神様カンパニー

−「神の愛の神学」を見据えて−

私のエッセイ

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 12月24日のクリスマスイブに、私たちの教会でクリスマス降誕劇を行った。「聖なる田舎芝居」と

いう企画でもう20年近く続いている。私は今の教会に行き始めてまだ7年目だから、まだまだひよっこ

だ。全体のストーリーは、始めに子供たちと聖歌隊で伝統的な降誕劇をし、中盤に大人たちによる200

9年のクリスマス劇が入っていた。その後、キャンドルに点火して名誉牧師のクリスマスメッセージとい

う流れだった。


 私は、中盤の大人たちの2009年のクリスマス男性の部の脚本・出演を担当した。この大不況の中、

実際に職をなくされた方の役と病気で悩む一人の男(私)、そこに登場する賛美をもってイエス様の誕生

を告げ知らせる人という3人構成の劇となった。また、この2009年のクリスマスには女性の部もあっ

て、そこでは今年起こった様々な社会的問題をあげつらいながら、やはりこの世の中で生き抜くためには

イエス様への信仰しかないという内容のものだった。


 こうした劇が、どれほどイエス様の降誕(クリスマスの本来的意味)を伝えられたかはわからないが、来

会されていた80名ほどの方の一部には、何らかのメッセージになったようだ。一つ私に起こったクリス

マスの奇跡は、このような一連の行事に準備の段階からすべてかかわれたことである。何かというと病気

が気になって動きが制限されてしまう私なのだが、今年のクリスマスはそれがなかった。当たり前のこと

を当たり前に行うことは、私にとって実は大きな奇跡なのである。

紅葉ドライブ!

 先日、妻と二人で、上陽町(福岡県の筑後地方)に紅葉を見ようとドライブに行きました。目的地の駐

車場に降り立つと、そこには色とりどりに紅葉した樹木がいっぱい?のはずでした。しかし、予想に反し

て、そこには緑の山と静かに流れる川があるだけでした。我々は少しがっかりしたのですが、折角来たの

だからちょっとあたりを散策してみようということで意見が一致し、周りをキョロキョロし始めました。

すると、少し離れた川の上につり橋があるのを見つけ、すぐにその橋の上にたどり着きました。橋の上か

ら見た川の水はとても透明できれいだなと思いました。その橋を渡り終えてすぐに、今度はどんぐりの実

がなっている木を見つけました。どんぐりの実がなっているところなど今まで見たこともなかったので、

我々は大はしゃぎをしました。その時、太陽の陽が差し込んできたので上を見上げました。すると、かえ

での葉に陽が当たり、それまで緑とばかり思っていた景色に赤い色が入ってきました。「わあーすごい

な。自然というのは光の当たり具合でこうも変化するんだ」と私。さらに、目を遠くの山の方にやると大

きな黄色いイチョウの木が2本立っているのが見えました。緑だけと思っていた所に、赤や黄色を見つけ

出すことができてとても嬉しくなりました。

 最初、この紅葉ドライブは失敗だったと思ったのですが、帰る頃にはとても素敵なものだと思えるよう

になりました。なぜなら、何も無いと思っていたところでも、探していると素敵なものを見つけることが

できることを学んだからです。そして、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれ

ば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)というイエス・キリストの

御言葉を思い出せたことも感謝でした。

母の手術を通して!

9月に入って、私の母が腰椎の手術をした。6時間におよぶ手術で、待つ方も大変だったが、本人もさ

ぞ辛かっただろう。とはいっても、手術中は麻酔が効いているのでそんなに心配はいらなかったが、問題

は意識が戻ってからだった。本人は、手術が終わったら、それまで感じていた症状がすぐに消えて、痛み

もほぼなくなっていると思っていたようだ。しかし、本人の予想に反し、術後の痛みと症状が改善されて

いないことで、今度は精神的に落ち込んでいった。私の母は気丈な方だが、その母が、「こんなんでは、

自殺したほうがいい」と真剣に訴えてきた。その悲痛な叫びに、私も動揺した。そして、2週間近くの看

病生活が続いている。


 しかし、この母の手術で、私は自分が強められていることに気がついた。今までは、看病される側にい

た人間が、今、看病する側に回っている。しかも、一年前には危機的状況にあった私たち夫婦が力を合わ

せて…!母が弱ることで、私が強められる。これは、逆説的な構図である。聖書にある「弱いときにこそ

強いのである」と同じ構造なのだ。私は、不眠気味になったものの、精神的には以前より覚醒し、体力的

にも鍛えられている。


 「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

                        (ヘブライ人への手紙12章8節/新共同訳聖書)

 最近、母校の大学の公開講座に出席している。5月の中頃から毎週月曜日に全9回の予定だ。最初のころは久しぶりの大学の講義だったので、緊張するやら、おごるやら、なかなかマイペースがつかめなかった。何回目の講義では、かつて厳しく指導していただいた先生の講義だったので、事前にその先生に質問のメールを送るほどだった。


 しかし、今週の月曜日、いつものように講義に出た後、帰宅しようとするときに、自分がいかにおごり高ぶっており、ふそんな奴かと嫌気がさすという体験をした。それはきっと、その日の講義をして下さった元宣教師で、現在は母校の学長をしておられるアメリカ人の先生の、学問と教育に対する謙虚で真摯な態度に触れたからではないかと思う。この先生が英語で話されて、それを理解することができたとしても、果たしてその内容の深みまで達することができるだろうか、と問われた。


 私など、何冊かの本を読んで、何かがわかったような顔をしている。ほんとに恥ずかしい。穴があったら入りたい。自分なりに力は尽くしているつもりでも、所詮「自分なり」である。自分なりに力を尽くすことしかできないと思うが、それで何かが出来上がっているわけでもない。「井の中の蛙、大海を知らず」。このことわざの意味を今回の公開講座で知らされたのは、私にとって大いに意義深いことだった。その意味では、大いなる一歩を踏み出させていただいたと感謝したい。

「愛するということ」

 エーリッヒ・フロムというスイス?の社会心理学者が、「愛するということ」という本を書いています。「愛」についての本を読んだところで、本当の愛がわかるはずもないという人もいます。確かに、一冊の本を読んで、「愛」がわかるほど、この問題は単純ではないことは分っているつもりです。ただ、この本に次のような一文が載っていたので、それを紹介させていただきたいと思いました。


 フロムが言うには、「現代人は、『愛』という言葉を聞くときに、『愛されること』を願ってしまう。しかし、成熟した大人は、『他者を愛する』という方向性で生きていく必要がある。現代において、愛する力が必要とされている」と。


 この短い指摘の中に、「愛」の一つの切り口があるのではないかと思う。「愛されることより、愛することを」が大切なのだ。そして、「愛することは、忍耐すること」へとつながっているのではないか。些細な読後感想だが、参考にしていただきたい。

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