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決して男女の仲のことではない。
ある事情があって(別にたいしたことではないが……)拙ブログでは皇室のことを話題にしたことはなかった。 でもこればっかりは「黙って見過ごすわけにはいきますまい」(ひねくれた表現で御免を被ります) 4月3日付の朝日新聞の社説である。ちょうにち新聞ではなく、紛れもなくあさひ新聞の社説。 天皇即位儀式 課題積み残したまま という見出しでこんな内容である。 https://www.asahi.com/articles/DA3S13433541.html 「朝日の記事は死んでも読みたくない!」という尊敬すべき信条の方に、日本政府が発表した「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について」に対する朝日のイチャモンをかいつまんで書く。 政府(官邸)は「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式」とあるのに、朝日は「天皇陛下の退位と皇太子殿下の即位に伴う儀式」と「御」を取っている。別にどちらが正しい日本語かは問題ではない。新聞社ならば政府の発表通り載せて(原文ママ)とすれば良いのである。 (ここから イチャモンの要約) ・憲法に基づく国事行為とされ、かつ女性皇族の参列は許されなかった。政教分離や男女平等の理念に反しないか。 ・神話に由来するとされる高御座(たかみくら)などが使われ、天皇が首相を見おろす位置から「お言葉」を述べた。国民主権の趣旨にもとるのではないか。 ・神道儀式の性格をもつ大嘗祭(だいじょうさい)に公金(宮廷費)を支出したのは、政教分離の原則に触れる疑いがある。 ・首相はことし1月、国会で「国民のコンセンサスを得るためには、十分な分析、検討と慎重な手続きが必要」と答弁したが、その貴重な時間を無駄にしているのは首相自身ではないのか。 ・憲法が掲げる価値を軽視し、熟議を拒む。そんな対応は皇室の将来にも良いことではない。 下二つは「お前が言うか?!」というあきれ果てたもの。「貴重な時間を無駄にしている」のはお前たち反日マスゴミと野党ではないか! これが普通の新聞記事であれば目くじらを立てずに落語の『新聞記事』同様、「 だがしかし、改めて言うまでも無くこれは朝日の社説として掲載されたものである。 「社説」:多くの一般的な辞書には「新聞・雑誌などに、その社の主張として掲げる論説。」(広辞苑第七版より)とある。 もう少し権威のある「日本国語大辞典」(小学館)では、「新聞、雑誌などが、その社の責任において表明する意見や主張。」との語釈が書かれてある。 「その社の責任において」が朝日お得意のフェイクニュースとは意味合いが違うのだ。 この悪あがきで思い出すのは、隣国の大統領が「竹島に上陸」(2012年8月10日)したり「日王(聖上のこと)が韓国に来たければ独立運動家に跪(ひざまづ)いて謝罪せよ」(同年8月14日)と言った末期症状だろう。 それ程までに朝日は追い詰められているのか? 新たな読者獲得ではなく、少なくともコアな反日読者を逃がすまいと必死なのか? 事実を公正公平に報道するというごく当たり前のことが出来なくなった報道機関の末路に涙を禁じ得ない(もちろん嬉し涙だということは内緒だ)。 本年、3月15日に「国民の知る権利を守る自由報道協会」が「第1回 日本フェイクニュース大賞」を発表した。 興味のある方は下記のリンクをご覧いただきたい。 https://www.free-press.or.jp/fakenews-page/ 栄えある第1回大賞に選ばれたのは……、ご明察! 朝日新聞! ニュースタイトルは「慰安婦関連の英語版記事への「comfort women who were forced to provide sex to Japanese soldiers」という挿入文」 受賞理由は「慰安婦関連の英語版記事には、日本語版には絶対に登場しないcomfort women who were forced to provide sex to Japanese soldiers という表現を必ず挿入する朝日。強制連行、性奴隷化の印象操作をせっせと続けています。」とある。 審査員賞は二つ、 ・存在しない安倍晋三小学校(大阪朝日放送) これは大阪朝日放送が「瑞穂の国記念小学院」を「安倍晋三記念小学院(校)」とCGで加工して放送した、というもの。 ・陸自ヘリ墜落 被害者に暴言、想像力欠き冷酷(毎日新聞) Twitterで被害者に対する暴言があふれているとされた毎日新聞の記事が、実は「朝日新聞の自衛隊批判記事に対する批判ツイート」を「被害者への批判ツイート」ということにした、というお粗末な一席。毎日新聞の元記事はこちら https://mainichi.jp/articles/20180211/k00/00m/040/179000c エントリー数は全47本。中には「中川昭一氏の乱行は朝日新聞の捏造とバチカン和田神父が証言」という懐かしいものから、森友問題まで多岐に亘る。 是非ご覧いただきたい。 署名運動や支援も受け付けているので……。 全局で年間38億円しか支払われない電波利用料にメスを入れようとした途端マスゴミ各社の標的にされた麻生総理。安倍総理は放送法の規制緩和へと動き出した。 マスゴミ報道の裏には巨大利権が絡んでいることを忘れてはならない。肝に銘じておきたい。
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同志の会
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隠岐へのアクセス隠岐諸島とは島根半島の北方約50kmに位置する群島です。島後水道を境に 島前(どうぜん) と 島後(どうご) に分けられ、 知夫里島(ちぶりじま) (知夫村)・ 中ノ島(なかのしま) (海士町)・ 西ノ島(にしのしま) (西ノ島町)の3島を島前、 島後(どうご) (隠岐の島町)1島を島後と呼びます。主な島はこの4島ですが、隠岐諸島はそのほかにも小さな島も合わせると約180の島によって構成されています。
船でお越しの際は、降りる港をお間違いの無いよう上陸する島を必ずご確認ください。島前3島間での移動は隠岐観光http://www.oki-geopark.jp/images/external.pngの内航船を、島前島後間の移動は隠岐汽船http://www.oki-geopark.jp/images/external.pngのフェリーや高速船をご利用ください。
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松江駅前からバス
七類港
七類港 七類港 所在地 国 所在地 詳細 開港 管理者 種類 面積 統計 公式サイト
概要東に開いたコの字型の地形で三方を山に囲まれていることから、冬季の北西風に強い天然の良港で古くから交易拠点として栄え、1972年以降は本土と隠岐諸島を結ぶ定期船の発着点として整備された。主要施設としてフェリー岸壁2バース、高速船岸壁1バースのほか、-5.0m岸壁3箇所が整備されている。
フェリーターミナルは、多目的ホール、博物館、温水プールなどを備える多目的施設メテオプラザ(Meteor plaza)となっている。設計は島根県出身の高松伸が手がけ、竹中工務店による施工で総工費約29億2600万円をかけて建設され、1994年8月に着工、1995年12月に竣工し、供用を開始した。
1階はフェリーターミナル、2階はα波リラクゼーションマシーンを設置したリラックスルーム、3階は付近の海からくみ上げた海水を使用した温海水プール(25m×4コース・子供用プール)および浴場(赤外線サウナ付)、4階は1992年に美保関町へ落下した隕石(美保関隕石)を展示するメテオミュージアム、となっている。また、多目的ホールであるメテオホール(500席)およびレセプションルーム・会議室、レストランも併設されている。
沿革航路島後方面島前方面交通路線バス島根半島の東端にある美保関町。
営業時間・料金のご案内 メテオミュージアム(「美保関いん石」展示) 温海水プール はるか46億年の時間を旅したいん石が 海に抱かれたこの郷から 私たちにメッセージを発信する。 宇宙、その未知の空間に思いを馳せながら・・・ メテオプラザで過ごす時間がきっと貴方をかえてくれる。 サウナ・浴場 (海水浴帰り、釣り帰りの方も大歓迎) リラックスルーム 各種レンタル料金 メテオホール・ミーティングルーム・会議室 各料金 レストラン「花みずき」 メテオプラザ水泳教室のご案内 公共交通を使ってのご来館方法(バス時刻表)のご案内 ブログ
隠岐へのアクセス(地図)隠岐汽船時刻表■隠岐汽船は七類港・境港と隠岐各港を航行しているフェリー会社です。
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藩政時代以後 五島氏の領地は明治維新に至るまで続き、異国船の往来が増えた幕末に石田城が築城されて今日も福江の中心部に美しい石垣が残っている。
明治に入り、富江領は本藩(福江藩)へ合併されたがほどなく廃藩置県となり、福江県・平戸県を経て現在のように長崎県の一部になった。その後、鎖国政策の江戸時代には辺境の離島であった五島にも文明開化の波が押し寄せ、地勢学上の重要性から大瀬埼灯台や女島灯台などが建設されている。
昭和の時代においては海産物の水揚げや新しい加工技術の導入や養殖の増加に加え、戦禍をほとんど受けなかったことやサンゴ等の特産物がブームになるなどの幸運もあり、五島の人口は増加していき、最盛期には15万人を数えた。
この間、1962年(昭和37年)には五島の中心地福江市の中心市街地が全焼する福江大火による大規模な被害を受けたが、経済成長の時代の勢いもあって見事に復興してむしろ市街地の近代化に成功し、五島藩の城下町とはいえ「離島の小集落」という印象が強かったそれまでの福江市街地を生まれ変わらせている。
近年では五島全域で人口が減少に転じ住民の高齢化も進んでいる。平成の大合併によって五島の行政区画が大きく五島市と南松浦郡新上五島町に集約されたものの、過疎・高齢化が著しく進んでいる。若年層が島外へ出て就職するケースが多いため、若者の就労機会を増やすための取り組みがなされている。
五島のキリスト教史1566年にイエズス会宣教師のルイス・デ・アルメイダらが五島にも来島してキリスト教(カトリック)の布教を行っている。これを受けて翌年に領主宇久純定の子の宇久純尭が洗礼を受け[18]、1571年に家督を継いでキリシタン大名となっているが、五島のキリスト教はその直後から豊臣秀吉や江戸幕府によるキリスト教禁止政策(禁教令)よって一度はほぼ完全に衰退している[19]。
秀吉の時代には九州各地にかなりキリスト教が浸透していたが、キリシタンへの迫害が始まると多くは棄教するか潜伏キリシタンとなった。1597年に長崎で殉教した日本二十六聖人に中には五島出身の聖ヨハネ五島もおり、現在では福江島の堂崎天主堂 に彼の殉教を祈念する像が建立されている。
その後江戸時代中期に、五島藩は大村藩領からの開拓民を移住させる働きかけをし、1797年(寛政9年)、外海地方から108名が五島へ移住した。そのほとんどが潜伏キリシタンであったようだが、ここに五島におけるキリシタン信仰が秘密裏に復活した。彼らが藩から土地を与えられたことを知ると外海地方からの移住者が続々と増え、その数は3000名以上にも上ったといわれる。
しかし、五島藩ではキリシタンに対する厳しい取り締まりはあまり行われなかったものの、今日のように信仰の自由が制度として保障されていたわけではなく、また、移民という立場から、五島の主だった港や平野部ではなく、山間部の僻地や、陸路での往来が困難な奥まった小さな入り江などに移り住んで小規模な集落を作った例が多い[20]。
五島の潜伏キリシタンは迫害の時期にあってはこのような集落に隠れ住むようにして密かに信仰を維持し、特に明治維新前後の激烈な迫害を耐えた。
幕末の1865年、長崎の大浦天主堂で浦上の潜伏キリシタンが信仰を表明し、これ以降続々と長崎各地で多くのキリシタンがその信仰を明らかにし始めたが、神道の国教化目的のため江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は、明治最初期に「浦上四番崩れ」という宗教弾圧を引き起こした。
この頃には五島各地のキリシタンにも、長崎で指導を受けた信徒によってカトリックの教義が伝えられて、多くのキリシタンが信仰を明らかにしていったが、これに対して五島藩はキリシタンを捕え、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧を繰り返した。久賀島では、200名の信徒がわずか6坪の牢に8ヶ月間も押し込められ40名以上が死亡するという悲惨な「牢屋の窄(ろうやのさこ)」事件が起こっている[21]。
このような迫害を耐え隠れて信仰を守り抜いた五島のキリシタン達は、その後明治政府の方針転換によってキリスト教の信仰が認められると五島各地に次々と聖堂(教会堂)を建てた。これらの教会は小規模のものが多いが、長崎にある日本最古のカトリック教会の国宝大浦天主堂建立直後といえる時期に建てられ既に100年以上の年月を経ている建物もあり、その後建てられた比較的新しい教会群とともに今も五島のカトリック信者の心のよりどころとなっている。また、明治期にカトリック教会に復帰することなく、先祖代々からのキリシタンの信仰を受け継いでいるカクレキリシタンの人たちもいて、近年は過疎化や生活習慣の変化のためその信仰伝承は途絶えてしまった所も多いが、いまもカクレの信仰を守る人も僅かながら存在する[22][23]。
五島は現在でもキリスト教徒(カトリック信徒)が比較的多い地域で、人口の10%以上がカトリックである[24]。五島の人にとっては小学校からカトリック信者のクラスメートがいるのはごく当たり前のことであり、いまはカトリックと仏教など他宗教との間に宗教上の争いなども特にない。五島列島であわせて51ヶ所のカトリック教会があり、教会のある風景は長く五島の日常となっているため、郷土五島のシンボルとして皆に愛されている。
2007年1月23日には、文化庁が長崎の教会群とキリスト教関連遺産のユネスコ世界遺産(文化遺産)暫定リスト入りを決めた。長崎県内に12ある構成資産のうち、五島列島では4箇所の教会が構成資産に選ばれている[25]。
天正少年使節団報告書
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。
数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。」。(「天皇の回ザリオ」からの引用
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隠岐 郷土館は島根県隠岐郡隠岐の島町にある博物館である。昭和45年(1970年)6月に開館した。 明治18年(1885年)に周吉外三郡役所庁舎として建設され大正15年(1926年)から昭和43年(19
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竹島問題を隠岐の島で聞いてきたら意外な真実が…
隠岐郷土館
隠岐郷土館(おききょうどかん)は島根県隠岐郡隠岐の島町にある博物館である。昭和45年(1970年)6月に開館した。 明治18年(1885年)に周吉外三郡役所庁舎として建設され大正15年(1926年)から昭和43年(1968年)まで隠岐支庁庁舎として使用された西洋建築(島根県指定有形文化財)を館施設としている。 館内では隠岐に関する資料に加え竹島に関する資料等が展示されている。
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