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			<title>神様カンパニー</title>
			<description>　私は、プログを立ち上げるのは始めてです。だから、不手際が多々あることをお許し下さい。
　このブログでは今までの４６年間の人生を振り返りつつ、様々な状況におかれた自分を支えてくださった主イエス・キリストの証しができればいいなと願いつつ書いていくつもりです。「人生楽あれば苦あり。苦あれば楽あり」ということわざが示している通りですが、「イエスこそ我が救い主（キリスト）」という信仰をいただいてからは、私の生き方が変わりました。どんなに苦しい時でも、あの十字架につけられてしまっているイエスの苦しみを思えば、耐え忍ぶことができると思います。そして、イエスへの信仰によって苦境を乗り切る体験を積めば積むほど、自分の人生が少しづつ前向きに進んでいっているようにも思います。
　また、私は「躁うつ病」という心の病をわずらっているので、その病から来る「弱さ」をいつも意識させられます。現代に多くなった心の病を負った方々と共感できるブログにもなってくれればいいと思います。
　皆さんからのご意見・ご批判がありましたら、ご一報ください。より良いブログ作りの糧とさせていただきます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>神様カンパニー</title>
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			<description>　私は、プログを立ち上げるのは始めてです。だから、不手際が多々あることをお許し下さい。
　このブログでは今までの４６年間の人生を振り返りつつ、様々な状況におかれた自分を支えてくださった主イエス・キリストの証しができればいいなと願いつつ書いていくつもりです。「人生楽あれば苦あり。苦あれば楽あり」ということわざが示している通りですが、「イエスこそ我が救い主（キリスト）」という信仰をいただいてからは、私の生き方が変わりました。どんなに苦しい時でも、あの十字架につけられてしまっているイエスの苦しみを思えば、耐え忍ぶことができると思います。そして、イエスへの信仰によって苦境を乗り切る体験を積めば積むほど、自分の人生が少しづつ前向きに進んでいっているようにも思います。
　また、私は「躁うつ病」という心の病をわずらっているので、その病から来る「弱さ」をいつも意識させられます。現代に多くなった心の病を負った方々と共感できるブログにもなってくれればいいと思います。
　皆さんからのご意見・ご批判がありましたら、ご一報ください。より良いブログ作りの糧とさせていただきます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629</link>
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		<item>
			<title>ジャズとの新しき出会い！</title>
			<description>　毎週通っている教会のご婦人の息子さんが、プロのジャズ・ドラマーでこの度ＣＤをりりースされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ジャンルはジャズと聞いて私にわかるかなあーと思いつつも、さっそく自宅のコンポにＣＤを入れ、音を&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出してみた。するといきなりドラムソロがなり始めた。しばらくすると、ギターがリズムをきざむと同時&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
に、ベースが軽快なベースラインを引き始める。３人編成かな？と思って聞いていると、しっかりしたサ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ックスのメロディーが入ってくる。う～ん、これぞジャズっていう感じ。昔うる覚えで聞いたウエスモン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ゴメリーとかジョーパスなんかのギターの響きを思い出す。デイビッド・サラボーンのような流れるよう&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なサックスのアドリブ。こんな複雑な音楽を一体どうやって組み立てているのだろう、という野暮なこと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
は考えないでコンポから流れ来る繊細な音に耳をすます。このアルバムのタイトルは、「菅原高志グルー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プ／ディパーチャー」だ。若干３３歳のドラマーが、初の日本全国デビューとなるＣＤで、ジャズファン&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
必聴で～す！</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629/58935863.html</link>
			<pubDate>Mon, 28 Dec 2009 17:08:20 +0900</pubDate>
			<category>邦楽</category>
		</item>
		<item>
			<title>クリスマス・イブ礼拝を終えて！</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-6e-7a/csxyy629/folder/1480276/90/58935690/img_0?1261984503&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　１２月２４日のクリスマスイブに、私たちの教会でクリスマス降誕劇を行った。｢聖なる田舎芝居」と&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いう企画でもう２０年近く続いている。私は今の教会に行き始めてまだ７年目だから、まだまだひよっこ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だ。全体のストーリーは、始めに子供たちと聖歌隊で伝統的な降誕劇をし、中盤に大人たちによる２００&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
９年のクリスマス劇が入っていた。その後、キャンドルに点火して名誉牧師のクリスマスメッセージとい&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
う流れだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私は、中盤の大人たちの２００９年のクリスマス男性の部の脚本・出演を担当した。この大不況の中、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際に職をなくされた方の役と病気で悩む一人の男(私）、そこに登場する賛美をもってイエス様の誕生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
を告げ知らせる人という３人構成の劇となった。また、この２００９年のクリスマスには女性の部もあっ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
て、そこでは今年起こった様々な社会的問題をあげつらいながら、やはりこの世の中で生き抜くためには&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イエス様への信仰しかないという内容のものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　こうした劇が、どれほどイエス様の降誕(クリスマスの本来的意味)を伝えられたかはわからないが、来&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会されていた８０名ほどの方の一部には、何らかのメッセージになったようだ。一つ私に起こったクリス&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マスの奇跡は、このような一連の行事に準備の段階からすべてかかわれたことである。何かというと病気&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
が気になって動きが制限されてしまう私なのだが、今年のクリスマスはそれがなかった。当たり前のこと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
を当たり前に行うことは、私にとって実は大きな奇跡なのである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629/58935690.html</link>
			<pubDate>Mon, 28 Dec 2009 16:15:03 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>紅葉ドライブ！</title>
			<description>　先日、妻と二人で、上陽町（福岡県の筑後地方）に紅葉を見ようとドライブに行きました。目的地の駐&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
車場に降り立つと、そこには色とりどりに紅葉した樹木がいっぱい？のはずでした。しかし、予想に反し&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
て、そこには緑の山と静かに流れる川があるだけでした。我々は少しがっかりしたのですが、折角来たの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だからちょっとあたりを散策してみようということで意見が一致し、周りをキョロキョロし始めました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すると、少し離れた川の上につり橋があるのを見つけ、すぐにその橋の上にたどり着きました。橋の上か&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ら見た川の水はとても透明できれいだなと思いました。その橋を渡り終えてすぐに、今度はどんぐりの実&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
がなっている木を見つけました。どんぐりの実がなっているところなど今まで見たこともなかったので、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我々は大はしゃぎをしました。その時、太陽の陽が差し込んできたので上を見上げました。すると、かえ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
での葉に陽が当たり、それまで緑とばかり思っていた景色に赤い色が入ってきました。「わあーすごい&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
な。自然というのは光の当たり具合でこうも変化するんだ」と私。さらに、目を遠くの山の方にやると大&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
きな黄色いイチョウの木が２本立っているのが見えました。緑だけと思っていた所に、赤や黄色を見つけ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出すことができてとても嬉しくなりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　最初、この紅葉ドライブは失敗だったと思ったのですが、帰る頃にはとても素敵なものだと思えるよう&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
になりました。なぜなら、何も無いと思っていたところでも、探していると素敵なものを見つけることが&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
できることを学んだからです。そして、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」（マタイ７：７）というイエス・キリストの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
御言葉を思い出せたことも感謝でした。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629/58813427.html</link>
			<pubDate>Sat, 28 Nov 2009 13:53:35 +0900</pubDate>
			<category>秋</category>
		</item>
		<item>
			<title>「ステファノの殉教」に関する発題</title>
			<description>【使徒言行録７：５４～８：３節からの発題】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
機ァ禹氾霧盛塹燭粒杵世亡悗垢觧駑繊&lt;br /&gt;
　○使徒言行録の著者も、伝統的にはルカ福音書の場合と同様に、「医者」であり(コロ4:14)、パウロの｢同行者｣(フィレ24)であったとみなされている。しかし現在～この伝統的な著者＝ルカ説を支持する学者はきわめて少ない。～(なぜなら)パウロの中心思想とみなされる、いわゆる「信仰義認論」～がほとんど見いだされないし、～ガラテヤ書(2章)と使徒言行録(15章)の間に、本質的な点で異同がある。～(ゆえに)使徒言行録の著者はパウロの直接の｢同行者｣ではなく、パウロの死後その思想の継承者たる～ローマ人かギリシャ人、あるいはギリシャ語が普遍言語であることを暗黙裡の前提として著作活動をなした「ヘレニズム的著作家」の一人であったと想定される。～(また)成立年代は８０年代の後半から９０年代の前半とみて、間違いないと思われる。（荒井献／「岩波訳新約聖書供廖1998）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　○ルカの著作性を疑う説や、ルカの資料を用いているが別の人が書いたとする仮説もなくはない。この立場に立つ人々は使徒行伝とパウロの手紙との間に見られる不一致をその主な根拠としてあげている。しかし、使徒行伝が一個のまとまった歴史書であり、第三福音書と深い関連を持ち、その続編また完成として書かれたことを否定するに充分な論拠はなく、われわれは医者ルカを使徒行伝の著者としてさしつかえないであろう。～(また執筆年代に関しては)決定的証拠はないが、多くの学者が認めるように、８０年代、ローマにおいて書かれたとするのが妥当であろう。～(その上で)使徒行伝は教会の中に聖霊の力が生き生きと働いていたことを述べている。そして聖霊の力は何よりも人々を伝道へと召したのであった。「地のはてまでわが証人となるであろう」(1･8)という委託を受けて、教会は宣教をなす共同体として聖霊の力と導きをうけて生き、また生き続けるのである。&lt;br /&gt;
(船本弘毅／｢説教者のための聖書講解・使徒行伝｣／1990)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
供ァ禹氾霧盛塹燭離ーワードの資料＞（カール・バルト／「教会教義学要綱」／1947）&lt;br /&gt;
　ａ）「復活とは」：復活節の使信は罪・呪い・死という、われわれの敵が打ち倒されたということを、われわれに告げる。それらのものは、もはや究極において、害を行うことはできない。～復活節の使信を聞いた者は、もはや、悲劇的な顔をして走り廻り、何の希望もない者のユーモアなき生活を営むことはできない。イエスは勝利者だ―ただこのことだけが力を持つのであり、ただこの一事だけが、本当に厳粛なのである。～イエス・キリストの甦えりは、このような勝利の告示を現わし、またそれを完成するものである。われわれは甦えりを、何か精神的な事件に解釈し直してはならない。そこには空の墓があったということ、新しい生が死の彼方に示されたということ―そのことを、われわれは、聞かねばならぬ。告げられねばならぬ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ｂ）｢聖霊とは｣：聖霊をうけるということ、聖霊を所有するということ、聖霊の中に生きるということ、それは、自由にされているということ、自由の中に生きることを許されているということである。～聖霊は、イエス・キリストの霊である。聖霊は、人間に対する御言葉の一定の関係である。五旬節において起こったことは、キリストから人間に向かっての一つの運動である。イエスは、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)と言い給う。キリスト者とは、そのようなキリストによって息を吹きかけられた者たちのことである。したがって、われわれは、或る意味において、酔わずには、十分に聖霊について語ることができない。それは、キリストの御言葉と御業に対する人間の参与である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
掘ァ礇好謄侫．里僚浙気亡悗垢觧駑繊&lt;br /&gt;
　○ユダヤの民族主義者たちは彼らの民族的歴史的特権が永続するという信仰にかじりつき、信徒たちのまわりに集まってきた『ヘブル人』のキリスト者たちでさえ、新しいメシヤ信仰をもっていながら、過去の聖なる制度を理想化し、『絶えず宮もうでをなし』奉献式の時間でもある『祈のときに宮に上り』、聖所ののき下に避難していたのにひきかえて、ステパノは、メシヤが宇宙の王座に座したもうことを洞察した。～（また)ステパノは、地上の法廷で有罪の判決をうけたが、天の法廷にむかって無罪のあかしを請願している。この最高法廷における彼の弁護者は、イエスであり、イエスは神の右にステパノの弁護者として、「助け主」として、立っておられる。～（そしてその）ステパノの死は、エルサレム教会に対する弾圧運動を即刻開始するきっかけとなった。この段落を広い前後関係の中で読めば、攻撃の主目標は教会の中のヘレニストたち(ステパノが指導者であったグループ)であり、エルサレムを離れることを余儀なくされたのは、大部分ヘレニストたちであった、と結論できよう。この時以後、エルサレム教会はほとんど全部が「ヘブル語を使うユダヤ人たち」から成るようになったらしい。十二使徒はエルサレムに留まったが、これは、一つには疑いもなく彼らがその部署に留まることを義務と考えたからであり、一つには、民衆の敵意が、十二使徒よりもむしろ教会内のヘレニストの指導者たちに向けられたからでもある、と推測できる。（Ｆ．Ｆ．ブルース／「使徒行伝」／１９５５）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　○ヘレニストは、ギリシャ人のまねをする人、ギリシャ人のように振舞う人を意味する。～(また)、ステパノの死を目前にした祈りはイエス･キリストの十字架の祈りと同化し、またユダヤ教の夕べの祈り(詩篇31･５／口語訳)に基づいている。サウロの回心に決定的な影響を与えたのはこのステパノの殉教の姿であり、またその祈りであったと言われている。(西田直樹／「説教者のための聖書講解・使徒行伝」／１９９０)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
検イ爐垢咫併笋上記の資料にふれて感じたこと）&lt;br /&gt;
　○ペンテコステを境に、使徒たちはエルサレムで大胆にイエス様の復活を証しし始めます。その後、多くの民が使徒たちの教えを受け入れ、初代教会の原型ができあがっていきます。&lt;br /&gt;
　そのような中で、なぜステファノが殉教しなければならなかったのかという疑問が、この聖書箇所を読み始めた時に浮かんできました。色々な参考文献にあたっているうちに、その根底に使徒たちが越えきれていなかったユダヤ民族主義的選民思想の存在かと思うようになりました。バルトが、「聖霊を受けるということは～自由の中に生きることを許されていること」だと語っておりますが、ステパノは、この自由を生きようとしたために硬直した民族主義というものから憎まれたのではないでしょうか？「殉教者の血は教会の種」という言葉がありますが、ステパノの殉教も例外ではなく、彼の死をきっかけに起こったエルサレム教会の迫害によって、ユダヤ・サマリア全土にイエス様の復活の福音が広がっていくことになったのだと思います。ステパノの死に様がイエス様のそれと似ておりますが、イエス様が｢父よ、わたしの霊を御手にゆだねます｣と言っておられるのに対し、ステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言っています。この箇所を読んで、「聖霊を受けたら、私も死ねる」とある特伝で語っておられた伊藤隆夫先生の言葉を思い出しました。聖霊を受け、主イエスの復活の証人として歩んで生きたいです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
后イまけ（我流川柳）&lt;br /&gt;
「神学で語りたがっているけれど　信仰のみと心つぶやく･･･！」</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629/58635095.html</link>
			<pubDate>Fri, 16 Oct 2009 16:20:57 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>「心の病と十字架につけられてしまっているキリスト」</title>
			<description>【心の病(躁うつ病)と十字架につけられてしまっているキリスト】&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１）私と「心の病（躁うつ病）」&lt;br /&gt;
　私は、１９９１年１２月末に、佐世保市にある教会で副牧師をしている時、心の病を発病した。以来、１８年間に渡って、その治療とリハビリを続けている。発病当時は、「神様から見捨てられた」という自己意識があり、ひどく落ち込み辛かった。病名は「心因反応」というものだったが、数年経って症状が悪化し、「躁うつ病（双極性感情障害）」という病名に変わった。そして、今もその病名のまま治療を続けているが、今ではいつも神が共に歩んで下さっていると思えるところまで回復してきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「躁うつ病（双極性感情障害）」というのは、統合失調症と並ぶ二大精神病の一つで、「そう状態」と「うつ状態」という二つの感情的な大きな波が基調にある病だ。このような感情的な揺れは健康体といわれる人にも見られることだと思うが、ただその感情の波が非常に激しい形で現れるとき、「躁うつ病」と呼ばれる。自分で感情のコントロールができず、医師や看護スタッフ、そして薬物療法・通電療法・入院治療などをほどこしながら日常生活を送らなければならない。もちろん、家族の協力を必要とするのは言うまでもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「そう状態」になりはじめの時、本人にとっては、実はとても心地よい感じを体験する。&lt;br /&gt;
頭の回転も良いと思うし、行動も活動的になり、色々なことに挑戦してみようという意欲も増していく。例えば、「どくとるマンボウ」として有名な作家の北杜夫さんも「躁うつ病」と聞いているが、彼の場合、そう状態のときに執筆活動をし、うつになるとただじっとそれが過ぎ去るのを待つのだとある本に書いてあった。そのように、軽そう状態のときは、本人は心身ともに健康な人以上に元気な感じで過ごす時期がある。このような「万年軽そう状態」で、仕事や趣味に力を尽くした例としては、遠藤周作さんがあげられる。&lt;br /&gt;
　しかし問題は、この「軽そう状態」を超えてしまったそう状態になった時である。この段階になると、元気だったエネルギーが負の方向に働きだし、他者を攻撃的に非難したり、物に当たるようになったり、ささいなことが気になって苛立ったりということが起こるようになる。こうなると、本人も苦しいのだが、周囲にいる肉親などが大いに苦しむ体験をすることが多々ある。こういう状態になったら（できればその兆候が見えたらなるべく早く）専門医に診てもらい、必要とあれば入院加療をする必要があるだろう。早期発見、早期治療は、他の病気と同じように、精神科系の病でも同じように当てはまると思う。入院すれば、各病院で適切な処置をしていただけると思うので、病状がひどいときは躊躇なく精神科の病院(ないし心療内科)へ行くべきだと思うが、医師によっては、症状を一つ訴えるごとに一つ薬を増やすというような、あまり好ましからざる治療をする方がいらっしゃると聞くので、病院（医師）選びは慎重にする必要はあると思う！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　次に「うつ状態」だが、うつの場合はそう状態とは違って、楽しいと思える時は全くない。ただ、その苦しさが強いか弱いかなのである。うつの程度がひどい時は、普通の人が、４０度近い高熱を出した感じになり、肉体的にはほとんど動けなくなる。精神的には、「いつこの苦しみから解放されるのだろうか」という不安な気持ちを抱き続けながら、治療の効果を信じつつ待つのみである。&lt;br /&gt;
うつの程度が軽い時も、基本的に気分は重く、思考はマイナス方向ばかりを向いている。人によっては、この段階から、「死にたい」と考える人もいるようだが、うつ病で厄介なのは、「死にたい」が言葉だけで済まないところである。だから、病友の言葉も見逃せない。今まで数人の知り合いを自死というかたちで、天に見送る悲しい経験もした。&lt;br /&gt;
　ただ、現代精神医学では、うつ病の治療法も進歩してきており、うつ状態で絶望している患者にも、大きな光を与えてくれているのも事実である。特に、飲み薬と点滴による抗うつ剤の投与によって、以前（２０年程前）に比べれば、とても短い時間(長くても３ヶ月ぐらい)で「うつ状態」から回復することができるようになってきていると思う。薬の副作用も減ったし、「躁転」(うつ状態からいきなりそう状態に変容してしまうこと)と呼ばれる問題も少なくなってきている。また、精神科の病のバロメーターは睡眠で、睡眠時間や熟睡感に気をつけておくことによって、自分の健康状態が把握しやすくなり、より的確な生活方法の選択ができるようになる。もちろん、睡眠導入剤や精神安定剤を用いることは言うまでもないが…！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２）私と「十字架につけられてしまっているキリスト」&lt;br /&gt;
　私は、西南学院大学の神学部で、牧師を目指して学ばせていただいた時期があった。その当時、学生に大きな影響を与えておられた(そして今もなお影響を与え続けておられる)新約聖書学の青野太潮教授が、いつも強調しておられるのが、この「十字架につけられてしまっているキリスト」（岩波訳）ないしは「十字架につけられ給いしままなるキリスト」（文語訳）という箇所（汽灰螢鵐硲院В横魁■押В押▲ラテヤ３：１）である。実を言うと、神学生時代、私はあまりこの青野教授の強調される「十字架につけられてしまっているキリスト」という言葉の意味する重要性がよくわかっていなかった。学んでいた当時は、ただ「自分の理解しているキリスト像」と違っている「青野先生のキリスト像」に、やみくもにぶつかっては跳ね飛ばされる愚かな私の姿のみを思い起こされる。&lt;br /&gt;
　この青野教授の「十字架の神学」の詳細は、「十字架につけられ給いしままなるキリスト」(コイノニア社)と「十字架の神学の射程」(新教出版社)などの著書をお読みいただくとして、ここでは、青野教授が、「十字架につけられてしまっているキリスト」にこそ力があると言われていると私が受け取っていることのみに触れておきたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３）「心の病」と「十字架につけられてしまっているキリスト」との統合（integration）&lt;br /&gt;
　私が始めて「十字架につけられてしまっているキリスト」（のイメージ）と出会ったのは、&lt;br /&gt;
１２～３年前に極度のうつ状態に陥っているときだった。当時、月に一度、１～２週間の抗うつ剤の点滴治療を受け、年間百本近い点滴を受けていた頃だった。さらに、病院長から、この一週間の点滴でうつ状態を脱却できなければ入院だからね、というダメ押しまであった。そんな時、処置室のベッドの上で点滴を受けながら、ぐったりと呻いていた時、十字架につけられたイエス様（のイメージ）が近寄ってきて、そして、「山田君、辛いだろうねー。その苦しみはよくわかるよ。なぜなら、私もまたこの十字架の上で苦しんだのだから。でも、きっと父なる神様はこの苦しみから解放してくださるよ。それまで、私も一緒に苦しむからね。耐えようよ」、そう言われているような気がした。その後、私のうつ状態が劇的に快方したわけではなかったが、少なからず「苦しむ勇気」を与えられた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　次に私は、２００２年３月に、「心の重荷を背負って生きる」という講演を、福岡ベタニヤ村教会で行った。その講演の内容はともかくとして、問題はその講演直後に起こった私の身体の異常さである。夜は、２～３日不眠になり、関係妄想(すべての人が自分を見ているような思い)、睡眠薬を飲んだらそのまま死んでしまうのではないかという恐れ、こうした症状は、うつ病の「死の恐怖」というものだと症状が治まってから教えてもらった。&lt;br /&gt;
　不眠が続き、体力的にも、精神的にも、疲れのピークに達した時、与えられている睡眠薬を飲めばいいものを、上述したような「死の恐怖」という症状のため、睡眠薬を飲むと死んでしまうという思いが離れず飲めない。不眠が続く。そんな時、私は、１本のカセット・テープを聴いていた。それは、青野教授がある教会で話された「十字架のキリスト」というテープだった。そして私はこのテープを何度も何度も聴いていた。その話の中で、アメリカの心療内科医であるＭ・スコット・ペック先生の書いた「平気でうそをつく人々」という本の一節を青野教授が翻訳してくださっていた。そこには、「神は破壊をもたらすことはお出来にならない。ただ創造することがお出来になるのみなのだ。神は罰することはされず、介入されるとしても、ただ助けを与えるためのみであって、傷つけるためではない。～」とあり、この言葉を聴いたときに、「神は破壊をもたらさない」という箇所が私の心を捉え、その言葉にかけて、睡眠薬を口に運び、飲み干し、ようやく眠ることができたのである。だから、この時「十字架の逆説的救済論」を強調しておられた青野教授のカセット・テープがなかったら、今の自分がどうなっていたかは分からない。本当に感謝だ！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４）まとめ（結語）&lt;br /&gt;
　このように、青野教授の強調される「十字架の神学」（「十字架につけられてしまっているキリスト」）は、弱っている人、病の中で苦しんでいる人、絶望の淵であえいでいる人に大きな慰めと癒しを与えてくれると私は思う。そういう意味では、イエス様の弱さ（十字架刑）を思い浮かべることが、どれ程、私たちに希望を与えてくれるかは計り知れない。私もまた、体験的にそのことを認めていきたい。&lt;br /&gt;
　しかし、青野教授が、「復活のキリスト＝十字架につけられてしまっているキリスト」と結論付けてしまう時に、いささかの疑問を禁じえない。確かに、パウロの信仰理解では、この公式は成立するのだろうが、果たして、新約聖書全体（あるいは聖書全体）を通して、この公式は成立するのであろうか。最も、青野教授の専門がパウロ研究であるだけに、この結論でいいのかもしれないが、やはり私は、納得がいかない点がある。それは、やはり「復活理解」の問題である。確かに、「十字架の神学」の強調は重要課題だが、「復活の神学」を考えることもさらに重要であるように思える。そして、その「復活の神学」を考える上で、大切なキーワードは、「永遠の命」という言葉ではないだろうか。永遠に生きたもうイエス様が、永遠に十字架につけられ続けているというのか。私は、決してそうだとは思わない。イエス様は、今はすでに、神の右にあられて、助け主なる聖霊を送り続けて下さっていると私は思う。私たちの救い主なるイエス様は、この地上の生涯では無残にも、十字架の死という苦渋に満ちた最後をとげられた方である。しかし、今はその苦しみから解き放たれて、自由に、神様と共に私たち人間の苦しみを見守っていて下さるのではないか。それゆえ、「十字架の神学」で留まっていることは不完全な事で、やはり、私たちは、「十字架と復活の神学」にまで引き上げられなくてはならないだろう。青野教授の提示された「十字架につけられてしまっているキリスト」（「十字架の神学」）は、本当に大きな意味を持つことであると思うが、果たしてこのままの時点に止まっていていいのだろうか？</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629/58611273.html</link>
			<pubDate>Sat, 10 Oct 2009 21:56:10 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>いつの間に上手くなったんだろう？？？</title>
			<description>　先日、３年ぶりに、妻と近テニスをしに行った。取り立ててウォーキングをしたとか、筋トレをしたと&lt;br /&gt;
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かはなかったのだが、なぜか二人ともテニスが上手くなっていた。３年たったから、年もとったのだが、&lt;br /&gt;
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なぜだかラリーも１０回以上続くようになったし、フットワークも若い頃の動きを思い出すほどだった。&lt;br /&gt;
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ただ、突然、身体を動かしたから、その後２～３日は筋肉痛がひどかったですが…！</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629/58572562.html</link>
			<pubDate>Thu, 01 Oct 2009 22:12:49 +0900</pubDate>
			<category>テニス</category>
		</item>
		<item>
			<title>母の手術を通して！</title>
			<description>９月に入って、私の母が腰椎の手術をした。６時間におよぶ手術で、待つ方も大変だったが、本人もさ&lt;br /&gt;
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ぞ辛かっただろう。とはいっても、手術中は麻酔が効いているのでそんなに心配はいらなかったが、問題&lt;br /&gt;
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は意識が戻ってからだった。本人は、手術が終わったら、それまで感じていた症状がすぐに消えて、痛み&lt;br /&gt;
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もほぼなくなっていると思っていたようだ。しかし、本人の予想に反し、術後の痛みと症状が改善されて&lt;br /&gt;
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いないことで、今度は精神的に落ち込んでいった。私の母は気丈な方だが、その母が、「こんなんでは、&lt;br /&gt;
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自殺したほうがいい」と真剣に訴えてきた。その悲痛な叫びに、私も動揺した。そして、２週間近くの看&lt;br /&gt;
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病生活が続いている。&lt;br /&gt;
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　しかし、この母の手術で、私は自分が強められていることに気がついた。今までは、看病される側にい&lt;br /&gt;
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た人間が、今、看病する側に回っている。しかも、一年前には危機的状況にあった私たち夫婦が力を合わ&lt;br /&gt;
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せて…！母が弱ることで、私が強められる。これは、逆説的な構図である。聖書にある「弱いときにこそ&lt;br /&gt;
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強いのである」と同じ構造なのだ。私は、不眠気味になったものの、精神的には以前より覚醒し、体力的&lt;br /&gt;
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にも鍛えられている。&lt;br /&gt;
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　「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」&lt;br /&gt;
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　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（ヘブライ人への手紙１２章８節／新共同訳聖書）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629/58497980.html</link>
			<pubDate>Mon, 14 Sep 2009 10:20:42 +0900</pubDate>
			<category>その他の病気</category>
		</item>
		<item>
			<title>「井の中の蛙、大海を知らず」</title>
			<description>　最近、母校の大学の公開講座に出席している。５月の中頃から毎週月曜日に全９回の予定だ。最初のころは久しぶりの大学の講義だったので、緊張するやら、おごるやら、なかなかマイペースがつかめなかった。何回目の講義では、かつて厳しく指導していただいた先生の講義だったので、事前にその先生に質問のメールを送るほどだった。&lt;br /&gt;
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　しかし、今週の月曜日、いつものように講義に出た後、帰宅しようとするときに、自分がいかにおごり高ぶっており、ふそんな奴かと嫌気がさすという体験をした。それはきっと、その日の講義をして下さった元宣教師で、現在は母校の学長をしておられるアメリカ人の先生の、学問と教育に対する謙虚で真摯な態度に触れたからではないかと思う。この先生が英語で話されて、それを理解することができたとしても、果たしてその内容の深みまで達することができるだろうか、と問われた。&lt;br /&gt;
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　私など、何冊かの本を読んで、何かがわかったような顔をしている。ほんとに恥ずかしい。穴があったら入りたい。自分なりに力は尽くしているつもりでも、所詮「自分なり」である。自分なりに力を尽くすことしかできないと思うが、それで何かが出来上がっているわけでもない。「井の中の蛙、大海を知らず」。このことわざの意味を今回の公開講座で知らされたのは、私にとって大いに意義深いことだった。その意味では、大いなる一歩を踏み出させていただいたと感謝したい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629/57944118.html</link>
			<pubDate>Sat, 20 Jun 2009 15:55:07 +0900</pubDate>
			<category>その他教育</category>
		</item>
		<item>
			<title>椎名麟三の「私の聖書物語」を読んで！</title>
			<description>　ある知人に、「椎名麟三の本が面白いよ」と薦められ、図書館に出かけていった。受付で、「椎名麟三の本を探しているのですがありますか？」と聞いてみたところ、受付の人がすぐにコンピューターで調べてくれ、おまけに探してきてくれた。全集が２冊と大活字本シリーズから１冊があった。&lt;br /&gt;
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　早速、家に帰り、借りてきた本を眺め始めたのだが、全集の２冊は小説だった。そして、もう１冊が「私の聖書物語」というエッセイだった。つまり、家に帰って本を見るまで、私は椎名麟三が小説家であることを知らなかったのである。彼の本を薦めてくれた人が牧師だったので、きっと神学書を書いている人だろうと思っていたのだ。&lt;br /&gt;
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　それから、まず彼の略歴を読んでみた。１８歳から共産主義者（マルキスト）として３年間投獄されている。その後、実存主義哲学を学び、ニーチェの「この人を見よ」という作品で、ニーチェをこれほどまでに憤慨させるキリストとはいかなる存在なるかという問いから、聖書へと導かれ、やがて赤岩　栄牧師によって洗礼を授けられキリスト者となったようである。その思想は深く、キルケゴールやドストエフスキーの影響も受け、そして小説家になったようだ。&lt;br /&gt;
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　この本を読んだ読後感想は、「すっきり」という感じのもではなく、また「どんより」でもない。それは、彼のこの本には、「復活のキリスト」が描かれながら、同時に、この世界で苦悩する人間の姿が浮かび上がってくる。だから、「神様万歳」と叫びたいけれども、人間の持つおどろおどろしたどす黒さが感じられるのである。しかし、そのどうしようもない、罪深い人間をキリストは救い給うというテーマはぶれていないと思う。ただ、椎名氏の語り口調には、私のように甘ちょろい表現では言い表せない含みがあるのも事実である。でも、この作品に出会ってよかったと思う。少し、斜に構える見方を覚えたようだ。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629/57921700.html</link>
			<pubDate>Thu, 18 Jun 2009 07:15:55 +0900</pubDate>
			<category>その他文学</category>
		</item>
		<item>
			<title>弟子の足を洗うイエス</title>
			<description>　今週の祈り会で、ヨハネによる福音書の１３章１～１５節を学んだ。「足洗い木曜日」という箇所である。最後の晩餐で、イエスが突然上着を脱ぎ、たらいに水をくんで、弟子達の足を洗い拭いたという記事である。&lt;br /&gt;
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　ここをどう読むか。これはイエスが弟子たちに、身を持って｢愛」の行為を教えたのだともとれる。ただ、じゃあ何故足だけだったのか、と問われるとちょっと困る。「それは、日常のこまごました事を丁寧にこなしていく中に、愛はあるのだ」と解き明かして下さった牧師さんもいる。また、「足を洗うのは奴隷の仕事だから、イエスはそこまで低くなって弟子たちを愛された。だから、あなたがたもそこまでへりくだって愛し合いなさい｣と言った執事さんもいた。私はどちらかというと後者の意見に賛同する。&lt;br /&gt;
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　いずれにしても、イエス様は、｢愛することは、仕える事だ｣と我々に教えておられるように思う。ピリピ２章前半の「キリスト賛歌」を思い起こす。どこまでできるかわからないが、主イエスに祈りつつ、神の国とこの世に仕えていければ幸いだ。仕えるとは、妥協することとは違うことを最後につけ加えておこう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/csxyy629/57720390.html</link>
			<pubDate>Fri, 29 May 2009 15:22:35 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		</channel>
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