アットランダム≒ブリコラージュ

「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」(長寿の心得...岸信介) /「食う、寝る、出す、風呂」(在宅生活4つの柱)

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エッシャー

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子供の頃から不可思議な絵に驚いてます。こんな絵を描けるようになれたのはなぜなんだろ?何かきっかけがあったはずだと思うんですよね。自然界に存在するはずないから、、、錯覚?陽炎?夢?で見えたんだろうかしら。。。(^^)

調べてみると、、、どうも結晶学にヒントを得たようですね?

(マウリッツ・エッシャー 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「マウリッツ・コルネリス・エッシャー(Maurits Cornelis Escher, 1898年6月17日 - 1972年3月27日)はウッドカット、リトグラフ、メゾティントなどの版画製作でよく知られたオランダの画家(版画家)である。エッシャーは建築不可能な構造物や、無限を有限のなかに閉じ込めたもの、平面を次々と変化するパターンで埋め尽くしたもの、など非常に独創的な作品を作り上げた。
・・・

モザイク模様の研究

1937年、エッシャーはベルギーに移った。1934年5月13日に2回目のアルハンブラ宮殿訪問をはたした。エッシャーは妻と共に宮殿の洗練された模様の膨大なスケッチをとり、ホテルで彩色した。旅行を終えた後、エッシャーは結晶学者であった兄のB.G.エッシャーに『結晶学時報』を読んでみるように勧められた。『結晶学時報』には繰り返し模様に関する論文が掲載されており、エッシャーはその雑誌で平面を同じ図形で埋める方法(平面充填)を研究した。特にジョージ・ポリアの論文には17種類もに及ぶ繰り返し模様の具体例が掲載されておりエッシャーを大いに刺激した。1937年からエッシャーは平面の正則分割に関する「素人理論」に関するノートをまとめ始めた。1958年には愛好家に向けてエッシャーは『平面の正則分割』をだして自分自身で纏め上げた理論を分かりやすく説明している。

エッシャー的世界の展開

アルハンブラ宮殿の再訪以来エッシャーの作風は一変する。それまでは風景画が作品の中心を占めていたが、数学的な趣向の強い、同じ時代のどんな種類の作家にも見られない特有な世界をつくりだす。エッシャーはジグソーパズルのように平面を黒と白の模様で埋め尽くす手法を使い『メタモルフォーシスI』、『昼と夜』、『循環』などを制作した。しかしエッシャーの父親は彼の新しい作品を理解することなく亡くなった。エッシャーは1950年代に入るとアメリカの2つの雑誌に紹介され、急速にアメリカの若者の支持を得ていった。エッシャー自身は自分の作品がアメリカの若者たちに熱狂的に受け入れられているのを距離を置いて見ていた。(エッシャーの作品が不可思議な世界を持っているからだろうか、麻薬を吸いながらエッシャーの絵を眺めるような若者もいた。また、エッシャーの作品中の植物が大麻ではないかと疑われたことすらある。もちろん大麻とは何の関係もなかった。)エッシャーは1950年にオランダ紙幣のデザインに取り組んだがその紙幣は発行されなかった。エッシャーは多くの地質学者と交流を持つようになった。1955年、エッシャーはヒルフェルスム文化賞を受賞した。現在良く知られている作品『凸面と凹面』(1955年)、『物見の塔』(1958年)、『円の極限IV』(1960年)、『上昇と下降』(1960年)、『滝』(1961年)、などがこの時期次々と生み出された。

主な業績と作品

主な作品は二つの手がお互いの手を書いている 『描く手』、波うつ水面を境に魚と鳥のパターンが交錯する 『空と水』、新しい遠近法のあり方を示した『階段の家』、実際には作ることができないループ状階段をのぼり続けるひとと下り続ける人を描いた 『上昇と下降』などが有名である。

エッシャーの前期の作品はカストロバルバ風景画が中心である。

後期の作品は非常に数学、結晶学的な側面を持っている。大きく分類すると、1.平面の正則分割、2.鏡面、3.新しい遠近法、4.不可能な図形、5.多面体に分類される。このうち 1.平面の正則分割 はエッシャーの数学的な構図として最も早い時期から現れ、後年にも無限の追求などの形で何度も現れてくるものである。2.鏡面はエッシャーの数学的な作品の中で比較的に早い時期に作られたもので、『鏡と静物』(1934年)、『三つの世界』(1955年)、『反射する球を持つ手』(1935年)などが代表的である。これらは反射する鏡面や水面を通して異なる世界が一つの世界に表されている。

彼が描いた不可能な構造のなかにはペンローズの三角形やネッカーの立方体なども含まれている。彼の作品の多くはタイリング(平面の正則分割、繰り返し模様)と呼ばれる平面を一定のパターンで覆うものである。

エッシャーの絵画の数学的な面は突然はじまったわけではなく、在学中にも平面の正則分割や球面鏡に関する作品を製作している事にも注目すべきだろう。またエッシャー自身は自分の絵に何か寓意がこめられていると思われることを嫌っている。エッシャーは芸術は進歩するものではない、前の時代の画家が残してくれたものからスタートするものではない、作家が原点から出発して作品を作っていくのだと思っていた。エッシャーの作品が同時代のどの様な流れにも分類されないのは、エッシャーのそのような態度にも関係しているのかもしれない。

日本では長崎県佐世保市のテーマパークハウステンボスが、約180点にも及ぶ世界有数のエッシャー・コレクションを所有しているほか、彼の作品をモチーフにした3Dアトラクション「ミステリアスエッシャー」がある。三重県立美術館にも3点の作品が所蔵されている。」

画像:上:滝

   中:物見の塔

   下:ライデン:オランダのライデン市役所市民ホールの壁画(初めて建築の装飾に携わった作品)の下絵「魚を使ったデザインドローイング」

「婚姻の絆」、「昼と夜」も好きなのにアップできるソースが見つからない。。。(^^;

   その下:円の極限4

(スーパーエッシャー展 ある特異な版画家の軌跡...http://gitanez.seesaa.net/article/29355939.html

「ペンローズが次のように指摘する『円の極限』に代表されるような「正則分割」の技法を使ったシリーズ。

ロバチェフスキー幾何学を想い描くのに一番いい方法は、エッシャーの版画を見ることである。エッシャーは『円の極限』と名付ける作品を何点か作った。・・・『円の極限4』・・・これはエッシャーが宇宙を描いたものであり、見ればわかるように、そこは天使と悪魔がいっぱいである! 注目すべき点は、円の端に向かうにつれて、絵が非常に込み入ってくるように見えることである。そのように見えるのは、普通の平らな紙の上(言いかえればユークリッド空間)に双曲型空間が描かれているからである。       ロジャー・ペンローズ『心は量子で語れるか―21世紀物理の進むべき道をさぐる』
最近、ペンローズ関連の本を読んで知ったのが、ペンローズとエッシャーの深いかかわりでした。
たとえば、エッシャーの有名な『階段』のエッチング。
あの不可能図形のアイディアは、幼いロジャーが遺伝子学者の父親とともにエッシャーに教えたものなのだ。偉大なる芸術家の創作意欲を刺激した「ペンローズ三角形」は、ロジャー坊やの非凡な幾何学的才能を予感させるものであった。     竹内薫『ペンローズのねじれた四次元―時空をつくるツイスターの不思議』」

   その下^2:ペンローズ三角

不思議な図形っていっぱいあるものですよね・・・
頭を少しだけ捻らないと何にも生まれては来ないんでしょうよ!(^^;

   その下^3:メビウスの帯
   その下^4:クラインの壺

その下^5:ペンローズ・タイル フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ここいら辺もめちゃおもしろそう、、、ペンローズさんって天才ですね!だって、彼が初めてこんな図形を考えついた(この世に無かったものを産んだ!)んだから。今まで存在しなかったものを見つけて、この世に追加できる人が天才でしょ!?

曼荼羅

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昔、真言密教展で大ききな曼荼羅を見た時はなんだか知らないけど、圧倒された覚えがあります。

(曼荼羅 http://www.tctv.ne.jp/members/tobifudo/newmon/betusekai/mandara.html

「曼荼羅まんだらはサンスクリット語の音写で、原語の意味は、凝縮したもの、本質を備えたもの、完全にまとまったもの、などとなります。これから転じて仏さまや神様などが一定の法則と意味を持って集まったものを曼荼羅と呼びます。仏さまの悟りの境地をビジュアル化したものです。

日本では掛け軸の形で絵になっていますが、インドでは行事の度に土で壇を作り、そこへ白土を塗り砂や絵の具で曼荼羅を描きます。行事が終わると解体してもとの土に返します。

曼荼羅にはいろいろありますが、代表的なものは金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅です。この二つは対になっていて、両界曼荼羅または両部曼荼羅と呼ばれています。本尊に向かって左側に置かれるのが金剛界、右側に置かれるのが胎蔵界です。理論的には、左右という表現より東向き、西向きというべきですが、お堂の向きは必ずしも南向きとは限りません。

金剛界は正式には金剛界大曼荼羅、胎蔵界は大悲胎蔵生曼荼羅だいひたいぞうしょうといいます。金剛界は堅固な永遠の覚りの智慧、胎蔵界は仏の慈悲という母親から生まれた曼荼羅となります。」

画像:上:胎蔵界曼荼羅
   下:金剛界曼荼羅
   最下:色合いの違う(?)胎蔵界曼荼羅

この世は混沌のように見えて、何らかの法則、秩序があるはずなんだっていう願望が表されているような・・・

フラクタル画像に通じてますよね?

(フラクタル 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

下2つの画像がそれ。(マンデルブロ集合、ジュリア集合)
部分に全体が宿ってる!
どちらもすごいでしょ?現代人が発見した曼荼羅だよね!(^^)v

ヴィーナスの変遷(6)

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続きです、、、

「ヴィーナスは現代人の感覚からすると、腹がおおきすぎる。84

ルネッサンスの美神たちは、どれもがまるで妊娠しているように腹部が大きい。ボッティチェリの「春」のヴィーナス、花の女王フローラ、三美神、そして正面向きのヌードなので幾分わかりにくいが「ヴィーナス誕生」のヴィーナスも、ジョルジョーネのヴィーナスも、まるで妊婦のようにおなかが突き出ている。今日の美意識からいうと、これは少しばかり異様なのである。ただ美意識もまた時代によってかわるのだ。この腹部のふくらみは再生と新生の時代の美女の条件でもあったのだろう。」

画像:上:「眠れるヴィーナス」ジョルジョーネ (1510)

(「眠れるヴィーナス」http://www.asahi-net.or.jp/~RV3M-STU/pic710.htm

「中景のなだらかな丘の輪郭に呼応した姿で眠るヴィーナスは、裸体でありながら、官能性とは縁遠い印象です。むしろ、薄明の田園風景の一部のようであり、瞑想的ですらあります。それは、彼女の穏やかな表情だけでなく、しっとりとした色彩が紡ぎ出す印象なのかもしれません。
 裸婦を単独で描いたルネサンス最初のこの作品は、古代彫刻から想を得たものではありますが、一方、「横たわる裸婦」という西洋絵画の重要なモティーフの幕開けをしるす作品でもありました。この後、ティツィアーノをはじめとしたたくさんの画家が、それぞれに独自の工夫をこらして「横たわる裸婦」を描き、その美しさを競っていくのです。
 作者のジョルジョーネ(1476/78−1510年)は夭折したために作品数は少ないのですが、盛期ルネサンス様式の創始者と位置づけられ、ヴェネツィア絵画の流れを根本的に変えた画家と言われています。それはやはり、当時主流であった物語主題よりも、風景や人物を詩的情趣の中に描く近代的な絵画を生み出した点にあります。つまり、ポエジーの概念を打ち出した最初の画家だったと言えるのです。
 「横たわる裸婦」も、モティーフ自体は古代彫刻にしばしば見られました。しかし、それはあくまでも、場面の中の一部分に過ぎないものでした。しかし、その裸婦を物語の一部でなく、一つの美しい作品として独立させ、完成させたのがジョルジョーネだったのです。
 ところで、ジョルジョーネはフレスコ画等を制作する際、自分よりずっと年若いティツィアーノを相棒に選びました。二人の協力関係は親密なものでしたが、あまりにも近づき過ぎたためか、しばしば、どちらが描いたのか判別できないほどに作品が似通ってしまうこともありました。この作品も、ジョルジョーネ最晩年のものであることから考えて、画家が未完で残したものを、ティツィアーノが筆を入れて完成させたのだと言われています。
 ところで、こうした裸婦像には当時、特定の意味がありました。それは、結婚と関連して描かれたことからもわかります。愛と多産の女神ヴィーナスは花嫁の理想の姿であり、結婚の守護神として描かれたということなのです。この「眠れるヴィーナス」の注文主であるヴェネツィアの貴族、ジェロラモ・マルチェロもまた、作品完成の少し前に結婚しています。おそらく、新婚の二人の部屋に、この穏やかな作品が飾られていたのではないでしょうか。 」

画像:下 『ウルビーノのヴィーナス』ティツィアーノ・ヴェチェッリオ (1538)

(ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

「『ウルビーノのヴィーナス』は、西洋絵画における裸体表現の歴史を考えるうえで重要な作品である。ヴィーナスのポーズは、先述のジョルジョーネ作『眠れるヴィーナス』を下敷きにしているが、ジョルジョーネのヴィーナスが目を閉じているのに対し、ティツィアーノのヴィーナスは挑発的とも思える視線を観者の方へ向け、背景も屋外から室内に変えられている。『ウルビーノのヴィーナス』は、神話の世界の女神というよりは、肉感的な地上の女性のように見える。この作品は、ゴヤの『裸のマハ』、マネの『オランピア』などの源流と見なされている。西洋における裸体画の系譜は、神話の女神の理想化された容姿を描いたものから、現実世界の女性を描いた作品へと引き継がれていったのである。」

わたしは、「眠れるヴィーナス」の方が好きですね。(^^)

ヴィーナスの変遷(5)

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続きです・・・

「ヴィーナス誕生:「ヴィーナス誕生」

美と愛の女神の謳歌→プラトンの二人のヴィーナス説:
「プラトンは、『饗宴――エロスについて』で、パウサニウスの言葉をかり、ヴィーナスには天上のヴィーナスと俗界のヴィーナスの二種類があると主張している。――アフロディテの一方は年上で、ウラノスを父とし、母なしで生まれたもののようで、われわれはこの女神に対してウラニアという称号を奉っている。他方、年下の方は、ゼウスとディオネとの間に生まれた娘で、われわれはこの女神をパンデモスと呼んでいる。――言葉を換えれば、イデアとしての精神的なウラニア型ヴィーナスと、自然または肉体としてのパンデモス(一般人共有)型の二つのヴィーナス」83」

画像:上:ビーナスの誕生 (Nascita di Venere)1485年頃
172×278cm | テンペラ・画布 | ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

(サンドロ・ボッティチェリ-ビーナスの誕生-http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/botticelli_venere.html

「ルネサンスの巨匠ボッティチェリの傑作『ビーナスの誕生』。主題は古代アペレスの失われた名画≪海から上がるヴィーナス≫を復元したもの。本作は同じくボッティチェリの代表作『春(ラ・プリマベーラ)』と対画して、メディチ家より発注され、制作された作品とされている。また1987年に修復作業がおこなわれた。

【帆立貝に立つヴィーナス】
一般的に春(プリマベーラ)に描かれている着衣のヴィーナスは『世俗のヴィーナス』を表わすのに対し、この裸体のヴィーナスは『天上のヴィーナス』を表わすとされている。
【西風ゼフュロスと花の女神フローラ】
風に乗り、花を蒔きながらヴィーナスの誕生を祝福する西風の神ゼフロスとその妻、花の女神フローラ。ローマ神話のファウォニウスと同一視されるゼフロスには、ボレアス(北風)とノトス(南風)が兄弟とされている。
【時を司る神ホーラ】
産まれたばかりのヴィーナスに絹の布を掛けようとする、時の女神ホーラは、≪時≫又は≪永劫≫が擬人化した女神として、紀元前5世紀頃から、各地で信仰されるようになった。」

画像:中:春(ラ・プリマベーラ) (La Primavera)1482年頃
315×205cm | テンペラ・板 | ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

(サンドロ・ボッティチェリ-春(ラ・プリマベーラ)-http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/botticelli_primavera.html

「ヴァザーリにより題名は付けられた、ボッティチェリ随一の代表作『春(プリマベーラ) 』。愛と美の女神ヴィーナスを中心に、左にヘルメス・三美神、右に春の女神プリマヴェーラ・花の女神フローラ・西風ゼフェロスを配する。主題はヴィーナスの王国とされているが、その解釈については諸説あり15世紀に描かれた絵画の中でもっとも難解とされる。

【世俗のヴィーナス】
ビーナスの誕生に描かれている裸体のヴィーナスは『天上のヴィーナス』を表すとされているのに対し、本作着衣のヴィーナスは『世俗のヴィーナス』を表わしているとされている。
【三美神】
幾多の画家が描いてきた三美神。中でもこのボッティチェリの三美神と、ラファエロの描いた三美神が卓越した表現や構図からルネサンスを代表する三美神の作品として認知されている。
【諸説ある解釈】
右から春の女神プリマヴェーラ、花の女神フローラ、西風ゼフェロスとされているが、一説では春の女神プリマヴェーラ→フローラ、花の女神フローラ→クロリスとも言われている。」

画像:下:三美神(Tre Grazie) 1504-05年頃
17×17cm | Oil on panel | Musee Conde, Chantilly

(ラファエロ-三美神-http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/raphael_grazie.html

「1504年から1505年頃にかけて描かれたとされるラファエロの寓意画『三美神』。本作は同時期、同サイズで制作された『騎士の夢(知恵の寓意)』との対画であろうと考えられており、共にローマのヴォルケーゼ家が旧蔵し、現在『三美神』はシャンティイのコンデ美術館が、『騎士の夢』はロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵している。

【美と優雅の女神三美神】
ギリシャ神話における美と優雅の女神たち≪三美神≫。通常アグライア(輝き)、エウフロシュネー(喜び)、タレイア(花の盛り)の三女神を指し、美しい若い娘の姿で表される。
【ヘスペリデスの林檎】
対画『騎士の夢(知恵の寓意)』の眠れる騎士スキピオは、ヴィーナス(快楽)とミネルバ(徳)のどちらかを選択する試練を受け、本作『三美神』では(徳)を選択した騎士に、褒美として与えられるヘスペリデスの林檎(黄金の林檎)を手にしている。」

画像:最下: 『騎士の夢(知恵の寓意)』

女体は昔から美しいと思えるように人間にはプリンティングされてるんだろうな、、、きっと。
そうじゃなければ、人類は子々孫々続いては来なかっただろうし、顔はともかくとして、ボディラインは、このあたりからは感覚的に今と同じようなものを愛でていると思われますね。(^^)v
特にラファエロは時代を先駆けてない?

ヴィーナスの変貌 (3)

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続きです。

「魔女狩り:
太古から女性は、男性よりも自然にふかく接触していた。60
「太古以来、植物や薬草についての知識を受け継いできたのは女たちであった。女性の心身は、本来、豊かな自然を内包している。彼女たちは、人間と自然界や環境との間のリズムに敏感で、知覚にまで下った深いコミュニケーションをもち、人間心理の洞察も深く、それによって予言を行った。人間がまだナイーヴだったころ、そうしたすぐれた直感力を持つ女は、時には人々に畏敬の念を呼び起こさせた。」60

魔女判定の書インスティトリスとシュプレンガー共著『魔女の槌』(1487年)」

(魔女狩り 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

「魔女狩りの最盛期は16世紀から17世紀であったが、17世紀末になって急速に衰退していく。なぜ魔女狩りが衰退したのかということについてはさまざまな説があるが、どれも決め手に欠くきらいがある。たとえば17世紀はガリレオ・ガリレイ(1564年-1642年)、ルネ・デカルト(1596年-1650年)、あるいはアイザック・ニュートン(1643年-1727年)など近代的な知性の持ち主たちが次々と登場し、出版物によって人々の意識を変えた時代であったため、前近代的な魔女狩りが一気に衰退したという説明がされることがある。しかしこのような見方はあくまで現代人の見方である。印刷術が普及したといってもメディアの発達していない当時の社会ではある思想が階級や国境を超えて普及するのには長い時間が必要であり、ニュートンが錬金術に夢中であったことからわかるように、当時の先端を行く科学者たちですら、前近代的な思考スタイルから抜けていなかったことを理解する必要がある。

ただ、17世紀末期になると知識階級の魔女観が変化し、裁判も極刑を科さない傾向が強まったこと、カトリック・プロテスタントともに個人の特定の行為の責任は悪魔などの超自然の力でなく、あくまでも個人にあるという概念が生まれてきたことは確かなことである。依然として一般庶民の間では魔女や悪魔への恐怖があって「魔女」の告発が行われても、肝心の裁判を担当する知識階級の考え方が変化して、無罪放免というケースが増えたことで、魔女裁判そのものが機能しなくなっていった。イングランドで1624年に制定された魔女対策法が廃止されたのは1736年であり、最後の40年間はこの法律によって死刑となったものはいなかった。・・・

魔女狩りとは何だったのか

19世紀に入って近代的な歴史学が発展すると、魔女狩りを歴史の中でどのように理解すべきかについて多くの説が提示された。

たとえばドイツの歴史家ウィルヘルム・ゾルダン(Wilhelm Soldan)は魔女狩りとは権力者や教会関係者が金銭目当てで行ったものだという説を唱えたが、被告のほとんどが財産をもたない貧しい人々であったことや、告発者が利益を得る仕組みがなかったことが明らかになっているため、現在では否定されている。他にも、19世紀のフランス人ジュール・ミシュレ(Julet Michelet)やエジプト研究家マーガレット・マリ(Margaret Murray)は「魔女とされた人たちは、実はキリスト教の陰で生き残っていた古代宗教を信じていた農民であった」と考えたが、実際には被告のほとんどがキリスト教徒であって、当時の農民の中に異教の信仰があったという証拠は依然として何も得られていない。20世紀に入ってもゲラルド・ガードナー(Gerard Gardner)が「魔女というのはヨーロッパに古代から伝わっていた女神信仰(ウィッカ)を信じていた女性たちである」と唱え、自らウィッカなる新興宗教の主催者となった。他にもアメリカのフェミニスト研究者バーバラ・エーレンライク(Barbara Ehrenreich)とディアドラ・イングリッシュ(Diedore English)は、「魔女とされた人々は女性医療師たちであり、魔女の集会とは、女性医療師たちによる情報交換の場であった」と考え、「魔女狩りとは世俗権力や教会の指導者たる男性たちによる女性医療師への大規模な弾圧であった」という説を唱えた。しかし、この理論ではなぜ農民自身が魔女狩りを推し進めたのか、魔女狩りの被告となった少なからぬ数の男性たちがいた事実をどう説明するのかなど、理論としての精確さに欠けている。そのため、これらの説は現代の研究者たちには受け入れられていない。

20世紀に唱えられた説では、完全ではないものの複合的に要因の一つと考えうるものがある。たとえば魔女狩りが戦争や天災に対する庶民の怒りのスケープゴートであったという説。この説はペストや戦争が起こっていた時期と地域が、魔女狩りの活発さと関連していると主張するが、実際には三十年戦争のピーク時には魔女狩りが沈静化しているなど、それほどはっきりとしたつながりが見られない。次にイギリスの歴史家ヒュー・トレヴァ=ローパー(Hugh Trevor-Roper)らが唱えた「魔女狩りはカトリックとプロテスタントの宗派間抗争の道具であった」という説がある。つまりカトリックが優位な地域では、少数のプロテスタント市民に対し、魔女の烙印を押して迫害し、逆にプロテスタント地域ではカトリック市民が魔女とされたということである。しかし、この説も対立する宗派の人間がほとんどいなかった地域(たとえばイングランドのエセックス州、スイスのジュネーヴ、イタリアのヴェネツィア、スペインとフランスにまたがるバスク地方など)においても激しい魔女狩りが行われ、逆にカトリックとプロテスタントが激しく争った地域(たとえばアイルランドやオランダ)であっても魔女狩りがほとんどなかったところがあることを説明できないなど、確実な説とは言いがたい。

また、J.H.エリオット(J.H.Elliot)は魔女狩りが中央集権化した国家や教会の中枢による臣民のコントロール手段であったと考えたが、この理論では権力者が白魔術に対して寛容であったのはなぜか、あるいはなぜ教会や世俗権力が中央集権化した中世盛期に魔女と魔術を放置しており、近世初期になって突如魔女狩りが始まったのかを説明できない、権力者を一概に悪に決め付けているなどの批判がある。また魔女狩りという言葉は1970年代アメリカでフェミニストの研究者たちによって、キリスト教誕生以降起こったすべての女性への迫害をさす言葉として用いられるようになり、その犠牲者数は19世紀に女性の権利を訴えていた研究者マティルダ・ジョスリン・ゲージが出した900万人であるとさえした。時にこれを「女性へのホロコースト」という言い方をすることもある。しかし、現代の研究者たちは、女性に対する敵視が魔女狩りの原動力の一つであったことは否定しない一方で、魔女裁判の被告が必ずしも女性だけでなかったということ(たとえばアイスランドでは裁判を受けたものの80%が男性であった)も明らかにしている。

確実にいえることをまとめると、当時のヨーロッパを覆った宗教的・社会的大変動が人々を精神的な不安に落としいれ、庶民のパワーと権力者の意向が一致したことで魔女狩りが発生したということである。

現代の歴史学では魔女狩りについての通説の多くが覆されたにもかかわらず、現在の主流学説は社会に浸透しているとはいえない。現在も多くのメディアが否定された学説を根拠に魔女狩りを「キリスト教会主導で行った大量虐殺」と扱い、「キリスト教(及び宗教全般)の非寛容性、残虐性の証明」と位置づけている。」


自問自答しよう。自分は、分けもなく、あるいは、自らの理由だけで、相手を傷つけていないか?逆に、いわれなく虐げられてはいないかを!無自覚の行為もあるだろう。できるだけ、自覚して行為をしなければ。だって、無自覚な行為により傷つけたなら、こちらが気付かない限り謝りようがない。自覚してても、分けがあっても、傷つけることもあれば、傷つくこともある。サインを出そう!相手に謝れる時間を与えよう。傷つけたと思ったら、たとえ、こちらに正当な理由があっても謝ろう。謝れたなら、謝ってくれたなら、少しは傷も癒されやすいではないですか。
わたしは妻に謝らなければならない。彼女は傷ついている。理由は、正当性はどちらにあろうとも、彼女を傷つけたのがわたしであることには相違ないのだから。わたしも傷ついたけど、相手は無自覚だったかも知れないじゃないですか。わたしは、気付いたんだから、謝ろうと思います。相手が傷ついたことを知るとこちらの心も痛む。作用反作用っていうのかなあ?心の共鳴っていうのかなあ?自分以外誰も傷つけちゃあいけません。その数だけ自分の心もずたずたになるようです。なにより、人を傷つける権利なんて誰にもないはずだって信じたい。わたしも誰からも傷つけられたくないしさ!


画像:魔女の火刑

「火あぶりになることが多かったため、火刑法廷とも呼ばれた。処刑法としてはヨーロッパ大陸では焚刑(火あぶり)が多く見られた。」

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