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「ウツ」が治るとは、元に戻ることではない
――新しく生まれ直す“第2の誕生”
――「うつ」にまつわる誤解 その(24) 「うつは本当には治らない」「うつは再発しやすいものだ」といった認識が、
依然として、あちらこちらでささやかれ、信じられているように見受けられます。
これらは、「治る」ということを「元の状態に戻ること」と捉えて行なわれている
治療のはらむ現実的な限界を多くの人が見て、流布されるに至った残念な風評です。
第4回でも触れましたが、repair(修理)ではなくreborn(生まれ直し)
あるいはnewborn(新生)といった深い次元での変化こそが、
真の「治癒」には欠かせません。
この変化を「第2の誕生」と呼ぶことにしましょう。
最終回の今回は、その「第2の誕生」とはどのようにして可能なのか、
そこからどんな生き方が始まっていくのかということについて、触れておきたいと思います。
「自力」と「他力」 仏教では、よく「自力」と「他力」ということが言われます。
「自力」は自分の力を頼みにしている在り方を指し、
「他力」は仏の力によって導かれることに開かれた状態を指しています。
何度も用いてきた「頭」「心」「身体」の図で考えてみると、
「自力」とは「頭」の知力や意志力を頼みにしている状態であり、
一方の「他力」は、大自然由来の「心」(=「身体」)にゆだねた状態と
見ることができます。
そう考えてみると、さしずめ「うつ」とは、「自力」が尽きた状態に相当すると
言えるでしょう。
ある日突然に朝起きられなくなる、会社に行こうとして自分に号令をかけても
身体が動いてくれない。
「うつ」の始まりによく見られるこのような状態は、「頭」が命令しても、
もはや「心」(=「身体」)がストライキを起こし従ってくれなくなった状態と
理解できます。
第12回でも触れましたが、「うつ」に陥りやすい人は、この「自力」を
頼みにして自らに努力や忍耐を強いてきた場合が多く、それがある時点で
破綻してしまったのが「うつ」状態なのです。
仏教学者の鈴木大拙氏は、「自力」と「他力」について、こんなことを述べています。
自力というのは、自分が意識して、自分が努力する。
他力は、この自分がする努力は、もうこれ以上にできぬというところに働いてくる。
他力は自力を尽くしたところに出てくる。
窮すれば通ずるというのもこれである。〈―中略―〉底の底まで進んで
破れないというところまで進んで、やがて自力を捨ててしまう、
そして捨ててしまったところに、自然に展開してきたところの天地、
その天地というものは、やがてまたわれわれの客観界ではないのか知らんと思う。
あるいは絶対客観とでもいうべきであろうか。(『禅とは何か』春秋社より)
さて、ここで述べられている「自力を尽くしたところに他力が働いてくる」
ということを、「うつ」について当てはめてみると、どんなことが見えてくるでしょうか。
「自力」の根を取りきれるかが重要なポイント 通常、「うつ」状態に陥った時点で、患者さんはまだ「自力」を捨て
去ってはいません。
「頭」は、そう簡単には自己コントロールの主導権を「心」(=「身体」)側に
明け渡そうとしません 。
それゆえ、動かない自分を嫌悪し再び鞭打って動かそうと焦ったり、
休まざるを得ない自分を「価値がない」と否定的に捉えたり、
罪悪感を抱いたりすることになりやすいのです。
「心」(=「身体」)がストライキを起こして意欲も出ず、動けなくなっているにも
かかわらず、「頭」が最後の意地を張り続けているこの状態が、
治療においてもっとも根気の要る時期です。
ここでいかに徹底して「自力」の根を取りきれるかが、その後の経過を
左右する重要なポイントになります。
ある程度の期間休養することによって、エネルギー自体は回復するので、
一見状態が改善したかに思われがちです。
しかし、「自力」の要素が残った状態で急いで社会復帰を行なってしまうと、
発病前の「頭」支配の体制に逆戻りしやすくなってしまい、どうしても
再発のリスクを残してしまうのです。
「動けない」から「動かない」へ「動けない」「何もしたいと思えない」「起きられない」などの表現が出て来て
いるうちは、まだ「自力」の要素が色濃く残っていることがわかります。
つまり、いずれも「動くべきである」「何かしたいと思うべきである」
「起きられるべきである」といった「頭」由来のmustやshould系列の考え方
(第1回参照)がまだ前提になっていて、それが実現しないことを「頭」が
嘆いている状態なのです。
これが次第に、「動かない」「何もしたくはない」「起きたくない」といった
「心」由来のwant to系列の表現に変わってくると、療養が良質なものになって
きたことがわかります。
そこからさらに、「こんな風に何もしないで過ごすのは、何て快適なんでしょう」
「このままずっと休んでいられたら幸せだろうなあ」といった感じで休むことが
満喫できるようになってくると、やっと「自力」が尽きて、「他力」にゆだねた状態に
なったと見ることができるのです。
「他力」の現われとして、自然な意欲が湧き上がってくる「自力」が尽きたところに、徐々に「他力」が現われ始めます。
それはまず、療養に身をゆだね、休んでいることを安楽に感じるところから 始まりますが、これが次第に、療養していることに退屈を感じるようになり、
好奇心も少しずつ発動するようになっていきます。 このようなプロセスを踏んで現れてきた意欲は、「心」(=「身体」)が自然に
生み出したものなので、「頭」が焦燥感を偽装して作り出した「偽の意欲」とは違い、
これに従って活動しても、まず問題は生じません。
このような自然な意欲にもとづいてなされた社会復帰は、再発のリスクを
残さない最も望ましい形であり、周囲の人から見ても明らかに安心して
祝福できる様子になっているものです。
しかしこのようにして実現する社会復帰は、はじめにも述べたように、
「元に戻る」こととは一味違っているものです。
それは決して、同じ職場に戻ったり同じ学校に戻ったりするのではない、
という意味ではありません。
たとえ見かけ上同じ所に戻った場合でも、本人自身が内面的に大きく変化を
遂げているという意味で、「元に戻る」のではないということなのです。
数々の思い込みが再検討され、人間としての成熟が始まる この内面的な変化とは、「頭」の意志によって何でもコントロール可能だと
思い込んでいた驕りが捨て去られ、大自然の摂理で動いている「心」
(=「身体」)に対し「頭」も畏敬の念を抱くようになり、その大いなる流れに
身をゆだねる生き方に目覚めるということです。
それは、近現代の人間中心主義から離脱するような大きな世界観の変化で
あると言うこともできるでしょう。
この変化により、以前には見えなかったものが新たに認識されるようになります。
たとえば、「適応」することイコール「正常」であると信じていた思い込みが
脱落し、「適応」とは「麻痺」の別名でもあることが見えてきたり、
よく言われる「何だかんだ言って、メシが食えなけりゃ始まらないだろう」といった
言い方の中にも、人間を骨抜きにする毒素が巧妙に混入されていることが
透けて見えてくるようになったりします。
このように「自力」から「他力」に抜け出ることによって、生来すり込まれてきた
思い込みの数々が再検討され、ものごとの真の姿を新たに捉え直す働きが
起こってきます。
金銭・名誉・出世などへのこだわり、他人からの評判を気にする神経症性、
表面的な人間関係にとらわれたり孤独を恐れたりして群れようとする傾向、
無批判な組織への忠誠心、成果主義に振り回されて効率を追い求める
非人間的環境、等々への疑いや幻滅が次第に明瞭になり、
そこから離脱したまったく別種の価値が見出されるようになっていくのです。
そして、生きるうえで価値を置く優先順位が、ダイナミックに変化することになります。
「第2の誕生」とは、このように内面的な大変革が起こることを指します。
しかし、それを経たからといって、その人が仙人のような浮世離れした
生き方をすることになるわけではありません。
現実社会の中で日々を過ごしながらも、そこに充満している手垢のついた
価値観に振り回されたり、時代の風潮に流されたりすることなく、
曇りなく自分が感じ取ったことをもとにして、自分自身で丁寧に考えるような
在り方に変わるということなのです。
つまり「うつ」は、現代における重要な覚醒の契機の一つと見ることができるのです。
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転載記事〜メンタル系〜
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こんばんは〜(*^_^*)
なるほど・・・・・
色々な見方があるんですね
有難う。私はまだ自分と葛藤してるんだね。
2012/4/8(日) 午後 9:24 [ メイ ]
メイさん
私もこの記事を読んだ時、「わかってるな〜〜」なんて、思ってしまいました。
(完全上目線)
確かに一つの波を乗り越えるたびに大きな気付きを得られて、
人格も備わっていくように感じます。
2012/4/8(日) 午後 9:47