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ときどき遭遇する「偶有性」って言葉の意味を調べてみた ^^v
http://ja.wikipedia.org/wiki/本質 より
「本質(ほんしつ)(希 ουσια (ousia), 羅 substantia / essentia)とは、あるものがそのものであると云いうるために最低限持たなければいけない性質をいう。もしくはそうした性質からなる理念的な実体をいう場合もある。或る存在を必然的にその存在として規定する内実がその本質である。伝統的には、「それは何であるか」という問いに対する答え(「何性」)として与えられるもの。
それに対して、ものに付け加わったり失われたりして、そのものが、そのものであることには関わらない(必然性のない)付帯的な性質を、偶有(性)という。
一般的には広義の使われ方として、「見せかけ」や「表面上の事柄」に対する概念としての「正体」や「真髄」など「ものの奥底にある表面的でない、中心的な、本当の性質」の意味で使われる。
対義語は現象。」
難しい・・・本質とそうでない偶有性との仕分けは恣意的になるような気がするけど...^^;?
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50261584.html より Orz〜
「偶有」整理法
「実にあざといタイトルである。「脳」整理法 茂木健一郎
本書は、「脳を整理するにはどうしたらよいか」を示すハウツー本ではない。それを期待すると肩すかしを食うことになる。ただし、「脳が世界をどう整理している」かにヒントを与えてくれる本ではある。そのキーワードは「偶有性」(contingency)。・・・これではちょっとわかりづらい。英語のcontingencyの方がよく見かける言葉で。
・・・
筆者は、「偶有性」を「半場必然、半場偶然に起ること」と定義している。そして、脳の仕事はこの偶有的事象を整理することなのだと説いている。筆者はさまざまな事例を挙げ、偶有性がいかに脳にとって大事かを説いている。脳にとって必然は退屈過ぎ、偶然は辛すぎる。カオス(混沌)とコスモス(秩序)の狭間こそ、脳が最も力を発揮する領域というわけだ。
確かに思い当たるふしはいくつもある。明日太陽が上るかどうかを、我々は気にする事はない。それはあまりに必然的で、そしてどうして必然的かは物理学という「世界知」が担保してくれる。また、自分が参加しているならとにかく人の賭け事の結果を気にすることもない。イカサマでもない限り、賽の目が偶然であることを我々は知っているからだ。
・・・経済学者は厳密には、「株価はファンダメンタルに対してランダムウォークしながら収斂する」と言っているのだが、我々は現在の株価のどこまでがランダムウォークの関与で、どこまでがファンダメンタルの反映なのかを知らない。経済が「エキサイティング」なのは、それが大いに偶有的なことの証左かも知れない。・・・まるで勝てないゲームなど始めからやる気が起らないし、逆に簡単に勝ってしまったりするゲームは退屈だ。・・・それでは脳がどう偶有を整理しているかというと、そこから何らかの必然、すなわち法則を見いだすことにあるようだ。1,2,4,8,16....という数字の列を見て、f(n) = 2^n (ちなみにf(0) = 1)を「見い出し」、「次はなに?」と言われた時に「32」と答えるのが脳の整理法と言える。しかし脳にとって楽しいのは、f(n) = 2^n を見いだすところまでで、「f(10)はいくつか」と聞かれて「1024」と答える頃にはあくびをしている。・・・しかし、この「偶有性を整理する」という脳の機能は落とし穴にもなりうるという点を本書は指摘しわすれているように思う。ランダムに配置された星々に星座を見いだすまではロマンティックでも、占星術ともなればもう脳の勇み足もいいところだ。実際こうして生まれた「秩序もどき」の弊害は、「無秩序」の弊害に匹敵するのだ。偏見を生み出すのも、また「脳」の整理法ゆえなのだ。・・・」
偶有性に何らかの法則を見出そうとするのが脳?
それは科学的にもなり、アドホックな似非科学にもなる...?
http://genxx.com/blog/archives/000187.html より Orz〜
偶有性??他者を想う可能性
「・・・
偶有性(contingency)とは、「AではなくBでもありえた/BでもありえたのにAである」こと、つまり「可能だが必然でもない/必然ではないが不可能でもない」ことだった。なにも難しい言葉を使わなくても、たとえば「運が悪い」ってのも偶有性の問題だ。論理的必然性、および明確な因果関係は無い、けれどもなぜか自分が被害者に選ばれてしまった、ということ。たとえば、運転士の速度超過など、脱線事故に必然性があったとしても、わたしの恋人が犠牲者になる必然性は存在しなかった。わたしの恋人が命を落としたのは、偶有性の問題だ。・・・偶有性は必然性(因果関係)ではないので、それに責任を求めることは出来ない。「たまたまわたしの恋人が地震で亡くなった」という偶有性の責任を取ってくれる者などどこにもいない。「運が悪かった」としかいいようがない。やるせない。やるせない状態は、耐え難い。だから、たとえば「耐震性の弱い木造建築を放置していた行政の責任だ!人災だ!」などと思いたくもなる。人は、因果関係の無い出来事にひどく怯える。偶有性の問題を、あたかも因果関係のある必然性の問題であるかのように偽装する。そのために、仏教で言うところの「因果応報」や「業」という概念が開発されたのだろう。「バチ」が当たる、とか。「運」という言葉も、偶有性の問題を必然性の装いでカモフラージュする。宗教とは、偶有性を巧みに扱う技法である。そんな感想を、最近抱いている。けれども、逆にいえば、宗教は偶有性をポジティブな意味で扱っているともいえるだろう。たとえば貧しくて苦しんでいる人が目の前にいる。この貧しさが偶有性の問題だとすれば、「わたしが彼の立場でもありえた」ことになる。ここに平等愛が芽生える。合理性・因果関係の世界に生きている私たちからすれば、「おまえが仕事を怠けただけだろ」となってしまうのだが。つまり、必然性を導入しない限り、ある他者を断罪する(=自分から切り離す)ことはできない。必然性ないし理由を見い出す営みは、自分から対象を切り離すことでもある。マザー・テレサは、生涯、身を切るような偶有性に取り憑かれていたのだろう。霊や呪術や民間療法といったものも、ある意味では、偶有性を必然性に偽装するためにおそらく開発された。科学の一部は、偶有性を必然性に(偽装ではなく)「変換」するが、そうであるがゆえに、わたしたちは科学が大好きだ。私たちが不幸な境遇に陥っている他者と接する際に、偶有性の意識に貫かれてコミュニケーションをとるならば、それは「共感(=sympathy ; 共にある感情)」となるだろう。でも、他者が(理由があって)必然性から不幸な境遇に陥ったと考えるならば、それは「憐れみ(=pity ; 自分から他者を切り離した状態)」となるだろう。・・・偶有性は共感を生む。共感が、人の根源的な愛を生む。「自業自得」という言葉がある。たとえ必然性からある人が不幸な境遇に陥ったのではなくても、わたしたちは「業」という偶有性を必然性に偽装する言葉を用いて、彼をわたしたちから切り離す。逆にいえば、悲惨な状況に陥った人々を目の前にし動揺するとき、わたしたちは何らかの偶有性を感じている。自分の心が痛むとは、偶有性を感じることである。「彼ではなく私でもありえた/私でもありえたのに彼である」と感じる可能性。「愛」という空疎な言葉をひとまず措いておくとすれば、倫理の可能性はここにしかないのではないか。
ある事故が生じる。もちろん原因追及は必要だ。原因追及の営みが、人類に進歩をもたらした。昨日のリスク論に書いたとおり、原因追及は、私情を挟まずシビアに/科学的に行うべきである。だが、原因追及がもたらす必然性の感覚は、わたしを他者から切断してしまう。「彼ではなく私でもありえた/私でもありえたのに彼である」ことを覆い隠してしまう。「共感」が「憐れみ」になってしまう。現代が「心貧しい時代である」といわれるならば、このことが一因でもあるだろう。
たとえば世界中で戦争に苦しむ人々を想うとき、「戦争反対!」のスローガンはあまり役立たない。冷静に、アメリカや中国を中心として繰り広げられるパワーポリティクスを見極める必要がある。因果関係(必然性)の推定は、科学的、冷徹に行わねばなるまい。だが、「必然性」の感覚に支配されて、苦しむ人々から自らを切断してしまうのは違う。この科学の時代にあって、どこまで自分の中に「偶有性」の感覚??他者を想う可能性??を保てるのか。一人の人間として、常に問われている。」
自分がその立場であったかも知れないという想像力の欠如(脳本来がもっていたはずの偶有性へ思いを馳せる働きの衰え?)が官僚らの瑕疵だらけ齟齬だらけその場しのぎの弥縫策を生んでる原因なんじゃないのかなあ...
私自身も,,,そりゃ身につまされる...惻隠の情は曲がりなりにも残っていてもそれ以上でもなくそれ以下でもないままの日常しか送れてない...代替不能であることの確信...=他者への無関心=自己を全うするしかないことの諦めと覚悟...幸せも不幸せも自分自身のものでしかない...
他者を思うこころが例え失われてないとしても,,,それが政治に活かされない社会なら他者にたいする無関心なままといくらも変わらない...
大多数の偶有的に負け組に属する者はみずからの力で変革を勝ち取るしか道はないのかも知れない...
生きることが快楽を追求することであるなら,,,負け組も勝ち組も平等にその権利はあるわけで...たまさか(偶有的に)負け組であるからと諦めていては,,,偶有性は必然性を帯びてしまうことになりそう...^^;?
わたしが、男に生まれ女でなかったことも、この体形でこの顔で生まれたことも偶有的なことであり、プロスポーツ選手に生まれたかも、絶世の美女に生まれたかも知れないわけで...そんなことは必然ではなく偶然なんだけど、そうであること自体は偶有性の事柄である...ってな具合に使えばいいタームだと認識してればいいのかな・・・^^?
画像:茂木健一郎
http://www.sony.co.jp/Fun/design/activity/interview/mogi_01.html より Orz〜
彼はたしか、、、大恋愛後(片思いだったっけ?)に失恋したと言ってたと記憶してる...
彼女が自分じゃなく自分以外の他者を選んだことを偶有性でもって自分自身に納得させたんじゃないのかな...なんて...^^...だって、、、その逆の可能性(彼女に選ばれる側の男でもありえた)ことに気付いたならば...少しはこころの痛手は和らぎそうだもの...^^ Orz...
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