偏愛極私的感傷遺話

お気に入りの音楽が纏う極私的来歴に暫しお付き合い下さい

おまけ

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つづき

翌朝、お遣い物にしようと以前買い求めたことのある漢方まぶしのような生八橋の高級バージョンを、常宿としているホテルの地下にある土産物コーナーに買いに行ったところ、たまたまに売り切れており本店でしか売っていないという。こだわることもなかったのだけれど、チェックアウト後ひとりで南座向かいの八つ橋屋の本店まで行って買い、家人が買い物をしている錦市場へ向かった。

雨模様の四条。四条大橋から河原町、八つ橋を買う前に買い込んだ好物のカルネが十数個入った志津屋の袋をぶら下げて、人波を分けながら歩くその道すがら、宝くじ売り場の前を通ると
“此処で買ったら当たるぞよ”
と、誰ぞの声が聞こえた(ような気がした)。
これは贔屓にしているお狐さんか野宮さん、はたまた嫁ぎ先の決まったお雛様が、常日頃の方正なる我が品行に応えてのご褒美に違いない・・・ということで、今まで買ったことがなかったが迷わず連番10枚とバラ10枚を購入した。

ありがたい“ご宣託”に加えて、宝くじの当籤者は山羊座が多い、とのこと。
脳天気な山羊座はもう当たった気になって、まぁ、あとは当籤金額の問題だな、と。
可能性としては連番で3億、バラでも1枚ぐらい・・・ということで、ビギナーの膨らむだけ膨らんだ脳天気な期待が向かう先は、その使い途。

名古屋まで出かけて銀行で大方換金した当籤金はどどんと車に乗っけて帰るとして、まずはそれを取引銀行に持ち込んで借入金とローンを一括返済しよう。会社の累積赤も消して、それから・・・と、元もと物欲に乏しく新しいテクノロジーにも疎い身としては、モノとして差し当たり思い浮かぶのは、せいぜい車を新しくして、ぐらい・・・と普段の貧しい消費社生活を反映しているわけで。リアリティがあるのはここまで。じゃぁ旅行に散財といっても海の向こうはこれっぽっちも興味が無いので、せいぜいがところ温泉宿の特別室にってな発想しかないのがちと淋しい。
必ずするのは、財布を膨らませて街に繰り出してのお大尽ごっこ・・・でも、何をしたい何を買いたいというのは全く浮かばない。そうそう、ドサクサ紛れにへそくりは忘れずに・・・と。まぁ、夢にしても貧困な発想だこと。

不安材料がないでもない。
ご宣託の続きで“このことは誰にも喋ってはなりません”とも囁かれたような気もしたが、帰途、京都から滋賀さらに岐阜へ県境を越えて、ここらで漏らしたところで小さな声なら聞こえはしまいと、家人に宝くじを買ったこと、それが当たっているだろうことを話して・・・鼻で笑われた。
そう言えば、調子こいて京極のパチンコ屋に寄って当たったから、まさか「当たるぞよ」ってぇのをパチンコで使っちまったのかもしんないし・・・
TVでの宝くじのCMも、お大尽の役(西田敏行)は映画「憑神」では貧乏神の役だったし・・・当籤者は山羊座が多いというのも、ただ山羊座が不労指向で一攫千金ばかりを狙うおバカさんが多いだけかも。
さらには・・・山羊座とはいえ、さらに未年とくれば小銭は貯められても、紙のお金はどっちに転んでも食っちゃうわけで・・・

期待当籤額はゆるやかに下がっては跳ね上がる・・・乱高下。

そして迎えた抽選日。
午後になって仕事場から家人にTELして、宝くじサイトで当籤番号を確認して、万が一に外れたときには折り返しのTELをせず、当たったときだけ連絡をくれるように頼んだ。もちろん末当の300円は当たりに考えないように、と忘れずに付け加えて・・・。

それから待つこと数分後・・・TELが鳴った。一呼吸おいて取ると家人だった。
「もしもし」
殊更に冷静を装いつつ
「当たったんだな・・・あ、300円はちゃうんやで」
すると家人の弾んだ声で
「うんうん、当たったよ」
一気に高鳴る期待。
「い、いくら?」
「いち・・・」
「お、いち・・・?」
「いち、まんえん」
「え?・・・いちおくえんじゃないの?桁、間違えてない?・・・0は?」
「0は4つ。1万円と」
「1万円と?・・・」
「300円が2本。よかったじゃん、当たって」
家人の明るい声に受話器を持ったまま、その場にへなへなと挫折れる。
確かに当たったことは当たったのだけれど・・・

後日、聞けば「1万円」でもめったに当たるものではないとのこと。そりゃぁそうだ、そもそも富籤とは夢を買うものだそうだから。でもなぁ・・・と、膨らみきった欲の皮が萎んだ渋面は、謂れなき落胆に暮れるばかり。果ては「かのパンドラの箱に残された「希望」こそは災厄の眷属てぇのは本当かもしれないなぁ・・・」などとひとりごちる始末。

明けて元旦は、除夜の鐘を遠くに聞きながら恒例となったお狐さんへの初詣。
いつものように家人が社務所に行き、お供えのお神酒と油揚げを買おうと千円札を出すと、お神酒で出来上がっている氏子のじいさん、「はい」と大きなお札を渡して上機嫌。
家人も何を思ったかそのまま受け取って、あとで「あれ?」とか言っている。
そこで、はたと気が付いた。当たるぞよ、の声はやっぱり狐だったんだな・・・と。
ま、千円のお札が狐の取り分ってのは、らしいと言えばらしいところか。

*

それでも・・・脳天気な山羊座は、落語の「芝浜」のように、いつか家人から
「実は・・・お前さんの富籤は一等の・・・」
なんて展開になって・・・くんないか。

夢のあとさき

暮れに京都へ出かけた。
いつものごとく陽が傾きかけるころに着き、何はともあれと野々宮さんへお参りを済ませて後、西陣にある人形工房へ。今回の目的は親王飾りを買いに。安さにつられて地元の人形直売工場なども見て歩いたが、居並ぶ今様イケメン風だの、肩を怒らせたロクロ首風だのに???・・・さらにスタイリッシュな意匠の親王飾りは黒い衝立の前で白地にプラチナの衣装、今にも辞世の句でも詠みそうな・・・何れ大枚をはたいたとしても惹かれるものがなかったゆえ、以前訪ねたことのある工房へ頼むことと相成った。
すでに夕刻間近。鈍色の雲がゆっくりと降りかかるような暮れの京都は、いつになく人も車も忙しげ。

人形工房では、立ち雛の何ともいえない雅な所作に激しく心惹かれながらも、予算の尋常ならざる乖離に諦めて、家人の気に入った西陣織の柄を選んで親王飾りを注文した。
そもそも親王飾り自体が高いのか安いのかよくわからないのだけれど、家人の持ってきた雛人形(家人が生まれたときに祖母から贈られたもの)が何十年も飾られているのであれば、きっと私たちが消えてしまってからもまだ確実に残っているだろうことを思うと、少々値段が安いからといって「ま、これでいっか・・・」とは思えないのだった。
(そもそも、消えた後のこたぁどうでもいいといえばどうでもいい事柄、残されたモノの行方など知ったこっちゃない事ではあるのだけれど、それでも、そんなモノにしか思いを託せない・・・というのも事実なわけで)

すっかり暗くなった駐車場への戻り道、襟を立てて歩いていると、角に昆布屋があった。美味しいと見聞きしたことがある昆布屋さんじゃないかと家人が言う。外に昆布の束を並べた小ぶりな店に入ると客はいないが、仕舞い間近なのか4〜5人の店員が忙しく立ち働いている。こりゃぁ何か買わんと出にくいなぁ、と思いながら商品を眺めていると、棚の上の方に「寿」だの「亀」だの切り紙細工のような飾り昆布が目に留まった。
家人がそれを指して「面白い」と小さく口にすると、やおら後ろから声をかけられた。
「奥さん、そんなん買うたらあかんよ」
入り口脇の一角に置かれた、包装を待つ客が座るためのような椅子に腰を据えた70過ぎの爺さんが、件の飾り昆布を指差しながらこちらを見ている。
そりゃぁ営業妨害だろうに、店の者は係わり合いになりたくないのか、知らん顔で忙しくしている。

爺さんは、また指差しながら
「奥さん、そんなん買うたらあかんよ。そんなんはな、出汁をとった後の昆布があるやろ、それをな、型抜きで抜いたらええねん。」
「ああ確かに・・・」
家人が軽く相槌でやり過ごそうとすると、爺さん畳み掛けるように
「黒い昆布と茶色い昆布、どっちが美味しいか知ってはるか」
「・・・黒い方?・・・」
曖昧に逃げにかかる家人。すると、やおら爺さん店先に並んだ昆布に手を伸ばすと、その端をバリバリッと千切って、食ってみろとこちらに寄越す。げぇ・・・そんな売り物を勝手に・・・それでも店の者たちは知らん顔。そこでようやく・・・そうか、爺さんはこの店の社長なんだな、と気がついた。

「ほれ」と手渡す黒いのと茶色いの、それぞれカンピンタンの切れ端を口に放り込んで噛締めると、じんわりと昆布の香りが沁みだした。
「茶色い方が味があるなぁ・・・」

そこからは、爺さんの独演会。
「昆布は年をおいた方が旨くなるねん」
「新しい昆布が旨いんやったら、北海道の海は出汁のとれたスープや(このフレーズはお気に入りと見えて3回は聞いた)」
「賞味期限なんて関係あれへん。引き出しの奥にでも仕舞って置けばええんや」
「長いこと置いとくと昆布に白い粉が吹くやろ、あれはグルタミンで旨みやから捨てたらもったいないで。集めておいたらええねん。」
最後は、雑誌での自身のインタビュー記事のコピーを手渡され
「読んどいて」

結局、塩昆布だの昆布と茸の煮込んだのだのを、しこたまに買い込むこととなったが、爺さんの講釈も含めてなかなかに得がたい美味。贔屓にさせてもらおうと思いながら店を後にした。


・・・この項つづく

父の物語(histoire)の後日譚

父が死んだのは暮れも押しつまった12月は30日の夜半過ぎだった。病院の手配で葬儀屋が手際よく亡骸を自宅へ搬送する。バタバタと、通夜と葬儀の打合せがすぐに始まるが、さてお寺さんをどうしようということになった。都会暮らしで仏壇のない家にはお寺さんとの付き合いはない。まず何宗のお寺さんにお世話になるか、ということになって・・・。一回り以上も歳の違う夫婦は、ある程度歳がいくと妻が夫を送る覚悟は自然と出来てくるのだろう、母は取り乱す風もなく、どうでもいいという。どんな宗派、どんなお寺さんだろうが構わない・・・ただただ質素に、と。

父が住職をしていた寺は、関東ではポピュラーな宗派だが近隣にはあまりなく、また結構お金がかかるとの由。そこで・・・家人は二人姉妹の長女ということもあって、ゆくゆくは実家の仏壇を引き取ってお世話をすることになるのだろうと考えていたこともあり、じゃぁ、先々仏壇がふたつになるのも何だから同じ宗派にしてしまえ、と。よくよく考えれば、乱暴な話・・・でも、もしかしたら母の中には、父の魂を実家(寺)に帰したくないという思いもあったのかもしれない。そう考えれば、宗派が変わることは却って都合が良かったことだろう。
結局、離れたところにある浄土宗の小さなお寺さんにお世話になることになり、齢80を越えた方丈さんが、高校教師と兼業の息子さんに連れられてやって来た。
「この歳になりますとな、大概は仏様の方がお若んですが、歳が近くてお若いとな、こうやってお経を上げさせていただきますのもなにやら申し訳のうて」などと言いながら、座布団に沈み込むように小さな体を丸めて、南無南無ぽくぽくとやっている姿に、訳もなく母も安堵したようだった。初七日にお経を上げてもらった際には、居並ぶ家族の前で座布団の辺りからも「ブッブッ」と・・・心を許すとなればどんなことでも微笑ましく、みな笑いをこらえるのに必死という、しめやかには程遠い法要となった。
(が・・・この方丈さん、どうしてどうしてお元気で月命日の月末には欠かさずタクシーでやってきて、宗教心に乏しい母を些か辟易とさせていたっけ・・・)

数年後、私が名古屋を離れた地に転居するにあたって母を引き取ることになり、この地のお寺さんにお世話になることになった。知り合いにお寺さんがあり、その紹介でこの地の浄土系の寺に仏壇のお世話を頼むことにしたが、そのお寺さんが所を移したばかりの仏壇の前に座るや否や
「あれ?これは浄土宗の仏壇ですね。うちは違うんですが・・・」と。
どこをどう間違えたか、新たに頼んだ先は浄土真宗のお寺さんだった・・・
「あれま、そうですか。今さら他所さんに頼むのも何だからねぇ、何を変えればいいんでしょう」
驚きながらも笑いながら母はさっそく宗派を変えることにしている。お寺さんは仏具の違いを母に説明し、とりあえず新しい宗派のお経をあげて帰った。母にしてみれば、とにかくも父の寺と別の宗派であれば、それがどこでも良かったわけで・・・。

結局、父は自身の僧籍があった宗派から、浄土宗へ、さらに浄土真宗へと変えられたわけだが、しかしホントのところ行く先に違いがあるとも思えないし(まぁ、上と下との違いはあるにせよ^^)・・・それに、母が良いと言うことに死んだ父が異を唱えるとも思えず、ま、いっかと。

後日、あらためて家人の実家の宗派を確認したら浄土真宗だった・・・家人はさらりとしたもので元を辿れば一緒だし、と。私などに比べれば小さい頃からお寺さんとのお付き合いもあり、折にふれて仏壇の前で手を合わせていただろうに、何とアバウトな性格だこと・・・でも、収まるところに収まったということで、まぁ目出度し目出度し、と^^

父の物語(histoire)・・・

父は人と交わることをあまり好まなかったようだ。かといって偏屈に拒むわけでもない。酒は好んで晩酌を欠かさなかったし、寝酒も必ず嗜んでいたが、飲んで帰ることは本当に稀なことだった。まじめな教師のタイプといえば、そうだったのかもしれない。まぁ、財布の紐を母にきゅぅ〜っと締められていたから、外で飲むほどの小遣いは持ち合わせていなかったのだろうが・・・。
郷里では保護司もやっていたようだから、名誉職とはいえそれなりに人と交わることを忌避していたわけではなかったのだろう。若い頃にかかった結核の影が残っていたため50代に一時入院生活をしたとき、病院で同じく入院している「その筋」の人間が父に懐いているのを聞き、母が言うには「お父さんは不思議と、ああいう人に懐かれる・・・」と。母の口ぶりは、決してそれを嫌がっている風ではなかったが、普段の父といえば家の中で本を読んでいる姿しか思い浮かばない息子にとっては、俄かに得心の行くものではなかった。ただ、その時昔TVで観たことのある「兵隊やくざ」という映画での役回りで、勝新太郎演ずる「ごんたくれ」と田村高廣演ずる「インテリ上等兵」の関係が漠然と思い浮かんだのだった。

父は狭くとも、家に居ることを好んだ。昔大きな家に住んでいたから、掃除が楽だし小さな家がいい・・・というのが口癖のようであった。本堂の掃除が難儀だったことを覚えていたのだろうか。6畳に小さなお勝手の付いた3軒長屋から、敷地20坪に満たない建売、そして40坪、50坪・・・と母の頑張りで少しずつ広くなっていった家をどんな思いで住まっていたのだろうか。小さな家の中で、しかし家庭的であったかといえば、私には父とゆっくりと話をしたり、父に遊びの相手をしてもらったりした記憶はない。もちろんそれは父のせいばかりではない。遊ぶことに関しては、私自身甘えることが上手な子供ではなかったし、遊ぶのは決まって戸外でという昔の子どもたちにとっては、近所のガキどもの中にしか遊びの楽しみを見出せなかったゆえ。また、話し合うことに関しては、口うるさいのは母親だけで充分だったし、父親と息子の関係はそんなものだと思っていた。
ただ、私には子供心に親の領域と自身の領域を明確に区別して、話さないことは訊いてはいけないことのように考えていたようなところがあった。実際、私が二十歳をいくらか越えて父と母の籍が同じになるまで、父と私の姓は違っていたのだが、その所以を私の方から聞きただすことはなかった。それは、聞いてはいけないこと、というよりも詳らかにしたいという欲求が私の中で希薄だったからだろう。

出奔してから、父が寺に戻ったことは2度あった。祖母の死と、寺に残った前妻の死に際してだった。祖母は死ぬまで、父がいつ戻ってきても良いように、父の僧籍を抜かずに待ち続けていたという。結局郷里を訪れた最後となった前妻の葬儀に際して、父は一冊の本をそっと持ち帰っている。それは、中勘助の「提婆達多(デーバダツタ)」・・・父の姉の名前が記された、黄ばんで二束三文の値も付かないような、その本だけを父は持ち帰っている。持ち帰りたかったのが、若くして死んだ姉の思い出であったのか、それとも釈迦に対して自身の存在のすべてをかけて抗った「提婆達多」の煩悩や存在の不快を、自身の中に沈めることで得られる癒しであったのかは分からない。もしかして僧籍を捨て、妻子を捨てた自身と、最期まで救済のない「提婆達多」とを、重ね合わせていたのかもしれない。しかし、父は自身の救済を求めていたわけではない。寺に戻らない限り、父の救済はなかったのだろうし、寺に戻ることは母と私とを新たに捨て去ることであり、何れ父に救済はない。それが分かっていればこそ、「提婆達多」の苦しみを自身の裡に沈めたかったのではないか。

死を迎える前に父を病院のベッドに見舞ったとき、元来温厚な人柄であっても、衰弱する生の苦しさやもどかしさを、どうしようもなく母や私に対して表出させていたのだったが、幼稚園に入る前の孫娘の前では決して面に出さなかった。その時父の見せた、幼い孫娘に対する眼差しを、私は忘れることができない。
父が寺を、家族を捨てたとき、父の末娘(私にとって腹違いの姉)は2〜3歳だったという。死の床で眼前の孫娘と、遠い昔に自分が捨ててきた末娘とが重なって見えていたのではないだろうか。遥かな眼差しだった。声に出せない、語りかけることのかなわぬ悲哀を込めた眼差しだった。母と暮らした幾十年、父は残してきたもののことをひと言も母に語ることはなかったという。それは、母にとっては優しさであり、自身にとっては・・・さて、何だったのだろうか・・・

父が私の存在の贖いに対して残したものは、結局、黄ばんでぼろぼろになった「提婆達多」と、孫娘を見つめる眼差しだけであった。その慈愛と哀しみに満ちた眼差しは、私の生きる限り忘れてならないものとして。

父の物語(histoire)・・・

私の父は、この地より遠く山寺の長男として生まれた。寺の名前は忘れた。姉と妹がいたが、姉は若くして亡くなっている。父の父である住職(つまりは私の祖父)は、昔の家長のタイプであったのだろう、父が中学へ通学するに徒歩では何時間もかかるため、入学の前日にそれまで乗ったこともない自転車を与え、明日からそれで通学せよと言われた、と晩年の父が語ったことがある。酒が好きで、その晩年は為に“ヨイヨイ(所謂高血圧からの脳梗塞で半身不随)”になったという。私の知る祖父の話はそれだけだ。もちろん名前も知らなければ、いつ亡くなったのかも知らない。

生まれた寺は父が小さい頃震災により倒壊し、里の方に新たに創建されたが、山門は倒壊を免れ、新しい寺に移築されたという。その山門が立派な比較的大きな寺だったというが、昔は寺の副業などありはせず、収入はすべて檀家によるものだけであり、その使途は当然のごとくに檀家の了解のいるものであったと思われる。父の母(やはり名前を知らない私の祖母)は、寺を継がせるために東京の大学にやるにあたって、寺の畑を耕し、檀家に依ることのない現金収入を得ていたのだという。父は仏教系の大学で国文を専攻し、東京で夜学の教師をしていたころに諸橋の大漢和辞典の編纂をアルバイトで手伝ったことが思い出深かったようだ。後年、教師の薄給の中から全16巻のそれを買い求めたが、使用した様子はあまりない。しかし、後述する理由から身の回りのもの以外、自身の所有物を持たなかった父の、それは唯一の所有物だったようにも思う。

父は招集を受けて南支に渡ったが、当時の話を私は知らない。少しは聞いたのかもしれないが、覚えていない。唯一果実のレイシーを懐かしがって食べていたことだけが、父が戦争で中国に渡った事実を伝えているに過ぎない。
(父の死後、戦友だった人が書いた本・・・よくある自費出版の成功譚・・・を届けて下さり、その中に若き日の父が笑顔で写っていた)

戦後、父は郷里で僧職の傍ら中学教師として職に就く。もしかしたら祖父が住職として存命だったのかもしれない。父は結婚し、3人の子をもうけている。2人の男の子と末の娘。しかし、その子どもらを残して父は寺を出る。36歳ぐらいだったろうか、中学の同僚教師だった私の母との駆け落ちによって、父は寺を捨て、父母を捨て、妻子を捨てたのだった。父とは14違いの母は22歳ぐらいだったろうから、大学を出て教師になりたてのころだったか。
一応、妻との離婚の話はついており、離婚届を町役場に提出して父と母は町を出ているが、その離婚届は寺の檀家によって町役場の中で受理されることなく破棄されたという。結果、“駆け落ち”となり、父の戦友を頼り見知らぬ名古屋に向かう。僧籍の身で駆け落ちするだけでも充分にセンセーショナルなことだが、田舎の中学の教師が妻子を捨てて同じ中学の一回り以上も若い女教師と駆け落ちしたことは、きっととんでもないことだったのだろう。名古屋の街中で、偶然にも探しに来た檀家に見つかってしまうが、連れ戻される列車の車中で、酒好きな檀家を酔い潰して、また逃げる・・・。

名古屋へ来た当初、母も貯金などでそこそこの金額を持ってきたようだが、父は元々生活力のあるタイプではなく、その頃の母の金銭感覚も若さゆえにいい加減・・・ふわふわと過ごすうちにみるみる所持金は減ってゆく。いよいよ所持金が底を尽きかけると、父は「もうアカン」となり最後の贅沢とばかりに海にほど近い旅館へ出かけて、お定まりの心中か・・・となるが、センチメンタリズムの素地に乏しい堅実リアリストの母は・・・「心中なんてとんでもない、あたしはいやだから、どうしても死ぬというのならあなたひとりで」ということで・・・結局、文字通り着の身着のままで名古屋の街で再スタートと相成った。

以後、名古屋に教職を得てようやく生活の根を下ろすが、ついに寺に残してきた前妻が亡くなるまで、籍を抜くことができなかった。為に、父は自分名義のものを一切持っていなかったのだった。免許も持っていなければ車もない。貯金通帳も生命保険もなければ、電話や家も、社会的なものはすべて母の名義だった。それは母の希望でもあり、籍を入れるという約束を果たせないでいた父の、ひとつのけじめでもあった。
モノに対する執着の希薄さもあったのだろう。父は幼い頃、震災で山中にあった寺をなくし、姉を喪い、母とのことで社会的な一切を捨て、さらに出直したのち伊勢湾台風でもすべてを失っている。それらのことが、宗教的素地と相俟って、モノに対する執着を父の中から消していったように思えてならない。

今、私のもとに父の大漢和はない。父が亡くなり、残された母が古書店を呼んで二束三文で売ってしまったからだ。それは、まるで母の内奥に在る父を大切にする余り、他者の目に触れる父の痕跡を消し去ることで、父を他者と共有することを拒むかのごとく、悲しみに任せて父の好きだった本を売り払ったのだった(ついでに私が学生時代に4万ほどで買い求めた国語大辞典も叩き売られてしまった・・・)。母はまた、父が生前にぽつりぽつりと書き留めていた日記のようなものも焼いてしまっている。大漢和を叩き売ったことを聞き私が非難すると、母は我に帰ったように、こう言い放った。
「そう言えば、あんたにとってはおとうさんだったわね」・・・と
それを聞いたら、それ以上非難する気は失せてしまったのだった。

この項続く・・・

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