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イスラエルのレバノン攻撃や広島原爆記念日などに、日本のキリスト教会は何のメッセージも発しないのか・・・というような疑問や批判の思いを綴られた他の方のブログ記事に接して、キリスト者のはしくれとしては色々と思うところもあったが・・・・。 先日20日の聖日礼拝で、私の所属教会の牧師が朗読した聖書の箇所は、旧約聖書からは「イザヤ書第1章」、新約聖書からは「コリント信徒への手紙2第10章」であった。 プロテスタント教会の礼拝の常として、聖書から必ず旧約と新約と1箇所ずつを引用するが、礼拝説教は主に新約の箇所にそった話で構成されることが多く、この日の説教も主にこのパウロの手紙の一つであるコリント2に沿った話であった。 しかし、旧約から引かれたこの「イザヤ書第1章」の記述は、まさに今の国際情勢や政治情勢にてらして胸に突き刺さる言葉のようで、牧師がそこに「聖書からのメッセージを汲み取るよう」あえて選んだように思われた。 長くなるが、引用しておきたい。 イザヤ書 1:2〜20 天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。 わたしは子らを育てて大きくした。 しかし彼らはわたしに背いた。 牛は飼い主を知り ろばは主人の飼い葉桶を知っている。 しかし、イスラエルは知らず 私の民は見分けない。 災いだ、罪を犯す国、咎の重い民 悪を行う者の子孫、堕落した子らは。 彼らは主を捨て イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。 何故、お前たちは背きを重ね なおも打たれようとするのか 頭は病み、心臓は衰えているのに。 頭から足の裏まで、満足なところはない。 打ち傷、鞭のあと、生傷はぬぐわれず、包まれず 油で和らげてももらえない。 お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ 田畑の実りは、お前達の目の前で 異国の民が食い尽くし 異国の民に覆されて、荒廃している。 そして、娘シオンが残った 包囲された町として。 ぶどう畑の仮小屋のように。 きゅうり畑の見張り小屋のように。 もし、万軍の主がわたしたちのために わずかでも生存者を残されなかったなら わたしたちはソドムのようになり ゴモラに似たものとなっていたであろう。 ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。 ゴモラの民よ 私たちの神の教えに耳を傾けよ。 お前たちのささげる多くのいけにえが わたしにとって何になろうか、と主は言われる。 雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に わたしは飽いた。 雄牛、子羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが 誰がお前たちにこれらのものを求めたか わたしの庭を踏み荒らす者よ。 むなしい献げ物を再び持って来るな。 香の煙はわたしの忌み嫌うもの。 新月祭、安息日、祝祭など 災いを伴う集いにわたしは耐ええない。 お前達の新月祭や、定められた日の祭りを わたしは憎んでやまない。 それは私にとって重荷でしかない。 それを担うのに疲れ果てた。 お前たちが手を広げて祈っても、私は目を覆う。 どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。 お前達の血にまみれた手を 洗って清くせよ。 悪い行いを私の目の前から取り除け。 悪を行うことをやめ 善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り やもめの訴えを弁護せよ。 論じ合おうではないか、と主は言われる。 たとえ、お前たちの罪が緋のようでも 雪のように白くなることができる。 たとえ、紅のようであっても 羊の毛のようになることができる。 お前たちが進んで従うなら 大地の実りを食べることができる。 かたくなに背くなら、剣の餌食になる。 主の口がこう宣言される。 ダビデとソロモンの治世で栄えていたイスラエルが、その後北イスラエルと南ユダに分裂した後の紀元前8世紀に南ユダに現れた予言者イザヤが残した言葉の冒頭部分である。 ここで言う「イスラエル」は「北王国」を指すのではなく、民族としてのイスラエルを指しているものであろう。また、「娘シオン」とは当時南王国の都でもあったエルサレムを指している。 このイザヤ書は、彼が南ユダ王国とイスラエルについて見た幻をもとに、主(=神)がイスラエルの民に語った言葉を伝えたいわゆる預言の書であるが、現代のイスラエル(に限らず不正な政治を行っているすべての国に、と言ってもいいが)に向けて発せられている言葉として考えることも全く無理がないのは不思議なほどである。 当時のイスラエルは北方のペリシテと抗争を繰り返したり、その後には強大化したアッシリアと戦っていわゆるバビロン圃囚の憂き目を見ることにもなるわけだが、実にその頃から考えてもこの地域の民族抗争は足かけ3000年ちかくに及んでいることになる。 また一般に、旧約に描かれた神はイスラエルの民族神・守護神のように言われるが、イスラエルを民族として選びながらも、彼らが神の思いから離れて不道徳や義のない戦いで堕落していくことを許さない、厳しい存在であることがわかる。 いろいろな意味で考えさせられた聖書のことばであった。
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イザヤ書は平和の書と呼ばれていますものね。でも申命記の次の箇所はどうでしょう。「あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、…また力のある七つの民を、あなたの前から追い払われる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。」(申命記7章1〜2節)
2006/8/23(水) 午前 8:49
ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。だだし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品として奪い取ることができる。
2006/8/23(水) 午前 8:51
あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に用いることができる。…あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。(申命記20章10〜17節)
2006/8/23(水) 午前 8:51
上の申命記によると、ユダヤ人に「嗣業として与えられ」たカナンの地=イスラエルで、息のあるパレスチナ人は「滅ぼしつくさねばならない」ということになります。私は旧約をどう読むかいまだにわからずにいます。カプチーノさん、教えてください。。。
2006/8/23(水) 午前 8:55
私も神学者でもないし、神学や聖書学をきちんと学んだ訳ではないのでstarさんが納得されるような説明などできるはずもありません。ただ、ユダヤ教による神理解とキリスト教の神理解は同根でありながらも、大きな違い(民族宗教を乗り越えたもの)があり、キリスト教が「新約」聖書を聖典としてる所以でもありますよね。
2006/8/23(水) 午後 9:59
私は受洗前に当時の牧師(旧約学が専門の)から、「旧約聖書も新約を通して読み理解すべきであり、一方、新約理解は旧約理解を抜きには得られない」と教わりました。現代に生きる我々は、申命記の一々の記述を「周辺民族との戦いの奨励」と読むのではなく、ユダヤ民族とヤハウェの約束・信頼関係の確認という視点から理解すべきではないかと・・・。
2006/8/23(水) 午後 10:06
そもそも「聖書」とは何か?を深く考察することから始めなければならないと思います。キリスト教は、新約聖書なしに存在しませんでした(イエスの存在とも言える。もちろん書き手の思想が反映されていることは言うまでもありません)。新約は、旧約をアウフヘーヴェンしているのだと理解しています。だからこそ新しい契約なのではないでしょうか。もちろん旧約がないがしろにされていいということではありませんけれど。。。パウロをどのように評価するかについては、別の機会に譲ります。
2006/8/24(木) 午前 0:10 [ - ]
gendaiさん、ずっと聖書研究を怠ってきているので、偉そうなことは何も言えません。でも旧約に関しては、神が選んだとされるユダヤ(ヘブライ)人たちと如何に関わってこられたか、またユダヤ人達が神に如何に応え、また裏切ったかが人間的に描かれていて興味が尽きないと共に、私たちが偶像礼拝に走らずに如何に神の愛に応えるべきか、考えさせられます。
2006/8/24(木) 午前 0:52
私はフィンランド留学時、聖書学院(日本語ではこう訳すしかない)での勉強もしてきました。反発することも多かったのですが、それが反面教師のようになって、イエスに対する考察を深められました。新約学は、私の好きな分野でしたが、違和感がありました。やっぱり私は、異端?なのかも知れません。でも、これからも「聖書研究」の記事を書いていきたいと思っています。
2006/8/24(木) 午前 3:46 [ - ]
旧約の記述を静的に「神の言葉」ととらえるのが原理主義でしょうね。旧約から新約への移行のダイナミズムそのものに命があると思っています。こういうことは教会で話しても型どおりの答えしか返ってこないので、かぷちーのさんやGENDAIさんの話を聞くのは興味深いです。
2006/8/24(木) 午前 8:28