散歩者

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歴史・考古学

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先週「邪馬台国から大和政権」(福永信哉著 大阪大学出版会)を読了した。この本は、初版が出た時に古代史の会を通じて申し込み購入した本だった。それ以後読まずに積んでいた。最近図書館で借りた、三角縁神獣鏡神獣鏡関係の本を読み、参考文献で度々この本の名前が出てきた。
 
本のタイトルに見覚えがあり、すぐに10年前にそれらしき本を購入したことを思い出した。それで、家の中のいくつかの本の山をひっくり返し、その本を探し出した。本を購入した当時、その本が薄く、当時の多くの邪馬台国関係の本と同様想像たくましく推論で書いたのではないかと思い込み、すぐに中身も読まず暇な時に読もうと放置したまま時間がたった。
 
本購入時の10年ほど前は、失業状態や臨時雇用で収入や仕事も不安定で趣味の考古学・古代史どころではなかった。最近は、生活保護程度の年金で余分な出費は出来ないが、食べていくことだけは可能になり、この年では就職口も無いので、図書館から本を借りて気が向くと本を読むという費用のかからない楽しみで生活を送れるようになった。おかげで、最近考古学関係や古代史関連の本を少しずつ読み始めていた。
 
改めて上記の本を読んで、その本が、当時の最新の考古学情報を基に遺物・遺跡の分布や形態の変化から導き出した卑弥呼の頃の社会や政治状態を復元していることが分った。考古学は出土した遺物の量や質と地域的分布を統計的に処理することで当時の政治・社会像を推定する。同じ資料を基にしていても、違った視点で資料を分析することで新しい発見や見方も発生する。この本には、10年前の最新の見方を提示していて、非常に興味深かった。
 
邪馬台国時代の考古学的資料は、今も新しい発見が続いている。纏向周辺では今も発掘調査が進んでいて、新しい発見があるし、同時に全国的に弥生時代から古墳時代(この時代に限らないが)にかけての、新しい考古学資料が追加されている。当然のことながら、新しい考古学資料により、新しい学説も提起されたり修正される。その意味で読了した本の内容も参考にしつつ、今後の古代史・考古学関係の学説展開をファンとして見守っていきたい。

12月15日に行われた古代を偲ぶ会の例会の概要をまとめてみた。
私は30分余り遅刻して行ったので、内容把握が充分出来ていない。
しかも、文献史学には、不慣れであるので、講師の発言の断片的な
羅列になったことや聞き漏らしのあったことをお断りしておく。
この概要は、筆者個人の講座を聞いたメモや私的感想である。
(講師の話が不正確に伝わっている可能性がある。)
古代を偲ぶ会の公式サイトでもなく、正確さも欠け私的感想も入って
おり引用等は一切お断りする。
学術的な問題やより正確な話は、直接関係者にお問合せ願いたい。
(感想や関連情報は、コメントに自由に投稿してください)
筆者は講師への連絡先等の資料は持っていない。

古代を偲ぶ会12月例会は、堺女子短期大学学長 塚口義信氏を
講師に、「川合大塚山古墳とヤマト政権」というテーマで開かれた。
レジメの目次の内容は次の通り
1.川合大塚山古墳群の所在地と築造年代
2.川合大塚山古墳は大王墓か
3.川合大塚山古墳群と志毘臣の伝承
(1)古事記の伝承
(2)日本書紀の伝承
(3)「原帝紀」における志毘臣の伝承
4.川合大塚山古墳群と平群氏
1)平群谷における古墳の存在形態と平群氏
2)川合大塚山古墳群と平群谷の古墳
3)川合大塚山古墳群の被葬者と平群氏
むすびにかえて
  川合大塚山古墳群と大和川水系

以下レジュメの概要を記す
1.川合大塚山古墳群の所在地と築造年代
  *馬見丘陵周辺の主要古墳 2万5千分の一地図含む  
25基の古墳名とサイズと出土品
  *奈良県の主要古墳編年表   地域―年代
2.川合大塚山古墳は大王墓か
*陵墓一覧表
   年代と地域から陵墓に該当する古墳はない。
3川合大塚山古墳群と志毘臣の伝承
  1)古事記の伝承
    清寧天皇
      袁祁命(おけのみこと、後の顕宗天皇)と
意祁命(おけのみこと、後の仁賢天皇)の兄弟が相談し
     て平群臣(へぐりのおみ)の祖先 志毘(しび)の臣
を殺す.
  2)書紀の伝承
     武烈(ぶれつ)天皇
      大伴金村は武烈(この時は太子)の命で、大臣平群臣
真鳥(おおおみ、へぐりのまとり)と鮪(しび)父子 を討
つ。(仁賢天皇(おけ天皇)11年(498)崩御後の話)
3)「原帝紀」における志毘臣の伝承
   古事記と日本書紀の伝承は同じ人物でありながら物語が
   違う志毘(しび)鮪(しび)
レジュメより抜粋
 「(日本書紀の伝承=大伴金村が大臣平群臣真鳥と鮪父子を討っ
た)物語は継体擁立の中心人物とされる大伴金村がなぜ「大連」
になりえたかという経緯を語る点に主眼がある。「書紀」記述者
は、その理由を平群氏打倒の功によるものとし、そのため、
その時代も継体が擁立される直前の時代、すなわち武烈の時代
に設定した物と考えられる。なおこの物語が特に武烈即位前の
「太子」のころの出来事として語られているのは、この物語の
原史料が求婚をテーマとした歌場(歌垣)の物語であったから
である。
したがって平群氏打倒の物語は本来、武烈即位前のことでは
なく、“原帝紀”の面影を伝える「古事記」のように清寧逝去
後のこととして語られていた可能性が強い。「書紀において
物語の結末部(武烈紀三年十一月の条)に雄略・清寧朝に
大連として活躍した大伴室屋が登場しているのもその証左と
なる。
この条は「大伴金村大連」でなければならないところである
が、「書紀」編術者は迂闊にも修正することを忘れてしまった
のである。」

川合大塚山古墳群と平群氏
1平群谷における古墳の存在形態と平群氏
2川合大塚山古墳群と平群谷の古墳
3川合大塚山古墳群の被葬者と平群氏
むすびにかえて
  川合大塚山古墳群と大和川水系
上記の項目については、地図と古墳の分布の資料しかなく、私
の講座内容を記録したノートや関連メモもなく、私が先生の講義
内容を聞き落としたのかも知れないので、記載不可能であること
をお詫びする。
文献上の問題点と先生の説は理解できたが、川合大塚山古墳の
被葬者に関する話を聞き逃したのは残念に思っている。

1月例会が1月12日に次のテーマで開催された。
「2007年古代史総括」講師芦屋市教育委員会 森岡秀人先生
先生が例年この時期は、年末年始休み抜きでこの講座の資料作り
執筆に没頭されるというだけあって、資料と項目は膨大で、この
ブログでの感想作成に相当な時間が必要のようだ。
縄文から古墳時代までの最新の重要な論文、学術誌、研究書、
調査報告書 発掘成果、研究の動向 シンポジュームや新聞記事
も含め取り上げられている。
A3で15枚に及ぶ資料を整理し掲載するだけでも、非常に大変だ。
私自身資料を読み直し、メモを見ながら感想を作成するので、感想
公表は相当遅れるかも知れないが、公表する予定。

緒方洪庵

昨日、NHK総合の歴史番組で緒方洪庵を特集していた。
緒方洪庵が種痘を日本で始めて導入し広めたことは、知らな
かった。。(忘れていた?:適塾で案内も読んだのだが)
きっかけが、人痘接種による患者の感染死への悔いからだ。
庶民の種痘への無知偏見(種痘すると牛になる)と戦いながら、
広めるため私財を投げ出し困窮し、政治も利用しての献身的な
努力で、成功させネットワークを作る情熱と指導力には、敬服
するばかりである。
更に「医は仁術」を教育し実践する赤ひげ先生でもあった。

当時の西洋医学の第一人者が、西洋医学にこだわらず漢方も常
に処方していたことに驚いた。
最近漢方関係の本も読みつつあるが、漢方の歴史や近代中国の
漢方と日本の漢方の違いを少し知ったが、洪庵は漢方の実力を
認識していたようだ。(当時の日本の漢方には多くの問題があっ
たようだ。 そのため明治以降日本は漢方を無視してきた。
近年中国医学の影響もあり再評価されだした。)

ここにも患者にとって役立つことは、何でも取り入れるという
姿勢がうかがえる。
患者第一で患者の命の為には、同業者とのトラブルも気にしなかったという。
改めて緒方洪庵の偉大さを知った。

洪庵はよく知られるように、多くの人材を適塾から育てた。
司馬遼太郎が描いた、幕末の大河ドラマ「花神」で描かれた
村田蔵六(大村益次郎)や深沢諭吉他日本の基礎を築いた
有名な人材は数多い。
適塾はビジネス街の真ん中にあり、たまに仕事の途中に横を
通ることもあり、幕末を偲んだこともあった。 
私にとっては、ほんの少しだけ馴染みのある場所だ。

余談
緒方洪庵の父は武士で備中足守藩士・佐伯瀬左衛門という。
天保7年(1836)に緒方洪庵と名乗ったらしい。 
なぜ違う苗字を名乗るのかと思い疑問だった。
佐伯家の中興の祖は豊後の国に住み緒方三郎惟栄という。
その後子孫が大友氏に仕え豊後佐伯に住み佐伯を名乗った。
大友氏滅亡後、子孫は毛利を頼り、備中足守に来たそうだ。
洪庵は中興の祖を意識し緒方を名乗ったのだろうか。

大阪大学のホームページには、
「大阪大学では、自らの起源を1724年設立の懐徳堂と
1838年に緒方洪庵により設立された適塾としている。
ただし、適塾も懐徳堂も私塾であるため、官立の大阪帝国大学
に至る系譜とは一線を画しており、また、後継教育機関が
ないまま閉鎖されているため、形式的または法的な直接の
つながりはない。
しかし、これらの私塾と大阪大学との繋がりは、適塾においては、
適塾から大阪医学校に大半の教師・塾生がとも
移籍することによって実質的かつ直接的に歴史が繋がっている。」
となっている。
適塾についての情報
http://www.geocities.jp/general_sasaki/tekijuku-ni.html

三輪山と邪馬台国

古代を偲ぶ会9月例会に参加したときのメモより

今日久しぶりに「古代を偲ぶ会」の例会に参加した。
この会は、大阪市主催の市民の考古学講座の参加者OBにより
教育委員会担当者のアドバイスで自主的に立ち上げられた。
従って創立30年前後になる。最近はほとんど出席していなかった。

今回のテーマは「大和王権の成立過程を考える」のテーマで
講師は神戸山手大学教授で元橿原考古学研究所の河上邦彦氏だ。
超満員で、遅れていったので席もレジュメも無く立ち見を許された。

三輪山に近い纏向遺跡の話が中心だ。(すべて河上氏講演の要旨)
纏向遺跡は2km四方で現在1%も発掘されていないと言う。
箸墓(卑弥呼の墓ではないかと注目されている)にも隣接し
ており、大大和古墳群の関連地域にあると言っても良い。
大大和古墳群は前期前方後円墳が中心で巨大古墳が多い。
前方後円墳が大和政権と関係があることはほぼ定説化している。
大大和古墳群=前期古墳の絶対年代は確定していない。
倭国の女王卑弥呼は248年頃没した。
過去の学説では前期古墳は3世紀末から4世紀と言うことだった。
大大和古墳の中の木棺断片(勝山古墳?)を炭素14で調べると
西暦30年から245年 確度90% の値が出たという。

なぜ三輪山か
大和政権は三輪山周辺にあったであろうことは、状況証拠から
見て明らかだ。(大大和古墳群) 三輪山周辺の必然性は理由がある。
三輪山の山頂から麓までの上三分の一程は純度の高い鉄鉱石というのだ。
三輪山周辺の川では純度の高い砂鉄が採れる。
文献にも現れている。 三輪山の神の娘の名前に「たたら」がある。
鉄の利権が大和政権の誕生に係わったと考えられる。
(纏向は鉄生産で経済的に潤い富と力を蓄え覇権を掌握したことは容易
に想像できる。)

しかも纏向遺跡からは纏向以外の地方の土器が15%も出土する。
東海地方等遠方も多いという。
交流の最も多いと思われる一般の遺跡でもせいぜい5%と言う。
纏向は当時全国の人が集まった首都と考えられると言う。
(こうしたことから邪馬台国は纏向?=大和ーー私の注釈)

過去のほとんどの生産遺跡は、生産が終了すると祭祀施設に変わる
という。  (神社寺院 磐座等)三輪山もそれに該当すると言う。
文献にも現れている。 三輪山の神の娘の名前に「たたら」がある。
なぜ三輪山が祀られるようになったか?=生産を止めたのか
理由中国地方(出雲)他にもっと効率の良い鉄生産施設ができた為。
(随分前の出版ですが 「出雲の古代史」門脇禎二 NHKブックス
は古代史・考古学及び神話に興味ある方にお勧めの本です。)

やはり考古学、古代史は面白い。
(以上は、私が「村ぶろ」に投稿したものに手を加え掲載しています。)

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