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もう何年も前に、学会で上京した時、上野の美術館の「マティス展」を観ました。
色彩の魔術師と言われてるようですが、、、わたしはこのような、詩のようなシンプルな絵が好きです。
「アンリ・エミール・ブノワ・マティス
1869年12月31日、北フランスのノール県ル・カトー・カンブレジに生まれる。法律家を志し、法科資格試験に合格して法律事務所の書記として働くが、91年、画家を志してパリに出、ギュスターヴ・モローなどの下で美術を学んだ。
新印象主義の影響を受けながら、強烈な色彩を併置するフォーヴ(野獣派)のスタイルを生み出す。
ニースに活動拠点を移すと、くつろいだ雰囲気の手法で作品を制作、デッサンと色彩の融合を試みようになる。そして、光と空間の単純化と純粋化を追求した結果、"色彩でデッサンする"切り紙絵の世界に到る。そのマティス芸術の集大成が、1951年に完成したヴァンスのロザリオ礼拝堂の内部装飾と言われる。1954年11月3日、ニースで没。
マティスとピカソ
生涯のライバルとして競うように作品を制作したアンリ・マティス(1869-1954)とパブロ・ピカソ(1881-1973)は、1906年、アメリカ人作家ガートルード・スタインのアパルトマンで出会った。彼らの作品を買い求めた彼女をきっかけとし、2人は翌年から互いの作品を交換しあうようになった。
1941年のインタビューでマティスは「私が、もし今やっているようなことをやっていなければ、ピカソのように描きたいと思う」と答え、ピカソは「私ほどマティスの作品を注意深く見てきた者はいないし、彼ほど私の作品を注意深く見てきた者はいない」と晩年に語っている。
互いの家を行ったり来たりするほど仲がよかった時期もある二人だが、必ずしも生涯を通じて常に互いの作品について最大の理解者であったというわけではない。ただ、マティスが互いのことを「北極と南極のように違う」と評したように、二人とも相反するところがあるものの、相手の作品を強く意識し反応せざるを得ない刺激的なライバルと感じていたのだろう。そのことを示すように、「オレだったらこうやる」といった相手の先を行こうとする挑発性がみなぎる、驚くほど近似した作品が両者には存在するのである。」
「フォーヴィスム(Fauvisme、野獣派)は、20世紀初頭の絵画運動の名称。
1905年にパリで開催された展覧会サロン・ドートンヌに出品された一群の作品の、 原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチを見た批評家ルイ・ボークセルが「あたかも野獣の檻(フォーヴ、fauverie)の中にいるようだ」と評したことから命名された。
フォーヴィスムはキュビズムのように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図に従属するものではなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に使われるべきであるとする。ルネサンス以降の伝統である写実主義とは決別し、目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現した。世紀末芸術に見られる陰鬱な暗い作風とは対照的に、明るい強烈な色彩でのびのびとした雰囲気を創造した。」
(フォーヴィスム - Wikipedia)
・ロザリオ礼拝堂
「南フランス、コートダジュール。紺碧の海岸と呼ばれるこの地方のリゾート地、ニースの北の山裾にヴァンスという小さな村があります。その山肌に建つ礼拝堂、アンリ・マティス作『ロザリオ礼拝堂』。訪れるなら冬の午前11時もっとも好ましいといわれている小さな礼拝堂はその瞬間、楽園となります。
・・・ アンリ・マティスは20世紀の芸術をリードした巨匠。彼は77歳の時にこの礼拝堂の設計に取り掛かり、完成したのはその4年後の81歳の時。マティスは打ちひしがれた人が見て、平和とやすらぎを見出せることを望み、この礼拝堂の設計を手掛けました。すべての苦悩を癒すように、穏やかな光に包まれたロザリオ礼拝堂。色彩の魔術師と呼ばれ、20世紀を代表する画家となったマティスが、最後の力を注ぎ込んだ作品です。
・・・当時80歳近かったマティスは、立ち上がることすらできない時には竿を使ってベッドの上から壁に習作を描いたといいます。そこまでマティスが礼拝堂建設に没頭したのには、ある訳がありました。
1939年、第2次世界大戦が勃発し、ヨーロッパは戦火に包まれます。その頃、71歳のマティスは十二指腸がんによる2度の手術で死線をさまよっていました。看護師モニクの手厚い介護によってかろうじて一命を取り留めた・・・戦時中、マティスは戦争を無視し続け、自分に与えられた使命は平和のためだけに絵を描くことだと固く信じていました。
1947年、戦争が終わり、病も何とか落ち着いた頃、ヴァンスのアトリエの向かいにある修道院から使者がやってきます。焼け落ちた礼拝堂を再建するため、ステンドグラスのアドバイスをしてほしいとの要請のためでした。その修道女こそ、大手術の時に看護してくれたモニクでした。この再会に運命を感じたマティスはステンドグラスだけではなく、礼拝堂の設計のすべてを無報酬で請け負い、人生最後の力をこの礼拝堂に注ぎ込みました。・・・
色の印象とは、隣に配置する色によって異なってくるため、色の構成はとても重要となります。マティスは色紙を切り抜いて配置し、何度も色の効果を確かめながら、ロザリオ礼拝堂のあの強烈な色の世界を生み出しました。・・・
マティスは礼拝堂の設計にあたって、空、植物、光という3つのテーマを選び、それぞれを示す色として青、緑、黄色を使いました。しかし、それではマティスの好きな赤が使えないという不満が残ります。ところが、いざ作ってみると、光が床に反射して青と緑が混ざるところができ、そこに赤紫色が生まれました。マティスはこの偶然の発見に大喜びしたといいます。・・・
1951年、礼拝堂は完成し、マティスはその4年後に84歳でその生涯を閉じました。芸術で愛を表現しようとした画家が生み出した救いの空間、アンリ・マティス作『ロザリオ礼拝堂』。光を追い求めた男が辿り着いた理想の楽園。 」
(美の巨人たち:http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/050409.htm)
最後まで好きなことを芸術家はしてますねえ!
素敵なことだし、自己を極めることで初めて、オリジナリティが出、その時、初めて、他者の中に共通するものと共鳴することで感動を呼ぶのだと思うなあ。その意味で、芸術家って、みんなを代表して、人間の精神世界の探求者、冒険家といえるんじゃないかな?
画像:上:Blue-Nude-I-1952
下:ダンス 1909
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