の魅力もあいまって業績が評価されていった。ファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりもカール・フォン・フリッシュやコンラート・ローレンツのようなドイツ語圏、あるいはニコ・ティンバーゲンのようなオランダ語圏の研究者に継承されて発展を遂げることになり、また古くからの昆虫愛好文化をもつ日本で広く愛読され、昆虫学の普及に役立った。
・・・
1840年にファーブルはアヴィニョンに滞在していた時に、そこの師範学校で学生を募集していることを知り、入学試験を受け首位で合格する。3年後には師範学校を首席で卒業、小学校上級免状を取得した。その後独学で数学を習得。カルパントラのビクトル・ユーゴー学院で数学と物理学の教師になり、21歳で同じ学院の教師であるマリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと結婚する。この時期に娘と息子を儲けるも、幼いうちに亡くしている。その後コルシカ島の大学に進み数学を研究しながらも、昆虫学に傾倒していく。アヴィニョンに戻ったファーブルは1861年、博物館の館長として働き、同時に研究資金を稼いで大学教授となるための財産基準を満たすために、染料の材料であるアカネの研究に没頭した。そして天然アカネから効率よく染料のアリザリンを抽出し、精製する技術開発で大きな成果を挙げる。この成果でファーブルはレジオンドヌール勲章を得ることになる。しかしこの研究成果に基づく工業化は、ほぼ同時にドイツで人工合成に成功し、工業化された合成アリザリンとの競争に敗れ、事業からの撤退を余儀なくされた。1863年、アヴィニョンのサンマルシャル礼拝堂で市民を対象に「植物はおしべとめしべで受粉をする」という原理を説明するも、参加者のほとんどが女性であったことから大きな非難を浴びた。その後政界や教育界からの圧力により、彼は教壇を降りることとなる。・・・教員を辞めさせられると、彼の講義を受けていた生徒たちは置時計を記念に贈呈した・・・。その後、家主にも追い立てられたファーブルは、住み慣れたアヴィニオンを出てセリニアンに移り住む。ファーブルは大きな試練に立たされるが、『昆虫記』の執筆に注力するのはこの後のことである。セリニアンに移り住んで後に最初の妻を病気で失い、23歳の村の娘ジョゼフィーヌと再婚する。3人の子に恵まれ家族は8人の大所帯となる。セリニアンの自宅には1ヘクタールの裏庭があり、ファーブルは世界中から様々な草木を取り寄せて庭に植え付けると共に様々な仕掛けを設置した。老衰で亡くなるまで36年間、彼はこの裏庭を中心として昆虫の研究に没頭した。この時期にファーブルはオオクジャクヤママユの研究から、メスには一種の匂い(現在でいうフェロモン)があり、オスはその匂いに引かれて相手を探し出すということを突き止めた。試しに部屋にメスのヤママユを置いて一晩窓を開けていると、翌日60匹ものオスのヤママユが部屋を乱舞したという。ファーブルは高齢になると年金による収入がなく、『昆虫記』ほか科学啓蒙書の売れ行きも悪かったため、生活は極貧であったと言われている。このころヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動が起き、1910年、当時のフランス大統領ポアンカレはファーブルに年2,000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与えた。当時85歳を超えていたファーブルは健康を損なっており、横になったままの時期が多くなっていく。1915年5月、ファーブルは担架に乗せられて、アルマスの庭を一巡りする。これが彼にとっての最後の野外活動となってしまう。そして同年10月11日、老衰と尿毒症で92歳で亡くなった。葬儀のときファーブルの眠る墓にどこからともなく、虫が寄って来たという逸話が伝えられている。
・・・
進化論への批判
ファーブルは、他方で進化論に対して非常に強く反対意見を持っていた。『昆虫記』の中で、再三そのことに触れており、特にチャールズ・ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンの観念的な進化論には強い批判を記している。ファーブルはチャールズとは親交があり、チャールズも彼を「たぐいまれなる観察家」と高く評価したが、彼は進化論への批判をやめなかった。
・・・
パスツールとのやりとり
1865年に微生物学者のルイ・パスツールが蚕の病気の研究を行うことになったとき、ファーブルを訪ね、蚕についての基礎知識を得たという。ところが、パスツールはその時まで蚕の繭は蚕の幼虫が蛹になるために作るものだと言うことすら知らず、繭の中に蛹があることをこのとき初めて知ったので、ファーブルはたいそう驚くとともに、そこまで基礎知識を欠きながらも蚕の病原体の研究に挑もうとする蛮勇にむしろ感動したと昆虫記の中で述べている。
・・・
ファーブルの知名度
アヴィニョンには現在ファーブルの功績を称えて、Rue Henri Fabre(アンリ・ファーブル通り)と名のついた道があるほか、パリにも蚤の市で有名なクリニャンクール Clignancourt に Rue Jean-Henri Fabre 通りがある。だが、皮肉なことにそれら道を行き交うほとんどの人が、「アンリ・ファーブル」が誰であるか知らないと言われている。さらに、ほとんどのフランス人はファーブルが何者であるかを知らない、とも言われている。

画像:サン・レオンのファーブルの生家と銅像

また、ファーブルの生地であるサン・レオンにはファーブルの功績を称えて銅像が立てられているが、この銅像は第二次世界大戦時に進駐してきたナチス・ドイツによって、武器の材料として接収されたことがある。しかし、その後レジスタンスによって奪還されて地中に秘匿され、今は彼の生家の庭にたたずんでいる。なお、日本、韓国、ロシアなどではファーブルの『昆虫記』を題材にした子供用の本が発行されていて、読まれ、彼の名は一般大衆に広く知られている。しかし、フランス、ドイツ、英米などではそういった本はなく、彼の名はそれほどよく知られていない。日本語ではなぜ「アンリ・ファーブル」と呼ばれるようになったかは、現在不明。」

ピカソといい好きなことを続けてると(それができれば)長命でいられるのかも知れないね♪

菊池寛急逝の夜

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讀売新聞 よみうり堂 本 欄より Orz〜2009.05.17.

「菊池寛急逝の夜 菊池夏樹 著
文芸春秋を創設し、芥川・直木賞をつくった菊池寛は「日本の社会の偉大なプロデューサー」だったが、『真珠夫人』など人間の俗情に通じた小説も一流で、今年生誕100年の松本清張と、太宰治は、いずれも若き日に寛の小説を愛読している。本書では、その人間像に、孫である著者が迫る。愛人を囲ったかと思えば、女性の社会進出を促す紳士。帯がほどけたまま歩くなど自分のことには無頓着だったが、困った人がいると、ポケットからしわしわのお金を出す他人思い・・・・・・。将棋、卓球を楽しみ、競馬に入れあげ、大いに仕事し、遊ぶ一流の生活者だった。
妻に浮気をとがめられ、「六十歳になったら、マジメになります!」と宣言するが、59歳で死去。著者の叔母は「お父さんの勝ちだよね」と笑ったという。(白水社、2000円) (鵜)」

これいいな...♪
自分の死期がわかってたのか...だとしたらなかなかの策士だね...^^

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011298390 より Orz〜
「伯父 叔父 伯母 叔母の使いわけ
伯父
叔父
いずれも父・母の兄弟、またはおばの夫という意味ですが、父・母の兄には「伯父」、
弟には「叔父」と書きます。

伯母
叔母
いずれも父・母の姉妹、またはおじの妻という意味ですが、父・母の姉は「伯母」、
妹には「叔母」と書きます。」

著者の叔母ってことは、、、菊池寛の娘ってことだよね...^^;...わたしこういうの全くの苦手...

画像:大正8年の写真、一番左が菊池寛で、隣が芥川龍之介
http://ja.wikipedia.org/wiki/菊池寛 より
「香川県香川郡高松(現・高松市)生まれ。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったという。高松中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の東京高等師範学校に進んだものの、授業をサボタージュしていたのが原因で除籍処分を受けた。
しかし地元の素封家から頭脳を見込まれて経済支援を受け、明治大学法学部に入学。法律を学んで一時は法律家を目指したこともあったが、一高入学を志して中退。徴兵逃れを目的として早稲田大学政治経済学部に籍のみ置き、受験勉強の傍ら、大学図書館で井原西鶴を耽読した。
1910年、早稲田大学を中退して第一高等学校第一部乙類入学、しかし卒業直前に友人佐野文夫(後年の日本共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学。その後、友人成瀬正一の実家から援助を受けて京都帝国大学文学部英文学科に入学したものの、旧制高校卒業の資格がなかったため、当初は本科に学ぶことができず、選科に学ぶことを余儀なくされた(後に本科への転学に成功する)。京大卒業後、時事新報社会部記者を経て、小説家となる。私費で雑誌『文藝春秋』を創刊したところ大成功を収め、富豪となった。日本文藝家協会を設立。芥川賞、直木賞の設立者でもある。大映初代社長を務める。これらの成功で得た資産などで、川端康成、横光利一、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助をおこなった。テレビドラマ『真珠夫人』は、彼の作品が原作であり、長らく絶版となっていたが、2002年のテレビドラマ化に伴い復刊された。1927年、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補したが、落選した。麻雀や競馬に熱中していたことでも知られ、日本麻雀聯盟初代総裁を務めたり、馬主として競走馬を所有したりしていた。また将棋にも関心があり、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。競馬では『日本競馬読本』は競馬入門本として現在でも評価が高い。また、戦前は多くの有力馬を所有しており、能力検定競走として軍人や関係者約200名のみが観戦した1944年の東京優駿も、所有馬トキノチカヒを出走させていた事から観戦している。
太平洋戦争中、文芸銃後運動を発案し、翼賛運動の一翼を担ったために、戦後は公職追放の憂き目にあい失意のうちに没した。(* 狭心症だったらしい...狭心症じゃ死なないから...心筋梗塞かな...?)
菊池寛の麻雀賛
「とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人と云はなければならないだらう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとは云へない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。そこが麻雀の面白みであらう。しかし、勝敗の数は別として、その一手一手について最善なる打牌を行う人は結局名手と云はなければならない、公算を基礎とし、最もプロパビリティの多い道を撰んで定牌に達し得る人は名手上手と云へよう、しかしさうした公算に九分まで、準據ししかも最後の一部に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは麻雀道の玄妙が存在してゐるのかも知れない。最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだらう。あらゆるゲーム、スポーツ、がさうであるが如く、麻雀、も技術より出で、究極するところは、人格全体の競技になると思ふ。そこに、麻雀道が単なるゲームに非る天地が開けると思ふ。」大正時代の中期から麻雀をやり続け、かなり強かったそうであるが、自分が負けると、ムッとして黙り込んでしまい、「くちきかん」と陰口を言われたそうである。
その他
高松市には「菊池寛通り」の愛称が付けられている市内道路があり(この通り沿いに生家があった。2006年まで第一法規四国支社があった場所)、その道路近くの中央公園には銅像が建っている。この通りは元々「県庁通り」と呼ばれていたが、1988年に香川県庁舎に面する香川県道173号高松停車場栗林公園線が「県庁前通り」と命名されたことに伴い改名したものである。
両性愛者の傾向があり、若い頃は旧制中学時代から4級下の少年との間に同性愛関係を持っており、この少年に宛てて女言葉で綴った愛の手紙が多数現存する。この少年との関係は大学時代まで続いた。一高卒業を目前にして、友人佐野文夫の窃盗の罪を着て退学の道を選んだのも、佐野に対する同性愛感情が関係していたからであるといわれる。また正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の一人に小森和子がいる。小森はあまりに易々と菊池に体を許したため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。
1977年9月の座談会「戦争と人と文学」(平凡社『太陽』第174号)における巌谷大四や井伏鱒二の発言によると、菊池は着衣のあらゆるポケットにクシャクシャの紙幣を入れており、貧乏な文士に金を無心されるとそれを無造作に出して、1円当たる人もいれば5円当たる人もいたという。菊池と旅先で出会った井伏と尾崎士郎の場合は、金ならありますと言っているのに「金がないんだろう、金やろう」と紙幣を押しつけられそうになった。永井荷風はそういう菊池の言動を嫌悪し、日記「断腸亭日乗」の中で散々にこきおろしている。
人材の発掘にも優れていた。文芸春秋社の映画雑誌の編集をしていた古川郁郎という青年が、余興に演じる芸が上手いので喜劇役者になるように勧めた。古川青年は喜劇俳優「古川ロッパ」として成功した。
出版社「ジュリアン」の代表取締役である菊池夏樹は、菊池寛の孫に当たる。・・・」

画像:www.honya.co.jp/contents/ archive/kkikuchi/ より Orz〜
「いま、菊池寛について深く語れる人間は少ない。
「父帰る」「藤十郎の恋」などの戯曲、「恩讐の彼方に」などの短編を一度は読んだことがあるという人ならたくさんいるだろう。「文芸春秋社」の創業者、「芥川賞」「直木賞」の創設者であることを知識として記憶している人も少なくはない。しかし、菊池寛という人間の「面白さ」「革新性」を、時代という文脈の中で語れる人間はほとんどいないのではないだろうか。彼が、大正・昭和を通して、「ジャーナリズム」と「映画」という新しいメディアの創出に大きく関わった事実を、多くの人々は知らない。インターネットの時代になぜ「菊池寛」なのか。それは、彼の言動と行動、足跡を追うことで理解していただきたい。例えば、私たちが菊池寛に取り組むきっかけとなったメッセージ「*『文藝春秋』創刊の辞」に何かを感じないだろうか。個人主義という視点からメディアを生み出していった「菊池寛」の人間像を、これから私たちは丁寧に追いかけてみたいと思う。1997年2月10日」

*「『文藝春秋』創刊の辞
私は頼まれて物を云うことに飽いた。自分で、考えていることを、読者や編集者に気兼なしに、自由な心持で云って見たい。友人にも私と同感の人々が多いだろう。又、私が知っている若い人達には、物が云いたくて、ウズゝしている人が多い。一には、自分のため、一には他のため、この小雑誌を出すことにした。」

画像:真珠夫人
Amazon より Orz〜
「驚異的な視聴率をとった昼メロの原作
美貌の未亡人瑠璃子が、男性のエゴイズムに復讐しながら、最後は彼女を慕う青年に殺されるまでを描いた長篇小説。解説・川端康成 」

これは小説嫌いのわたしにでも読めるかもしんない...^^v♪

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亀にまつわる話

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大龍宝さんから教えてもらった「ロンリー・ジョージ」を調べてて、、、以下のおもしろいサイトを見つけました♪

http://homepage.mac.com/naruaki_sasaki/2004/C/02_text_kame_01.html より Orz〜

「カメとアメリカン・ドリーム ~バルボアの裏切り~ カメののろい
突然ですが、世界で一番多くの人が知っている有名なカメといえばなんでしょう?
それは、乱獲のすえ、日本産トキの様にガラパゴス本島に最後の1匹として生存しているガラパゴス本島象ガメのロンリー・ジョージ。ガラパゴス諸島の象ガメはその島ごとに 種が異なっているので、最後に残った本島の象ガメはジョージだけなのだが、彼ではない。
世界で一番多くの人が知っている有名なカメ、それはカフとリンクという名前を付けられ たフェアデルフィアのアパートで飼われているカメで、その飼い主の名前はイタリア系移 民の末裔バルボアという男だ。もっとも、バルボア氏は実在した人物ではない。彼は映画の中に登場した人物で、フルネームをロッキー・バルボアという三流ボクサーだった。そう、あの映画「ロッキー」のロ ッキー・バルボアであり、映画の中でロッキーが飼わっていたカメの名前がカフとリンク なのだ。映画の話なら「忍者タートルズ」の方が有名?そうではない。あれはかぶりモノ なのだから。
・・・今となっては、どうしようもないハリウッドアクション映画の生き神様になってしまったシルベスタ・スタローンだが、彼が脚本を担当したデビュー作「ロッキー」は、その言葉の妙をもって見る人を惹きつける名作といえる。古くからボクシング映画というスタイル はハリウッド映画の十八番(おはこ)なのだが、「ロッキー」は、興業的実績だけでなく、 その作品で扱われた、人間の苦悩とか、夢、尊厳といった、おきまりながらも、やはり感動してしまうテーマを表現した作品として成功を収めている作品といえる。***「ロッキー」の中でカメは、彼の孤独で、うらさびれた生活の象徴として登場する。場末の掛け試合のリングに上がり、試合には勝っても、誰からも賞賛されることも、ねぎらいの言葉もかけてもらえないロッキーが、微々たる報酬を手に入れて、汚い自分のアパー トに帰宅する。誰も待っていないアパートに着いたロッキーが、腫れ上がった顔を冷蔵庫の氷で冷やしながら、飼っているペットのカメに、今日の試合のことをあれこれと話しかけるている。カメのカフとリンクは、3流ボクサーの生活のひとりぼっちの生活の惨めさを描く小道具として、大きな意味をもっている。つまりこのペットのカメは出口のない貧乏や絶望感の象徴なのだ。さらに、このペットのカメはこの映画の中で、もう1つの大きな役割をもっている。それは主人公ロッキーが恋してやまない、街のペットショップで働く、同じイタリア系移民の末裔エイドリアンを結びつけているのだ。ロッキーはエイドリアンに会う口実として、 週ごとにペットショップにカメの餌を買いに行き、この前の餌は喰いが悪かったなどと、 カメを口実にエイドリアンに話かけるのだ。その上、はじめてエイドリアンとデートした日、彼女が働くペットショップで買ったカメなのに、珍しいペットがいるから見ていかないかと、彼女を部屋に呼び入れる口実としてカメを持ち出すのだった。そんなわけで、ロッキーに飼われているカメのカフとリンクは、この映画における大きな要素の1つとして登場しているわけだ。そしてペットのカメの持つ意味は貧乏と孤独と 絶望なのである。ご存じの通り、ロッキー・バルボアの物語は、絶望的状況から始まり、幸運の女神の様な愛する女を手に入れた無名ボクサー男が、アポロ・クリードというチャンピオンと対戦する偶然与えられ、やる気を出してチャンスを活かして成功するというアメリカン・ドリ ームの物語である。その出発点である絶望的状況のシンボルとしてカメが登場しているわけだが、そんな状況から運が廻ってきて、やる気をだした段階になると、カメの描写は皆無となる。そして、 エイドリアンが連れてきたペットの大型犬にその地位を奪われる。カメと話すロッキーの シーンを思い出せない人でも、勇ましいテーマ曲にのってロッキーが犬と街を走っている シーンは思い起こせるのではないだろうか?その後いろいろあるのだが、このロッキー1で登場したカメは、その後のシリーズでは、 どこにいったのか、死んでしまったのか、忘れ去られた様に出てこなくなる。絶望的状況 のシンボルとしてのカメは犬に、犬は息子に、そして陳腐なロボットへと転化され、シリ ーズの最後では若くて有能な弟子のボクサーへ変わっていく。詐欺にあって財産を失い、 貧困の街に戻るハメになったロッキーは、最後には、その弟子にも裏切られてしまううの がこのシリーズの結末だ。エイドリアンは最初のペットショップでのパートを余儀なくさ れる。実現されたアメリカン・ドリームは最終的には崩壊するわけだが、確かにアメリカン・ ドリームの成功者のペットとしてカメは不釣り合いに思える。成功したロッキーはカメを 手放したのだろうか?それとも、忙しかったり、犬の世話で忘れてしまい死なせてしまっ たのだろうか?いずれにせよ、ロッキー・バルボアはカメのカフとリンクを裏切ったので ある。そのバツとして、全てを失い最初のスラムに戻るハメになったとすれば、カメを裏切った代償は大きすぎるし、恐ろしいものだ。(2001/01/12)」

おもしろい!おもしろすぎる切り口だなあ♪
次の話「亀のイコン性」もおもろい ^^v

「・・・この弱い、逃げるという点において、私はガメラが好きでした。この逃げる、戻ってくる という構造は、こうらの中に引きこもってしまう、大丈夫そうかなと、おそるおそる顔を 出すといったカメの性質から発想されたものなのか定かではありませんが、私にとっては、 まさにそのカメ的性質そのままのストーリー展開に思えました。巨大なカメを前に、多くの人々が、やった、顔を出したといって大喜びしているという、めちゃくちゃ間抜けな映画なのです。
このガメラの他に、私がカメが好きになったカメのメタファーのつに、天動説を描いた図像に登場するカメがありあす。天動図というと、不動のものとしての世界があり、その不 動の世界を中心に天上に広がる宇宙が動いているという旧世界で信じられていた世界観を表す図像ですが、その不動の大地を支えるベースとしてカメが大地を支えています。これは、動かないもの、永遠の生命、永続性のシンボルとして、その支柱としてカメを選んだ作者のイメージというか、過去から現代に渡って、かわらないカメというメタファーに思 えます。(2001/01/07) 」

「ドラゴンボール」の亀仙人はまさにピッタリなモチーフキャラで違和感ないもんなあ...^^v
画像:亀仙人
883861saosu.at.webry.info/ 200706/article_8.html より Orz〜


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