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こんにちは、ゲストさん
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これは...わが意を得たり!! |
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字がきれいだね !! むかしの人は書の手ほどきを受け...それが教養の一つと考えられてたんだろか...? どうしてもきれいな字で書けないわたしなんか...むかしだったら困ってるだろな...^^; http://torasa.fukikou.net/kome100/jouzaisenjou.html より Orz〜 「「常在戦場(じょうざいせんじょう)」とは、読んで字の如く、「常に戦場にあるの心を持って生き、ことに処す」という意味です。今でも長岡市に行けば、この「常在戦場」の文字が見られますし、長岡藩軍事総督の河井継之助や連合艦隊司令長官の山本五十六をはじめ、いろんな人が、この「常在戦場」の文字を残しています。・・・」 個人的には...余り好きじゃないけど...だって...いつも殺気を感じながら生きてるのって...心休まらない...
神経すり減っちゃう...^^;... どうせなら...常在浄土/常在竜宮/常在天国...がいいけど...何だか妖しい名前になってきたなぁ...^^;...Orz~ |
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こんな哲学的な歌を詠んでる方がいらっしゃったのね♪ その方は...北条時頼さんだって!! 解釈は以下のサイトのようにわたしも思う... http://nc29.vox.com/library/post/一対一.html より Orz〜 「心こそ心まよわす心なれ心に心心ゆるすな (柳生新陰流道歌 柳生但馬守宗矩) 自身の心こそが心を迷わす原因である自身の心にこそ心を許すな」 http://www18.ocn.ne.jp/~bell103/syukyosisotakuwan.html より Orz〜 「沢庵の事績の中で、注目すべきは、柳生宗則に対して宛てた手紙をまとめた「不動智神妙録」という小文である。沢庵はこの中で、禅の考え方とも言うべき心に意識を留めず、常に自由自在の心を持つことこれが不動智であると言っている。不動智とは、不動明王の智恵のことであり、不動心というのは心が動かないことではなく、心を「少しの間」も、瞬間をも心に留めない事をいう。心を一か所にとどめぬよう常に自由にしておく。動かされない心とは、他人の感化を受けない心であり、自分の心が自由自在に動く心のことである。これは、心を一点に留めず万事に対応できる様にする心である。そうして臨機応変に対応できる心、留まることのない心を無心という。心を止めれば迷いを生ずる。これを煩悩という。過去に執着してはならない。沢庵は、そうなるためには、執着する心を捨てよと言う。捨てて、捨てて、捨てまくる。心を心に留めなければ、心をいかようなりとも変化させる事ができるから、何事にも対応できる。行雲流水こそ、悟りの境地である。禅の極意を剣の道に適応したものであるが、身体が自然と動き敵に対応するためには、智恵の他技術が大切だとしている。 ・相手の動きにとらわれて、自分の動きを殺すな。 ・過去に執着してはならない。過去を絶つことを「殺す」という。 仏にあっては、仏を殺し、父母にあっては父母を殺す。あるは只無心。 本心を開放する事を前後際断という。花は無心に香っている。 全て問題は、心から発する。 沢庵は言う。
心こそ心迷わす心なれ 心に心心許すな
私には、丁度、考えることがあった。考えが進み、心が常に「ある物事」ととらわれている状態となった。寝ても覚めても、そのことが浮かんで憂鬱になった。そこで思い出したのが、道元の「心身脱落」という「正法眼蔵」の言葉である。禅についての勉強を再開した。すると当時理解できなかった禅思想が、面白い程実感として体得できるようになった。禅は、思想ではない。「今」この瞬間瞬間を大事に生きる事なのではないか。死という限りが判る歳になった。無常観に支えられると、生きている間にすべき大事なことが判ってくる。大事なことを実現するため、どうでもいい「他人のこと」等、かまっている暇はないと実感した。相手が変わらないのなら自分の方で変わる、それも智恵である。相い対するものの実相、真実を見抜く努力をしなくてはならない。今まで、表層、形を見過ぎていた。・・・沢庵の辞世の偈(げ)(=遺偈(ゆいげ))は「夢」であった。夢の一字をしたため、1645年、73歳で世を去った。人生ははかない夢のようだというのか、権勢者秀吉も死の間際同じ感想を漏らした。禅の教えは、無常観を体得し、生を無駄なく過ごすことである。 沢庵の墓(沢庵和尚の菩提寺 東海寺)の背後に、最近建てられた「夢」の文字を刻んだ供養塔が建てられている。寺で無縁仏を供養するために建てたものである。・・・」 http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa/page183.htm より Orz〜 「夢路を出で、夢路に至る人生の旅 徳川三代将軍家光の時代に生きた沢庵禅師は「夢」の一字で一喝して73歳にして逝ったと伝えられています。この沢庵禅師は、辞世の偈である「夢」の一字をもって、千言万語をもってしても、とうてい説きつくせない真理を説いています。 「百年三万六千日、弥勒・観音是非をみる、是もまた夢、非もまた夢、弥勒もまた夢、観音もまた夢、仏云く、まさに是くの如き観をなすべし」 と添え書きして、沢庵禅師は「夢」の一字を辞世の偈として遷化されたそうです。 「まさに是くの如き観をなすべし」とは金剛経の 「一切の有為の法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如くまた電の如し、応に是くの如き観をなすべし」 という偈からでている言葉だといわれています。 戦乱の世に生きた武将たちも、人生は夢の如しと、辞世の句をよんでいます。 織田信長 「人間五十年 下天のうちに比ぶれば 夢幻の如くなり 一たび生を得て 滅せぬもののあるべきか」 明智光秀 「逆順無二の門 大道は心源に徹す 五十五年の夢 覚来めて一元に帰す」 上杉謙信 「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒」 豊臣秀吉 「露とをち露と消えにしわが身かな 浪速のことは夢のまた夢」 百年三万六千日を生きたとしても、過ぎてみれば夢の如し、夢のような人生です。人は生前のことは知らない、夢の世界から生まれてきて、物心ついて自分という存在に気づく。人と夢と書いて儚いというが、人生は短くて、あっという間に過ぎ去っていく、そして人はまた夢の彼方に去っていく、夢路を出で、夢路に至るのが人生の旅です。そんな儚い一瞬の人生を、居眠りしていては生まれてきた甲斐がない、目覚めよと、沢庵禅師は「夢」の一字で一喝されたのです。・・・ ありあまるほどの財産があっても、心豊かに健康で長生きできるとは限りません。その日暮らしの貧しい生活の中にも、笑いとあたたかさが満ち溢れた幸せがある。金や名誉はやがて消えてなくなってしまいます、栄枯盛衰は邯鄲の夢の如しです。・・・ 迷い・煩悩・執着が完全に払拭されなければ、この世の真実の姿を観じとることはできません、なぜならば人間の認識は独断や偏見でしかものごとをとらえようとしないからです。人は生きてる限りこの迷いの世界から容易に脱けきれません、それで沢庵禅師は夢見心地でなく、しっかりとこの世の真実の姿を見極めよと説いたのです。 道元禅師は「夢みるのも覚めているのも、もとより一如であり、実相である」と教えておられます。 今、生きているこの世も、そして人生も、すべてが無常なるもの、すなわち生滅してとどまることなく移り変わるものだから夢の如しです。そして、それはそのままに、この世の真実の姿・実相そのものです。居眠りしているから己の心が乱れ、迷っているのです、眼をしっかりと見開らけば、実は無上の悟りの世界(真実・実相の中)に生きているのだということに、気がつくでしょう。・・・」 「北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。8代執権北条時宗の父。 執権時代 幼い頃から聡明で、祖父泰時にもその才能を高く評価されていた。12歳の時、三浦一族と小山一族が乱闘を起こし、兄経時は三浦氏を擁護したが、時頼はどちらに荷担することもなく静観し、経時は祖父泰時から行動の軽率さ、不公平を叱責され、逆に静観した時頼は思慮深さを称賛されて、泰時から褒美を貰ったというエピソードが吾妻鏡に収録されている。しかし、吾妻鏡の成立年代を鑑み、この逸話は時頼を正当化する為に作られた挿話の可能性があることが指摘されている。兄経時の病により執権職を譲られて間もなく、経時は病死した。このため、前将軍藤原頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、寛元4年(1246年)5月には頼経の側近で北条氏の一族であった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して軍事行動を準備するという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧するとともに反北条勢力を一掃し、7月には頼経を京都に強制送還した(宮騒動)。これによって執権としての地位を磐石なものとしたのである。 翌年、宝治元年(1247年)には安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼした(宝治合戦)。これにより、幕府内において北条氏を脅かす御家人は完全に排除され、北条氏の独裁政治が強まる事になった。一方で六波羅探題北条重時を空位になっていた連署に迎え、後に重時の娘・葛西殿と結婚、時宗、宗政を儲けている。 建長4年(1252年)には第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。これが、親王将軍の始まりである。 しかし時頼は、独裁色が強くなるあまりに御家人から不満が現れるのを恐れて、建長元年(1249年)には評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年に短縮したりするなどの融和政策も採用している。さらに、庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護している。家柄が低く、血統だけでは自らの権力を保障する正統性を欠く北条氏は、撫民・善政を強調し標榜することでしか、支配の正統性を得ることができなかったのである。 評価 時頼は質素かつ堅実で、宗教心にも厚い人物であった。さらに執権権力を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を敷いた事は、今でも名君として高く評価されている。直接の交流こそなかったが、無学祖元、一山一寧などの禅僧も、その人徳、為政を高く評価している。このような経緯から、能の『鉢の木』に登場する人物として有名な「廻国伝説」で、時頼が諸国を旅して民情視察を行なったというエピソードが物語られているのである。 一方で、本居宣長などは国学者の観点から忌避し、新井白石も著作の『読史余論』の中で、「後世の人々が名君と称賛するのが理解できない」と否定的な評価を下している。 時頼は南宋の僧侶・蘭渓道隆を鎌倉に招いて、建長寺を建立し、その後兀庵普寧を第二世にし兀庵普寧より嗣法している。宝治2-3年(1248年-1249年)にかけて、道元を鎌倉に招いている。・・・」 賢人政治は理想論であって...衆愚の羨望/根拠のいい加減な反感に対し...懐柔策を弄したのではなく...そうせざるを得ないことを知悉してたんだろうかなぁ...? バカらしいとは知りながらの諦め...朱に交わろうとすれば...朱に染まらざるをえないことを厭わぬわけにゃいかない...^^;...Orz...ポピュリズムの魁っていうか...権力の頂点を目指すには通らざるを得ない道ってことなんだろか...?
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