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こんにちは、ゲストさん
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『露伴の三福』...いい言葉だと思った♪...but...
「・・・学生時代を通じて、俳諧や漢学を修め、逓信省電信修技学校に学び、北海道で電信技師になりますが、やがて、文学に卓抜した際を示すようになります。20歳の年に帰郷すると、小説『五重塔』などを発表。同世代作家・尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる、明治文学の一時代を築きました。
また、古典や諸宗教の研究にも優れ、井原西鶴(さいがく)や松尾芭蕉の作品の注釈、多くの史伝も発表。その一方で、つりなどの庶民的な喜びを豊かに語っていきました。
さらに、“江戸が衰退した一因は、萎縮せる人士、自己中心主義の人士”(一国の首都)と、エゴの殻に閉じこもる卑屈さ、利害にとらわれる生き方が社会の発展を妨げ、人間の氏名の自覚、内面の覚醒こそ、社会の肝要であるとするなど、鋭い文明論も展開していきました。
教育への貢献、新しい人材の育成など、社会万般の発展にもつくした幸田露伴の生き方は、その流麗な文体とともに、多くの人々に影響を与えています。(ほるぷ出版『世界伝記大辞典』から)」
*印象は...開高健みたいな気がした... 博学多才、釣り好き...雰囲気も...^^
「有福<惜福<分福<植福
『努力論』(幸田露伴)より、
有福は祖先の庇蔭に寄るので、尊むべきところはない。惜福の工夫あるに至って、人やや尚(たっと)ぶべしである。分福の工夫を能くするに至って、人いよいよ尚ぶべしである。能く福を植うるに至って、人真に敬愛すべき人たりというべしである。
福を有する人はあるいは福を失うことあらん。福を惜しむ人はけだし福を保つを得ん。能く福を分つ人はけだし福を致すを得ん。福を植うる人に至っては即ち福を造るのである。
植福なる哉。植福なる哉。
自分に有る幸福はいろいろあるでしょう。親や祖先からもらった幸福、人生の中で出会えた幸福、自分の力で得た幸福、誰もがもっている幸福、・・・。自分では気づいていない有る幸福もけっこうあるのではないでしょうか。自分のまわりに有って良かった物(無いと困る物)、自分がふつうにできること(できないとつらいこと)、まわりにいてくれる人(いないと困る人)、・・・。できるだけ自分の幸せに気づき、時には幸福を感じられるようになれるといいでしょう。・・・」
*これって...人生のスタートラインがたとえ「福」でも謙虚であり、たとえ「貧」でも何ら恥じることでもないのよってことですよね !!...で...つまるところ、「努力」ができるかどうかってこと、それを讃えてるんだと思うんだけど...彼は...その努力ができる人はそれができるという才能=有福であることまでは思い至らなかったのだろうかなぁ...^^;?
心の旅人 http://naka.mo-blog.jp/kokoro/2005/09/post_d8de.html より Orz〜
「・・・運不足や幸不幸は、すべて必然、偶然の巡り会わせと考えてはいけない。幸福に遭える人をよく観察すると、次の三つをうまく工夫できる人だといえる。
一、惜福
惜福とは、福を惜しむ、即ち、福を使い果したり、取り尽くしてしまわないことをいう。有り金を浪費したりするのは、惜福の知恵がないのである。正当なこと以外には、無駄遣いしないのが惜福である。 二、分福
「うまい酒ほど他人と一緒に飲め」という諺がある。分福とは、ひと口でいうと、自分の得た福を他人に分け与えることである。惜福と分福とは、互いに表裏をなしており、惜福は自らの幸福を抑制し、分福は幸福を他人に分け与えるものである。 人の世は、時計の振り子と同じで、右へ動かした分だけ左へ動き、左に動いた分だけ右へ戻る。「天道は復することを好む」というが、自分から福を分け与えれば、人も又自分に返してくれるものである。
三、植福
植福とは、自分の力・情・智をもって、人の世に幸福をもたらす物質・情緒・知識を提供することである。植福という一つの行為は、二重の結果を生む。自己の福を植えると同時に、社会への福を植えることになり、その結果、自己の福を収穫するとともに、社会の福をも収穫できるのである。 今日のような社会が成り立っているのは、すべて祖先の植福の賜物である。文明というものは、すべて先人が福を植えてくれた結果である。災禍は、すべて福を破壊した結果である。」
*惜福と分福って...相矛盾しそうな気がするけど...?...だって...卑近に言うと...節約と消費じゃないかな...? 国が、最低限の生活保障をしてくれるなら、みんな宵越しの金を惜しまず蕩尽し、世の中にお金が回りそうな気がしてるわたし...夢物語だって言われるだろうけど...そんな社会を目指すべきだと思ってる...働いた分だけ使おうよっていうことなのよ!!
植福ってのは本来国とかのフィクショナルものがするべきで...現世のリアルな人間はそこまで将来のことを考えては生きてない/生きられないんじゃないのかなぁ...?...ちょっと偽善的な標語の気がする...Orz...三方よしだって...あれは、社訓でっしょ?...個人じゃなかなかできゃしないからこそ、会社やら国家やらが考えておくべき次元のことだと...^^;
http://ja.wikipedia.org/wiki/幸田露伴 より Orz〜
「幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7月30日)は、日本の小説家。本名は成行(しげゆき)。別号には、蝸牛庵(かぎゅうあん)、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都)下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文も随筆家・小説家。『風流仏』で評価され、『五重塔』『運命』などの文語体作品で文壇での地位を確立。・・・擬古典主義の代表的作家で、また漢文学・日本古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。・・・同世代の尾崎紅葉ととも「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され明治文学の一時代を築いた露伴は、近代文学の発展を方向づけたとされる。また尾崎紅葉・坪内逍遥・森鴎外と並んで、「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもある。・・・1907年(明治40年)、唐の伝奇小説遊仙窟が万葉集に深い影響を与えていることを論じた『遊仙窟』を発表。1908年(明治41年)には京都帝國大学文科大学初代学長の旧友・狩野亨吉に請われて、国文学講座の講師となった。同時期に内藤湖南も東洋史講座の講師に招聘されている。この両名はそれぞれ小説家として、ジャーナリストとして当時から有名であったが学者としての力量は未知数であり、狩野の招聘は破天荒とさえいわれた。
露伴の指導を仰いだ青木正児によると、日本文脈論(日本文体の発達史)・『曽我物語』と『和讃』についての文学論・近松世話浄瑠璃などの講義内容で、決して上手な話し手ではなかったが学生の評判は非常によかったという。ただし、黒板の文字は草書での走り書き、しかも体格ががっちりして頭が大きいのでその文字を覆ってしまい学生達はノートを取ることが難しかったという。露伴は学者としても充分な素養があったのだが、何かの事情により夏季休暇で東京に戻ったまま、僅か一年足らず(京都へ移り住んだのは当年初めだった)で大学を辞してしまった。露伴自身は冗談めかして、京都は山ばかりで釣りが出来ないから、と述べているが、官僚的で窮屈な大学に肌が合わなかったようだ。また、妻の幾美子が病気がちであったことも理由に考えられる(幾美子は翌1910年に亡くなっている)。皮肉なことに、大学を辞めた翌年の1911年(明治44年)に文学博士の学位を授与されている(『遊仙窟』が主要業績)。 しばらく作品を発表しなかった時期の後、『幽情記』(1915年から1917年の作品をまとめた短編集)『運命』(1919年)を発表、大好評を博して文壇に復活する。これらは中国の古典を踏まえた作品であり、これ以降も中国から素材をとった作品を多く発表している。小説を書くだけではなく、道教研究でもパイオニアの一人であり、世界的にまだほとんど道教が研究されていない時期に幾つかの先駆的な論文を表している。これらの評価については、『運命』は谷崎潤一郎らの絶賛を博したが、高島俊男は中国の史書の丸写しに過ぎないと批判している。道教研究に関しては南條竹則が「道教の本を色々漁ったが、最も感銘を受けたものは露伴とマスペロのものだった」と述べており、アンリ・マスペロの「道教」と並んで未だに道教研究の古典として名高い。・・・」
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同じく...SANMARIE*COM http://sanmarie.me/when-hally-met-sally より 引用〜m(_ _)m〜
「結婚」とは何ぞや? 映画『恋人たちの予感』夫婦とは、会話である。
という名言を残したのは、一生独身で過ごした哲学者のニーチェだ。
彼の場合、「自らのポリシーで生涯独身を貫いた」というよりは「意中の女性と結婚できなかった」理由の方が大きく、傷心深い一生だったのだけど、そんなニーチェが上記のような言葉を残しているのは興味深い。
実際、「夫婦とは、会話である」というのは、本当にその通りだと思う。
日本で夫婦と言えば、「風呂、メシ、寝る」この三言で事足り、言わなくても『あ、うん』の呼吸で分かり合うのが理想、という考えが(今も隠然と)存在し、実際、それで上手く暮らしが回っている家もあるのだろうけど、たいていの場合、会話のないカップルに未来はない。
デートしても、男は新聞を広げて女性の顔を見ようともしないし、女性はコーヒー飲みながら片手でケータイをピコピコ、それが心地よい距離感としても、「魂から幸福か」と問われたら、疑問符が並ぶことも多いのではないだろうか。
夫婦(カップル)にとっての会話。それは心の応酬である。良き夫婦になるために、いつもいつも経済や哲学のような高尚な話をする必要はないし、すべてにおいてお互いに同意しなければならないという法則もない。
ただ、同じ物を見て、同じ感想がふっともれる。
「夕焼けがきれいだね」「あ、ホントだ」。そんな一瞬の心の共有。
あるいは「私はこう思うけど」「僕はこう考える」といった主張の自由と意見の受容。
そういう積み重ねの上に、生活や人生の難しい問題が支えられる。
たとえちょっとした芸能人の話題にしても、「夫婦の会話がない」ということは、心の接点も、意見の擦り合わせもなく、「ひとり」と「ひとり」が席を並べて座っているようなものだ。「ふたりで生きる」というのとは、だいぶニュアンスが違う。
多くの場合、夫婦の会話がなくなる時、結婚自体も終わってしまうので、たとえ好条件にかなっても、会話が弾まない相手との結婚はいずれ仮面夫婦を生み出すことになるだろう。
そう考えると、結婚に必要な条件は、一に会話、二に会話、三、四がなくて、五に会話、といっても過言ではない。
デートする際、相手の気遣いや振る舞い、生活態度や人間関係をチェックするのは重要だけども、それ以上に結婚生活の幸不幸を決定づけるのが『会話の楽しさ』だ。
たとえ条件にいくつか難があっても、「話して楽しい」「良い刺激を受ける」「映画を見ても音楽を聴いても同じような感想が飛び出す(異論にしても意見の応酬が楽しい)」のであれば、そのカップルは生涯にわたって上手く行くだろう。
逆に、「何を言っても否定したがる」「相手の話に尊敬できる点がない」「あれこれ話したいと思わない」のであれば、表面上は穏やかでも、土台から確実に崩壊しはじめる。
それぐらい『夫婦の会話』というのは結婚生活の根幹をなすものだし、会話の弾まない相手と何十年も添い遂げるほどつまらないものはないのだ。
そんな夫婦のあり方をコミカルに描いたラブコメディの傑作が『恋人たちの予感http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=ma046-22&l=as2&o=9&a=B002XRQMV4』。原題はWhen Harry met Sally。英語圏で典型的なラブストーリーを「a boy meets a girl」という言葉で表すが、そのもじりである。
「ラブコメの女王」と呼ばれるメグ・ライアンの出世作であり、ノーラ・エフロンの脚本は今もハリウッド史上に残る名作として知られている。ハリー・コニックJrの挿入歌『It had be to you(それは君だったんだ)』も素晴らしかった。
・・・
この映画は本当に二人がよく喋る。男女関係やセックスについてはもちろんのこと、本の読み方、理想の結婚、友人のこと、社会のこと、仕事のこと、etc。目に映ったもの、心に浮かんだこと、すべてを言葉にして相手に言わずにいられないという感じ。そして当然ケンカもするし、相手の頑固さや理屈っぽさに呆れることもしばしばだが、言い換えれば、それだけ自分をオープンに見せて、癖や欠点までいろいろ知られても、「嫌われる」という不安や恐れがないということ。 むしろ、そこまで知られても一緒に付き合ってくれるという安心感の方が大きい。
そしてまた、ここで重要なのは、どんな小さな事でも『相手と共有したい』という気持ちがあるかどうかだ。
ハリーとサリーは別々に暮らしているが、夜、ベッドの中で、同じTV番組を見て、電話で感想を話し合った後、受話器を置いて眠りに就く。
ようやく自分の気持ちに気付いたハリーがサリーにプロポーズする時、
「一日の最後におしゃべりりしたいと思う相手は君だ」
と言うけれど、これぞ結婚の本質ではなかろうか。
「話す」ということは「心を離す」──様々なこだわりや恐れから解き放たれて、自由になることである。
会話が生きる限り、関係も生き続ける。一見なんでもないことだけど、「一日の最後におしゃべりできる相手」がいることは、実は、生きていく上で、意外と大きな力になるものなのである。・・・」
*女性のエッセイですから、上に書かれてることが女性の心理/真理であり、女性がメロッとなる魔法の言葉が...
『一日の最後におしゃべりりしたいと思う相手は君だ』!! なんですね ^^
でも...この言葉には...
男からしたら...セックス織り込み済みの言葉と思ってしまうんだけど...^^;...
よい意味でお互いに誤解しなきゃ男女って結ばれないってのは真理じゃないかなぁ...^^;?
「人は判断力の欠如によって結婚し、
忍耐力の欠如によって離婚し、
記憶力の欠如によって再婚する」
(アルマン・サラクルー)
画像:さくらの映画スイッチ http://movie-sakura.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-d54b.html より Orz〜
「原題: When Harry Met Sally
監督: ロブ・ライナー
出演: ビリー・クリスタル , メグ・ライアン , キャリー・フィッシャー , ブルーノ・カービイ
制作: 1989年 アメリカ
収録時間: 96分
1989年に大ヒットした映画。主演はメグ・ライアンとビリー・クリスタル。メグ・ライアンが、ムチャクチャ可愛い!! 当時28歳、でも初々しい〜。これで「ラブコメの女王」に君臨しました。
「男と女はただの友達になれるのか?」という永遠のテーマに迫るラブコメ!!男のハリーは「セックスが邪魔して男と女は友達になれない」と主張。女のサリーは「セックスなしの男友達だってありえる」と。この永遠のテーマを二人が身を持って証明していく物語。英題は「When harry met sally」。邦題の「恋人たちの予感」に軍配! くっつきそうでくっつかない、“恋の予感”が散りばめられていて、たまらん〜。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/恋人たちの予感 より
「『恋人たちの予感』(原題:When Harry Met Sally...)は、1989年に公開されたアメリカ映画。ノーラ・エフロン脚本、ロブ・ライナー監督。ニューヨークを舞台にした恋愛映画。本作で主人公の男女が食事をするカッツ・デリカテッセンは、日本のガイドブックで掲載しない例外がない程の名所となった。日本ではみゆき座の上映300本記念作品として話題となり、約2ヶ月半のロングラン・ヒットとなった。2002年に木村佳乃主演で舞台化された。男と女が本当の友人になれるのかという命題に、久しぶりに再会する男と女を通じて描いたロマンティック・コメディ。」
観てみたい映画です♪
古今東西、結婚を夢み、結婚に破れ、裏切られ、...そんな毀誉褒貶の激しいもの...
しなきゃわからない...お互いに...
そこで学習するしかないとしたら...そこで学習できるとしたら...
結婚ってのは何回か繰り返した者同士の間でのみでしか...
完成態ってありえないのかもなぁ...^^;...?
以下にそんな気持ちを代弁する格言をば...^^;...
「夫婦が長続きする秘訣だって?それは、一緒にいる時間をなるべく少なくすることさ。
(ポール・ニューマン)
結婚をしないで、なんて私は馬鹿だったんでしょう。
これまで見たものの中で最も美しかったものは、腕を組んで歩く老夫婦の姿でした。
(グレタ・ガルボ)
女は二種類に分けられる。結婚だけを夢見ている独身の女性と、離婚だけを夢見ている既婚の女に。 (ジョルジュ・エルゴジィ)
三週間互いに研究しあい、三ヶ月間愛し合い、三年間喧嘩をし、三十年間我慢しあう。そして子供達が同じことをまた始める。 (テーヌ)
女が再婚する場合は先夫を嫌っていたからで、男が再婚する場合は先妻を熱愛していたからだ。女は運を試し、男は運を賭けるのだ。 (ワイルド)
もし人生をやり直すのだったら、私は結婚しないでしょう。 (チェーホフ)
男と女とが結婚したときには、彼らの小説は終わりを告げ、彼らの歴史が始まる。
(ロミュビルュス)
孤独が怖ければ結婚するな。 (チェーホフ)
現代では一回では上手く結婚できることは決してない。やり直す必要がある。
(アルフレッド・カピュ)
離婚の動機ですって?ありますとも、弁護士さん。それは、私が結婚してるということです。 (エミール・ポラック)
離婚は進んだ文明にとって必要である。 (モンテスキュー) 「結婚した人々の唯一の楽しみは、他人の結婚に立ち会うことである……悪魔的な楽しみだ」
(ラモン・ゴメス・ド・ラ・セルナ)
「恋は人を盲目にするが、結婚は視力を戻してくれる」 (リヒテンベルグ)
「ウェディングケーキはこの世で最も危険な食べ物である」 (アメリカの諺) 」
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花言葉...恥じらい、はにかみ...
ニーチェ格言集 http://kuroneko22.cool.ne.jp/Nietzsche.htm より Orz〜
あなたにとってもっとも人間的なこと。
それは、誰にも恥ずかしい思いをさせないことである。
―「悦ばしき知識」―
わたしゃ...恥じ入らなけりゃならない...
非人間的な振る舞いを何と恥ずかしげもなく平気でし続けてきたんだろう...
恥を知れ!! 恥を!!!
やっぱり...わたしゃ...人間じゃないのかもしれない...^^;...
冷血動物なんだわ...
赤い血が流れてないんだわ...
but...
いつも思うんだけど...言葉はその真逆が現実だからなんだよね...
彼が、恥ずかしい思いをしたがゆえに...相手に対して憎しみを覚えるくらい悔しかったのか...
あとで、彼自身が相手に恥ずかしい思いをさせてしまい、あとの祭り/後悔先に立たずってな具合になっちゃったことに対する、自分への戒めの言葉かもしれないんだけどねぇ...
人はプライドを傷つけられたとき、理不尽にも、自己防衛的に...目には目を的に...敵討ち的に...
相手に対してその損害の補償を/償いを求める権利を有するわけだよね...?
相手を辱めたものは...その覚悟しなけりゃいけないし...
それに気づいたなら...すべからく、許しを乞わなければならないんだと思う...
恥には恥を!! ってのは...正当なる権利=人間的なるプライドの回復のための...?
恥の定義って?
何を恥と思うかもアモルファスなんだとしたら...自分の物差しで考えるしかないわけだけど...
決して、世間体じゃない...恥の文化の恥の物差しは...?
世間体的に恥と考えられる行為の主体になることを恥と考えたわけですよね?
世間から後ろ指を指されることが恥だって...
そうじゃなくって...
相手に恥をかかせることが恥なんだって思えることが人間的な発想なんだって言ってるのよね!!...
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ニーチェっておもろい言葉いっぱい残してるんだ♪
なぜに、デカンショ節(『デカンショデカンショで半年暮らす あとの半年ねて暮らす』...「デカンショ節は学生歌という経歴を持つことから、かけ声の「デカンショ」は、「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略であるという良く知られた説もある。」...http://ja.wikipedia.org/wiki/デカンショ節 より)にゃ出て来なかったんだろ...^^;...?
ニーチェの格言集 http://kuroneko22.cool.ne.jp/Nietzsche.htm より Orz〜
人生を危険にさらせ。
―「悦ばしき知識」― 火事場のバカ力みたいに、危機に遭遇時、感覚は研ぎすまされる!! それまで見えなかったものが目の前に顕現する!! 真理の女神は彼らの前にしかその姿/裸身は見せてくれやしないのよ!!
逆に...安穏生活、茹でガエルじゃ...目映い女神様のお姿も見えず、そんな自分に備わってるかもしれない潜在能力も知ることなく消え去ってくのみ...せっかく賦与されてるかもしれない能力をこの世に放出することなく、のほほんと生きながらえることは、自分と人類への冒涜であり、もったいないことであり、罪である。今以上仕事増やしたくないと思ったらそこまで...背負えるだけの荷物は背負えるようにこの世に人はパチンコ玉のようにはじき出されているのよね!!
また、そんなスリルを味わうことの中にのみ「生の醍醐味」が醸し出されてるんだって!! ひとは、ジェットコースターしかリフリーフォールしかり、バンジージャンプ然り、単独太平洋横断然り、コロンブスの新大陸発見に向けた航海然り、こいつと一緒に生きて行こうと決断すること然り...^^v
生きてるって...その都度、賭けてるってことであり、しかも、その賭けはハイリスクほどそのリターンの快感の程度はハイなるものを手に入れられる資格ありってこと!! これは...公平なるアウトカムだよね? 『天は自ら助くる者を助く』 (Heaven helps those who help themselves.)わけだもの !!
画像:http://riversblog.exblog.jp/12929534/ より Orz〜
「・・・よく知られているように、ニーチェは晩年、精神錯乱に陥りました。発狂したのが、1889年1月3日。トリノにいたニーチェは、鞭に打たれていた馬に駆け寄りその馬を抱きしめて泣き崩れ、そのまま昏睡状態に陥ったと伝えられています。1900年8月25日にワイマールで亡くなるまで、その10年あまり、母親に、その後は妹に見守られて過しました。
そんな発狂後のニーチェについて、哲学者・木田元氏が、日経新聞のコラムで以下のように書いています(日経新聞 8月26日の夕刊より)。 (ニーチェの)母親が知人の家を訪ねようとすると、まるで子どものようにニーチェが後を追ってくるので、彼女は彼をその家のピアノの前に坐らせ、いくつかの和音を弾いて聴かせる。すると彼は、何時間でもそれを即興で変奏しつづける。その音の聴こえるあいだ、母親は安心して知人と話ができたという。・・・」 なぜ、みんなことごとく...わたしの好きな、カントールもゲーデルも、ゴッホも...
発狂しちゃうんだろなぁ...?
「愛」でこの地上につなぎ止められなかったから...きっと、どこまでも浮遊し続けちゃったんじゃないのかなぁ...?...^^;...
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