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−「神の愛の神学」を見据えて−

命の言葉

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弟子の足を洗うイエス

 今週の祈り会で、ヨハネによる福音書の13章1〜15節を学んだ。「足洗い木曜日」という箇所である。最後の晩餐で、イエスが突然上着を脱ぎ、たらいに水をくんで、弟子達の足を洗い拭いたという記事である。


 ここをどう読むか。これはイエスが弟子たちに、身を持って「愛」の行為を教えたのだともとれる。ただ、じゃあ何故足だけだったのか、と問われるとちょっと困る。「それは、日常のこまごました事を丁寧にこなしていく中に、愛はあるのだ」と解き明かして下さった牧師さんもいる。また、「足を洗うのは奴隷の仕事だから、イエスはそこまで低くなって弟子たちを愛された。だから、あなたがたもそこまでへりくだって愛し合いなさい」と言った執事さんもいた。私はどちらかというと後者の意見に賛同する。


 いずれにしても、イエス様は、「愛することは、仕える事だ」と我々に教えておられるように思う。ピリピ2章前半の「キリスト賛歌」を思い起こす。どこまでできるかわからないが、主イエスに祈りつつ、神の国とこの世に仕えていければ幸いだ。仕えるとは、妥協することとは違うことを最後につけ加えておこう。

 マタイによる福音書4章:1〜11節において、イエスと悪魔のやり取りが記されている。マルコでは、「霊に導かれて、荒野に行かれた」ともある。イエスは40日間断食し、その後、空腹を覚えられた。その時、悪魔がやってきて語り始める。


 「この石をパンにかえてみよ」とか、「ここから飛び降りてみよ。天使が助けてくれる」(詩篇91篇)とか、「私(悪魔)を拝めば全世界を支配させてやる」といった言葉で誘惑するのである。これらの言葉は、悪魔独自の言葉ばかりではなく、聖書の御言葉から発せられている言葉もある。


 これらに対してイエスは、申命記の言葉で応戦する。そして、悪魔に勝利する。


 新約聖書のエフェソの信徒への手紙6:10〜20節では、霊の闘いに勝利するための防具と武器についてふれられている。防具は、真理の帯・正義の胸当て・平和の福音を告げる準備の履物・信仰の盾・救いの兜となっている。そして、武器は霊の剣なる神の言葉だと言われている。上で書いたイエスが悪魔を打ち負かしたときと同じように、「霊の剣は神の言葉」なのだが、問題はどう聖書を解釈し、どうそれを用いるかだ。


 福音書に出てくる律法学者・パリサイ人も神の言葉としてのヘブライ語(旧約)聖書を研究していた。
しかし、結果は彼らの聖書理解がイエスを十字架刑に追いやった。しかし、イエスは十字架に架けられたが、その聖書解釈でこの世に「真の救い」をもたらされた。ここに、「霊の剣としての神の言葉」となるか、ならないかの分かれ目があるのではないかと思う。私たちは、「人を生かす真の神の言葉」を用いうるのか?それを吟味しながら、祈りつつ信仰生活を送っていく必要がある。

「癒し主」イエス

  「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありと
   あらゆる病気や患いをいやされた」(マタイによる福音書4章23節/新共同訳)


 昨日、聖書を読んでいたら、この一節が私の心をとらえた。「イエスは〜いやされた」という箇所である。「救い主」イエスという実感は以前からあった。しかし、「癒し主」イエスということに関しては、残念なことに十分に理解できていなかった。そんな時に、この一節は私に新しいイエスへの想いを起こさせてくれた。
 

 現代において、実際に「癒し」がどういう位置付けになるかは分らないのだが、イエスは病や思い患いをも超越しておられる事を知って、新鮮な驚きを覚えているのである。現代においても、多くの病気がある。あるものは、不治の病と言われ、ある時は「障害」という形で長期にわたって引き受けなければならないものもある。しかし、それらがどのようにわれわれに立ちはだかろうとも、イエスはわれわれと共におられ、私たちを癒したもう。その癒しがどのような結果になるのかは分らないのだが、絶望的状況と見える中にあっても、イエスは私たちの重荷を共に荷いたもう。


 「癒し主イエス」と「救い主イエス」は共に、「十字架と復活のキリスト」なのである。十字架刑というむごたらしい死刑をその身に受け、3日間墓に葬られ、その後復活したもう主。それが「イエス・キリスト」なのである。主は、私たちの苦しみを知りたもう。同時に、神の永遠の命の力も知りたもう。イエスこそ私たちのキリスト(救い主)と信じ、告白していくとき、本当の救いが私たちに与えられる。そして、そこから、私たちにも苦しみに耐える力と主にある喜びが与えられるのである。

  「愛は忍耐強い」(コリントの信徒への手紙一13:4a/新共同訳)


 ここでいう「愛」とは、ギリシャ語の「アガペー」という言葉である。この言葉は、「神の愛」を示す言

葉である。そしてそれは、イエスが私たちに示したもうた尊き十字架の愛である。それは命がけの愛だっ

た。自分の命をささげる愛だった。そこに愛がある。われわれ人間が「愛する」というとき、このイエスの

愛を思い浮かべながらその愛を告白しているかどうかを吟味しなければならないのではないだろうか。


 この神の愛が、「忍耐強い」という言葉と結びついている。「忍耐」は別の言葉では、「寛容」とも言え

る。「苦しみ・悲しみに耐えること」が忍耐強いとも説明する辞書がある。自分が自分の力で「忍耐強く

なれる」とは思っていない。しかし、私たちの救い主イエスの十字架につけられた姿を思うとき、私も少

し強くされ、少し忍耐力が増すのかもしれない。「十字架につけられたまいしままなるキリスト」を心に

迎えるとき、弱い私たちも、イエスの愛によって、忍耐力が与えられると信じたい。

 
 

「神は愛である」

 「神は愛です」(ヨハネの手紙一4章16節)<新共同訳>


 この短い一文には、二つのとてつもなく深い言葉が含まれている。一つは、「神」という言葉で、もう

一つは、「愛」である。これら二つの言葉を本当に理解しようとすれば、一生かかっても無理かもしれな

い。それでも、あえて私なりに考察することを試みたい。


 まず、「神」という言葉であるが、創世記1章1節には、「初めに、神は天地を創造された」<新共同

訳>と書かれており、「神」が創造主であることがわかる。すべての始まりは、神から起こったのであ

る。また、日本語では分かりにくいが、英語などでは、「God」と「g」が大文字となり、絶対的な存

在を表す言葉となっている。そこから言えるのは、「神」は絶対唯一の存在ということである。これは、

日本の神道などにおける神々と区別される。


 次に、「愛」という言葉だが、コリント人への第一の手紙13章4〜7節(口語訳)では、「愛は寛容で

あり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の

利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍

び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とある。「愛」しかも「神の愛」というのは、まこ

とに実践するには難しいものである。この言葉どおりに振る舞えるのは、イエス・キリストだけかもしれ

ない。そして、そのイエスを信頼(信仰)する時にはじめて、私たちもこの言葉の言うような「愛」を実践で

きるのかもしれない。「まず、イエスが私たちを十字架の愛で愛したもうた。だから、私たちも自分を捨

てて互いに愛し合いなさい」。これが、聖書の説く直説法と命令法の関係である。

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