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将棋のことは詳しくないのだけれど...^^;
少し前に、現在世界最長の詰将棋「ミクロコスモス」(橋本孝治 氏の作品)ってのを知って、調べてたとき、江戸時代の将棋指し 伊藤看寿(いとうかんじゅ)のことを知った ^^
「雑誌「将棋世界」2006年12月号の付録は、青島たつひこ氏による「将棋ライバル物語1 将棋史を彩る天才対決 伊藤宗看 VS 伊藤看寿」で、江戸時代 のスター棋士だった伊藤兄弟の物語です。最初がいきなり、例の611手詰めの詰将棋の紹介。これ、伊藤看寿がなんと13歳のときの作品なんですってね。伊藤兄弟には、嘘かほんとか伝説がいくつもあるけど、この611手詰めの詰将棋にもあって、こんな伝説があるそうです。
囲碁の6世名人本因坊道知は将棋も強かった。彼は、師匠の本因坊道策が作った大長編詰碁を見せて、看寿少年に「いくら、お前が天才でも将棋でこんな 大作は作れないだろう」と挑発したら、看寿は数日後にこの611手詰めを作っ てきたというんです。・・・
ちなみに、これ、昭和になるまで破られなかった長手数だったそうです。
数学者岡潔氏が「江戸時代は、芭蕉と宗看・看寿の詰将棋を生んだだけでも意味がある」と書いたそうですね。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤看寿 より Orz〜
「伊藤看寿(いとうかんじゅ、初代;享保4年(1719年) - 宝暦10年8月23日(1760年10月1日))は、江戸時代の将棋指し。将棋家元三家の一家である伊藤家出身。八段。死後に名人位を追贈。別名は政富。二代伊藤宗印(五世名人)の五男。兄に伊藤印達(五段)、三代伊藤宗看(七世名人)、八代大橋宗桂(八段・八世名人九代大橋宗桂の父)、伊藤看恕(七段)。子に二代伊藤看寿(後に伊藤寿三と改名)(五段)。孫に七代伊藤宗寿。・・・
看寿の献上本『将棋図式』は別称「象棋百番奇巧図式」と呼ばれ、現在では『将棋図巧』の名称で知られている。この作品集は、三代伊藤宗看の作品集『将棋無双』と共に江戸時代の作品集の最高傑作とされ、「神局」とも呼ばれる。
・・・
「煙」の図・・・玉以外の全ての駒(39枚)が配置されている。・・・伊藤看寿から昭和23年の煙詰二号局まで、腕に覚えのある詰将棋作家が、「煙詰は創作不可能、まさに神局だ」とサジを投げた・・・」
*わたしにゃ...残念ながらわかりかねます...^^;...Orz〜
長らく「将棋所」は江戸幕府から公式に認められた役職であると考えられてきたが、近年再発見され、1981年に日本将棋連盟に寄贈された「大橋家文書」によると、将棋所は名人家が独自に名乗っていた称号であったことが明らかになっている。
明和元年(1764年)に寺社奉行が大橋家当主の九代大橋宗桂に将棋所が正式な官職であるかどうか問うたところ、九代目宗桂は自分たちで名乗っている称号であると答えたという(同席した碁家の井上因碩も、「碁所」について、同様の回答をした)。また、寛政9年(1797年)には将棋所が俸禄の支給の際に「将棋所」を名乗って扶持米を受け取ろうとしたものの、将棋所は正式な役職ではないとされ、寺社奉行から「将棋の者」と改めるように指示されている。・・・御城将棋(おしろしょうぎ)とは、江戸時代の将棋所が毎年1度、江戸城内で公務として行っていた対局のこと。開始当初は時期が不定であったが、後に制度化され、徳川吉宗の代に旧暦11月17日 (旧暦)に行われるようになった。現在では新暦の11月17日が「将棋の日」とされている。将棋所の唯一の公務であったため、従来は将軍の面前での御前試合のような位置づけであり、御城将棋に参加した将棋指しはいかなる理由があろうと退席はできない(「親の死に目に会えない」)ものと考えられてきたが、近年発見された大橋家文書などの資料に基づく研究により、これらの考えが必ずしも正しくないことがわかってきた。・・・」
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