|
アブラハム・マズロー(アメリカの心理学者)
彼が唱えた欲求段階説の中で、人間の欲求は、5段階のピラミッドのようになっていて、底辺から始まって、1段階目の欲求が満たされると、1段階上の欲求を志すというもの。
「考察」
昔、勉強したような気がします。
ようするに、下層が充実していないと、上位への欲求が生まれないということである。
確かに。
例えば、病気で食事や睡眠もままならない人や、無職で悩んでいる人に、友情や家族、愛情を語っても、伝わりにくい。
また、自分の欲求充足度と、他者の欲求充足度に階層的な相違があれば、当然、意見の食い違い(価値観の相違)が現れるのではないか。
どんなケースでも、まずは下から順に問題を解決していかなくてはならない。欲求を満たしていかなくてはならない。
それが、より充実した人生への手がかりになりそうである。
|
全体表示
[ リスト | 詳細 ]
|
以下、東京タワー「リリーフランキー」より抜粋。
子供ができて困る人もいれば、子供ができずに祈る人もいる。
子供ができて「まさか自分に子供ができるなんて」と驚く人もいれば、
子供ができずに「まさか自分に子供ができないなんて」と驚く人もいる。
子供の頃に予想していた自分の未来。
歌手や宇宙飛行士にはなれなくても、いつか自分も誰かの「お母さん」や「お父さん」にはなるんだろうなぁと思っている。
しかし当たり前になれると思っていたその「当たり前」が、自分には起こらないことがある。
誰にでも起きている「当たり前」。いらないと思っていた人にも届けられる「当たり前」が、自分には叶わないことがある。
難しいことじゃなかったはずだ。叶わないことじゃなかったはずだ。
人にとって「当たり前」のことが、自分にとっては「当たり前」ではなくなる。世の中の日常で繰り返される平凡な現象が、自分にとっては「奇蹟」に映る。
歌手や宇宙飛行士になることよりも、はるかに遠く感じるその奇蹟。
子供の頃に夢に破れ、挫折するなんてたいした問題じゃない。単なる職業に馳せた夢なんてものは、たいして美しい想いじゃない。
でも、大人の想う夢。叶っていいはずの、日常の中ある慎ましい夢。子供の時は平凡を毛嫌いしたが、平凡になりうるための大人の夢。かつて当たり前だったことが、当たり前でなくなった時。平凡につまづいた時。
人は手を合わせて、祈るのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私の感想。
このコラムが、一番、心にずしんと来ました。
「当たり前」を語っている訳ですが、「当たり前」に過ごす人には、この「当たり前」は見えない。
「当たり前」から、こぼれ落ちた人だけが、この「当たり前」を感じることができる。
…疎外感。
平凡という日常の幸せの中にいると、そのありがたみを感じることができないのと、似ています。
私はたいしたことは言えませんが、この「当たり前」を分かって生きているのと、
知らずに生きているのでは、大きな差が生じるのではないかと思います。
どちらが、良いとか悪いとかではなく。
「当たり前」を当たり前にするか、奇蹟にするかは、運命なのです。
それは生まれ持ったものだと、思うのです。
人の人生は、そんな紙一重の積み重ねでできている。電車一本で人生が変わることもあります。
そんな「運」を引き寄せるのは、やはり日頃の行いか、神か仏か先祖の、ご加護ではないでしょうか。
だから、人は最終的に祈るのでしょう。どうしようもないときに、祈るのです。
どんな災害の現場をみても、人はみな祈っています。
食べ物を食べるときも「いただきます」と手を合わせて感謝の気持ちを表します。
普段から祈ってみましょう。神棚でも仏様でも神社でもお寺でもお墓でも、また空に向かって…そんな時間を作ってみましょう。
何かが起こる前に、日々の「当たり前」に感謝しましょう。
それは自分ではどうにもならないことがあると、認めることになります。
それは一歩、へりくだったことになります。
そこから見えてくる世界があると思うのです。
|

- >
- 芸術と人文
- >
- 文学
- >
- ノンフィクション、エッセイ
|
以下、リリーフランキー「東京タワー」より抜粋
「親子」の関係とは簡単なものだ。
それはたとえ、はなればなれに暮らしていても、ほとんど会ったことすらないのだとしても、親と子が「親子」の関係であることには変わりがない。
ところが「家族」という言葉になると、その関係は「親子」ほど手軽なものではない。
(中略)
「親子」よりも、更に、簡単になれてしまう「夫婦」という関係。
その簡単な関係を結んだだけの、ふざけた男と女が、成りゆきで親になり、仕方なく「家族」という難しい関係に取り組まなくてはいけなくなる。
(中略)
しかし、家庭関係は神経質なものだ。無神経で居られる場所ほど、実は細心の神経を求める。ひびの入った茶の間の壁に、たとえ見慣れて、それを笑いの種に変えられたとしても、そこから確実にすきま風は吹いてくる。笑っていても風には吹かれる。
立ち上がって、そのひび割れを埋める作業をしなくてはならない。そのひび割れを、恥ずかしいと感じなければいけない。
なにかしらの役割を持つ、家族の一員としての自分。親としての自分。配偶者を持つ身としての自分。男としての自分。女としての自分。すべてに「自覚」がいる。
恐ろしく面倒で、重苦しい「自覚」というもの。
(中略)
「夫婦にしかわからないことがある」よく聞く言葉だ。それは確かにあるだろう。
しかし「夫婦だけがわかってない、自分たちふたりのこと」は子供や他人の方が、涼しい眼で、よく見えているということもある。
どれだけ仕事で成功するよりも、ちゃんとした家庭を持って、家庭を幸せにすることの方が数段難しい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下、私の感想。
生活環境は時代とともに変化する。家庭環境も同じであろう。
その昔、農業を主体としていた時代は、すべてが一から時間をかけた手作業。村や部落、近隣、親族、家族で協力しなければ、すべての作業を遂行することは困難であった。
代々、その土地に住むことで、昔からの付き合いという、地縁を強めていった。だから転居もしない、できない。
関係性を良好に保つ=収穫、に直結していたのだ。
個を抑え、集団に属することで、生計を保っていたわけだ。そうしなければ円滑に生きていけない。
だが近代化・産業革命後は、仕事や生活の変化により、家庭や地域での共同作業は消失し、集団から個人へ、そのおもきが変わっていった。
現代の家庭というものが、個を主張しすぎているのは、いつも感じることだ。他者を思いやる気持ちよりも、自分の主張が大きい。個の主張が大きい人は、一様に社会でも集団生活が苦手である。
モノを大切にする気持ち。生き物を大切にする気持ち。他者を大切にする気持ち。
他者を思いやる気持ちは、愛である。愛ってなんだろう?
ただ、一つだけ言えることは、愛を育むことは、家庭でしかできない。
|
|
感想。
終盤、沸き上がるように、止めどなくこみ上げてくる涙。
日本中の息子達に読んでもらいたい一冊。
生きるという大切なことを教えてくれる本。
失ってからわかる、母親が息子を思う気持ち・無欲の愛。
そして償うように追いかける、息子から母親への届かない愛。
やはり、実話に勝るものはないな、と感じた。
2006年本屋大賞受賞。
作者の自伝であるこの作品。出生から大人になる様子を、現時点の視線から、回想して話は進む。
要所要所で、エッセイ調の熱い想いが吹き込まれている。
一貫して語られるのは「家族」というテーマ。
面白い語り口調で(冗談を交えた表現方法・エッセイ調)、すーっと読むことができる。
リリーフランキー。
マルチタレント、多種多様な肩書きを持つ。イラストレーター、ライター、エッセイスト、小説家、絵本作家、アートディレクター、デザイナー、ミュージシャン、作詞家、作曲家、構成作家、演出家、ラジオナビゲーター、フォトグラファー、俳優など。
最近は、映画やドラマなど、俳優としての演技もシブいなと、注目している。
糸井重里×リリーフランキー:東京タワー対談
以下本書より抜粋
◉いい家とは、立派なお屋敷だとかそういうことじゃなくて、いつも人が訪ねて来てくれる家である。
◉女は言うてやらんといかん。言葉にして言うてやらんと、女はわからんのやから。
◉東京でも田舎でもどこでも一緒よ。結局は誰と一緒におるのか、それが大切なことやけん。
|
|
「消しゴムで消された文字 と 夏の海」
先日、第17回俳句甲子園が開催されました。
初めは地元だけの小さな大会でしたが、年々規模が大きくなっているように感じます。
これは去年の作品で、高校生の女の子が詠んだものです。
どんな意味なのかなぁ…と、思いを巡らせています。
|







