アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

好きな絵

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鵜図

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 雪舟でサーチしてた時見つけました。水墨画って、掛け軸という限られた狭い空間の中に、世界を(自己の精神世界を含めた)切り取って表現するわけだから、こんな感じのシンプルな方が、わたしの心の琴線に触れやすいなあ。字数制限のある入試の論文や俳句と同じでしょ!?(^^) 制約を逆手にとった表現っていうのかなあ、制約があるからこそ生まれる世界。何も描かれてない空間は、なんと広々とした、自由で、静寂な感覚を催してくれることでしょう。

「江戸時代の美術 戦国時代の地方画壇には禅宗と結びついて、武士でありながら絵も描く武人画家たちが現れま した。剣豪として有名な宮本武蔵(1584~1645)は、二天一流剣法の祖で、二天と号しました。 書、画、彫刻などにも非凡な才があり、すぐれた作品を残しています。とくに水墨画では、気魄 のこもった鋭い表現を特色とし、武人画家の最後に位置する存在として着目されています。本作 では、空間が大きく取られた静寂の境地の中に、筆数を極力おさえて、振りかえる鵜の毅然とし た姿を描ききっています。武蔵は29歳のときの巌流島の決闘以後は試合をせず、剣善一如の境地 を絵に表現することや、『五輪書』の執筆などに打ち込みました。 」

「・・・
* 「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」(一千日(約3年)一つのことを稽古し続けることを「鍛」といい、一万日(約30年)一つのことを稽古し続けることを「練」という)「鍛」も「練」も辞書を調べると「ねりきたえる」こと。その違いは、「鍛」は金属を打ち鍛えること「練」は絹糸をねることとある。千日の稽古は粗削りながらの形作りで、万日の稽古はより繊細な完成度の高い仕上げを目指すことなのではないか。
* 現在まで流布する武蔵像は、吉川英治が作った「吉川武蔵」といっていいだろう。「吉川英治の小説がなかったら武蔵は今ほど有名にならなかっただろうが、美術史には間違いなく名を残していた」「素振りをするように習作を重ね、技を磨いていたのでしょう」(宮元健次)。
「強さと弱さが二重写しになったところが武蔵作品の魅力。優れた集中力、動体視力も彼ならでは」(宮元健次)。
・・・
* 虚像を破壊した最晩年の武蔵像とはどんなものか? それは多趣味で話題豊富なタレント老人の姿。小笠原家家老の宮本伊織など強力な人脈をバックに、細川家の賓客かつ藩主の話し相手として「お伽衆」のような役を期待されていた。
おしゃべりで処世に長け以外に小綺麗な老後を送った?「そんな武蔵の実像は、禁欲的な求道精神に欠ける僕ら普通のおじさんをホッとさせる」(1)。
・・・
* 「宮本武蔵は死の1週間前に21カ条からなる「独行道」という自省自戒の書をしたためました。そのなかに「我、事において後悔せず」があります。ここまで言えるのは凄い。求道者の安息が見えるように思います」(4)。
・・・
◆「兵法の利にまかせて諸芸諸能の道となせば、万事において我に師匠なし」(『五輪書』)」

(art random - 人生のセイムスケール - age 61:http://art-random.main.jp/samescale/061.html

彼もまた、自己をとことん究めて、この世の真実と思えるもの(青いリンゴか、熟したマンゴのような真理という果実)を掴んだんでしょうか?

『バカボンド』読んでないんだけど、、、「吉川武蔵」も読んでないけど、、、(^^;
読んでみようかなあ。。。(^^)

画像:上:『鵜図』(うず)
   下:『野馬図』(やばず)
(武蔵作品ギャラリー:http://www.museum.pref.kumamoto.jp/musashi/gallary/gallary_list.html

Blue Nude

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もう何年も前に、学会で上京した時、上野の美術館の「マティス展」を観ました。
色彩の魔術師と言われてるようですが、、、わたしはこのような、詩のようなシンプルな絵が好きです。

「アンリ・エミール・ブノワ・マティス  

 1869年12月31日、北フランスのノール県ル・カトー・カンブレジに生まれる。法律家を志し、法科資格試験に合格して法律事務所の書記として働くが、91年、画家を志してパリに出、ギュスターヴ・モローなどの下で美術を学んだ。
新印象主義の影響を受けながら、強烈な色彩を併置するフォーヴ(野獣派)のスタイルを生み出す。
ニースに活動拠点を移すと、くつろいだ雰囲気の手法で作品を制作、デッサンと色彩の融合を試みようになる。そして、光と空間の単純化と純粋化を追求した結果、"色彩でデッサンする"切り紙絵の世界に到る。そのマティス芸術の集大成が、1951年に完成したヴァンスのロザリオ礼拝堂の内部装飾と言われる。1954年11月3日、ニースで没。

マティスとピカソ

 生涯のライバルとして競うように作品を制作したアンリ・マティス(1869-1954)とパブロ・ピカソ(1881-1973)は、1906年、アメリカ人作家ガートルード・スタインのアパルトマンで出会った。彼らの作品を買い求めた彼女をきっかけとし、2人は翌年から互いの作品を交換しあうようになった。
1941年のインタビューでマティスは「私が、もし今やっているようなことをやっていなければ、ピカソのように描きたいと思う」と答え、ピカソは「私ほどマティスの作品を注意深く見てきた者はいないし、彼ほど私の作品を注意深く見てきた者はいない」と晩年に語っている。
 互いの家を行ったり来たりするほど仲がよかった時期もある二人だが、必ずしも生涯を通じて常に互いの作品について最大の理解者であったというわけではない。ただ、マティスが互いのことを「北極と南極のように違う」と評したように、二人とも相反するところがあるものの、相手の作品を強く意識し反応せざるを得ない刺激的なライバルと感じていたのだろう。そのことを示すように、「オレだったらこうやる」といった相手の先を行こうとする挑発性がみなぎる、驚くほど近似した作品が両者には存在するのである。」

「フォーヴィスム(Fauvisme、野獣派)は、20世紀初頭の絵画運動の名称。

1905年にパリで開催された展覧会サロン・ドートンヌに出品された一群の作品の、 原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチを見た批評家ルイ・ボークセルが「あたかも野獣の檻(フォーヴ、fauverie)の中にいるようだ」と評したことから命名された。

フォーヴィスムはキュビズムのように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図に従属するものではなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に使われるべきであるとする。ルネサンス以降の伝統である写実主義とは決別し、目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を表現した。世紀末芸術に見られる陰鬱な暗い作風とは対照的に、明るい強烈な色彩でのびのびとした雰囲気を創造した。」

(フォーヴィスム - Wikipedia)

・ロザリオ礼拝堂

「南フランス、コートダジュール。紺碧の海岸と呼ばれるこの地方のリゾート地、ニースの北の山裾にヴァンスという小さな村があります。その山肌に建つ礼拝堂、アンリ・マティス作『ロザリオ礼拝堂』。訪れるなら冬の午前11時もっとも好ましいといわれている小さな礼拝堂はその瞬間、楽園となります。
・・・ アンリ・マティスは20世紀の芸術をリードした巨匠。彼は77歳の時にこの礼拝堂の設計に取り掛かり、完成したのはその4年後の81歳の時。マティスは打ちひしがれた人が見て、平和とやすらぎを見出せることを望み、この礼拝堂の設計を手掛けました。すべての苦悩を癒すように、穏やかな光に包まれたロザリオ礼拝堂。色彩の魔術師と呼ばれ、20世紀を代表する画家となったマティスが、最後の力を注ぎ込んだ作品です。

・・・当時80歳近かったマティスは、立ち上がることすらできない時には竿を使ってベッドの上から壁に習作を描いたといいます。そこまでマティスが礼拝堂建設に没頭したのには、ある訳がありました。

 1939年、第2次世界大戦が勃発し、ヨーロッパは戦火に包まれます。その頃、71歳のマティスは十二指腸がんによる2度の手術で死線をさまよっていました。看護師モニクの手厚い介護によってかろうじて一命を取り留めた・・・戦時中、マティスは戦争を無視し続け、自分に与えられた使命は平和のためだけに絵を描くことだと固く信じていました。

1947年、戦争が終わり、病も何とか落ち着いた頃、ヴァンスのアトリエの向かいにある修道院から使者がやってきます。焼け落ちた礼拝堂を再建するため、ステンドグラスのアドバイスをしてほしいとの要請のためでした。その修道女こそ、大手術の時に看護してくれたモニクでした。この再会に運命を感じたマティスはステンドグラスだけではなく、礼拝堂の設計のすべてを無報酬で請け負い、人生最後の力をこの礼拝堂に注ぎ込みました。・・・
 色の印象とは、隣に配置する色によって異なってくるため、色の構成はとても重要となります。マティスは色紙を切り抜いて配置し、何度も色の効果を確かめながら、ロザリオ礼拝堂のあの強烈な色の世界を生み出しました。・・・
 マティスは礼拝堂の設計にあたって、空、植物、光という3つのテーマを選び、それぞれを示す色として青、緑、黄色を使いました。しかし、それではマティスの好きな赤が使えないという不満が残ります。ところが、いざ作ってみると、光が床に反射して青と緑が混ざるところができ、そこに赤紫色が生まれました。マティスはこの偶然の発見に大喜びしたといいます。・・・
1951年、礼拝堂は完成し、マティスはその4年後に84歳でその生涯を閉じました。芸術で愛を表現しようとした画家が生み出した救いの空間、アンリ・マティス作『ロザリオ礼拝堂』。光を追い求めた男が辿り着いた理想の楽園。 」

(美の巨人たち:http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/050409.htm

最後まで好きなことを芸術家はしてますねえ!
素敵なことだし、自己を極めることで初めて、オリジナリティが出、その時、初めて、他者の中に共通するものと共鳴することで感動を呼ぶのだと思うなあ。その意味で、芸術家って、みんなを代表して、人間の精神世界の探求者、冒険家といえるんじゃないかな?

画像:上:Blue-Nude-I-1952
下:ダンス 1909

ローヌ河の星月夜

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画業わずか10年だったんですね!
しかも、精神に異常を来たしたその後に(精神病院に入院中に)多くの傑作を残してるんだ!!
病室の窓から見える星の絵(『星月夜』はじめ)をたくさん描いてるようですね。
わたしは、『ひまわり』とか、空間がねじれたような作品しか知らなかったんですが、、、何かでこれらの絵に遭遇した時、えっ、こんな絵も描いてるんだ!美しい!!と思いました。

「・・・ゴッホは1853年にオランダの貧しい小さな村で生まれた。
ゴッホは学校で学ぶものに関してはたいした才能はなかったそうだ。

ロンドンに渡り 画廊の見習い店員として働いている頃、下宿先の娘に恋してしまうが・・・・彼女は残酷なまでにゴッホをはね付けた。 この時ゴッホは心の傷は計り知れず大きく、以降一文無し、はみ出し者として世の中を渡って行くきっかけとなったと言われている。

ゴッホの父親は宣教師であったが、失恋の後、父親のようになりたくて宣教師としてベルギーに渡るが、ここでは何事も中途半端ではすまないゴッホの伝道方法が上層部に受け入れられず、この頃から絵の世界へと入っていく。
挫折感から故郷のオランダへ戻り、子供のいる娼婦と暮らすようになったのは29歳の頃であった。パンにも事欠く貧しい生活であったが、この女性はゴッホのモデルとなったり、ゴッホに生きる喜びを与えたと言う。

1885年に父親が亡くなると、 弟テオのいるパリへと向う。
そこで多くの画家と出会い、新進芸術家の仲間入りをするわけだが・・・・
パリでは酒に浸り、荒れた生活の2年間送ることとなった。

そして、1888年2月フランスのプロヴァンス地方アルルへとやって来た。
それはゴッホにとって、新しく生まれ変わり、自分を取り戻そうとしたのであろう。
また、ゴッホは日本の浮世絵の影響を受け、日本のイメージを求めてアルルへ向ったとも言われている。結果、アルル時代からパリでピストル自殺するまでの2年間の作品は特に素晴らしい。
アルルではゴッホの呼びかけにゴーギャンがやって来て共同生活をするがうまくいかなかった。
1888年12月23日の夜、クリスマスの雰囲気を味わうために町を歩いていた。そこに手にナイフを持ったゴッホが近づく。ゴーギャンがにらみつけるとゴッホは部屋に戻り、すぐに耳を切り落としたという。

ゴッホは出血が止まると、その耳を封筒にいれ、手紙と一緒に「私の形見だ」と言い馴染みの娼婦の家に行き渡した。この騒ぎに警察も乗り出したが、ゴーギャンの説明で事情がわかり精神錯乱をおさめる為にアルルの病院へ入院することになる。・・・

日本の浮世絵に引かれ、このアルルに来たゴッホ。
生前はたった1枚しか絵が売れなかったそうだ。芸術家と言うものはそういうものだろうか。

パンにも事欠く当時のゴッホは自分の描いた絵を酒代などにしていたこともあるというから、たまに、ゴッホの描いた絵が時々、普通の家などで見つかることがあるという。」

(プロヴァンスで出逢ったゴッホ:http://www.nta.co.jp/ryoko/tourcon/2005/050520/index.htm

「1889年の5月、ゴッホはアルルを去り、サン・レミの精神病院に自発的に入院した。その2年間に200点を超える作品を描いた。1890年、ピサロがオーヴェールに移るよう勧めた。そこでゴッホは、ガッシュ医師に出会った。しかし、2ヶ月後、病気が再発し、1890年7月、自らの命を絶った。」

(フィンセント・ファン・ゴッホ (後期印象派):http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/Gogh.htm


画像:上:『夜のカフェテラス』(1888年)
      実際のカフェの壁は彼の好きな黄色じゃなかったようですね。今は、この絵に合わせて黄色
      に衣替えされてるって。
中:『ローヌ河の星月夜』(1888年)
   下: 生前に売れたたった1枚の『赤い葡萄畑』
      その当時の人々の感性と未来である今のわれわれの感性は変わってくるってことですかね
      え?とすると、今、彼の傑作だっていわれてる絵も、また、未来には評価が変わっちゃう
      のかな??今を生きてる人にとっての傑作しか意味はないから、、、たいした問題じゃあ
      ないですけどね。(^^)

   『医師ガシェの肖像』

「「ポール・ガシェはお医者様。絵が好きで、ちょっと変わり者。 盲人が盲人を導くと二人とも穴に落ちる、というのはオランダの諺。マルグリット・ガシェはポールの娘。ゴッホが愛したと言われる、気立ての良い娘さん。彼女は一生を独身で過した。いい人たちだったが、ゴッホとはイマイチ合わない。予算よりちょっと高い宿をゴッホに紹介したり、胃弱のゴッホにフランス料理のフルコース。」

(フィンセント・ファン・ゴッホ:http://www48.tok2.com/home/nekoMusa/gogh6.html

ちなみに、関節リウマチに罹っても、絵筆を手にくくり付け、最後までキャンバスに向かったルノアールさんの主治医でもあります。

「「医師ガシェの肖像」は約100億円でアメリカ人コレクターに売却されたとされるが、現在の所蔵者は不明である。医師ガシェの肖像」は弟テオの未亡人ヨハンナによって、1898年頃、デンマークのコレクターにわずか300フランで売却されたと伝えられているが、芸術作品の投資(投機)商品としての側面がクローズアップされたとも言えよう。」

(フィンセント・ファン・ゴッホ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

那智瀧

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実物を見たことがない。しかし、これを観てしまうと、いつの日にか行きたいと思わせられる。写実的な絵なんでしょうが(?)、神々しさが迫ってきますよねえ。偶然にこの絵をどこかで観たんですが、その時からずーっと焼き付いてます。作者は的確に何かを切り取ってるっていうことでしょうね。

「落差133m。日本一の高さを誇る那智大滝は、見る者の心を確かに動かす迫力に満ちている。古来、この雄大な大滝の姿に、人々は神そのものの存在を意識してきた。そして神仏を表裏一体のものとする本地垂迹の考えにより、飛散する水と洗われた岩肌のかたちから、千手観音の姿もそこに投影された。滝は、神であり、仏であった。」

(紀伊民報コラム:http://www.d3.dion.ne.jp/~kairyu/page040.html

「熊野という地名は「隈の処」(地の涯)という語源から発しているといわれている。また「クマ」は「カミ」と同じ語で、「神の野」に通じる地名ということにもなる。ここは奥深い処、神秘の漂う処ということなのだ。また、那智とは難地からきている言葉だ。熊野信仰は厳しい修行の場であるが、しかし、苦行であるからこそ一切の罪業が消滅するという滅罪行になり得たのだ。だから人間を簡単に寄せつけぬ険しさもうなずける。
 ヘミングウェイが生前熊野に興味を持ち、来たがっていたという話を聞いたことがあるが、『老人と海』 によって人間と自然との孤独な闘いを描いた作家ならば理解できるような気がする。また、フランスの作家であり文化大臣を務めたアンドレ・マルローは、『那智瀧図』を見て、「ここに永遠の一瞬が凍り付いている」と衝撃を受け、熊野へ足を運んだそうだ。それだけの魅力が熊野にはある。」

(NAOKO'S WORLD:http://www5e.biglobe.ne.jp/~naocolum/html/contents/kumano.html)

画像:鎌倉時代 1幅 159.4×58.9 絹本著色 国宝 10001

「人々を日本中から呼び寄せる核となる美術館施設がある。『根津美術館』は非常に重要です。根津には「那智瀧図」という国宝がありますが、何年かに1回公開しています。 この時には、日本中からお客様が集まります。」

(ときの忘れもの page2:http://www.aoyama-net.com/story/tokino/page2.html)

世事に塗れた魂を浄化したいって、ときに思いませんか?
汚れのない心をもう一度取り戻したいって、、、鮭の遡上じゃないけれどさ(^^;

かぐわしき大地

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昔、近くにある大原美術館で観たはず。。。かなり大きな絵だった記憶があります。なんだか、ユートピアっぽくて好きなんです。赤い鳥(?)みたいなものが実際に彼には見えたんでしょうか?彼がすでに住んでる異界の世界に、現実から飛翔した精神世界にわれわれを誘うとばぐちとしてのサインを描いてくれたんでしょうか?

「1891年、ゴーギャンは南の楽園へのあこがれをいだき、タヒチ島へ旅立ちました。しかし、タヒチはすでにヨーロッパの文明におかされ、ゴーギャンが想像した地ではありませんでした。1893年、彼はパリに戻り個展をひらきます。ところが評判がかんばしくなく、ゴーギャンは再びタヒチに渡ることになります。そして1903年、タヒチ島よりさらに奥のヒヴァ=オア島で亡くなりました。
この「かぐわしき大地」は、第1回目のタヒチ滞在時に描かれました。ゴーギャンは自らの『私記』の中に、この作品について美術評論家ドラローシュが書いた文章を引用しています。・・・「幻想的な果樹園。その誘惑的な植物群がエデンの園のイヴの欲情をそそる。彼女の腕がおそるおそる伸びて悪の花を摘もうとし、いっぽう怪鳥(キマイラ)の赤い翼がはためいて、彼女のこめかみをかすめ打つ」。ゆったりとした体つきのタヒチのイヴは、ゴーギャンの原始へのあこがれを象徴しています。」

(OHARA MUSEUM of ART:http://www.ohara.or.jp/200606/jp/1_web/1/exh/007.html

「1888年にはゴッホとともにアルルで生活しますが、ゴッホの耳切事件の後、
別れてパリに戻ります。そしてさらなる迷いの時期を経て、1891年、突如と
してタヒチに渡りました。

この南太平洋の島で、ゴーギャンは現地の13歳の少女を愛人にして、傷心の
まま制作を続けます。彼はこの南洋の文化が気に入りましたが、やはりお金
の問題で行き詰まってしまいます。そこでいったん1893年帰国。しかし何ら
かの事情が好転する筈もありませんでした。解決を見いだせないまま1895年
再びタヒチへ。そして今度は14歳の少女を新しい愛人にして暮らし始めます。

ゴーギャンはこのタヒチにもだんだん西洋文化が流入してくることを嫌い、
更に1901年タヒチから1500km北東のヒヴァ・オア島に移ります。ここが彼の
最期の地になりました。生活苦の中、現地の人たちともいさかいを起こした
りしつつ、1903年5月8日死去。現地で埋葬されました。

彼は株式マン時代は趣味で絵を描くことで幸福な生活を送っていましたが、
画家一本になってからは、とにかく不遇な暮らしをしており、本人も心の迷
宮に迷い込んだまま、どうにもそこから抜け出すことができませんでした。

そんな中、心の奥底から絞り出すようにして描いた不朽の名作が『我々はど
こから来たか?我々とは何か?我々はどこへ行くのか?』(1897)でしょう。

彼はこの直前に自殺を決意、翌年には一度自殺未遂を起こしています。画面
は暗く、彼の苦悩がそのまま叩きつけられているかのようです。仏像のよう
な青い像、林檎のような果実をもぎる人、食べる人、寝ている子供と女たち、
頬杖をつく老婆、とかげを踏む鳥、..... 深すぎて理解できる人は少ないか
も知れません。」

(ゴーギャン(1848-1903):http://www.ffortune.net/social/people/seiyo-kin/gauguin.htm

このタヒチの女たちを熱病に冒されたように描いたゴーギャンの生き方にヒントを得て書かれた傑作がサマセット・モームの「月と六ペンス」なんだってねえ!知らなかったし、読んだことない。。。チャンスあったら読んでみようかなあ・・・(^^)
画像:
上:『かぐわしき大地』 Te Nave Nave Fenua ゴーギャン,ポール 1892 年 油彩・画布 92.0x73.5cm
下:『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』 1897-1898 年 ボストン美術館 横6メートル、縦2メートルの大きな作品。

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