アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

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Three Graces

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三美神

とにかく女体は美しい。画家達は、すぐそばでデッサンしたんですよね〜(^^)
ルーベンスの絵にまつわる話を読んでも、男らは女らを美しいと感じるように作られてるはずだし、その強いリビドーが創造性の源泉になるようですね!ピカソもオイラーも多作だったけど、彼らは子供もたくさん作ってるよ!(^^)

「ゼウスとエウリュノメの間に生まれた三人姉妹で、エウプロシュネ(歓喜・祝祭)、タレイア(花のさかり・喜び)、アグライア(光輝)と呼ばれ、喜びと平和を人々に広めた。
彼女らはまた、「愛欲」、「純潔」、「美」を表すとも考えられた。
左端が官能的な「愛欲」の化身、中央は「純潔」、右端が「美」の化身であるという。
「愛欲」と「純潔」は対立する、相反する性質を持っているが、「美」によって和解させられ、統一させられる。
我々の内面には、この「愛欲」「純潔」「愛」があり、それぞれバランスをとりながら生きているのである。
三美神がいつも三人で描かれるのも、こういう訳があるのである。
三美神はたいてい、裸体で描かれ、互いに抱き合っている。」

http://art.pro.tok2.com/Greek/Graces/Graces.htm

画像:上:he Three Graces. c.1503-1504. Oil on panel. Conde Museum, Chantilly, France ラファエッロ Raphael.

   中:he Three Graces. c.1636-1638. Oil on canvas. Museo del Prado, Madrid, Spain リュベンス Peter Paul Rubens.

「46歳で最初の妻イサベラを亡くしていたリューベンスは、53歳のとき、チャールズ1世からナイトの叙爵を受けた後、近くに住む友人のタピストリー業者ダニエル・フールマンの17歳の末娘エレーヌと再婚しました。彼女は先妻のイサベラの姪でもありましたから、どこか亡き妻の面影があったのかも知れません。老年にさしかかろうとしていたリューベンスにとって、この年若い妻との生活は本当に穏やかで幸福に満ちたものだったようです。
 最晩年の画家の心に再び輝きと、描くことへのみずみずしい喜びを与えたエレーヌは、いわば彼の女神のような存在だったことでしょう。彼女がリューベンスの悲しみを癒し、豊饒な霊感の源となってくれたことは、この三美神のおだやかな笑顔を見ても、十分に伝わってくるのです。」

(「三美神」http://www.asahi-net.or.jp/~rv3m-stu/pic435.htm

   下:The Tree Graces. c. 1885. Pastel. Carlisle Art Gallery エドワード・バーン=ジョーンズ Sir Edward Burne-Jones.

   最下:「三人の浴女 III」 Les Trois Baigneuses III エッチング、1922/23年 パブロ・ピカソ
Pablo PICASSO

「キュビスムを経た新古典主義様式時代の作品。「美」や「愛」を象徴する「三美神」の図像はルネッサンス期の定番モチーフで、ラファエロらによる作品が知られる。この作品では右端の女性に片足を上げさせることにより全体のバランスが崩されており、そこにピカソらしい奔放さが良く表されている。」

(西洋版画の部屋 http://www.mmjp.or.jp/art-u/contents/hanga/hanga/picasso.html

ラファエロの絵もシンプルだけど、バーン・ジョーンズの構図気に入りました。。。
彼の絵のお気に入りはまたいずれ。

裸のマハ

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これも本物に会いに行きたい絵だなあ。(^^)
かわいいし、体が綺麗!やはり、今の写真がない時代なんだから、綺麗なものは残しておきたいはずだよね!今の私たちならごく普通の感情。でも、その時代にはとても勇気がいったみたい。思想、建前よりも自らの欲望により忠実な人がいたからこそ、こういう素晴らしいものが、残ってるわけだ!ありがたいことじゃあないですか。たいていは、悪と考えてることは自分で殻を作る。悪徳に敢えて挑戦する輩がいて、初めて、それまでの悪が目の前にさらされることにより、みんなの思ってた悪が亡霊にすぎないことだったと目覚めさせる契機になる。自らの欲望に素直であることが今まで信じていたものの偽りを暴くことに通じるんだ!?

「・・・
今からおよそ200年前・・・、スペインの首都、マドリッド。裁判の為にその絵が引きずり出された時、人々は目を覆ったことでしょう。それは、はじめての衝撃だったからです。それまでも女性の裸体を描いたものはありました。でも、それはあくまでも神話や天上の世界を写したものでした。特にカトリック国のスペインでは戒律が厳しく、女性の裸などもっての外、その存在さえ許されない、そんな風潮でした。
ゴヤより前、ベラスケスの『裸のヴィーナス』、これもあくまでも女神を描いたものです。しかも背中だけ。ところが、『裸のマハ』。そこには紛れもなく生身の女が横たわっていました。全てをさらけ出して・・・。ゴヤが訴えられたのは、『裸のマハ』を描いてから14年後のこと。その時、ゴヤは、68歳でした。
マハとは、いなせな女、ちょっと小粋な女と云うような意味です。かつては、伊達な格好をして自由奔放に生きた女性をそう呼びました。ちょっと小粋で、自由奔放に生きた人・・・。このマハはいったい誰だったのでしょう。その最大の謎に迫るには、まず、この絵が誰のために描かれたのかを、知らなければなりません。・・・
この絵もまたある男から依頼されたものでした。ゴヤは誰の為に『裸のマハ』を描いたのか?その話をするのにちょうどいい絵があります。国王の家族を写したこの絵・・・13名もの人が描かれている中で、国王を押しのけるように中央に立ち、こちらを睨みつけている王妃マリア・ルイーサ。彼女は、政治に興味を示さない国王に代わり、最高権力者として君臨していました。そして、あらゆる欲望を果たしました。両脇にいる幼い王女と王子は国王の子ではないと云われています。では、その父親とは・・・?
ゴヤは、その男の肖像画も描いています。・・・王妃の寵愛を後ろ盾に、25歳という若さで首相になったマヌエル・ゴドイ。
マドリッドの中心、王宮から道路を挟んで向かい側・・・、そこに当時の首相官邸、ゴドイの暮らしていた邸宅が残っています。『裸のマハ』は、その奥まっった部屋の壁にかけてあったと云います。
マハは誰なのか?描かれた頃から、それは謎でした。マハの顔はゴヤの描いたどの女性とも似ていないのです。そして、ゴヤ自身もモデルについての記録を一切残していないのです。
国立歴史文書館。では『裸のマハ』はどのような目的で描かれたのか、そのヒントがここに眠っていました。探し出してもらったのは、マハの依頼人、時の首相、マヌエル・ゴドイの財産目録です。その中に記されていた興味深い一文。ゴヤ・・・、裸の女と、もう一つ、着衣の女。そう、『着衣のマハ』、この絵も『裸のマハ』と共にゴドイが所有していたのです。それが何を意味しているのか?

当時の首相官邸、その奥まった部屋の壁に密かにかけられていた二枚のマハ。でも、それは並べて飾られていたわけではありませんでした。それを鑑賞する為に、ちょっとした工夫がなされていたのです。まず、『裸のマハ』、『着衣のマハ』はそれを覆うように飾られ、そして二枚は交互に入れ替えられるようになっていました。
着ていた服を・・・、脱ぎ捨てる女・・・。
『着衣のマハ』と『裸のマハ』を比べてみましょう。まるで誘い込むかのような目でこちらを見つめ、ジプシー風の薄い衣装を身にまとい、いかにもしどけなく身をよじる『着衣のマハ』。一方、腰から上の力が抜け、満ち足りたように横たわる、『裸のマハ』。着衣の時はリボンで結ばれていた髪が、裸体ではリボンがほどけ、乱れています。まるである時間が経過したことを表しているような二枚のマハ・・・。
時の首相に依頼され、まるで春画のようにマハを描いたゴヤ・・・、でもゴヤは依頼されたから仕方なく描いたのでしょうか?いいえ、『裸のマハ』、そこにはゴヤの人知れぬ苦悩と、そして迸らんばかりの熱い情熱が隠されていました。
スペインの南の果て・・・、大西洋の波がうち寄せる街、カディス。ここに滞在していたゴヤが地獄を味わうのは、彼が46歳の時でした。地位も名誉も、そして財産もその手にしたゴヤ・・・。しかし、カディスで、ゴヤは突然の激しい発作に襲われます。幾晩も原因不明の高熱が続きました。意識は遠ざかり、悪夢ばかりにうなされる。そして、何日目か、ようやくその高熱が引いた時・・・、ゴヤの耳は、完全に音を捉える能力を失っていました。46歳にして失った音・・・、ゴヤには、周囲の風景さえ、全く違ったものに見えたことでしょう。
宮廷画家ゴヤが思わぬ冒険を始めるのはその後ででした。誰に依頼されたわけでなく描いた版画集をマドリッドの下町で売り出すのです。その名も『気まぐれ』。でも、それはわずか一日で発禁処分となりました。無理もありません。そこに描かれていたのは、その系図を自慢げに見せるロバ。そう、この絵でゴヤは貴族を笑ったのです。耳の能力を失ったからこそ、ゴヤには、きらびやかな衣装の裏側に潜む真実が見えたのかもしれません。
  正にその頃でした。ゴドイ首相が密かにゴヤにあの依頼をします。・・・「女性の裸を描いてくれないかね」
断ることも出来たはずです。地位も名誉も失ってしまうかも知れない禁断の作業です。事実、その頃、ベラスケスの後ろ向きのヴィーナスでさえ、その存在は公にはなっていませんでした。個人の屋敷の奥深くに隠されていたのです。
しかし、それでもゴヤは、危険を覚悟でこの絵を描きました。着飾った上辺だけの美しさではなく、無垢の本当の美しさを描く為に・・・。でも、やはりそれは禁断の果実でした。スペインではじめてと云っていい生身の女性の裸体画、それはこの国にあってはならないものだったのです。結局、宮廷の有力者から手を回してもらったのか、ゴヤ自身の判決はウヤムヤになりました。
でも・・・、マハは裁きを受けました。異端審問以来、誰の目にも触れないよう、この絵はある倉庫に封印されたのです。
ゴヤは、82歳まで生きました。音の失われた世界で、彼は考え続けていたのかもしれません。絵とは何なのか、画家の使命とは何なのか?
マドリッド郊外のサン・アントニオ教会。夢だった宮廷画家のトップとなり、でも、その地位と名誉を賭けてまで真実を描こうとした男はここに眠っています。自らの描いた天使たちに囲まれ、偉大な芸術家として・・。
彼女の封印が解かれたのは、ゴヤの死の73年後、1901年のことです。そして今、かつて淫らと云われた絵を求め、世界中から人々がやってきます。・・・」

(美の巨人たち http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/000617.htm

画像:上:裸のマハ 1800年
   下:着衣のマハ 1801-1803年

「初めて女性の裸を見たときのこと、覚えている?
・・・そうみたいね。なかなか思い出せないものらしいわね。
でも、きっと神秘とか憧れとか、不思議な感覚だったんじゃなくて?
その気持ち、思い出してみない?・・・プラド美術館に行きましょう。
ゴヤの「マハ」はきっとあなたを少年の日に帰してよ。

あなたったら。さっきまでのはしゃぎっぷりは何処に行ってしまったの?
・・・「裸のマハ」はあなたみたいな人も、見事に虜にしたようね。 
 お行儀がよいとは言えないポーズに、 
 左右に大きく開いた、形が良いとも言えない乳房、 
 気品があるとも美人とも言えない顔立ち、
決してモデルを美化したりはしないゴヤの筆に、何て人間的に「マハ」は描かれているんでしょう。

神格化した女性の裸、つまり造られた理想の女性の裸、余りに整った女神の裸しか目にした事のない当時のスペイン市民には、陰毛まで描かれたあけっぴろげなマハのヌードは大変な衝撃で、裁判沙汰にまでなったんですってよ。

その横は「着衣のマハ」。「裸のマハ」と同じポーズで、面白いでしょ?
「裸のマハ」の注文主の宰相ゴドイが、カモフラージュのために後年描かせたと一般には言われてるわ。
「着衣のマハ」の裏に「裸のマハ」を飾ったとか、俗説は多いけど。
え?二つのマハの顔が全然違うって?・・あたしもそう思っているのよ!

マハのモデルはゴドイの内縁の妻、若いぺピータか、宮廷の華でゴドイの愛人・またゴヤの愛人でパトロンのアルバ女侯爵か、この二つの定説で今のところは論争されているわ。
あたしはね、「裸のマハ」がぺピータで、「着衣のマハ」の顔がアルバ女侯爵だと思っているの。
顔も「裸のマハ」よりも遥に似ているしね。

「裸のマハ」はあたし、エロティシズムよりも、健全な愛らしさを感じるの。
完璧じゃないボディをリアルに描く事で、モデルの全てを受け入れてる。
ゴヤからの最高の女性賛美だと思うわ。

一方、「着衣のマハ」こそにあたしは真のエロスを感じるのよ。あら、あなたも?
腿の間、生殖器に張り付くような薄絹を纏って、嫣然と微笑むマハ。
同じ表情のようでも、「着衣のマハ」の方が頬の赤味が強いし、「あたしの身体は美しいでしょ?」とばかりの「裸のマハ」の満足げな目線に対し、「着衣のマハ」の恥らうような表情と視線の強さ、まるで、今にも目の前の筆を持った画家が、いつ自分に覆い被さってくるかを期待し、恐れているような緊張感が伝わるわ。
そこには50歳のゴヤを狂わせた、アルバ女侯爵との逢瀬の日々が見えてこないこと?
この表情は特別な男にしか見せないものよ。・・・判るの。同じ女だもの。
ええ。情事が始まる直前の、彼女の胸の高まりが聞こえてきそうよ!

「裸」の後にどうして「着衣」だって?
そうねえ。・・・これは想像だけれど、若いぺピータの身体に、アルバ女侯爵の若い日をゴヤは見たんじゃないかしら。
そして、今目に浮かぶアルバ女侯爵の最も美しかった姿は、湯上りの肌にトルコ風の絹を纏うその風情・・・
「裸のマハ」の身体の上に白い絵の具を塗りつける作業は。
ゴヤにとって愛撫にも等しい、いいえそれ以上の心地だったでしょうね。

ねえ、来たばかりだけど、あたし帰りたくなったわ。
あたしね、あなたを描きたくなったのよ・・・あら、あなた、どうかして?
え?初めて覗き見したポルノグラフを思い出したって?
まあ!男の方ってこれだから!
ええ・・・「芸術ってそんなものよ」って、確かにあたし、言ったけれど。

朝比奈マリー スペイン プラド美術館にて 2003.11.01 」

全て引用してしまいました。。。(^^; Orz〜

(エロティックな巨匠たち|マハのほほえみ http://www.tamagoya.ne.jp/mm/eros/20.htm

鏡を見るヴィーナス

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写実的な裸婦像ですよね!
肌がま白く輝いてる。曲線美が今の私たちの感覚とマッチしてる。
彼は、描き残したかったんだ。彼女こそが彼のヴィーナスだったんだから。

画像:上:鏡を見るヴィーナス (ディエゴ・ベラスケス)

「・・・
あまりに真に迫る裸婦像のため、100年程前、この名画が過激なフェミニストの女性によってずたずたに切られる事件まで起きた程です。現在は修復され、今再び、人々を魅了しています。
・・・
29歳の時、ベラスケスは王から美術収集の命を受けイタリアに行きます。約1年間の滞在で、彼はルネサンスの巨匠、ティツィアーノに心を揺さぶられます。描かれていたのは裸のヴィーナス。

若きベラスケスにとって衝撃的なものでした。当時、スペインのカトリック教会は非常に厳格で、裸婦を見ることも描くことも禁じており、裁判にかけられ地位も名誉も奪われかねませんでした。

しかし、ベラスケスはスペインよりも自由なイタリアの芸術を知ってしまったのです。

帰国後、彼は裸婦像を描く事はありませんでしたが、それから20年後、再びイタリアの地を踏んだ時、スペインでは許されざる絵画、『鏡を見るヴィーナス』を描いたのでした。

イタリアでの生活は暗い王宮から離れ、王の機嫌をとる必要もありません。当初の滞在予定の1年間が過ぎても、ベラスケスは王宮に戻ろうとしませんでした。全てを捨て去り、新たな人生を歩もうとするかのように。

 実は、イタリアにはこのヴィーナスのモデルが実在したのです。青いほどの白さにうっすらと赤みが加えられた肌から触れたときの滑らかさまで伝わるような質感。官能的に描かれたヴィーナスのモデルの女性とベラスケスは、非常に親密な関係にあったことが推測されます。

名前すら分からないが、彼女はベラスケスの愛人であり、彼女との間にアントニオという子供までもうけていたのでした。

しかし、ベラスケスは全てを捨てきれませんでした。だからこそ絵の中で彼女に背を向けさせ、顔が映った鏡もぼかし、その存在を隠しました。

謹厳実直と言われた王の画家のジレンマはこの絵を見る私達にも感じられます。誘惑に負けてしまいたい本能、しかしそれは許されない理性。

ベラスケスは予定より1年遅れて帰国します。王の強い命令により、アントニオが生まれる前に帰国せざるを得ませんでした。
・・・
透き通るような白い肌、露わにされた滑らかなラインを。画家に一時の夢を見せてくれた女性を。それは、王の画家が犯してしまった、たった一度のスキャンダルである。」

(美の巨人たち http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/051022.htm

画像:中:ウルビノのヴィーナス 1538 ウフィツィ美術館 (ティツィアーノ・ヴェチェッリオ)

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )
「ジョルジョーネの代表作とされる『田園の合奏』、『眠れるヴィーナス』などは、夭折したジョルジョーネが未完のまま残していた作品をティツィアーノが完成させたものだといわれている。」

画像:下:眠れるヴィーナス(1510) (ジョルジョーネ)

草上の昼食

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(エドゥアール・マネ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

「 西洋の近代絵画の歴史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、最近の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられることが多くなっている。
・・・
マネは1832年、パリのブルジョワの家庭に生まれた。父は司法省の高級官僚であった。はじめ海外航路の船員となるが、1850年、18歳の時に画家になることを決意し、当時のアカデミスムの大家、トマ・クーチュールに弟子入りする。1861年、サロン(官展)に『スペインの歌手』が初入選する。マネの画風はスペイン絵画やヴェネツィア派の影響を受けつつも、明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、近代絵画の到来を告げるものである。

代表作の『草上の昼食』と『オランピア』はいずれも激しいスキャンダルを巻き起こした作品として知られる。1863年の落選展に出品した『草上の昼食』は、戸外にいる正装の男性と裸体の女性を描いたことから、不道徳であるとして物議をかもした。

しかし、さらに大きなスキャンダルとなったのは、2年後の1865年のサロンに展示された『オランピア』であった。この作品に描かれた女性は、部屋の雰囲気や道具立てなどから、明かに当時のフランスの娼婦であることがわかり、それが当時の人々の反感を買った。西洋絵画の歴史において裸婦像は数多く描かれてきたが、それらはあくまでもただの「裸婦」ではなく、ヴィーナス、ディアナなど神話の世界の「女神」たちの姿を描いたものであった。しかし、「草上の昼食」と「オランピア」に登場する裸婦は、当時のフランス社会に生きる生身の女性を裸体で描いたため、「不道徳」だとされたのである。

しかし、マネの絵画の抱える問題は、そのような社会的なものに留まらず、むしろ造形的な問題へと発展する。それまでの西洋絵画の伝統を踏襲しつつそれを解体する。写実主義から受け継いだ思想は、マネを「近代」の画家へと導いた。研究が高度に進んだ現代においても、最も謎を残す画家の一人である。なぜ彼がそれまでの伝統を打ち壊し、近代の画家となりえたのか。あるいは彼が描く絵画そのものに隠された謎のモチーフの数々の意味するところは何か(『草上の昼食』における蛙や鳥、『オランピア』における黒猫など)。これらの謎も、マネの大きな魅力の一つでもある。」

わたしは、「オランピア」よりも、「草上の昼食」の方が非現実感を強く感じます。日常性の虚構が暴かれた感じというのかな。日常がノンフィクション?非日常の方がフィクション?実際はその反対じゃあないのって。。。?今でも、ドキッとしませんか?その当時の驚きはいかほどのものだったか想像するだに恐ろしい・・・(^^;

画像:上:草上の昼食(1862-63)(オルセー美術館)
   下:オランピア(1866)(オルセー美術館)

「このヴィクトリーヌ・ルイーズ・ムーランは、売り出し中の若きマネの、数々の話題作・問題作のモデルを勤めたことで有名です。
そこで、・・・このヴィクトリーヌ・ルイーズ・ムーランがモデルを勤めた、最も過激な問題作 《 オランピア 》 を採り上げたいと思います。
1862年、マネとヴィクトリーヌ・ムーランは偶然、パリの裁判所前で出会い、マネはすぐに彼女にモデルになってくれるよう、頼んだそうです。前年の1861年に、マネは 《 スペインの歌手 》 で、
サロン ( 官展 ) に初入選し、さぁ、これから! というときで、マネ、30歳、ヴィクトリーヌ・ルイーズ・ムーランは、18歳のときでした。
「 彼女の不思議な風貌と意思の強い雰囲気に心を打たれたんだ 」
後にマネは、友人にこう語ったと言われていますが、確かに彼女の目の輝きの強さは、尋常ではありません。彼女は、それまでの基準に従えば、決して美人ではありませんでしたが、マネが描きたかった主題にピッタリの女性だったのでしょう。
マネは望むモデルを得て、この 《 ヴィクトリーヌ・ムーラン 》 を皮切りに、次々と彼女をモデルにした絵を描き始めます。
いま思いつくだけでもこの年に、《 エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン 》 、《 街の女歌手 》 、1863年のサロン落選展で批判の嵐を巻き起こした問題作 《 草上の昼食 》 、そして1862年から1863年の制作ですがなぜか3年後、1865年のサロンに出品され、《 草上の昼食 》 以上の批難をあびることになる、この壁紙の 《 オランピア 》 と、幾つも挙げられますし、探してみると他にも何作かありそうです。
「 突飛もないことをする奴! 」というマネの世間での評価と、「 彼は斬新な画家! まぎれもない巨匠だ! 」とする、一部の若い画家たちに慕われる一面と・・・
マネに終生ついてまわることになる二面の評価は、このヴィクトリーヌ・ムーランがモデルを勤めた絵によって確定するのです。
この 《 オランピア 》 以前にも、女性のヌードを描くことはタブーではなかったのですが、ルネサンス以来、あるいはルネサンスが学んだ古代のギリシャ・ローマ芸術以来それは、美化された女性像だったり女神に模して描かれていたりと、現実の女性に、虚飾のヴェールを着せてのヌードだったのです。
ところがマネは、ここに赤裸々な、現実の女性像を描いた・・・
紳士然として教養高く見せかけているサロンの審査員も、批評家も、鑑賞者も、誰も彼も、
世間にいる男という男全てが、ある連想を掻き立てられ、羞恥に目を伏せてしまう・・・
それなのに絵の中にいる女性は、執拗に無遠慮な視線をこちらに向け続ける・・・
「 生きている人間って、こんなものでしょ? 」
裸のオランピアは、傲慢とも思える視線を投げかけながら、こう問い掛けているようです。
エデンの園でエヴァが禁断のリンゴを食べて以来、人が着け続けてきた虚飾の衣服を、マネは剥ぎ取ろうとした・・・しかもタイトルを 《 オランピア 》 とつけて・・・
オランピアとはギリシャ神話を連想するタイトルですが、しかし当時、フランス文学では娼婦によく用いられる名前でした。同時代の作家アレクサンドル・デュマの 『 椿姫 』 に登場する娼婦の名前も、オランピアですね。そんなことからも 「 恥知らず 」 で 「 不道徳 」 で 「 低俗 」 との印象は拭えませんでしたが、そんな反応を助長するように、マネはこの作品に、詩を添付します。
・・・ 夢に倦んでオランピアが目覚めると ・・・
・・・ 優しい言葉を伝える黒人の腕のなかに春が入り込む。 ・・・
・・・ 奴隷なのだ、こんな愛の夜に ・・・
・・・ 甘美な昼のために花を飾りにくるのは。 ・・・
・・・ 眠らない炎を裏に秘めた厳かな娘だ。 ・・・
この詩はザカリー・アストリュックの長詩からの引用で、額縁にも刻まれ、またカタログにも印刷されていたのです。
この絵を観た紳士たちは、自分が娼婦を買う、その現実の姿を連想してしまいました。
取り澄まして淑女を伴ってサロンに来た彼らは、彼女の前で面目を失ったと感じたのかも知れません。
新聞はこぞって、「 黒く縁どられたゴム製の雌ゴリラ 」 とか、「 妊婦や良家の子女が見るものではない作品 」 などと無遠慮に書き立てました。
大方の見方は、「 ・・・ベッドに寝た女、あるいは、なんだかグロテスクに膨らませたゴム風船のようなもの、おどけて見せる猿のたぐい ( 黒人のメイドを指す? ) が、ティツィアーノのヴィーナスのポーズと動きを真似ているが、恥知らずにも手の指を曲げている・・・ 」 とピエロの覚書にある通りだったのでしょう。
またサロンの会場では、この絵の前に大勢の人が群がってステッキをふりまわすため、二人の守衛がつく有様。
それでも絵が危ないというので、手の届かない高い場所に移し替えるという騒ぎだったそうです。
マネはこの絵を描くに当たって、確かにゴヤの 《 裸のマハ 》 や、ティツィアーノの 《 ウルビーノのヴィーナス 》 の影響を受けていますが、ゴヤは同時に 《 着衣のマハ 》 を描き、その絵の依頼主は自宅に飾るとき、《 裸のマハ 》 の上に 《 着衣のマハ 》 を被せるように掛けていて、《 裸のマハ 》 は、本当に親密な友人にしか見せなかったとか・・・、また、ティツィアーノはやはりこの主題に、ヴィーナスという名のカムフラージュをかけています。
マネはどうしてこのような絵を描いたのでしょう。
初期、マネはパリの街角にいるアルコール中毒の人を、《 アプサントを飲む男 》で描いていますし、
うらぶれた流しの女を、ヴィクトリーヌ・ムーランをモデルにして 《 街の女歌手 》で描いたりしていますが、それは決して、当時流行っていた写実主義の画家たちのように、貧富の格差の弊害を描いて社会批判しようというものではなく、ただ単に、ありのままのパリ、そこにあるそのままの風俗、そして風景・・・それらのものを描くのが目的であって、ダンディな彼には、まるで社会批判の傾向は感じられません。
おそらくこの 《 オランピア 》 も、そうなのでしょう。
ありのままのパリの風俗・・・決して飾ることもなく、貶めることもない、
ありのままの姿を描こうとしたのではないでしょうか。
そしてこの傾向は終生、上流家庭に育ったマネらしく、彼が興味を持った対象だけを、そこにどのような批判があろうとも、ありのままに描き続けたように思えるのです。
では、一方のヴィクトリーヌ・ムーランはどうなのでしょう。
彼女は、《 草上の昼食 》、《 オランピア 》 によって、一躍パリの有名人になったと伝えられています。上流階級にいるマネ以上に、彼女にも批判の嵐が吹き付けたと言うことは、想像に難くありません。得体の知れない女・・・ そんな評判を、たぶん彼女は、この絵のモデルになったときから覚悟していたのでしょう。おそらくモデルを引き受ける時点から、強い意志の力がなければ、勤め得るものではなかったはずです。
なぜなのか・・・
彼女は画家志望だったという説があります。
マネの意図に賛同し、同志としての連帯感があったからなのでしょうか・・・
20歳前後の娘が、口汚い批判と、街を歩くたびに指される後ろ指・・・
そんなものに耐えてまで、このモデルを勤め上げた動機が、僕にはわかりません。
彼女は、この 《 オランピア 》 がサロンに出品されてまもなく、突然アメリカに渡ります。
そして10年後に、またもや突然帰国。
そして、あのマネの名作、《 鉄道 》 のモデルを勤めますが、そのときの彼女の風貌には、あの強烈な目の光が感じられません。《 鉄道 》 のモデルの後、12年後に彼女は、極貧の中、41歳でアルコール中毒で亡くなったと伝えられています。」

(名画デスクトップ壁紙美術館  マネ;《オラン...http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/Olympia.html

ダナエ

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裸婦画は、好きなジャンルです。(^^)
特に綺麗な裸婦像は見とれちゃいます。女性からしたらどうなんでしょう?
男でも、女でも、曲線美というか、美しいと感じるものは同じはずだと思うから、きっと綺麗だって思うんでしょ?
レンブラントは長生きしたがために、愛するものを失うという、人生の無常観を実感したんだと思いますね。最期の自画像なんて、どんな形であれ、とことん生かしてもらいましたよ〜って感じでしょ!?もう何にも怖いものなんてないよ〜見るものは全てみちゃったよ〜ってな感じがします。(^^;

画像:上:ダナエ (Danae) 1636-1640年頃 185×203cm | 油彩・画布 | エルミタージュ美術館

巨匠レンブラントを代表する神話画作品のひとつ『ダナエ』。本作は、オウィディウスの≪転生神話≫を典拠とした、アルゴス王アクリシオスの娘ダナエと、ダナエに恋をし黄金の雨に姿を変えダナエの下へ降り立ったユピテルの愛の交わり≪ダナエ≫を描いた作品である。ルネサンス期よりティツィアーノを始めとした幾多の巨匠たちも描いてきた有名な主題であり、通例では純潔の象徴として描かれてきた≪ダナエ≫の姿をレンブラントは、ユピテルの到来を恐れず、むしろ喜びに満ちた表情と仕草で表現しており、レンブラントのイタリア絵画への鋭い考察と、裸婦像の官能性の追及が示されている。また近年におこなわれた本作の調査によって、ニスが塗られた後、レンブラントが修正をおこなっていることや、18世紀中頃までに画面がトリミング(切り取り)されていることが判明しているほか、1985年に所蔵先のエルミタージュ美術館(サンクト・ペテルブルク)で硫酸がかけられるという事件が起こり、その際、裸婦の頭部や両手、両脚に修復不可能なほどの損傷を受け、残念ながら今日では原図の輝きや筆致を観ることは叶わない。

この絵は、ダナエに恋した青年によって硫酸だったかながぶっ掛けられたっていういわく付きの絵なんですってね?その復元に長年月がかかったらしい。いまのAV なんてものがない時代なら分からないこともないか・・・な? (^^;

   中:自画像 (Self-Portrait) 1629年頃 15.5×12.7cmほか | 油彩・板 | アルテ・ピナコテークほか

レンブラントが生涯に数多く手がけた自画像作品中、最初期の作品として知られる『自画像』。レンブラントは画家として独立したレイデンの地で成功を収め同地で最も優れた画家として知られ始めていた1629年頃から自画像も描き始めている。本作は己自身を深く対峙し内面を見つめることによって、作品を観る者との間に対話と精神性を携えた、我々が抱く典型的なレンブラント中期から後期の自画像とは異なり、この頃のレンブラントの自画像は、通常絵画では殆ど表現されなかった様々な方向から当てられる光の表現と、そこに落ちる影の表現における技術実験的な要素が強い。レンブラントはドイツ・ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーや王の画家にして画家の王と呼ばれたフランドル・バロック絵画の巨人ルーベンスに強い関心を示していたことが知られているが、レンブラントはそれらを遥かに凌駕する数の自画像を生涯中に残している。なお本作は1629年頃の自画像の代表例としてアルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)所蔵の自画像を取り上げたが、同時期同構図で描かれた自画像がアムステルダム国立美術館に所蔵されるほか、これらよりルーベンス的な洗練された社交性の強い自画像等が数点知られる。

   下:ゼウクシスとしての自画像(笑う自画像)(Self-Portrait as The Zeuxis) 1665-69年頃
82.5×65cm | 油彩・画布 | ヴァルラフ=リヒャルツ美術館

偉大なる巨匠レンブラント最後の自画像とされる『ゼウクシスとしての自画像』。暗中で薄く(ある種不気味な)笑みを浮かべる作品中のレンブラントの表情が非常に印象的であった本作の解釈については、それまで画家の対抗者や死そのものへの軽蔑や反抗、皮肉を込めたとする説など、様々な説が唱えられてきたが、近年、レンブラントの弟子アールト・デ・ヘルデルが同主題の自画像を手がけていたことが判明し、笑みを浮かべる画家の姿をゼウクシス、画面左端に真横から描かれる人物を老婆と解釈する『ウクシスとしての自画像』で、ほぼ決定的となった。ゼウクシスとは観る者の目を欺く本物そっくりの絵を描くことができた、類稀な観察眼と欲望、知的情念を持つ古代ギリシアの伝説的な画家で、老女を描いた最後の作品を手がけていた時に、己の好奇心の本性に気付き笑い死にしたとの逸話が残されており、レンブラントは本作でゼウクシスに自身を重ね、同時代の批評家(又は自己の内省)への挑戦的思考を表現したものだとされている。また本作において極めて厚塗で描写される画家の表情の表現は、観る者にそれまでのあまり自画像には感じられない独特のユーモラスな印象すら与えている。このように老いてなお高ぶる創造力と探究心によって意欲的に制作された本作であるからこそ、今なお人々の心を捉え続けるのである。

(レンブラント-TOPページ- http://www.salvastyle.com/menu_baroque/rembrandt.html

自画像(1890年)〜ゴッホ

「これは彼が極度の貧困の中、37才で
自殺する直前に描いた、最後の自画像だ。右側面から描いているのは、孤独感から発狂し、左耳を
自分で切り落としてしまったから。下唇からは切れて血が出ている。なんという壮絶な遺書だろうか!
死が迫った人間の目というものは、こういうものなのか。キーを打つ指先が震えまくりじゃ〜!

「ゴッホの絵を見ていると、こちらが鑑賞しているのではなく、向こうがこっちを見つめているようだ」(by小林秀雄)」

(カポジン国際美術館 http://kajipon.sakura.ne.jp/bijyutu/zb1.htm

これは、最期の自画像らしいけど、、、それまでは自分をきちんと見つめて描いてないような気がするんですけど・・・視線恐怖症? やっと、かろうじて自分と対峙できるようになった?

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