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和多都美神社鳥居
平成28年5月27日(金)、長崎県対馬を訪ねました。
壱岐対馬と一言で言いますが、対馬は韓国から50km以内の位置にあり、壱岐は佐賀県のすぐ沖に浮かんだ島であり、全く違った島の文化を感じるところでした。
まずはじめに、福岡空港から対馬へ行き、島内をぐるりと周遊。
時間的にはなかなかタイトな行程ではあったものの、要所を巡って対馬の歴史についても改めて知ることが出来ました、というか、これまであまりにも知らないことばかりだったし、地味なところで観光情報などがあまり出てこないし、旅番組などで取り上げられることも少ないように思いました。
韓国人が多い、とは聞いていましたが、観光客の大半は韓国人のような印象で、どこへ行っても韓国人がいました。韓国から一番近い外国と言うことで、手軽に訪れることが出来るため、家族連れやツアーなどで多くの人がやってきています。もっと、韓国ナイズしているのかと想像していましたが、韓国語の看板などはあるものの、日本の他の観光地と変わらないようでもありました。
夜はホテルで海産の夕食、アワビなどを別注しましたが、1ヶ3500円と納得の値段。サザエもたくさん刺身が出て、海の中の島だなあと思いながら味わいました。
1日目松山空港からJALボンバルディアで福岡へ
福岡からANAで対馬空港へ向かう。独特の対馬の風景が見えてきた
対馬の海岸線はどちらかというと断崖となっており、砂浜は少なく入り組んでいる
対馬空港に到着
ジャンボタクシーが待っていた
まずはじめに、万関橋へ
ここは、戦争中に開削して運河を作ったところ
潮の流れも速かった
海に立つ鳥居が有名な和多都美神社へ
海神神社の本殿そのものは小さいが、ここは対馬の重要な観光ポイント
韓国のツアーがやってきたときに、賑わうようだ
烏帽子岳展望台。多島海が美しい
これは宗教の建物かと思ったが、公民館らしい
ツシマヤマネコ保護センターへ。1匹だけ飼われているが、福岡の動物園生まれらしい。野生のものは約100頭くらいだそうだ
韓国展望所
残念ながら韓国本土はかすんでいた
韓国と対馬と九州の距離関係
韓国展望所広場
韓国展望所も重要なスポットのようだ
豊砲台跡。この中が弾薬庫のような構造になっていた
ここに砲台が座っていたみたいだ
対馬最北部あたりの海
日ロ友好の丘
琴の大銀杏
幹の内部は空洞となっており、長年の間に雷などによって傷着いていた
万関橋を運河から見上げたところ
対馬の南の島にある、上見坂公園展望台
対馬の南半分を横にした案内地図
石屋根の倉庫
結構厚くて、平たい石が瓦として使われている
この石屋根の倉庫をたくさん見かけた
元寇の古戦場に立つ、小茂田浜神社
元寇の時は、この辺りに元軍が押し寄せてきて占領したようだ
元寇の痕跡は、このような説明版があるからこそ感じられる
小茂田浜神社への参道
万松院
対馬藩主宗家の菩提寺
宗家の墓所
万松院へは時間が遅くなり、入れなかったが、対馬の歴史を感じた
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国内:九州・沖縄




検索からおじゃまします。私も対馬行ってきました。当然お互い行った観光地もあれば、片方が行ったところも。南部もしっかり廻っていますね。道に迷ってタイムロスがなければ石屋根が見たかったです。
お互い、これからも良い旅をしていきましょう。
http://blog.goo.ne.jp/newkukankaisoku
[ なぞの旅人スー ]
2016/6/27(月) 午前 7:33
訪問、ありがとうございます。
じっくりと壱岐・対馬を回られたようでうらやましいです。いつの日か、元寇や大陸との貿易の痕跡が残るこの地が注目され、多くの人が訪問するようになるのではないか、という気がしました。
一支国博物館も立派なものでした!
2016/6/27(月) 午後 9:57
旧石器時代に人が、大陸から対馬の陸橋を通過した足跡は発見されていない。
現在までに確認された最古の遺跡は、新石器時代に属する縄文文化のもので、この時代はすでに陸橋が切れ、対馬が、島として孤立している。
大陸からのナウマンゾウ等の哺乳類の化石も見つかっていない。
縄文時代の峰町佐賀貝塚や上県町志多留(したる)貝塚からは外洋性の魚の骨が出土し、峰町では多くの貝輪(腕に付ける装飾品)の材料が、沖縄の貝(イモガイ、ゴウボラ他)と北海道産の貝(ユキノカサ他)を使っていることが確認されている。
また、石器の材料は、佐賀県伊万里市腰岳産の黒曜石である。さらに、峰町吉田貝塚からは縄文時代晩期の夜臼式土器、弥生時代前期の板付I式土器などが出土し、九州地方北部と同じ文化圏に属していたことが判明している。
イネの収穫具であった石包丁はあまり出土していない。ただし、大陸系磨製石器や青銅器・鉄器などの金属器などは出土している。
弥生時代前期の舶載品の有柄式石剣が多く見られる一方、北九州で製作された中広銅矛・広形銅矛も多く出土している。
[ 海洋文化交流・貿易振興 ]
2017/5/3(水) 午後 9:54
対馬の惨状
『高麗史』金方慶伝によると、元軍は対馬に入ると島人を多く殺害した。また、高麗軍司令官・金方慶の墓碑『金方慶墓誌銘』にも「日本に討ち入りし、俘馘(捕虜)が甚だ多く越す」とあり、多くの被害を島人に与えた。
去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
— 『日蓮書状』、高祖遺文録
この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。
元軍総司令官である都元帥・クドゥンは、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュに献上している。
[ 汚染した反日デモを永遠に懺悔しろ ]
2017/9/23(土) 午後 5:07